4-21 女よ殴って世界を掴め
あきらは、学校で一番の美貌の持ち主だった。だが、学生時代のあきらは、可愛らしいという家族からの評価、クラスの女子たちからのスキンシップ、全てを重荷に感じていた。大学進学を機に、あきらはボクシングを始めた。嫌いだったこれまでの自分をぶっ飛ばすために。あきらは、次第に女子ボクシングでチャンピオンを目指した壮絶な戦いに挑んでいく。
『アキラ君って、可愛らしい顔してるよね』
高校の頃の憧れの先輩は、俺の告白を断って、からかうような調子でそういった。
うんざりするほど聞き飽きた言葉。
物心ついた頃には、家族や親戚たちから『女の子のように可愛い』と言われていた。
純真にそれを好意として喜べたのは、精々小学校の時分まで。
次第に「可愛い」という評価を受ける度、苛立ちを覚えるようになり、発育が周囲より遅れているコンプレックスが焦りへと変わった。中学生の頃には、早く身長が伸びないかと牛乳を鯨飲していた。
けれども、懸命な努力と祈りも虚しく、俺の身長は160cmを超えることなく伸び止まった。
顔立ちと身長。俺はいつも、クラスでは何かのマスコットのような扱いをされていた。
女子たちとの距離は、男女の意識が明瞭になる年頃にしては有り得ないぐらい近かった。
『アキラ君マジ可愛い。うちの学校で一番可愛いよ。女子より可愛いってヤバいよね~』
『ね~』
悪戯っぽい笑みを浮かべた女子にメイクを施されたり、髪をヘアピンで結われたりするのは日常茶飯事だった。
年頃の男子として、女子が仲良くしてくれるのが嬉しくない筈はない。
けれども、彼女達の俺を見る視線は男性へ向けるそれではなく、どこまでも可愛らしい玩具に向けるそれでしかなかった。
髪を坊主にするなり、ピアスをするなりして、男性的であることを強調してこの泥濘から抜け出そうと思ったことは一度や二度ではない。
だが、俺にはそれを実行に移すだけの勇気がなかった。
当たり障りなく笑い、口先だけの拒絶を行いながら、女子の玩具となるのを甘んじる日々。
明という男とも女ともつかない名前が自分をより中性的に見せているのかと、何度親を恨んだだろうか。
その円環を抜け出すことが出来たのは、大学進学の折だった。
――俺は、大学からボクシングを始めた。低身長で、女性らしい顔立ちで、優柔不断などうしようもない自分を変えたかったのだ。
『人間は、10代に手に入れられなかったものに一生執着する』
そんな言葉が、何かの名言のSNSで流れてきた。全くその通りだ。俺は執着している。学生時代に手に入れられなかった、男らしさというものに。
ファッションは、アウトローを意識したものを着るようになった。ピアスも開けた。髪も染めた。顎髭も生やしている。
今の俺に面と向かって女のようだ、と言う人間はまずいないだろう。
大学を卒業し、俺はそのままプロ入りした。
――とは言っても、日本では格闘技のプロ興行一本では到底食っていくことはできない。アルバイトをしながらジムに通う日々だ。
フライ級での俺の成績は、8試合3勝5敗1KO。プロとしては、かなり弱い部類に入る。 それでも、俺はキックを続けていたい。
相手の頬に拳を叩き込んだ瞬間の高揚と快感。
あれこそが、俺にとって自分が男だと信じられる唯一の証なのだから。
◇
「……ったくシケてんよなあ」
片岡がソファに寝転がり、鼻をほじりながらそう言った。
その視線は、テレビの競馬中継に注がれている。別段、片岡が賭けているレースという訳でもない。先日パチンコで大負けした片岡には、競馬に捻じ込む程度の金すら無いのだ。
俺は聞こえよがしに舌打ちをして、サンドバックを殴る。
これでも、片岡はこのボクシングジムの会長で、俺に一からボクシングを叩き込んでくれた恩人でもある。
とは言っても、俺は特に片岡に感謝など抱いてはいやしない。
ボクシングジムには月謝を払っていたのでお互い様だし、何より片岡が唾棄すべき人間の屑なのはこの5年間で身に染みて分かっている。
俺が初めてこの片岡ボクシングジムの扉を叩いた時、
『おほっ! こりゃまた、可愛らしい顔のお嬢ちゃんがきたもんだ!』
と茶化すように言ったことを、俺はまだ許してはいなかった。
ジムを移籍しようと思ったことも一度や二度ではないが、万年金欠の俺ではこの格安の片岡ジム以外には通えそうになかったし、この片岡という男、過去には教え子をバンダム級の日本チャンピオンに導いたこともある、軽量級の指導には定評がある男だった。
……もっとも、そのバンダム級チャンピオンも引退して久しく、俺が入門した時には二人いたプロ選手も、一人は故障で、一人は年齢でリングを降りた。過去に幾人もいたプロの教え子が、誰一人トレーナーなどの形でジムに残らなかったのは、単に片岡の人望の無さだと思っている。
片岡はボクシングの世界では終わった人間として見られていて、そのジムにいつまでも居残る俺も、その同類として見られているのだろう。
どこかに起死回生の策がないかと片岡は探しているようだったが、酒と煙草でやられた片岡の脳で考え付く起死回生の策など、碌なものではないだろう。
――そう考えていた俺でさえ、片岡の愚かさをまだ甘く見積もっていた。
テレビのチャンネルを回しながら、そうだっ!と手を叩いて飛び起きた片岡の提示した案は、最悪の更に底を抜いた下策だったのだから。
「あきらぁ! お前、初めてこのジムに来た頃、可愛らしい格好をしてたよなあ。
今の半グレみたいな格好じゃなくて、本当にちんぽついてんのか分かんないような、女の子みたいな格好してさあ!」
「……は?」
極力、低い声を出して片岡を威圧する。だけど、慣れたものと平然と片岡は続けた。
「お前さぁ、昔飲んだ時よく話をしてたよなあ。親に女の子みたいに猫可愛がりされたとかさあ、クラスの女子に女の格好させられたとかさああ」
確かにあった。まだジムに入門したてで、純粋に片岡を信用していた頃。初勝利の記念の飲み会で、ついそんな愚痴を漏らしてしまった記憶がある。
「おまえさあ、それ、本当に嫌だったのか?
もしかして、ちょっとは嬉しかったとかねえのかよぉ?」
「片岡てめぇ、一体何の話をしてんだよ」
「いや、明、お前、トランスジェンダーって奴になってみないか?
今流行ってるみたいじゃねえか!」
俺は、片岡の無知と浅慮に呆れかえった。
「片岡、よく聞け、トランスジェンダーってのは、新宿二丁目のオカマじゃねーんだ。
なりたいと思って、なれるもんじゃねーんだよ。ちっとは物を勉強しやがれ」
「いや、確か聞いたぞ。トランスジェンダーの免許? みたいな奴を取れば、男でも女子ボクシングに出れるらしい。
あきらぁ、お前じゃあ、フライ級でやってても、タカが知れてるだろ。
女相手なら、ちょっとはいい試合をするんじゃねえか? どうせ才能もねえんだからよう」
俺にとって最大限の侮辱の数々に、目が眩む程の怒りを覚えた。片岡の首根っこを掴み上げる。
顔面を形が変わるまで殴りつけて、こんなジム辞めてやる――
そう決意して拳を振り上げ、片岡の口から漂う濃い酒精の匂いに顔を背けた。片岡の手から、滑り落ちたフラスクか床に転がった。その体はぐにゃりと脱力し、高鼾を立てている。
俺は、ギリ、と歯を食いしばると、震える拳をゆっくりと下した。
『どうせ才能もねえんだからよう』
片岡の言葉が蘇る。こいつはどうしようもないクズで、不誠実な奴だったが、ジムの練習生に「才能無し」などという言葉を吐いたことは一度もなかった。
――けれども、これが片岡の本音だ。
片岡がクズなら、俺はどうやっても使いようがないザコだ。
自嘲の笑いが零れる。俺の中で、大きな何かが折れた瞬間だった。
◇
女子ボクサー、山形明の初試合が決まった。
片岡は屑で怠け物だったが、金の匂いと社会の裏通りの歩き方には長けていて、俺がトランスジェンダーの診断を受けリングに立つまでの日々はあっという間に過ぎた。
初試合の相手は、女子ライトフライ級日本5位、坂崎礼央奈。彼女はコーナーポストの対岸から、射殺す瞳でこちらを見つめてくる。
戦意に猛っているのは一目見るだに明確だ。自分の聖域を汚した俺を、再起不能になるまで叩き伏せてしまいたいのだろう。
俺は自分の体を見下ろす。彼女の丸みを帯びた肉体とはまるで違う、男の肉体。胸を隠す女子ボクシングウェアが滑稽でさえある。
すっと、肩の力が抜けた。
自分が男であることを主張したかった。女ではないと認めて欲しかった。
それが、女と同じ舞台に立って、初めてどうしようもない隔絶を感じるとは、皮肉なものだ。
立ち上がり、グローブを合わせる。
セコンドには、にたにたと笑う憎たらしい片岡の顔が。
ゴングが鳴った。
猛然と坂崎礼央奈が仕掛けてきた。やや距離を保ちながら、積極的にジャブを放ってくる。事前情報の通り、典型的なアウトボクサーだ。
だが、軽い。遊んでいるのか? それとも別の狙いが?
警戒しながら踏み込んだ。礼央奈の表情に恐怖が浮かぶ。
ガードが上がった隙を見逃さず。ボディブローを打ち込んだ。
礼央奈が体がぐにゃりと歪む。
――柔い。なんだこの柔らかさは。
困惑しながらも、子どもがプールで息継ぎをするような苦悶の表情で顔を上げた礼央奈の頬に、右ストレートを叩き込んだ。
音が遠い。遠くで、ゴングが鳴るのが聞こえる。今までの勝利とは別種の高揚が沸き上がってきた。
不意に、女性の悲鳴が聞こえた。観客のざわめき。
ふと視線を落せば、リングに倒れ伏せた坂崎礼央奈の姿と、勃起した性器が女子ウェアのパンツを押しあげる俺の下半身が目に入った。
リングの外から投げつけられた空き缶が俺の頭に当たった。
変態野郎! という罵倒の言葉。
これから始まるのは、俺の栄光なきチャンピオンベルトの獲得と、引退までの582日間の物語だ。
続