4-09 出戻り令嬢は年下王子様の夜の教育係になりました。〜実は処女だなんて言えません…!
貴族であれば誰もが、火、水、風、土の4属性いずれかの魔力を持つ世界。
伯爵令嬢イルゼは、無属性の魔力しか持たないがゆえに「出来損ない」と蔑まれて育った。20歳で子爵家の嫡男に嫁いだものの、夫は愛人に夢中で見向きもされないまま、3年後に離縁されてしまう。
出戻ったイルゼは父親に命じられ、厄介払いされるように王宮へ向かう。そこで待っていたのは普通の女官の仕事ではなく、まもなく成人(18歳)を迎える第三王子アルノルトの閨の教育係で――!?
(そ、そんな……私、キスすらしたことないのに……!)
しかもアルノルトには、「残虐な人殺し」という悪い噂もあって……。
恋愛経験ゼロの生真面目不遇令嬢が、年下のワケアリ王子様と心を通わせ、秘められた力を開花させて幸せを掴み取るお話。
夜更けの廊下に密やかな足音が響く。
きらびやかな空間の裏に設けられた使用人専用の通路は、王宮内といえども飾り気はなく薄暗い。
ぽつぽつと設置された魔導ランプの灯りが、通路を行く二人の女の影をゆらゆらと映す。
背筋を伸ばして前を歩く女官長の、皺一つないスカートの裾をぼんやりと見つめながら、イルゼはもう何度目とも知れない溜息を漏らした。けれど何度溜息をついてみても、重苦しい緊張感は少しも和らぐことはない。
(うう……今すぐここから逃げ出したい……)
できもしないのに、そんなことを考えてしまう。
そう、逃げ出すことはできないのだ。実家に居場所はなく、自立するお金もないのだから。
(だけど聞いていないわ、まさかこんな仕事だなんて……)
イルゼは濃緑色の厚手のローブを羽織り、顔を隠すようにフードを目深にかぶっている。
その下にはネグリジェを一枚まとっているだけだ。最高級のシルクで作られた純白のネグリジェは、手触りは良いけれど透けそうなほどに薄く、胸元や二の腕が大胆に露出している。
これから従事する「仕事」のための衣装。
その心もとなさに、イルゼは思わず自分の体を抱きしめた。
「そのように固くなっていたのでは、お務めを果たすことはできませんよ」
厳めしい声音に、イルゼはびくりと体を震わせた。女官長は歩を緩めることも振り返ることもなく、淡々と言葉を続ける。
「特別なお役目を前に緊張する気持ちはわかります。アルノルト殿下の噂を耳にしているなら、尚更でしょう」
アルノルト第三王子殿下。まもなく十八歳の成人を迎えるアルノルトの悪評は、社交界の噂話に疎いイルゼの耳にまで届いている。
幼い頃から粗暴な性格だったとか。
王宮内で破壊魔法を使い、宮殿の一部を破壊した上に人を殺めたとか。
それゆえに父王から危険視され、魔道具で魔力を封じられているとか。
今ではすっかり投げやりになり、王子としての責務を放棄して自堕落に過ごしているとか……。
「ですが、噂話を鵜呑みにするのは愚か者のすることですよ。心配せずとも、アルノルト殿下は女性に無体を働くような方ではありません。むしろ……いえ」
女官長は何か言いかけたが、小さく首を振って口を噤んだ。
「いずれにせよ、アルノルト殿下はあなた以上に緊張なさっているのだということを忘れぬように。殿下の緊張をほぐして差し上げるところから、あなたの仕事は始まるのですよ」
「あの、でも、緊張をほぐすって、いったいどうすれば……?」
何か秘策があるなら今すぐ自分に試してこの緊張感をどうにかしたい。藁にもすがる思いで尋ねたのだが、女官長の返答はそっけなかった。
「時と場合によります。あなたのこれまでの経験を活かして、臨機応変になさい」
「はい……」
イルゼはしょんぼりと肩を落とす。その経験がないから困っているのだ。
……なんて、この厳めしい女官長相手に打ち明ける勇気はなかった。
今更この仕事を辞退することなどできない。報酬の一部はすでに伯爵家に前払いされていると聞く。ゴミでも見るかのようにイルゼを見下ろす父の目が脳裏をよぎる。あの父が、一度受け取った金をイルゼのために返還するとは思えない。
「本当に、私に務まるのでしょうか……」
不安な気持ちがこぼれ出た。
すると女官長が足を止めてイルゼを振り返った。イルゼもまた立ち止まる。
「あなたを選んだのは私です。家柄、経歴、魔力の相性。全てを考慮してあなたが適任であると判断しました。自信を持ちなさい」
それだけ言って、女官長は再び歩き出す。
女官長の言葉に、イルゼはますますうつむいた。
自信を持てる要素が何もない。
伯爵家の長女として生まれたイルゼ。けれど伯爵令嬢として社交の場に出たことはない。
属性検査を受けた七歳のあの日から、イルゼは価値のない娘として、隠れるように過ごしてきたのだ。
この国では、貴族であれば誰もが大なり小なり魔力を持っている。魔力は火、水、風、土の四つの属性に分類され、通常、その内の一つを操ることができる。
魔力の属性は七歳頃までに定まるとされ、多くの者が七歳の誕生月に神殿に赴き、属性検査を受ける。
魔力に反応して色を変える魔法石は、手を触れた者の属性が火であれば赤、水であれば青、風であれば緑、土であれば黄に光る。
イルゼの両親と兄は土属性の魔力を持っている。属性は血筋によって決まるとされているからイルゼもまた土属性に違いない、そう思われていた。
ところが、魔法石が示した色は白だった。
ごく稀に現れるという、無属性。
魔力はあるが魔法を使うことができない出来損ない――。
その日からイルゼの生活は一変した。
父はイルゼをいないものとして扱い、たまに視界に入れざるをえないときには蔑みの目でイルゼを見た。三つ上の兄もそれに倣った。
けれどそれよりイルゼが辛かったのは、母の変わりようだった。おっとりと朗らかだった母は、イルゼの姿を見るたびに目に涙を溜め、ちゃんと産んであげられなくてごめんね、とうわ言のように繰り返した。
まもなく母は病を患い、三年寝付いた末に儚くなった。息を引き取る寸前まで、虚空を見つめて「ごめんね」と呟いていた。
母の死から一年もしないうちに父は再婚し、イルゼは離れに追いやられた。
家の恥になると、十八歳で迎えるはずの社交界デビューもさせてもらえなかった。
そんなイルゼに奇跡的に縁談が舞い込んだのは、二十歳のときだった。相手は子爵家の嫡男で五歳年上。
ようやく伯爵家を出られる。誰かに必要とされる。
そんな将来への希望は、結婚初日に砕かれた。
『俺は君を妻とは認めない』
身内だけの簡素な結婚式を終えるなり夫はそう言い放ち、愛人の住む別宅に向かった。
イルゼと結婚して三年の間子ができなければ、離縁と、愛人との再婚を認める。
夫とその両親との間でそんな約束が交わされていることを知ったのは、嫁いでまもない頃のことだった。
夫は、愛人に対しては誠実な男だったのだろう。宣言どおりイルゼを無視し続け、指一本触れなかった。
当然、子どもができるはずもなく、三年後、イルゼは「子ができなかった」という理由で離縁された。
出戻った伯爵家では、以前にも増して冷ややかな目で見られ、離れで一人、気配を消して過ごした。
だから一年後、珍しく父に呼ばれ、王宮で女官になるよう命じられたときは、心の底からホッとした。
伯爵家を出て自力で生活できるのは願ってもないこと。そう思っていた。
まさか、与えられた仕事が第三王子殿下の教育係だなんて、想像もしていなかったのだ――。
「着きましたよ。背筋を伸ばしなさい」
女官長の声に、弾かれたように姿勢を改める。
イルゼはいつのまにか使用人通路を抜け、大きな扉の前に立っていた。
ここが誰の部屋なのかは、説明を受けるまでもなかった。
「失礼致します、アルノルト殿下」
女官長が扉をノックし、訪問を告げる。
少しの間があって、中から「入れ」と若い男の声が返ってきた。
(い、いよいよだわ……どうしよう……)
ドキドキとうるさい心臓を手を押さえながら、女官長に続いて部屋の中に入る。
ここに第三王子アルノルトがいる。それを確認するのが怖いような気がして、イルゼは足元に視線を落とした。
前も見ずにふわふわと覚束ない足取りで歩いていたイルゼは、立ち止まった女官長にぶつかり、「ひゃっ」と情けない声を上げてよろめいた。
なんとか踏みとどまって顔を上げたとき、真正面のソファに座る男の姿がちらりと目に入った。イルゼは慌てて顔を伏せる。
(あ、あの方がアルノルト殿下……)
緊張感がさらに高まる。
女官長は眉間に皺を寄せてイルゼを一瞥してから、アルノルトに向き直った。
「アルノルト殿下、以前よりお伝えしていた教育係を連れて参りました。イルゼ、殿下にご挨拶を。ローブはもう脱いでよろしい」
「……あ、は、はい」
「脱げ」という指示なのだということを数泊遅れで理解し、イルゼは慌ててローブのボタンに手をやった。震える指先でどうにかボタンを外し、わずかな躊躇いの後にローブを脱ぎ去った。
(ここまで来てしまったんだもの。覚悟を決めるしかないわ……)
ひやりとした空気に剥き出しの肌が触れ、ぶるりと体が震える。
うつむきたい気持ちをこらえ、イルゼは顔を上げた。
初めに目に入ったのは、すらりと長い足だった。
次に青い瞳。銀の髪色とあいまって冷たい印象を受ける。
整った顔立ちゆえか、それともその冷めた表情ゆえか、十七歳という年齢よりも大人びて見えた。ただ、はっきりした目元とわずかに丸みを帯びた頬に、少年らしさが残っている。
アルノルトは長い足を組み、片手で頬杖をついて、無表情にイルゼを見ている。
その視線をどうにか受け止め、イルゼはネグリジェ姿で腰を落とした。
「イルゼと申します。これより三ヵ月、アルノルト殿下の、ね、閨の教育係を務めさせて頂きます……!」
閨という単語を口にした途端、羞恥でかあぁっ顔が熱くなった。
そう。イルゼが拝命した仕事は、成人を控えた王子殿下に閨でのあれこれを手ほどきするというものだったのだ。
(や、や、やっぱり無理……! あれこれって何? わからないわ! だって私……キスすらしたことない処女なのに……!)
涙目で頬を染めるイルゼから視線を逸らし、アルノルトが大きな溜息をついた。
「帰れ。教育係など必要ない」
苦々しく告げられた言葉に、イルゼはぽかんと目を瞬いた。





