4-20 紅茶館の女給は探偵のまねごとを
帝都の片隅に構えられている茶屋、紅茶館。女言葉を扱うどこかの華族の放蕩息子が経営するその店には、伯爵と呼ばれる西洋かぶれな謎の男性が足繁く通っている。
彼のお目当ては紅茶――ではなく、その紅茶を淹れる女給との会話。さらりと着物にエプロンを着こなす彼女・美月と『砂時計が落ちるまで』の間、街にありふれた事件のさわりを伝えれば。その真相について、彼女は自分の考えを話してくれるのだ。
今日も今日とて、伯爵は紅茶館にて紅茶を注文する。
「先日、男女二人の死体が見つかったのは知っているかい?」
今回の話題は巷を騒がせる結納目前の華族が心中未遂をしたという事件について。伯爵が考えを尋ねると、美月はそれに対して思いもよらぬ推論を話しはじめて――?
ひっくり返された砂時計が、さらさらと砂を時間を積み重ね始めた。
「先日、男女二人の死体が見つかったのは知っているかい?」
帝都の片隅、西洋風の煉瓦造りが特徴的な茶屋――紅茶館。
昼下がりの柔らかな日差しが差し込む窓辺を横目に、一番奥のカウンター席を陣取った伯爵の口から溢れたのはそんな一言だった。
「ちょっと、アール! 物騒なハナシ、しないでくれるゥ?」
「マスターには訊いてないよ。ねえ、ミツキ?」
「はい。雛賀美家と松宮家のお話でしたら、耳に入っておりますよ」
頷いた女給の首元で、切り揃えられた黒髪が揺れる。
カウンターの中で腕組みをして、ンもう! と息を吐く紅茶館の館主・清志郎。女給へ気遣わしげな視線を向けるが、それに美月はにこりと笑みを返す。確かに茶屋で語るに相応しい話題とはいえないが、相手は常連。それにインバネスにシルクハットを合わせた洋装は、素性不明ながらも“伯爵”と呼ばれるに足る品のある装いだ。それはこの帝都で、ある程度の身分を担保する証でもある。
「美月ちゃん、砂時計が落ちきるまでよ。良いわね?」
「ふふ。有難うございます、館主さま」
(こうして心配性な方ですから、ご迷惑はおかけしないようにしなければ)
こんな女給にも一等までとはいかないが庶民には手が届かないような着物を融通し、レースとフリルがあしらわれたエプロンは一点ものと見た目で侮られないようにしてくれる人である。女言葉を使う体躯のよい男として世間は爪弾きにする理由が、ミツキには全くもって理解できない。
「さて、マスターの許しも得たことだ。話を進めようか」
「かしこまりました。ええと確か、結納を目前に控えたお二人が、腹部に刺し傷のある状態で見つかったのですよね」
初めに世間を騒がせたのは松宮の長女の元へ、雛賀美に三男が婿入りするという慶事だった。
些か歳の差はあるものの松宮の次女が繋いだ二人は元々仲が良く、この婚姻は年齢を重ねることに色恋の感情も混じるようになった三男の念願成就によるもの。相思相愛、互いを補い合って支え合える関係になるだろうと言われていた。
そんな、幸せに溢れている筈の二人だった。
「本当に、どんな言葉で言い表したらよいのか……」
「嗚呼。誰もが恙無く進んでいると思われた慶事だ、まさかこんなことになるとは思わなかっただろうね」
松宮と雛賀美は、帝都でも庶民に近く、庶民に尽くしている華族として名を馳せていた。そんな家同士が結びつく喜ばしい出来事だからこそ、大きく取り沙汰されたのを美月も覚えている。
また同様に彼らを襲った痛ましい事件についても――等しく庶民に知らせるために新聞で知ることとなったが。
記憶に新しい紙面の内容が脳裏に過ぎり、胸元に抱えた銀製のトレイを、思わずぎゅっと握る。
「あーるさまはそちらのお話について、何かわたくしに聞きたいことがおありなのですか?」
「そうとも。だからこそティータイムに紅茶館へ来ているといっても過言ではないさ」
茶紺色の髪の合間から見える、淡褐色の瞳が楽しげに細められる。
「この事件の真相を、君がどう考えるのかを教えてほしい」
すとん、と最後の砂が硝子細工の中で落ちきった。
「ハイハイ厭なハナシはこれでお仕舞いよォー」
パンパンと仕切るように両手を鳴らす清志郎。その心底楽しげな表情は、いたいけな女給を誑かす“伯爵”をどうにかして引き剥がしたい気持ちが見て取れる。しかし、それに“伯爵”はニタリと口の端を持ち上げた。
「あの、館主さま」
「なァに、美月ちゃん」
「その。まだ、てぃーかっぷが温まっただけです」
美月の言葉に瞠目した後、さっとカウンター向こうに目線を走らせる館主。そこにあったのは並々と白湯が注がれたティーカップが湯気を立てていた。まだティーポットは用意されておらず、トレイを抱えていない美月の手を弄ぶように伯爵はその白手袋を絡めている。
「そうだよマスター。紅茶はこれから、砂時計もまた、ね?」
「おいアール。ウチはお触り禁止だっ言ったよなァ?」
「館主さま、館主さま、凄い声が低いですよ」
「……やだァ、つい出ちゃったわァ。序でに手も出ちゃいそうだわァ」
その様子に美月が手を引けば、するりと伯爵の手から抜け出す。先程話している間は二進も三進もいかぬほど柔らくかつしっかりと握られ、うんともすんとも離れられなかったというのに。
「館主さま、お湯をお願いしてもいいでしょうか?」
「ええ、お安い御用よ。全く、ウチの女給をなんだと思ってるのかしら」
清志郎が火を起せば、他に客のいない閑散とした室内にきゅー、とお湯が沸いていく音が響く。
ティーカップと揃いのティーポットを手元におき、壁一面に陳列された瓶から茶葉を見繕う。用意する茶葉は“伯爵”の名に相応しい香檸檬が匂い立つ一品――グレイ伯爵の茶葉。
「用意できたわよー。こっちの湯差しに移しておくわね」
「はい。有難うございます、館主さま」
完全に沸騰した状態から湯差しに移すことで温度を少し下げてから、茶葉を泳がせるようにティーポットを湯で充していく。香りを閉じ込めるように蓋を閉めて、蒸らしのためのティーコゼーを被せる。
「あーるさま、砂時計を」
「嗚呼。ほら」
コトリ。ひっくり返された砂時計が、さらさらと砂を時間を積み重ね始めた。
トレイに乗せたティーポットを彼の元に運んでから、その隣に佇んだ美月は口火を切る。
「まず、お二人がこのような凄惨な傷を負わされたことは非常に悲しく思います」
「ほう。つまりミツキは、これが心中事件ではないと思っていると」
「はい、その通りでございます」
きっぱりと言い切る美月に、館主は瞠目し伯爵は口元の笑みを深くする。
数日前の新聞の一面を飾ったこの事件の見出しは――『心中未遂か 結納目前の男女、血だらけで発見さる』。
「ほんの少しではありますが、お二人を取り巻く環境についても存じております」
連日事件に関する情報が載せられる新聞は、知りたがりな美月を慮ってか毎回紅茶館にも配達されるように手配されている。世間を賑わせる二家の状況や家族構成といった情報も誌面の隅に載せられ、今巷を騒がせている出来事だからこそ、しがない女給であれど手に入る情報もそれなりである。
故に、美月の出した結論は。
「そこから類推するに、お二人は心中に見せかけて殺害されかけた、というのが正しいかと存じます」
「興味深い考えだね。なら、二人を害そうとした所謂……この事件の犯人は誰なのかな」
「おそらく、ですが。わたくしが考えるに、松宮の第三子であるご長男さまではないかと思われます」
松宮家には、全部で三人の姉妹弟が居る。結納目前であった長女、雛賀美との繋がりとなった次女、そして待望の男児たる長男である。
家族でもあり、慶事で喜ばしいはずの弟が事を起こした張本人であると、美月以外の誰が思いつく事だろうか。
「そう考える理由を、聞いてもいいかな?」
「はい。ご長男さまは、待望の男児であったことかた継子として役割を期待されていた筈です」
末の男児、姉妹と立て続けに女児が生まれてから来た家の継承ができる待望の子。
そんな彼は甘やかしくも厳しく、そして次の世代として期待されて育てられて来たのだろう。成人まで五年を切り男性華族として社交にも精を出して来た頃だ。
「ゆえに、怖れたのではないでしょうか。自身よりも生まれの早い姉に婿入りする男を」
「――お話中、失礼する」
朗々と響いたのは、瑞々しさの残る男性の声。
三対の視線が集まったところで警邏帽を脱いで一礼すると、カツカツと足音高らかに歩み寄る。
「帝都機密秘匿警察の雛賀美礼治だ。ここの女給か?」
告げられた名に伯爵が息を飲む。渦中の、雛賀美家の次男坊であった。
「はい。紅茶館の女給をしております、美月と申します」
「そうか。では単刀直入に聞く」
必然的に美月を見下ろす形となるその眼が、鋭く細められた。
「どうして文さんと基明を手に掛けたのが、修くんだと知っている?」
そこで行われたのは、ある種の答え合わせ。
数瞬満ちる沈黙。
「まさか、お前が共謀者か?」
「違います! わたくしはただ、推理、をしただけにございます」
「……それで言い逃れできるとでも思っているのか? 俺たちにとって疑わしきを罰することは容易だ」
「でしたら! その事件の真相。わたくしが詳らかにしてみせましょう」
美月には確信があった。
礼治の共謀者という言葉。疑われる松宮の長男を取り巻く環境。結納目前という時期。
(おそらく彼は実行犯であるだけ。もっと他の思惑が、真犯人がいるはずです)
「ほう。たかが女給が探偵のまねごとか?」
「はい。わたくしだからこそ見えることもきっと、ございますから」
「ミツキ……」
「なら私も同行しよう。話の発端であるからにはね」
清志郎は心配で仕方がなくとも、紅茶館を空けることはできない。その代わりにとウインクをする伯爵に、美月は思わず笑みを零す。
「良いだろう。二人とも、着いてこい」
言葉を意に介すことなく礼治は踵を返す。それを追うように紅茶館から二人が出たところで、砂時計の最後の一粒が落ち切った音がした。