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会いたくないときに限ってばったりと会ってしまう。
参考書ではお決まりのパターンだったが、現実でもやはり回避不可だった。
「あっ、アリッサ!? ちょうどよかった、実は話したいことが…………アリッサ? どうかした?」
話しかけてきたセオ様から、ぎこちなく目を逸らす。瞬時になにか感じ取ったらしい彼が、わたしの視界に無理やり入って来ようとする。逃れるように、ますます顔を背けた。
「あのっ、今は忙しいので、また今度にしてください!」
そう言って脱兎のごとく逃げ出そうしたが、相手が悪かった。一歩踏み出すことも叶わぬまま、肩を掴まれてくるりと半回転させられる。なにが起きたかわからないまま、わたしは彼と向き合わされていた。騎士怖い。
セオ様はわたしの上から下までをつぶさに観察してから、怪訝そうに下手な嘘を指摘した。
「忙しそうには、見えないけど?」
確かに今から帰るところで、これから誰かと約束があるわけでもないが。帰って参考書に慰めを求めながら布団にこもるだけだが。
「なにかあった……?」
思いがけず剣呑な眼差しに晒されて、猫ににらまれた窮鼠のように冷や汗を流す。
なんで傷ついているはずのわたしが問い詰められているのだろう。理不尽過ぎる。
「……疲れてるだけです」
「……本当に?」
探るような視線から顔を背けて、ほんの少しだけ当て擦るような子供っぽいことをしてしまう。
「本当です。ちょっと、胸が痛むだけで。だからもう帰って寝るので、放って置いてくだ――って、きゃあ!」
話している途中で抱き上げられた。
「すぐ、医務室に行こう」
「え? え?」
「よく見たら顔色が悪い。念のため診てもらおう?」
顔色が悪いのも、疲れているのも、セオ様のせいで朝まで眠れなかったからだ。胸が痛むのだって、セオ様のせい。
なのに。
こうやって優しいところを見せるから、嫌うどころかまた好きになっていく。
それがたとえ演技なのだとしても、彼の一部であることは間違いないわけで。
気分が悪い人がいたら心配する。余裕があれば気遣う。必要があれば病院などに連れて行く。そんな単純なことさえ思いつかない人だって、世の中には五万といる。
とっさにそう行動できる彼は、そういう一面を必ず持ち合わせているということなのだ。
人によって、立場によって、状況によって行動のパターンは大きく変わる。たとえば自分の方が子供だったら大人を呼んでくるだとか、自分が上司だったら早く帰りなさいと早退を促すとか、恋人だったらこんな風に横抱きにして医務室まで走って運ぶだとか……。
セオ様はきっと、愛する人ができたら、その人をこうやって大切にするのだろう。
……ああ、いいなぁ。
今わたしにしていることを、この先ほかの誰かにもするのかな。
そう考えたらまた胸が軋んだ音を立てた。
見上げた彼は険しい顔つきをしていたが、わたしの視線に気づくと安心させるようににこりとする。その微笑みが優しくて、愛しまれているような錯覚に陥る。本当にずるい。
その笑顔の裏で、わたしのお弁当を捨てるような冷淡な顔も持ち合わせていると思うと、素直に微笑み返せずに目を伏せた。
恋するだけならば楽なのに。目に見える綺麗な表面だけを見つめて、彼の素敵なところをひとつずつ並べては浮かれていればいい。
好きになってもらうためには、愛されるためには、相手の綺麗じゃない裏側までもすべて受け止めなければならないのだろうか。
思えばわたしは、元々誰かのことを嫌いになったことがほとんどない。周囲の人に恵まれていたということもあるが、そんな強い感情を抱けるほどの関係を誰とも築いて来なかったということでもある。
生まれ育ったのが田舎だったこともあり、両親ものんびりとしたおおらかな気質だった。今家にどれだけのお金が残っているか把握していないのに、借用書なしであるだけお金を貸してしまい、挙句貸したことさえ忘れてしまうような呆れた父と母だ。兄様がしっかりするはずである。
金銭感覚はずれているが、質素な生活でも仲睦まじく暮らしている。親としては問題あるが、ふたりのような仲のいい夫婦関係にはずっと憧れがあった。
それって結構すごいことだったのだと、ここに来てはじめて思い知らされた気分だ。
「すぐに着くからね」
声をかけられて我に返った。
考えごとをしている場合ではない。
病気でないと言い出せなかったわたしは、一秒後には医務室へと運び込まれていた。
医務室では正直に寝不足であると恐縮しながら白状すると、体が温まり眠りに入りやすくなるという薬草を処方してもらえた。
強い薬には抵抗があるが、これなら依存性もなく、自然由来なので効くかどうかは別としても、安心して使えそうだったのでほっとした。
それはセオ様も同じだったらしく、わたしの頭を撫でる手から安堵が伝わって来た。
「よかった、大したことなくて」
「ありがとうございます、気を遣っていただいて」
普通に話せているだろうか。医務室を出ると、前よりもほんの少しだけ距離を空けて、肩を並べながら寮まで歩く。
セオ様は鈍感な人ではない。なにか感じ取っているようだったが、その距離を無理やり詰めようとはしなかった。
会話が途切れ、長い沈黙が降りてしばらく、寮へとたどり着いたところでようやく、セオ様は深刻そうな面持ちで口を開いた。
「実は、アリッサに謝らないといけないことがあるんだ……」
どきりとした。
とうとう恐れていた事態が訪れてしまったのかと内心気が気じゃない。
さっきまでどうやって呼吸をしていたのかわからないくらい、鼓動が早くなって息苦しい。
別れてほしい。そう言われたら、どう答えればいいのだろう。すんなりと物分かりよく、わかりました、とは言えそうにない。
わたしはこの期に及んで、まだ傷つく準備ができていないらしい。
焦るわたしをよそに彼はいつになく歯切れ悪く、絞り出すような掠れた声で続けた。
「せっかく作ってくれたお弁当だけど……実は、紛失してしまって……」
「え?」
お、お弁当……?
ちょっと今は、頭が追いつかない。
いや、お弁当がそもそもの原因だけど……。
「全面的に僕の過失だから、バスケットから全部弁償しようと思って、新しいのを買い揃えたんだけど……今度持って行ってもいいかな……?」
その言葉をどう受け止めればいいのかまだ判断がつかない。だから当たり障りのないことしか出て来なかった。
「そんな大したものじゃないので、別によかったのに……」
弁償されるほどのものではない。実家にあったものを適当に持ってきただけのお古だから。
それに、だ。その紛失したお弁当は、はからずも今わたしの部屋にある。綺麗に洗って、戸棚にしまってある。弁償されるいわれはない。
彼の言うことのどこまでが真実なのか、はたまた全部嘘なのかは、ますますわからなくなった。
彼の言うことが本当ならば、第三者がごみだと思って捨てたことになるが、普通捨てる前に誰のものか尋ねて回るくらいのことはするだろうし、そうでなければそもそも見て見ぬふりして拾わないのではないだろうか。もしかしたら危険物かもしれないし、ここでは無視して通り過ぎる人が多そう。
盗まれたとかならまた別だが、誰がお弁当など盗むと言うのか。飢えに苦しんだことのない人ばかりのこの城で。
つまり現状、真相は藪の中。
しかし……願望かもしれないが、彼の姿はいつもよりもしおらしく、どこか落ち込んで見えた。
彼の態度がどうであれ、許さないわけにはいかない。だってわたしは、セオ様がお弁当を捨てたことを知らないことになっているのだから。
だけどなんて言って取り繕えばいいのか。うまい言葉が見つからない自分の語彙力のなさに失望して下を向いた。それをショックを受けて泣きそうになったと誤解したセオ様が、らしくなく慌てふためく。
「ごめん! 本当に! また作ってくれたら今度は絶対に」
「いえ、お弁当はもう」
作りません、と。
思いがけずに硬く突き放すような声が出て自分で驚いた。
心のどこかにあったらしいわだかまりが、わたしにそうさせたのかもしれない。
だって、また作っても、食べてくれるかどうかもわからないし……。そんなのもったいないし、かわいそうだ。材料も、時間も、わたしの気持ちも。
いつもならぐいぐい押して了承させそうなあのセオ様が戸惑ったように瞳を揺らして言葉を失っている。
これまでわたしが強く断ることはなかったから、どう対応すべきか決めあぐねているのだろう。
軽く脅されるようにつき合うことになったときですら、わたしは強い拒絶はしなかった。だからわたしの性格を少し、勘違いをしているのかもしれない。
わたしは自己主張が控えめで押しに弱い自覚はある。流され気質で事勿れ主義なところも。
だけど自分の意思がないわけではない。
結局どんなときだって、自分で選んで行動している。
今わたしは一体どうしたいのか、考える。
今なにを思って、どうしたいのか。
向き合ったセオ様は、どこか他人事のように苦笑してそこにいた。嫌われても仕方ないよね、というように自嘲して。
嫌ったのではなく、悲しかっただけ。わたしはただ、彼に笑ってほしかっただけなのだ。
おいしいものを食べたら、人は自然と笑顔になる。
まずいものを食べても、なんだかんだで笑顔になる。
こんな諦め切ったような顔をしてほしかったわけではないのは、確かで。
ああ……そっか。
好きなときに食べれるお弁当だから、いけなかったのか。
だったら――。
「今度作りに行きます。セオ様の家へ」
気づくと拳を握り、決意表明のごとく強気でそう宣言していた。
許容範囲が広いだけで自己主張しないわけではない、アリッサ・カレン