表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

小さな聖女と精霊のような彼

作者: 柊三冬

 窓から覗いた白い髪が綺麗で、興味が湧いただけだった。

 やましい気持ちはなかったし、そもそもその白い髪の持ち主さえ知らない。


 それでも、絹のような美しい髪というのは、わたしの幼心を魅了するのに十分な品物だった。


(誰かいるかな……)


 周りを警戒してこっそり近づいていく。

 こじんまりとしていて寂しさはあるけれど、ここはれきっとした病院だ。挙動不審なこの様子を誰かに見られれば説教待ったなしである。


 足元の花を踏まないように気をつけ、たまたま見つけた足場になりそうな石を寄せてくる。


「……よいしょ」


 カーテンがかけられていたが、長さが足りなくて端の方に少し隙間があった。私が白い髪を見たのもここからだ。

 再度周りを確認して、人がいないことに安心したわたしはその隙間から中の様子を窺った。


 白い髪の持ち主は、清潔なベッドでひとり静かに眠っていた。


 とても綺麗なその顔に、思わず見惚れてしまった。髪も肌も睫毛も眉毛も真っ白。精霊だと言われても信じてしまうくらい綺麗な、それでいて儚さを纏う中性的な男の子だった。


「きれい……」


 お話がしたいな、と思った。


 だけど、彼はそろそろ死んでしまう。

 黒い瘴気が見えたわたしは直感的にそう思った。

 このまま何もしなければもって数週間。長くても今月中に彼はその命を全うする。

 この瘴気がみえていなくて、祓う手段を持っていない―――聖女がいない病院だから仕方なくはあった。


 でも、それは嫌だと思った。

 こんなに白い肌をしている彼は闘病生活が長いに違いない。日の下で走り回る感覚を知らずに亡くなってしまうのはとても悲しいと思った。


「よしっ……」


 窓には鍵がかかっていてあかない。

 だから石に乗ったまま目を瞑って、両手を顔に近づける。

 深呼吸して、足を滑らせないよう気を配り、助かりますようにと心から祈りをこめる。


 ―――この魔法に必要なのは、助かって欲しいという思いやりの心だよ


「―――」


 その言葉と同時に小さな眩い光が灯った。数秒光ると、役目を終えたかのようにその光が消えていく。

 彼のほうをみると、瘴気がほんの少しだけ薄れていた。


「……できる……!」




 そういった経緯で、わたしは毎日ひっそり病院に通うことになった。



 ▫▫▫▫



 わたしはなるべく毎日行くように努力した。もともと時間は持て余していたから急用がない限りは行けたけど、その意識だけは忘れなかった。

 毎日夕方辺りにやってきて祈りを捧げる。病院に滞在するのは5分にも満たなかったけど、わたしはその5分が楽しみで仕方がなかった。

 人助けをしている、と思う度に私の胸に幸せが広がった。そしてそれが毎日の祈りの手助けとなった。


「早く治りますように」


 いつの間にか、そう口にしながら祈りを捧げるようになった。


 でも、少しずつしか瘴気を祓えないのはもどかしく、そしてとても悔しかった。3歩進んでも次の日には2歩戻っている生活を繰り返す日々。

 うなされている彼を見る度に、己の力不足を呪った。まだまだ幼いというのもあるだろうけど、そんな言い訳をするのは好きじゃない。


「ごめんね、早くはらってあげたいのに」


 彼に出会ってから、わたしは聖魔法の勉強に力を入れるようになった。彼を早く助けたいというたった一つの想いが原動力になっていた。


 教会にいる神父さまにお願いして本を見せてもらったり、強くお祈りする方法も教えてもらった。

 どういう風の吹き回しでわたしがここまで熱心になっているのか気になっているようだったけど、神父さまの優しさゆえか深く詮索されることはなかった。こっそり病院にいってお祈りしているわたしにとって、その優しさはとても嬉しかった。



「この魔法に最も必要なのは、助かって欲しいという思いやりの気持ちだよ」


 神父さまが口酸っぱく言うその言葉。

 初めはよく分からなかったけど、今なら自信を持って言える。

「助かってほしい」という気持ちは、揺るぎない原動力として自分自身に力を与えてくれるのだ。



 わたしが来るとき、彼はいつも眠っていた。

 だから、わたしは彼の名前を知らないし、声も目の色も何も知らない。

 もしかしたら、わたしが勝手に祈りを捧げていることに気づかれたら罵倒されるかもしれない。気味悪がられるかもしれない。

 でも、彼がとても綺麗な顔をしていること、彼が時々悪夢にうなされていること

 ―――彼がとても頑張って闘っていることは、わたしが1番知っていた。


 瘴気は毎日少しずつ薄くなっている。

 日々の勉強の成果が現れているのか、通い始めた当初よりも一度に祓える瘴気も増えていた。


 3歩進んで1歩下がる生活にかわり、そしていつの間にか後ろに下がることが―――祓った瘴気が増えることが無くなった。


 彼の纏う瘴気は、減っていく一方になった。

 それと反比例するかのように、いつか話せたらいいな、という淡い気持ちが、日を重ねるごとに私の胸に燻っていった。





 だが、そんな一方的に祈りを捧げる生活は突如終わりを告げた。



 いつも通り夕暮れ時に病院へむかい、石の上に立って窓をのぞく。


 頬に吹き付ける風も冷たさを帯びてきた。もうひと月もすれば雪が舞う季節になる。一面白に染った景色に立つ彼は、酷く映えるに違いない。その真っ白な容姿から雪の精と勘違いされてしまうかもしれない。そうして、白い息を吐きながら一緒に走り回って、疲れたら足跡のない白の絨毯に体を埋める。


 きっと、楽しいに違いない。


 でも、肝心の彼はそこにいなかった。

 瘴気はまだ祓いきれていない。でも、ここ最近は悪夢でうなされることは少なく、穏やかに眠っていたはずだ。


 ―――間に合わなかった?


 そんな考えがよぎった。すぐに頭を振って追い出そうとしたけど、一度実感した不安は黒いわだかまりとなって心に巣食い続けた。


 瘴気は変化しやすい。

 昨日まで落ち着いていたものが翌日になって、というのは珍しい話ではなかった。


 勉強を教えてくれていた神父さまも言っていた。


『瘴気というのは、なるべく早く聖女さまに祓ってもらわなければならないんだよ。いつ悪い方向に変化して命に関わるか、誰も予測できないんだ』


 頭を鈍器で殴られたようだった。

 毎日、ただひたすらに早く治ることを夢見て、青い空の下でお話することを夢見て、好きじゃなかった聖魔法の勉強にも力をいれて。とにかく懸命に祈りを捧げていた。そんな彼が、いなくなった。


 鼻の奥がツンと痛んだ。

 悲しみが形となって頬をつたう前に、病院からそっと離れた。


 彼は散歩でもしているんだ。ずっと寝たきりじゃ体に悪いから。


 そう思って自分の気持ちを誤魔化そうとした。

 でも、わたしの心に嘘はつけなかった。


 纏わりついてくる何かを振り払うかのごとく、教会まで走って帰った。

 不思議と、息が上がることはなかった。


 神父さまは帰ってきたわたしを見て驚いた様子だった。いつもなら達成感でニコニコしながら聖魔法の勉強に取り掛かるというのに、今日のわたしは勉強はおろか、笑顔を浮かべてさえいなかった。


 例年より早く雪が降って、白い絨毯が敷かれた。

 綿の羽織を身にまとい、小さな足跡を何千も何万も作った。


 明日こそきっと。

 そう思って病院に通う日が1ヶ月続いた。


 果たして、彼は二度と姿を見せることはなかった。

 わたしの心に巣食う不安と疑念は、時間という名医を持ってしても拭いきれることは無かった。



 それが、彼との別れだった。



 ▫▫▫▫



「せいじょさまー! みてみてー!」

「はいはい。走ってはいけませんよ。わたしはここにいますからね」


 腕を広げて屈んでみせれば勢いよく胸の中に飛び込んでくる。自分の半分ほどの背丈しかない小さな子供は、幸せに満ちた笑顔を浮かべていた。それを見て、わたしもつられて笑みを深くする。いつもより丁寧に整えられた修道服に、もはやその面影もないほどに皺がつくられる。


「キレイなお花さんみつけたの! ほら! きいろですっごくかわいい! せいじょさまに似合うとおもったの!」

「あらまぁ、とっても可愛いお花さんね。どこで見つけたの?」


 手に握られている黄色い花を見る。

 この子の手のひらより大きいその花は、わたしが持つとすっぽりと手中に収まってしまった。潰さないよう気を配りながら、茎の部分を優しくつかむ。


「川のちかく! すっごくかわいいからせいじょさまにも見てほしかったの!」

「ありがとうチェルちゃん。でもね、お花さんも頑張って生きているの。だから、今度はわたしをお花さんが植わってあるところに連れて行ってくれないかな?」

「うん、わかった! キレイなお花さんだから、いっぱいいきてほしい! せいじょさまも!」

「あら! 嬉しいわ! でもチェルちゃんもよ? もちろん、ここにいるみんなと一緒に」


 受け取った黄色い花を髪にさしてあげると、ひどく嬉しそうな顔をしてまた胸に飛び込んでくる。背中に回された手の力が強くなり、思わずわたしもぎゅっと抱き返した。


「せいじょさまだいすき!」

「わたしもだいすきよ」


 またね! 手を振りながら扉の方へ駆けていく。腕の中から離れた温もりに寂しさを覚えた。



 あの日、彼と思わぬ別れをしてから早10年。当時8歳だったわたしはもう18となり、今や子供たちに慕われる立場となった。生まれ育った教会に恩を返したく、この場所で聖女として住んでいる。


 身寄りのない子供たちに字や簡単な計算を教えたり、時には本を読み聞かせてやり、時には外で走り回って一緒に汗をかいたりした。今やこの場所は大事なわたしの居場所であり、ここにいる神父さま含め子供たちみんながわたしの家族だ。


 ここにいるのは子供たちが4人、神父さまが1人で、定期的に出入りするお手伝いさんが1人だ。神父さまといえばわたしに親身になって勉強を教えてくれた人だ。

 田舎の小さな教会ということもあり人数は少ない。それでも、幸せと断言出来るくらいに充実した日々を送っていた。


 子供たちに囲まれて暮らす日々。

 それでも、たまに彼のことを思い出す。


 彼とは結局話せずじまいだった。瘴気も、全て祓えなかった。今なら1回のお祈りで全て祓いきれる自信があるのに。


 精霊のような彼にお祈りを捧げた日々は、もう思い出として風化していた。

 たまに思い出して感傷に浸ることはあれど過ぎたことだと割り切れる年齢にもなった。


 もし生きていれば、彼は何歳になったのだろう。たいそう美しい美青年に育っているに違いない。


 そんなことを考えながら立ち上がる。

 つい先程2度目の昼の鐘がなったばかりの今、わたしには仕事が残っている。

 今日は教会へ寄付をしてくださる方々への挨拶があるのだ。日頃の感謝を伝え、現状の体制についての会話も少し。


 今わたしがいるこの教会には、神父さまと聖女であるわたしを含めても10人に満たない人数しかいない。建物の老朽化も進んでいるために合併を考えているのだ。


 そのための手伝いを、よく寄付してくださる貴族の方とする予定なのである。そのお方は慈善事業にばかり手を出しているために聖人というあだ名が着いているお方だと耳にした。


「リリィ、すこしこの子達の相手を頼んでもいいかな」

「はい。お任せ下さい」


 噂をすればというやつである。

 子供たちをおいて神父さまは外に出ていった。どうやらかの聖人様がいらしたようだ。


「神父さまはー?」

「どこいっちゃったの?」

「あたし、お外にばしゃがとまっているのをみたの!」


 そんなこともお構い無しに子供たちは大はしゃぎだ。しゃがんで子供たちと目線を合わせると、彼らが破顔する。それがあまりにも嬉しくてわたしも思わず笑顔を浮かべてしまう。


「リリィ、少しいいかい」


 すると神父さまがこちらに顔を出した。はい、と返事がしたいが、子供たちに囲われている今、むやみに立ち上がることができない。


 とりあえず声は聞こえたということを伝えたく、神父さまの声がした方に目を向けた。神父さまのとなりにたたずむ聖人様が目に入った。


 麗しの貴人がこちらを見る。

 時が止まる。

 彼はわたしを捉えたまま目を見開いていた。


 嬉しそうに微笑みを浮かべながら明らかにこちらに近寄ってきている男性に戸惑い、でも逃げる訳には行かず、どうしようかと迷った末にわたしは失礼を承知でかがんだまま子供たちに構っているフリをして困惑を紛らわした。


 でも、子供たちは好奇心旺盛で、こちらに近寄ってきている麗しい貴人に関心を示さないわけが無い。いつの間にか会話が止んでみんなの視線がひとつに集まった。もちろん、わたしにではない。


「やっと会えた……」


 そう言われて顔を上げると、 髪も肌も睫毛も眉毛も真っ白な、美しい青年がこちらをみて微笑んでいた。10年越しに知った淡い紫の瞳は、わたしを捉えて離さなかった。


「ねぇーこの人だれー?」

「せいじょさまのお友達?」

「あそぼうよー!」


「あはは、いきなりごめんね。ちょっとお姉さん借りてもいいかな?」

「えー! リリィねーちゃん行っちゃうのー?」

「ごめんなさいね、後で一緒に遊びましょう」

「もー!」


 差し伸べられた彼の手は、10年前の病弱な少年の面影がない健康そのものの手だった。





「一応、念の為に確認しますが」


「一応」「念の為」と予防線を貼っている割には、その顔には喜びが満ちている。立ち上がるためにとった手も繋がれたままで、伝わる体温が心地よかった。


「……10年前、出会ってから毎日俺にお祈りしてくださいましたよね」


「まだ幼かったのでお祈りとも言えない代物かも知れませんけれど……」


「そんなことありません!」


 思っているより声が出たのか、彼は口を抑えて恥ずかしそうした。心なしか、その頬は赤く染っているように見えた。


「ずっとお礼を言いたかったんです。あなたがいなければ、今頃俺はここに立っていませんでした」


「わたしだけの力ではありません。幼いながらあなたも頑張られていたことが報われたのですよ」


「ですが、そうであってもあなたがいなければ俺はもう生きる気力さえ失っていたんです。ほんとうに、ほんとうにありがとうございました」


 手を強く握られたまま、彼は深く頭を下げる。麗しの貴人がただの聖女にそんなことをするものだからうろたえてしまう。


「ちょっと! 顔を上げてください!」


 一目で高貴な出自だとわかる方に頭を下げさせるわけにはいかない。焦ってあわあわしていると、彼が急に顔をあげる。


 すると知らずのうちに距離を詰めていたらしく、想像よりずっと近い位置に彼の顔があった。

 息が止まる。こぶしひとつ分もない距離にあるその紫の瞳は、一点の濁りなく透き通っていて、まるで宝石のようだと思った。


 目が合ったまま動くことができず、そのまま沈黙が流れる。目を見開いたままの彼は、突如わたしを抱きしめた。


「わぁっ?!」


 子供たちとは違う力強い抱擁に心臓が早鐘をうつ。鏡がなくとも、頬が赤く染っているのがわかった。


「ずっと……ずっと探していたんです。俺の命の恩人を」


 独り言のような小さな声が耳をくすぐる。彼の体温を全身で感じて、目の回る思いをした。


「あの日、話しかければ良かったとずっと後悔してて……でも何度後悔しても時間は巻き戻ってくれなくて……」


 だから、だから。その言葉とともに、彼の腕から開放される。

 そして肩に手を置いて、眩しいほどの笑顔を浮かべたまま、残りの言葉を紡いだ。


「……会えて、すごく嬉しい」




 ▫▫▫▫



 病院のベッドに横たわったまま、自分が犯した過ちをずっと嘆いていた。


 あの日、父親の誕生日プレゼントに花を贈ろうと思いこっそり抜け出して近くの森までやってきた。護衛も何もつけず、ひとりで外に出たのは初めてだった。

 だから、そこが―――綺麗な花をみつけた場所が―――魔の森だなんて知らなかったのだ。


 花を摘むのに夢中になり小1時間ほどその森にいただろう。長い時間かけて考えた割には少ない数の花を持って家に帰り、父に渡そうとした寸前に違和感を覚えた。


 ―――足元がおぼつかない。


 疲れたのかもと思ったのもつかの間、気がつけば自室の寝台に横たわっていた。

 メイドに名前を呼ばれてからの記憶がない。あるのは身体のだるさと高い熱のみで、身体は鉛のように重かった。

 瘴気にあてられたのだとすぐに理解したが、父さんには言えなかった。母をなくした悲しみから立ち直りきっていない父さんに、言えるわけがなかった。


「溜まっていた疲れが出てきたのかもしれないね」


 父さんは僕を想って病院を手配してくれた。王都から離れた自然豊かな村にある、木造のこじんまりとした病院だ。療養を目的としていたため、あてがわれたのは小さな窓のついた日当たりの良い部屋だった。


 そしていつしか寝台に横たわったまま窓の外を眺めるのが日課になった。咲き乱れた花や自由に飛び立つ鳥たち、風に揺られる木々や屋根にうちつける雨の音。相変わらず瘴気に侵されたままだったが、症状が酷くなることはなくなった。しかし、逆に良くなることもなかった。


 一生このままなのだろうか。


 一抹の不安がよぎって、その度に胸が締め付けられるような苦しさに襲われた。

 熱と悪夢にうなされ続け、まともに歩くことさえできないまま死んでしまうのだろうか。


 やっぱり、もっと早く森から離れるべきだったんだ。

 あのとき、護衛に一言声をかけていれば結果は違っていたかもしれない。

 野花ではなく手作りの品を贈っていれば、父さんに心配をかけなかったのに。


 してもしきれない後悔に頭がどうにかなりそうだったとき。


 身体が、少し軽くなっていることに気がついた。


 珍しく悪夢を見なかった日の夕暮れ時、目を覚ました僕は身体にまとわりついていた重苦しさがすこしなくなっていることに気がついた。久しぶりにぐっすり眠れて目覚めが良かったこともあってただの勘違いだと思っていたのに、陽が落ちても身体は軽いままだった。


 軽い、と言ってもそこまで大きな変化ではない。1000個ある重りのうちいちばん軽いものを1つ外されたような、そんな些細な変化だ。でも、それは手元さえ分からない真っ暗闇に照らされた唯一の光で、勘違いなんかじゃなかった。


 それを確証つけるかのように、毎日少しずつ身体が軽くなっていった。それにともない高かった熱も少しづつ下がっていっていた。


 久しぶりに食欲が湧いて、自分から進んでそばにあったリンゴを頬張った。

 口に広がった甘い果汁に、涙が出そうになった。


 いつもなら寝ているお昼間に起きていることも増え、部屋に置かれていた本棚から本を取り出しては暇つぶしに読むことが多くなった。それでもまだ完全に治った訳では無く、ずっと起きていると体がだるくなる。座っているのは数十分が限界だった。だけど、それは寝たきりだった以前に比べれば天と地の差があった。


 寝ながら自分の身体のことを考える。

 どうして急に良くなっているのだろうか。瘴気にあてられたはずだから、聖女の祈りがなければ治らないはずなのに。それとも、元々瘴気じゃなかったのだろうか。でもそれはありえない。あの日いったところはたしかに魔の森だったのだ。


 思考は堂々巡りを続けるばかりだった。


 自分の身体のこと。

 これからの生活のこと。

 結局渡せずじまいだった誕生日プレゼントのこと。


 夕日が眩しくなって目を閉じ、今日も午睡にふける。色あせた、いつもと何ら変わりのない生活。



 のはず、だった。


「早く治りますように」


 聞き間違いではなかった。

 驚きのあまり飛び起きて、急いで窓にむかった。転びそうになりながら近寄った窓の奥には、茶色い髪を揺らしながら走る少女の姿があった。

 その後ろ姿を呆然と眺めながら、ここ最近起きている不思議なことを頭に思い浮かべる。


 その姿がなくなっても、ずっと彼女が走っていったほうを見ていた。

 眩しかった夕日も、まったく気にならなかった



 ▫▫▫▫



 翌日も、その翌日も彼女は来てくれた。

 誰にも許可を得ていないのか、毎日ひっそりやってきては祈りを捧げて、それが終わればひっそり帰っていく。来るのはいつも夕方だ。寝ていることが多かったために彼女が来てくれているのに気づくことが出来なかった。


 寝台で寝たフリをしながら彼女の声に耳をかたむける。お礼を言いたかったけど、彼女は誰にも知られたくなさそうだった。


 時折、目を瞑って祈りを捧げてくれている彼女の顔を除きみる。茶色の髪に可愛らしい顔立ち。見知らぬ僕なんかに祈りを捧げてくれる優しい心。


 その姿を見る度に強く惹かれているのがわかった。


 だから、覚悟をきめた。

 彼女が頑張ってくれているのに、僕だけ何もしない訳にはいかないから。


 見舞いに来てくれた父さんに、全てのことを話した。花を摘みに言って瘴気にあてられたことも、それをずっと黙っていたことも。


 話を聞いた父さんは「そうか」と言って、優しく抱きしめてくれた。積もり積もった不安と罪悪感が溢れ出てきて、その日、声を上げて泣いた。


「話してくれてありがとう。たくさん泣いたんだから今日は早く寝なさい。あとはすべて、父さんに任せるんだ」


 それからの日々は忙しかった。

 体調はかなり回復していたためすぐ王都の屋敷に戻って医者と聖女の手配をされ、すぐ治療を受けることになった。

 やはり瘴気にあてられていたらしく、瘴気を祓ってくれた聖女様はこう言った。


「瘴気にあてられてから何ヶ月もたったとお聞きしましたが、深刻な問題がないようで驚きました。珍しい事例です。運が良かったとしか言えません」




 治療が終わってからは寝たきりだったために失った体力を戻すのに忙しく、それに合わせて勉強も再開した。目の回る日々でだったけど、健康でいられるありがたみを知ったために前より苦しくはなかった。唯一気がかりだったのは、あの子にお礼を言えていないことだけだった。


 そしてそのまま月日が過ぎた。


 かつてあの子(聖女)に助けられた恩返しをしたく、慈善事業にばかり手を出している。もちろん領地運営は手を抜いていないし、家の財政を圧迫させていることも無い。


 教会への寄付を初めとし、領地内に市民学校を設立したり教会の補修をしたりした。領地内外でそんなことをしていたものだから、聖人という名前まで貰ってしまった。その名前は、彼女にこそふさわしいというのに。


 あくまで趣味の範囲で、そしてあわよくば彼女を見つけられるように。


 そんな彼女は今、自分の腕の中にいる。


「なにか付いていますか?」

「いえ、何もありません」


 あの日の少女が―――リリィが僕に笑いかける。胸元で切りそろえられた茶色の髪が首をくすぐる。緑色の瞳が前を向いてしまったことに少しの寂しさを覚えた。


 あの日、教会を訪れたのはたまたまだった。領地への視察へ行く道中、過疎や老朽化によって合併を考えている教会があったというのを思い出したからだ。一週間の日程の間に何とか組み込んだものだったが、まさか運命の出会いをできるとは思わなかった。


「リリィ」


 あの日から半年もの月日が過ぎた。

 何度も逢瀬を重ね、少しづつアプローチをしてきた結果、今や腕に抱かれてうっかり昼寝をしてくれるくらいには気を許してくれるようになった。


 気温も下がり、そろそろ雪の降る季節である。一面白に染った景色に立つ彼女はたいそう映えるに違いない。その可憐な姿から女神だと勘違いされてしまうかもしれない。そうして、白い息を吐きながら一緒に辺りを見て周り、冷えてきたら暖かい部屋の中でココアを飲む。

 きっと、いや、絶対に幸せに違いない。


「どうしましたか、リオ」


 愛らしい顔をまたこちらに向けてくれる。彼女をソファのうえに移動させ、そして目の前で跪き―――


「伝えたいことがあるのです。リリィ、どうか僕と―――」


 小さかった聖女が、ポッと頬を赤く染める。


 どこまでも青い空から白いものがハラハラと舞い落ちてくる。花の上で溶けた雪が、冬の訪れを告げていた。

お読みいただきありがとうございました!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ