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過去

 久しぶりに来た人間の世界は、鮮やかな彩りに満ちていた。木の葉が赤く染まっているから、季節は秋か。花壇では色とりどりの花が咲き、空は気持ちいいほどに、深い青が広がっていた。


 ふたりで並んで道を歩く。俺たちは今、足音はしないし、影もない。壁も扉も関係なく室内を自由に行き来できるし、俺たちの話し声は誰にも聞こえない。存在しないのと同じだ。


「で、姫瑠愛はどこに行きたいんだ?」

「警察。場所、教えて」

「警察?」

 ああ、と俺は理解した。

「母親の様子を見に行きたいのか?」

「うん」


 姫瑠愛の母親は、ちょうど取り調べの最中だった。狭い部屋で机を挟んで、スーツを着た男、おそらく警官だ、と対峙している。これが姫瑠愛の母親か。俺は見えていないのを良いことに、じっくりと、観察する。


 胸辺りまである明るい茶色の髪。それに似つかわしくない、地味な上下グレーのスウェット。まだ若そうだ。顔には苛立ちがにじみ出ていた。脚を組み、警官と相対するのを避けるように、体の向きを斜めにしている。


「だから、何回も言っているでしょ。あの子が勝手にジャングルジムから落ちたの。私のせいじゃない」

「お嬢さんは駆けつけた人に、ママに突き落とされた、と言ったそうですが?」

「そんなのでたらめ。私は何もしていないの」

「日常的に虐待をしていた、との証言もありますが?」

「躾です。躾。子どもを育てていたら、ちょっと手が出ることくらい、あるでしょ?」

「躾にしては度が過ぎていたから、今あなたはここにいるのですよ」

「は? まさか私、有罪になるの? え、嘘でしょ。最悪、執行猶予はつくよね? ね?」

「殺人罪なら、執行猶予はつきませんがね。それから、虐待も犯罪です」

「だから違うってば!」


 呆れるほどに見事な堂々巡りである。俺はちらりと姫瑠愛を見た。姫瑠愛は死神の俺でもぞっとするほどに、顔から感情をなくしていた。まるで死んだ人間みたいだ、なんて、出来の悪い冗談だ。だが、断言できる。姫瑠愛の母親は、娘を失った後悔も悲しみも、そして反省も、背負ってはいなかった。


 この様子だと、母親が逮捕されるかは、まだ分からない。証拠や目撃情報をもっと集めてからだろう。何も得るものがないまま、俺たちは警察を出た。


「次は、どうする?」

 俺は手ごたえのなさを感じながら、姫瑠愛に尋ねた。

「公園に行きたい」

「ああ、遊具で遊ぶのか?」

「ううん、私が落ちて死んだ公園」

「はあ? なんでまた……」

「私の居場所は、あそこにしかなかったから」


 言葉を失っている俺をよそに、またも姫瑠愛は歩き出す。


 公園には西日が差し始め、遊んでいる者は誰もいなかった。ふと、ジャングルジムの下方に目をやる。青一色で塗られたジャングルジムに立てかけるように、花と、ペットボトルのジュース、それにお菓子が置いてあった。いわゆる、お供えというやつか。


「姫瑠愛が落ちたのって、あのジャングルジムか?」

「そう」

 人間は、死者に何か供えるのが好きだ。どうせなら、生きている間に、親切にしてやればいいのに。


 姫瑠愛はジャングルジムに近づいた。そのまま登り始める。仕方なく俺も、一緒に付いて行く。頂上に着くと、俺と姫瑠愛は並んで座った。


「ねえ、私の格好、見て」

 姫瑠愛は自分の服を引っ張った。初めて会った時と同じ服装だ。

「服が、どうかしたか?」

「公園で遊ぶ時にね、こういう紐のある格好って、危ないんだよ。遊具に絡まって、下手したら体が吊るされて、首が絞まる。そんな事故が多いんだって」


 改めて俺は、姫瑠愛を見つめた。パーカーにも、ポシェットにも、細くて長い紐が付いている。


「ママにね、新しい彼氏ができたの。そうなるとママはいつも、あんたさえいなかったらって私を殴った。一度ね、ママのスマホが見えた時があって、ママは、事故に見せかけて殺す方法、子どもって調べてた」

「子どもを、殺す方法……」


「この公園だって、いつもはひとりで来ていたんだ。ママに、家から追い出された時に。でもその日は、お昼に今までに見たこともない豪華なピザを取ってくれて、新品のこの服を着せられて、一緒に公園に行こうって言われた」


 姫瑠愛はいつの間にか、饒舌になっていた。ここへ来て、何か、押し上げられるものがあったのだ。それも当然か。つまり姫瑠愛の母親は、事故を装って娘を亡き者にしようとした、ということだ。


 姫瑠愛は自分の腕の中に、顔を伏せた。その隙間から「私ってなんのために生まれてきたんだろう」と、悲痛に満ちた思いがこぼれる。俺は姫瑠愛の小さな頭に手を置いた。人間の慰め方など、俺は知らない。


 だがふと、俺の中に疑問が滑り落ちてきた。

「姫瑠愛は、母親の思惑を知っていて、ジャングルジムに登ったのか?」


 自分の中でのひとり言のつもりが、うっかり口に出してしまった。姫瑠愛がすっと顔を上げる。睨まれるかと思ったが、姫瑠愛は俺に顔を向け……小さく、寂しそうに笑って見せた。


「そんな都合よく、事故が起こるわけがないよね。ほんと、馬鹿……」


 俺は足元を覗いた。結構な高さがあり、突き落とすなら母親もジャングルジムに登らなければならないだろう。だが、遊具に大人が登ると目立つ。それとも、下から引っ張ったのだろうか。母親に仕組まれた、死を誘う紐を。だがそれも、姫瑠愛が暴れたり大声を上げたりすれば、周囲が気づくはずだ。事故に見せかけて殺すのは、かなり難しいように思える。


 姫瑠愛は、遠くを見つめた。

「あの日も、こんな明るい夕焼けだった……」

 姫瑠愛の顔が、まぶしすぎるオレンジ色の光に染まる。


「夕日がね、ちょうどジャングルジムに登っている私に当たったの。スポットライトを浴びているみたいだった」

「確かに、綺麗だな」

「うん。その時私ね、自分の人生で、今が一番輝いている、そう思ったの。ずっと……この世界から消えたかった。ママは暴力をふるうし、周りも誰も助けてくれないし。しまいにはママに殺されそうになるし。痛くて苦しくて、何も楽しいことがなくて、生きている意味もなくて。だから……どうせ消えるなら、きらきらと輝いている時がよかった……」


 俺は目を閉じた。姫瑠愛がこの腐った世界から決別したように。俺はようやく理解した。姫瑠愛の魂をずっと引きずっていたもの。重みの正体。姫瑠愛は自らこのジャングルジムに登り、自ら飛び降りたのだ。母親から、この世界から、永遠に別れるために。


 姫瑠愛は顔を歪めて、笑みを浮かべた。痛みしか伝わってこない、出来損ないの笑顔。

「でもね、怖くなかったよ。これで解放されるって思ったらさ」


 そんなはずはない。十歳にも満たない少女が、ジャングルジムの上から自ら手を放して、体を宙に投げ出す。そこに恐怖を伴わないはずがない。


「ママはその時、ジャングルジムの下で電話をかけていたの。ちょうど他にジャングルジムで遊んでいる子はいなかった。だから今しかないって思って……落ちた時にはまだ意識があったから、駆け寄ってきた人に、ママに突き落とされたって、最後の力を振り絞って言ったんだ。私の、仕返し。ママは警察に捕まったんだから、うまくいったみたい」


 姫瑠愛は自身の命を犠牲にして、母親を犯罪者に仕立て上げた。それを間違いだと非難する権利は、少なくとも俺にはない。ただ、伝えておきたい。


「姫瑠愛にも、生まれ変わる権利はある。今度こそ、楽しい人生が待っている」

 俺は断言した。次こそは、優しい両親の元で、温もりにあふれた人生を送ってほしい。

「ううん。ない。命を粗末にしたから、私は」

 姫瑠愛も、言い切る。姫瑠愛はあえて、魂を軽くすることを拒んだのだ。自らを、罪で縛り付けて。母親に対するやりきれない怒りが、込み上げてくる。


 俺は姫瑠愛に、これ以上言葉をかけられなかった。無力な死神が自己嫌悪に陥っていると、足音が聞こえてくる。見ると、若い女がひとり、長い影を連れて公園に入ってきた。彼女の手には花束があり、まっすぐジャングルジムに向かってくる。女はその花を供えると、手を合わせた。


「姫瑠愛、彼女は知り合いか?」

 姫瑠愛は無言で首を振った。知らない、ということだろう。するとまた、新しい足音と声がした。

「あっ、太郎! 待て!」


 男の声だった。その声に反応して女が立ち上がり、振り返る。入ってきたのはこちらも若い男と、茶色に黒が混ざった中型犬。犬はリードを引きずりながら、一目散にジャングルジムに駆け寄ってきた。そのままの勢いでジャングルジムに前足をかけて上半身を起こし、上を向いて勢いよく尻尾を振る。まるで……見えないはずの俺たちに、挨拶でもするように。


「あ、この犬……」

「この犬は知っているのか?」


 女が犬のリードを掴み、男に手渡す。男は苦笑しながら受け取ると、犬を撫でた。それから、男も花に手を合わせる。犬は相変わらず、俺たちがいる方を向いて尻尾を振っていた。


「私、時々この公園で、この犬におにぎりをあげていた」

「おにぎり?」

「うん。ママが、何の具も味もない、ただご飯を丸めただけのおにぎりを渡してくることがあったの。ほら犬の餌、持って出て行きな、って。私がこの公園で食べていると、この犬がいて、ふらふらしてお腹をすかせているみたいだったから、半分あげた。私が持っていたのは、犬の餌だから。何度かそういうことがあったからこの子、野良だと思っていたけど、飼い犬だったんだ……」


 なるほど。俺は下の様子を窺う。男と女は、肩を並べた。

「亡くなっちゃっていた、なんてね……」

 女が、寂しげにつぶやいた。

「うん……悲しいな……」

 男は犬をちらりと見てから、天を仰いだ。


「きみのおかげで、きみが太郎に餌をあげてくれたおかげで、俺のばあちゃんの命が助かったんだ」


 俺と姫瑠愛は顔を見合わせた。女が犬を撫でながら続ける。


「おばあちゃん、弱ってもう太郎にご飯もあげられなくなっていたなんてね。でも太郎が自分でこの公園に来て、その子にご飯をもらっていたおかげで、おばあちゃんが倒れた時にずっと吠え続けられて、異常を知らせられた。もし太郎が食事を取れずにいたら、おばあちゃんと一緒に倒れていたかもしれないもんね」

「そうしたら、おそらく間に合わなかった。ばあちゃんをひとりで、死なせてしまうところだった」


 男はふっと言葉を切り、表情に憂いの陰を落とした。

「だから、直接お礼を言いたかったな。その子に……」

 鼻をすする音が聞こえた。男が、目元を腕でぬぐう。

「そうだね……」

 女も声を震わせた。瞳に涙が溜まっている。


「ばあちゃんは無事、助かったよ。きみのおかげだ。本当にありがとう」

 ふたりはそろってもう一度、供えた花に手を合わせた。


 呆気に取られていた俺だが、状況を理解すると、興奮気味に姫瑠愛の肩を叩いた。

「聞いたか姫瑠愛! きみがこの犬の飼い主の命を救ったんだ! すごいじゃないか!」

 姫瑠愛は困惑して、瞳を揺らす。


「そんな、だって私、全然そんなつもりじゃ……」

「それでも、姫瑠愛のしたことが巡り巡って、誰かのためになったんだ。だからこそこの人たちは、姫瑠愛に感謝を伝えに来てくれた」


 姫瑠愛の戸惑いは止まらない。だが、やがてくしゃくしゃに顔を歪めた。夕日のかけらが、きらきらと姫瑠愛を輝かせる。


「私……初めて感謝された……。私は、生きていて良かった? 誰かの役に立てた? 生まれてきたことに、意味はあった……?」

「ああ、そうだ」

「この人たちは、私がいなくなって、私のために泣いてくれているの?」

「そうだよ、姫瑠愛」

「私のことを、この人たちは覚えていてくれるかな……」

「絶対に、忘れないさ。だって、姫瑠愛は命の恩人なんだから」

 俺だって忘れない。この美しい夕焼けも、人間も捨てたもんじゃない、そう思えた、この瞬間も。


◇◇◇


 後日、上司の雫がまた俺の元にやってきた。


「久遠、こないだはご苦労様」

「ああ、姫瑠愛のことですか。どうです? その後の彼女は」

「少しずつだけど、魂は軽くなってきている。まだ、生まれ変わるには時間がかかるけどね。やっぱり自ら命を絶ったことが、ずっと引っかかっているみたい」


 虐待を受け続け、誰も助けてくれない世界。それを放棄したって、大した罪ではないと俺は思う。だが、言葉だけで救えるほど単純な傷ではない。


「ゆっくりでいいですよ。最近はご飯も食べに来るし、お菓子やケーキを食べてこんな美味しいものがあるのかって驚いていたし。もう少しここで、新しい経験をさせてあげましょう」


 我ながら良いことを言う、なんて自分に酔っていると、「うおっ」突然腰に衝撃を受け、俺は情けない声を上げた。足元にあったのは大きなボールだった。振り向くと少し離れた所でドッジボール大会が開かれており、子どもたちが俺を見てにやついている。


「ほう……誰だ? 俺にボールをぶつけたノーコンは」


 語尾に笑いが混ざってしまったのは、子どもたちの笑顔の中に、姫瑠愛がいたからだ。俺がポーンとボールを高く投げ返すと、きゃあきゃあと騒ぎながら、姫瑠愛は他の女の子と団子になって逃げ、声を立てて笑っていた。


 俺は子どもが嫌いだ。うるさいし、遠慮なくボールをぶつけてくるし。けれど、この仕事は悪くない。特に今日みたいな日は、帰ってから飲む酒が美味いのだ。


 ―完―

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