4-16 海に飛び込んだ元バ美肉人魚VTuberが本物人魚と歌をうたう話
鱗木 唱は女の子の人魚アバターを使うVTuberだった。しかし、二年前のある事故をきっかけに配信も歌も仕事も止めて引きこもりになった。一年時が経つが引きこもり生活は逃げのようでいて心の疲弊とゴミ山を作るばかり。ついに耐えきれなくなった唱は崖へ向かう。飛び込んだ海で出会った人魚は唱のことを知っているらしくある事を申し出る…。元VTuberが歌と人魚たちを通して自分の愛し方を知る物語。
「派手に顔バレしたとはいえ、二年前も前の配信者のことよく覚えてるな」
コメント欄に書きなぐられる嘲笑、それを見る男の黒髪を簪のように纏めている虹色に光る巻貝。その光が艶やかな黒をひきたてている。
「俺の顔がどうとか言っているけど、一番見られてヤバいのって今のあんたらだろ?」
容姿について文句を言う者、本来ならそういった戯言は一蹴すべきで俺たちが一番危機感を持たなくてはいけない瞬間は鏡に映る自分から視線を逸らした時だ。
二年前、鱗木 唱とちょっと珍しい苗字の俺は配信者をやっていた。女の子の人魚のアバターでひたすら歌う配信、楽しい日々を過ごしていた。
俺は容姿が整っていない。一重に大きい目、小さい黒目、長めの低い鼻、厚い唇の大きい口。魚顔と呼ばれた時もあるし自分でもそう見える。
だから過疎地域で親戚から譲り受けた一軒家に住み、在宅仕事をして自己防衛していた。けどそれ以上に気にせずに生きていけたのは自分の心に自慢できる事があったから。我ながら艶々した黒髪と女でも出せない高音の歌声。あの頃は鼻歌まじりに鏡を見ながら髪をとかすことが苦ではなかった。
休憩時間に動画を見るのが習慣になってた頃、ある配信に衝撃を受けた。アニメの女性のようなキャラが喋ったり、歌うたびに花火が上がったようになる画面。目を凝らした先に映るコメントは彼女を称賛すつものばかり。俺の心を画面を超えた熱気が撫でた。
少し目を留めたもの、好きな歌手の新しいMVが上がった通知に意識を戻される。画面を迷いなく切り替え、俺は日常に戻った。だがあれ以来、たまにあの熱が身体の中を撫でまわす。鏡に映る自分の周りにあの画面に映っていたものがちらつく。髪を梳いていたブラシを置き、俺だけが映る鏡の中の自分を見つめ直した。
配信開始の数十分前、待機画面の前に俺はいた。自分を認めるのは自分だけでいい、その生活が安定すると、他者からの肯定も欲しくなった。ほんの少しの欲望を出したことを後悔する日がくるとも知らず。
喋りこそ拙かったが、身体を描いてくれた絵師の宣伝、少ない配信枠、色んな要素が重なった結果、少なくない人数が配信にきた。
「えっと、ごめんなさい。トークまだ苦手なんで、早々にお歌?歌枠に入らせて頂きますっ」
機材との距離だけを考えて歌いなれた曲を歌う。コメントの流れがなんか早くなっている事は分かるが、内容は分からない。頭の情報処理が追いつかなかった。
一曲がやっと終わり、マイクとの距離がマニュアル通りだと安心する。
「はっ」
コメント欄に目を意識ごとようやっと向けると、そこには賞賛の文字があの日見た花火のように上へ上へと昇っていく、大成功だった。
ボイスチェンジャーを使用していなかったからすぐ男だと知られ、それがより俺の歌声の希少性を上げた。皆の言葉が嬉しくて配信で歌うことを楽しめる余裕がでてきた。けどそんな楽しい日々は人々の心と同時に真逆の状態にひっくり返った。
二年前のあの日は酷い天気だった。
「あれっ? ちょっとごめんなさーい」
配信画面に起こる異常、身を乗り出して機材をいじる。顔が機材に当たるギリギリの距離。
「もういいかな」
身体を椅子に沈めて画面に視線を戻す。
「あ?」
画面に映っていたのは綺麗な人魚じゃなくてテレビや動画で見た潜水艦にはりつく魚人顔の人間。少し前まで花びらが舞い散るように華やかだった画面には呪いのような黒文字が次々と貼り付けられていく。
「っつ」
咄嗟に落とす配信、机の下で体育座りをすると膝頭と頬に息が当たる感覚から呼吸がままならないことがわかる。さっきの文字は皆が、人間が使っていたものなのかと疑わしくなってくる。
どれくらいそうしてたのか、恐る恐るスマホを取り出して自身のアカウントを確認する。配信開始前に投稿した告知の返信欄には見覚えあるどす黒い文字が列をなしている。
美しい人魚が蓋を開ければ、正反対の魚人だったなんてさぞ滑稽な話だろう。しなければいいのに自身の名前で検索すると他の人間が配信をしている。元々俺を良く思っていない者、理想を壊されたと憤る者、獲物を発見した正義人の面した奴、たまに俺を擁護する奴もいるが、
(やめろ、話題に出すな、広まるだろ)
俺はただ、もっと自分を愛したかっただけだ。
それ以来、俺はネットには戻らなかった。かといってアカウントを消すこともしなかった。それは未練ではなく、そのために開くことすら怖かったからだ。
フリーランスとしての仕事を受けることも放棄し、ただゴミ袋の山を部屋に築くだけの毎日。部屋どころか家全体の電気は最低限以下でネットの動画の代わりにテレビの青白い光を頼りに時間を消費する。ゴミ袋の山で連峰ができてきた頃、テレビを見たらもうすぐ事件から一年経とうとしていた。
「…」
口だけを開くと、空気を震わす気もないぬるい何かの残滓を吐き出す。何となく目を向けた台所、その水道に目がいく。
久しぶりに触った食器棚からコップを取り出し、少し埃がついた手で水を注ぐ。
特に好きでもないインスタントラーメン、カップ型じゃない大きいタイプの味噌味。もう三分ちょっと経って伸び始めているそれが置かれているテーブルに近づいていく。久方ぶりに動かしたように喉が鳴る。
テーブルに近づいて食事時に水を吞む、という行為が何かの試練とご褒美に感じる。短い距離を汗ばむ素足で歩いていく。
ズッ
「あ」
ガッ、ばちゃぁ
コップの水滴で手が滑り、蓋を閉めたまま器の縁に落下する。水と共に床にぶちまけられる思ったより伸びきった麺と汁。
カーペットは敷いていないからシミになることはない。
(時間かかっても拭けば、問題ない。ティッシュ、いやタオルで)
そう考えている間に汁は征服範囲を広げていく。
(コップも割れてない。捨てていいタオルとかで拭いちゃえば、時間はある、時間は…)
俺に、もうそんな気力なかった。
自宅近くの崖をこんな深い夜に歩いているのに、こういう時に限って岩場に足を取られてつまずくことはない。
ざぶんっ
特に最期の言葉も無しに健康だった頃の家に帰る動作のように、自然にもう地面のない空に一歩を出すと、足から海に落ちる。還る喜びも悲しみもない衝撃に身を任せようとしたその時
「…」
「っ…!?」
真っ直ぐに照らされると七色の光を返すダイヤやクリスタルよりも透き通る美しさを放つ身体のパーツ。こんなまだ浅い範囲の深さにいるはずもない存在の、一番の特徴ともいえるそれは想像よりもずっと生命を感じさせるグラデーションで、どんな神絵師の想像力をも超える神秘さを持っていた。
「貴方、どうしてこんな所にいるの」
俺の目の前に広がるのは、自身が吐き出す泡と海中がぼやけて見えるような輝きの波打つ亜麻色の髪。
「人間は海の中では歌えないでしょう?」
エメラルドグリーンよりもよっぽど一つ一つが宝石のような鱗は全部微妙に色の違う緑だ。宝石で造られたドレスをひらひらさせるような尾ひれのついた女性、人魚が俺の前にいた。
「最近、歌ってなかったでしょう。心配してた」
「俺を、知って、いるのか?」
あの後、驚きのあまりエナジードリンクを強制的に注ぎ込まれたように思考を動かされた俺は当然のことだが溺れた。ごぼごぼと泡を無様に吐き散らかす俺の手を冷静に引いて彼女はより深く潜った。
焦ったのは束の間、意識が遠のきそうになった俺の口元にどこからか取り出した泡を押し付けた。
「嚙まずに口の中に入れて」
つるりとする泡は弾力があって受け入れるとすぐに中に入っていき喉奥に当たる寸前に縮むように消えていった。
「あ、息が」
「楽になったでしょう」
海の中で呼吸ができることに違和感拭えず、つい喉に手を当てて動きを確かめてしまう。
「どうしたの? 歌えないの?」
「いや…」
その瞳に吸い込まれそうになって、自分の中の不透明なものさえ見透かされそうな恐怖と不安に負けて俺はこれまでの経緯を白状してしまった。
無言の空間、人魚がネット世界のことなんて理解できるわけないと己に呆れる。
「よく、分からない事、いっぱいあったわ」
「です、よね…」
「でも…」
思わず敬語になった俺の顔を彼女はひょいと両手で掴み持ち上げる。半ば無理やり合わせられた視線の先には銀色の瞳。
(この目一つ描くのに、どれくらいレイヤーいるんだろう)
本格的に現実逃避しかけた俺の思考を彼女の一言が戻した。
「貴方の歌声、とても綺麗だった」
受け入れられるわけないと思っていた。
今時、歌声だけでまっすぐな評価を向けてくれる人間がどれくらいいるのだろう。だから綺麗な見目を使って好印象を掴んでいずれは俺を、俺自身をと願った。
「なぜ、俺が、歌ってるって」
「歌に込めた願い、歌を高めたい気持ちを感知する能力が私たちにはある。そして歌に磨きをかければかけるほど、普段の声にも音が宿るの」
「音?」
声自体が音だろうと不思議に思う。
「音よ。楽器とも違う魂が動くことで鳴る美しい音色。貴方からも聴こえた。陸から聴こえた、同じ音」
そんな神秘が俺の中にあるのかと思わず口を開きかけた。
「でも、今は少し濁ってる。魂が動くことを拒否してる」
「なっ、ちょっ」
俺の喉と胸に手を当ててぐっと彼女は身を近づける。
「歌姫の集いに出て、私と一緒に歌って」
「え」
歌わなくなって一年、集いまであと一か月。