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手を出さないと言う男は、たいてい手を出す。参考書のお約束だ。
男の人の家に泊まることを承諾して、その手のことを考えないほどわたしはうぶな娘ではない。
だけど……と、するするじゃがいもの皮をむきながら今朝までのことを思い出すと、やるせない嘆息がもれた。
結論から言うと、なにもなかった。
そう。なにも、なかった。
なにも……。
普通なにかあるものなんじゃないの……?
交代で体を清めて、同じベッドで並んで眠り、朝起きて城へと送ってもらった。なんて健全で清い関係。本当につき合っていたか自信がなくなる。女同士でも同衾したらもうちょっとなにかあると思う。
眠るまで彼の一挙手一投足に緊張しながらもいちいちどきどきしていた自分が恥ずかしい。
別に期待していたわけじゃないにしても。
わたしによほど魅力がないのか、セオ様が聖職者並みにストイックなのか。
どちらにせよ、兄様への当てつけならば魅力がなかろうが抱く努力くらいするはずなので、またセオ様のことがよくわからなくなる。
……はっ!
もしかして、努力したけどだめだった結果が、現在なのだろうか。
へこみすぎて地面にめり込みそう。
考えごとをしていると仕事が早く終わる傾向にあるわたしは、早めの昼休憩をもらい、ひそかな憩いの場である裏庭の片隅へと向かう。
のんびりお昼を食べていると、急に背中を預けた壁の向こうから、よく知った人の声が聞こえて来た。
「僕の私生活に口出ししないでいただけますか?」
その固い声の持ち主はセオ様だった。
このあたりは外も中も人目がないので、内緒話をするに持って来いの場所ゆえに、聞いてはいけない類の話が普段からわりとよく飛び交っている。
なのでわりと冷静に聞き流して、はむ、とサンドイッチをかじると、今度はセオ様にちょっとだけ似た別人の声がした。
「口も出したくなるだろう。あのレオナルド・カレンの妹だぞ? おまえが勝てないのは仕方ない、相手が悪過ぎる。もう誰もおまえにそこまでの期待はしていないから、余計なことだけはしてくれるな。レオナルド・カレンは今や王族からの信頼も厚い。取り込む方向へと動こうとした矢先に、おまえってやつは……」
会話の内容的にセオ様の兄弟だろう。ふたりいるお兄様のうちのどちらかだ。
聞いてはいけない話に限って聞いてしまうのも、参考書の定番だったのでそこまで驚きはしなかったものの……。
窓の外をのぞかない限りわたしの存在に気づきようがないので、険悪な雰囲気の会話はめまぐるしく進んでいく。
「取り込む? あのレオナルド・カレンを? それこそあいつのことをまったくわかっていない証拠だ! 取り込めるような相手じゃないことはそばにいた僕が一番よくわかっている。だいたい、汚い手を使ってでもあいつを陥れろって言っていたくせに今さら」
「それを言ったのは父さんだ! しかも何年も前の話だろう」
「……そうだね。汚い手を使わせてくれる隙さえ、なかったからね」
「だからって妹を使うのは」
「さっきから妹妹って、あの子の名前はアリッサだよ。アリッサ・カレン」
「名前なんてどうでもいいだろう」
セオ様が少し苛立った様子の荒いため息をついた。
「あのね、兄さん。なんて言われようと、今のところアリッサを手放す気はないから」
「今のところって……」
「カレンは王太子殿下に忠誠を誓っている。うちは王太子派だし、殿下に利になると思えば僕のことがあろうがなかろうが、うちとも手を組む。それとこれとは別として考えられる冷徹な人間だから。取り込めるものなら取り込めばいいよ。だからもう僕のことは放っておいてくれないかな」
「だが……ちゃんと気をつけているんだろうな? もし捨てた後に妊娠していたなんてことになったら……」
「それこそ兄さんたちにとって好都合だろう? それが僕の子なら、レオナルド・カレンの甥か姪だ。子供に罪はないんだから、僕に責任を取らせる形で結婚に持っていくなりすればいい。うまくやればこれ以上にない縁ができる。兄さんがすべきことは、僕のすることを咎めることじゃない。僕を利用することだ」
そう早口でまくし立てるセオ様に、お兄様は気圧されたのか押し黙った。そのまましばらく無言が続いたのは、唖然としたというよりは、それは一理あるかもしれないと考えが傾いたゆえの沈黙に思えた。
とはいえ、セオ様のお兄様はお門違いなことを危惧している。
キスすらまだなのに、妊娠するはずがない。
セオ様ににっこり微笑まれると、妊娠しそうにはなるが。
やっぱり聞いていた通り、あんまり兄弟仲よくないのかな……。
セオ様に限って、捨てた後に妊娠発覚、なんてミス絶対にしなさそう。
簡単に手を出す男ならば、わたしは今日一日こうして悶々としていない。
なのでこんな会話を聞いたわりに、わたしは他人事のようにレタスサンドをがぶがぶ食べている。
それに、わたしの名前が出ていても、結局話の本筋は兄様のことで。
みんな兄様の逆鱗に触れないかを心配しているだけで、誰もわたしのことなど、本気で心配していない。
あの感じだと、セオ様のお兄様はわたしの顔も知らないと思う。
だからわたしの意見もセオ様と同じだ。わたしたち以外の誰にも、わたしたちの関係に口出ししてほしくない。
最初こそあれだったが、今セオ様と一緒にいるのは、間違いなく自分の意思。
捨てられるのを承知でセオ様と一緒にいたいと思うわたしは、愚かではなく、乙女なのだと割り切っている。
結婚は家の問題に直結しているので口を出したくなるのは仕方ないとしても、それが火に油を注ぐ結果になる可能性とか、微塵も考えないのだろうか。不思議に思いながら、バリ、とレタスサンドにかぶりついた。
反対されればされるほど燃え上がる恋というのも、参考書の定番だ。本気で別れさせたいのなら、なにも言わないのが一番だと思っている。普通は燃焼しても時間が経てば自然と冷めていくものなのに、周りが煽るからどんどん燃え広がって収まりがつかなくなる。
燃え上がった炎の中で、ついさつまいもを焼く想像をしてしまい自分の食への貪欲さに引いていると、いつの間にか会話は聞こえなくなっていた。どこかに行ったようだと胸を撫で下ろしていると、頭上から疲労感のこもったため息が落ちて来た。
「盗み聞きははしたないんじゃないかな、アリッサ?」
驚いてレタスを大きいままごくんと飲んでしまった。慌てて胸を叩いて水を喉に流す。
そっちからは見えてなかったはずなのに、と涙目で振り仰ぐと、セオ様がちょっと困り顔で窓に肘をついて身を乗り出していた。
「わ、わざとじゃなく……」
偶然だが途中から興味本位であったことは否めないが。
「あの、いつから気づいて?」
「当てずっぽう。アリッサはいつもここで昼を食べるから」
な、なぜそれを……?
わたしの行動が読まれ過ぎている。
「先に言っておくけど、兄にここへ引っ張って来られただけで、わざと聞かせたわけじゃないから」
セオ様はひょいっと軽やかに窓から飛び、わたしの前にふわりと降り立った。一瞬のことだったが、目が離せなかった。思わず手のひらを打ってしまったほど。
「わっ、すごい! 小鳥みたい……!」
さすがセオ様、足音すらない。
手放しで褒めたのにセオ様は不満顔だ。
「……アリッサに他意がないのはわかるけど、男としては鳥なら鷹とか隼とか、そういう雄々しい動物に例えられたかった」
セオ様にそのイメージはないので、なんとも言えずに視線を逸らした。黄色とか水色とかの綺麗な羽の小鳥を思い浮かべたわたしに、悪気はなかった。本当に。
「……まあ、いいけど。それより、さっきの話だけど」
「わかってます。早く話を終わらせたくて、適当にそれっぽいことを並べ立ててあしらったんですよね?」
図星だったのか、セオ様がかなり驚いた様子でわたしを凝視した。たぶん用意していた次の言葉がどれもが弁明の類だったのだろう、とっさに言葉が出て来ず口をはくはくとさせている。
最初の一言以外、本心で語っていなかったことくらいわたしにもわかる。
「お兄様と話している時の口調、すごくイライラしてたから」
時間がないのかなと思っていたが、こうしてわたしと普通に会話しているということは、そういうわけではなさそうだ。
誰だって説教は早く終わらせたい。それが誰に聞かれるかわからない外でなら、なおさらだ。
わたしだって兄様に叱られたとき、なるべく穏便に済むように情に訴えかけたり、別の興味を引くようなことを持ち出したりして試行錯誤した。結局叱られたが。
「……ごめんね」
風に掻き消されそうな小さな謝罪が聞こえた。
「……謝ることがありましたか?」
お兄様が納得するような話運びをしただけで、わたしに謝ることじゃないと思う。そもそも盗み聞いていたわたしにも問題がある。
だけどわたしの返しに突き放されたと感じたのか、今にも死にそうな顔をしたセオ様が徐々にうつむいていった。
「…………自分でも最低だなって思ったから」
「……わかりました。謝罪は受け取っておきます」
わたしは全然気にしていないけど、セオ様が気にしているから仕方ない。
だからそんな顔しないで。
体の横にぴたりとつけられていたその両手を取って握ると、彼はおずおずと目線を上げた。だけど目が合うと、居心地悪そうに身じろいでしまった。
「てっきり……もう別れるって、泣いてごねられるかと思った」
別れると泣いてごねられる強気な人なら、最初にセオ様の名前を知ったときに泣いてごねて別れられていたのではないかと思う。
それにわたしが泣くとしたら、振られたときだ。
そしてそれは、少なくとも今じゃないらしい。
それがちょっと……嬉しい。
「ちなみに、もしそうなってたら、どうする予定でしたか?」
「……ちょっと激しめのキスで黙らせた」
「……」
さすが手慣れた男。考えることが違う。まるで参考書のヒーローみたいなことを素でしようとは。
もしそうなっていたら、腰が砕けて泣くどころじゃなくなっていたと思う。
ちょっと……惜しい。
だけど、ファーストキスはもっとロマンチックなものがいい。だけどその場の雰囲気で自然と、というのも捨てがたい。
「なんでそんなに、聞きわけのいい子なの?」
セオ様はなにか勘違いしているようだが、わたしは別に従順でもいい子ちゃんでもない。
「セオ様、さっきお兄様に言ってましたよね? わたしのこと、レオナルド・カレンの妹じゃなくアリッサ・カレンなんだって」
「言ったけど……それが?」
「兄様の妹としてではなく、わたしのことを一個人としてちゃんと見てくれてるってことですよね?」
「アリッサはアリッサでしょう?」
そういうところが。
それを素で言えてしまうところが、わたしの乙女心を簡単に打ちのめすのだ。
わたしはいつだって、兄様の妹として見られていた。
もちろん兄様のことは尊敬しているし誇りに思っている。
だけどわたしの名前すらまともに覚えていない人ばかりで、王都に出て来て、それはますます顕著となった。
なにも知らない頃は普通に接してくれるのに、あのレオナルド・カレンの妹だと知った途端態度を変える人だっていた。
セオ様もはじめは、兄様の妹だからという理由でわたしに近づいたのかもしれない。
だけど今は、わたしをひとりの人間、アリッサ個人として見てくれている。レオナルド・カレンの妹ではなく、アリッサ・カレンとして。
だったらわたしもそれに報いるために、セオ様のことをちゃんと見極めたいと改めて思った。
わたしをアリッサとして見てくれているのに、わたしが彼のことを兄様のライバルとして見ていては不誠実だ。
今離れたらそれすらできなくなる。
わたしはきっとそれを後悔する。
それにセオ様は、今のところ手放す気はない、と言っていたから。
今のところがいつまで続くかわからないけれども、その結果傷つくことになっても、選んだのは自分だ。アリッサ・カレンだ。
「わたしはなにがあっても、あなたを信じます」
決意表明して顔を上げると、正面からきつく抱き込まれた。
「きみは、本当に……」
耳元に落とされた囁きはなぜか苦しげで、それでも戒めが強くて彼の顔を窺うことはできない。だから首を傾げることで意思を伝えた。
彼はわたしの首に顔を埋めるようにして、熱っぽい息と共に溢れた感情を吐き出した。
「かわいい」
今はその一言で満足だった。
抱きしめられながらちょっと激しめのキスを想像するアリッサ・カレン
休憩時間終了ギリギリにようやく解放されました