4-14 弾丸なんか、イヌも喰わない。
台湾じゃあ誰も日傘をもたない。
怪しげな物品、効きのよいドラッグとなんでもござれ。晴天だけが売り切れよ。
ここは煤煙と血で汚れた街さ。誰であろうと歓迎しよう。
二〇三二年、新竹市。
黒川 アザミは、特殊清掃を生業とする一人の市民である。
容姿端麗、態度醜悪。天涯孤独にして省みるものなし。
濁って褪せた日々のなか。
しかし、ある死体との遭遇で、彼女の灰色の毎日は急転を迎える。
血液を捧ぐカルトの暗躍。
敵対するマフィアの胎動。
母の死の真相を追い、アザミは黒社会の奥の奥へと。
此度、台湾に鮮血の降る。
さァさァお立ち会い。
暗黒血みどろ歌劇、はじまりはじまり。
台湾の空は、今日も酸性雨模様。
アァ、鬱ッ陶しくて仕方ない。
お気にの茶髪ロングも、湿気でうねっちゃう。
「……ザミ。おい、アザミ。聞いてるのか?」
「もちっすよ先輩。てか、このへん通信弱いッすね」
空間ディスプレイから聴こえる音声へ、適当に返答し。
猥雑に煙るネオン街を、ビニール傘左手に大股でだらだら歩く。
時間も時間だし、居酒屋はどこも準備中。騒がしくなくていい。
重たい鞄を右腕に、酔っぱらいのおっさんが寝てる横をすり抜けて、ギラついたピンクの蛍光灯の下で足を止める。
「“華典飯店”、着きっしたよ。で、どんな案件でしたっけ?」
「やっぱり聞いてなかっただろ。まったく」
「あ、バレました?」
画面の向こう、がしがしと黒の短髪がかきむしられる。
先輩、まだ二十後半で若いのに(あーし好みのダウナー系イケメン!)、この調子じゃ近々禿げちゃいそ。
「禿げるとしたら、手を焼く部下へのストレスのせいだろうな」
「あ、口に出しちゃってました?」
「……まあいい。それより、今回の仕事だな」
気だるげな視線の先、薄汚れたアスファルト壁の五階建てビル。
入口には「本日営業停止」の貼り紙。まっ、無理もないか。
あーしらが業務で派遣されるってことは、つまり……。
「掃除場所は二〇二号室、個人浴室内。対象は二十代女性」
「浴室ゥ〜? もしかして、手首すか?」
「そのようだな。報告通りなら」
「うッわチョコじゃないですか。臭いし始末悪いし、嫌いなんですよね」
精神雑魚の尻拭いとかマジ勘弁なんですけど。
「人員は割けないが……。一人で大丈夫か?」
「死ぬほどハードっすけど、まぁ人手不足なのは慣れっこですし? 拾ってもらった恩と給料分はがんばりますよ」
「そうか、頼んだぞ。詳細はホテルの支配人から聞いてくれ」
「了承っすわ」
通話終了。
ディスプレイに一瞬ノイズが走って、消える。
残されたのはうるさい雨音と、蛍光赤のネオンを反射する水たまりだけ。
「んじゃ、やりますか」
特殊清掃のお時間、っと。
軒下にて傘を畳み、無造作に壁に立てかけて。
明かりのついていない、じめっとしたエントランスへと進んでゆく。
◆
入り口の呼び鈴を鳴らしてから一分ほど経って、ようやく小太りのおじさんが駆け寄ってきた。
「えっと……どちら様で?」
「新竹清掃公司の黒川 アザミす。今日はよろしくお願いします」
「ああ、なるほど。制服でないので気付きませんでした」
「かわいっしょ。ピンクの地雷系があーしの勝負服す」
「はあ。と、申し遅れました。私は当ホテル支配人の林 志明。では、案内しますので……」
先導に続き、エレベーターへ。
小ぢんまりとした檻は駆動音を淡く鳴らしながら上昇し、二階にて止まる。
先に出て辺りを見渡し。まぁ、普通のホテルって感じかな。
「黒川さんは日本人で?」
「親がそうっした。まぁ、日本語とかは教わってないのでわかんないですが」
「はあ。さてさて、二〇二号室はこちらです」
「はーい。あと、いくつか確認す」
歩きがてら、毎度の質問事項を頭にめぐらせ。
「浴槽の栓、抜いてないっすよね?」
「あぁそれは……ええ。そのままにしています」
「了承す。換気扇はどうでしょう?」
「匂いが酷かったので、回しておりますが」
「あー、それはちと不味いかも。悪臭が周辺に散っちゃいますんで。消しておきますね」
と、もう部屋前に辿りついちゃったっぽい。
んじゃ、最後に。
「警察には連絡してます?」
「あー……。いえ、していませんね。すべきでしょうか?」
「まっ、お任せしますよ」
この辺のサツは、台湾マフィアとの癒着で腐敗している。
ンなこと、ガキでもなきゃ一般人なら誰でも知ってるからね。
あんま心証よくもないっしょ。
「では、どうぞ中に。私はこれで失礼を」
「ちょい待ち。まだ遺体について聞くことがあるからね」
「はぁ……。といっても、伝え聞きの内容だけですが」
支配人の皺面が、わずかに嫌そうに歪む。
「現場に立ち入れと言ってるわけじゃないので、そこはご安心を」
解錠された電子ロック扉のノブをがちゃりと回し。
開く。見た感じは一般的な部屋。あと、つんと鼻腔にこびりつく鉄の香りつき。
奥には、口をあけたままのキャリーケースが転がっている。
「んじゃ、廊下で待っててください。あーしは業務に取りかかるす」
鞄からブラシやブルーシート、使い捨ての雑巾やら特殊洗剤やら取りだして。
袖を肩口までめくり、最後に厚手のゴム手袋をつけて万端。
「黒川さん。その肩の火傷は……」
「これですか? あーしが八か九のとき、母親が突然狂って家に放火したんすよね。そんときの後遺傷」
「それはまた壮絶な。つかぬことを伺ってしまい、すみません」
「いんや、別に気にしてないっすよ」
とりあえず最初は室内の状況を確認っと。
浴室への扉を開ける。
途端、立ちこめる強烈な血の香り。
こういう現場は、どれだけ数こなしても慣れやしない。
「中は変哲のないユニットバスっと。んで……まぁ、予想通りとゆーべきか」
予想通りであってほしくなかったと言うべきか。
浴槽に浸かったままの、女の裸体。
お湯と血が混ざって赤黒の水面から、顔と肩だけが覗いてる。
「さて、死因は……っと」
報告通りなら手首らしいし、とりあえず左から。
お湯に腕を突っこむ。どろり、粘性をまとった液体が手袋にまとわりついた。
ああ厭だ厭だ。まさにチョコって感じ。言い得て妙、同業者はよくもまぁこんな隠語を思いつくものだ。
お陰さまで、チョコ菓子を見ると食欲が失せてしまう。
「ん、おろ。こっちじゃないのか」
取りだした左手首は綺麗なまま。
安価な防水の腕時計がついているだけである。
予想外れ。右腕……と、こっちが当たりかぁ。
「おお、これは抉痛〜」
致死傷になるだけあって、相当深い切創である。
こりゃ、ずいぶんと綺麗な跡だね。
「……」
まっ、ひとまずは業務しちゃいますか。
これは長くなりそう。
◆
「終わりっした。遺体の搬出は、のちほど業者が来ますんで」
「おお、ご苦労さまです」
「マージで疲れたッすよ。んでも、帰る前にちょいと」
こつりこつり、足元のフローリングをブーツの底で叩いて。
「この部屋の状況、確認したのって誰っすか?」
「はあ。チェックアウトを五時間過ぎてもロビーに現れなかったので、様子を確認しにいった女性スタッフが」
「おかしくないスか?」
この件は、どうにもキナくさい。
「『換気扇を自分で操作したような口ぶり』。これは言葉のアヤって可能性もあるけど」
「濁った水面からじゃ見えないのに、死因は手首からの出血と報告していること」
「ないし、その切断面の奇妙さ。まっ、これがいちばん怪しいと思った要因すね」
支配人の貼りつけたような笑みが、色を失う。
「奇妙とは?」
「あの女、左に腕時計をしてたんすよ。んで、右手首をざっくり」
「それは……どこかおかしいのでしょうか」
「右利きなんす。利き手じゃないほうで、あんなにざっくり深くリスカできるわけないっしょ。ましてや女性の力じゃね」
「……」
「結論、他殺を疑ってます」
三メートル眼前、小太りの支配人は……。
「バレたなら、仕方ない」
懐から拳銃を取りだして、それを返答としてきた。
廉価な濫造銃っと。たぶん手練れじゃないね。
銃口が、ゆっくりと向けられる。
「お前も贄にしてやる」
弾丸の発射される直前、大きく右に跳ぶ。
遅れて射出音。当たらない。
「なっ!?」
「見えてんすよ。射線とタイミング」
銃口で角度、指の動きで撃つ瞬間は判る。
それを見越して避ければいい。簡単な理屈っしょ?
そのまま走りこんで、伸ばされた腕を蹴りあげる。
宙に浮いた拳銃をキャッチして、形勢逆転。
「悪ぃけど、弾撃には慣れてるもんで」
「馬鹿な。なんだお前は」
「黒社会から来やした。死海幇構成員の黒川 アザミす。特殊清掃とかも裏と通じてる稼業のひとつなんで、覚えとくといっしょ」
さて。
拳銃を、眼前につきつける。
「尋問といきますか」
「……!」
「同行願いやす」
あとは、先輩あたりに拷問を任せて……。
「失敗した、失敗した、失敗した」
「え。なん……」
「失敗した。シュイグイ様、どうぞ貴方の御許へ」
恰幅のいい身体が、傾いだ。
急いで、口内を検める。
「舌じゃねぇ。奥歯にカプセル……毒!」
そして、最後に遺した言葉。
“シュイグイ様”。
「ママが最期に言っていた名前」
ぐわり、視界が揺れる。
まさかまさか、こんなところで過去の不可解と遭遇しようなど。
「……これも縁かな。調べるっきゃ、ないっしょ」
完全に予想外の展開。だけど悪くない。
優しかった家族の豹変の謎、それを解けるのなら。
まずはこの男の遺体、遺品を漁って足がかりに。
忙しくなってきたね。
振り返って眺めた窓の外。
ざんざん降りの空は、雨足を強めてどんよりと濁っている。