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せっかくのリボンだったが、仕事中は外さなくてはいけない。
どちらにせよ水に濡れたら悪くなってしまうので、なんとか結び目をほどかないよう気をつけて指から抜き去り、小物入れの中へと大切にしまった。
毎晩小物入れを開けてリボンを眺めては、セオ様を思い出し、種類の違うため息をついている。爆発する乙女心を抑えるためのため息と、そんな自分に呆れるため息。
騙されてるってわかっててこれって……。
情けない。
だけど田舎娘が太刀打ちできる相手ではないのだ。
上半身がへなへなと沈んで机に頰をつける。ひんやりと冷たい。でも頭はまったく冷めてくれなかった。
セオ様はなにを最終目標としているのだろう。わたしが完全に落ちるのを気長に待っているのだろうか。
セオ様なしでは生きていけないくらいに依存させてから、手のひら返しで冷たくして捨てる気なのだろうか。
……本当にそんな冷酷非道な人なのかな。
一緒に過ごす時間が増えるにつれ、そんな人ではないと思いたい自分が強くなっている。
つまり、絆されている。完全に。
兄様は本当に忙しいのか、今に至るまでまったく会えていない。わたしとセオ様のこと、絶対に噂になっているはずなのに。
わたしなんかの何百倍も忙しい人だし、外では他人のふりが継続中なので、万が一見かけたとしても気軽に話しかけるわけにもいかない。
実際問題、わたしがセオ様にこっぴどく振られたところで、兄様はちょっと眉間のしわを深くして、「……そうか」と言うだけだと思う。
これに懲りたらこの失敗を次に活かせるよう努力しろと、わたしの肩を叩いて無言で労わるような人だ。
参考書だと、妹思いの兄は激昂して、俺の妹になんてことを! と妹を傷つけた悪い男に殴りかかったり、いっそ自分がと妹と結婚したりするが、うちの兄様に限ってそれはない。断言する。
思えばわたしは、兄様が感情的になった振る舞いをしたところを見たことがない。
だけどこうなるだろうという想像はつく。
兄様ならたぶん、相手を無視する程度だと思う。……永遠に。
視界に映さず、記憶からも抹消して、他はなにもしない。制裁を加えるほどの相手ではないと切り捨てそう。
セオ様がそこまでして兄様にぎゃふんと言わせたいのなら、もはや協力してもいいんじゃないかと思いかけたが、血迷うなわたし、と慌てて却下する。
そんなことをしたらセオ様のちょっと低めのプライドがまた容赦なく傷つく。これはわたしごときが迂闊に手を出せる案件じゃないのだ。
だけどこのままだと彼は、自分のしたことを後悔する気がする。
わたしを手ひどく捨てたところで、彼の自尊心は満たされるどころか、残るのはただただ虚しさだけ。
そうなる前に思い留まってくれたら……。
なんて思いつつ、わたしは本当は自分の身を守りたいだけなのかもしれない。浅ましい。
セオ様が本当にわたしのことを好きになってくれたら、いいのに……。
はじまりはどうであれ、セオ様がわたしのことを本気で好きになってくれたら、全然問題がないのに。
そうしたら、誰も傷つくことなく丸く収まるのに。
積まれた参考書のひとつを手に取り適当に開く。
政略結婚で嫁いできた妻が、愛されないとわかっていても健気にも夫のために手料理を作る場面だった。そこからふたりの距離は縮まっていき……。
わたしたちもこんな風になれたら……。
わたしはくたびれた栞を挟んでページを閉じると、いつもよりも早めにランプを消した。
セオ様は今年七歳になられる第一王女の近衛として働いているが、数人での持ち回りなので、およそではあるものの休憩や交代の時間を推察できた。
兄様のように王太子殿下をほぼ一日中警護しているのはめずらしいことらしい。
いざ近衛騎士団まで来たものの、その場でうろうろとする。前回は物陰から覗いていただけだが、今日は思い切って騎士たちが出入りする石造りの建物の玄関口に立ってみた。
腕に抱えた小さなバスケットの中に目を落として、深呼吸をすると、なんとか気持ちを持ち直す。
わたしは一応レオナルド・カレンの妹なのだから、兄の勤め先を訪問してもきっと問題ない、はず……たぶん。
しぼみかけた自信を奮い立たせ、いざっ、と一歩踏み出した途端、なぜか前からセオ様が現れて、無言の微笑みでわたしを外へと押し戻した。流れるような動作のまま、物陰に連れ込まれて、壁に肘から先を突き、わたしが逃げられないように囲い込む。
「ねえ、アリッサ? こんなところで、なにを?」
顔こそ笑っているが、その目がわたしの思いつきの行動を咎めている。うなだれながら軽率さを反省した。
「ごめんなさい……」
「謝ってほしいんじゃなく。なんでこんな野獣どもの巣窟……いや、なんでこんな場所に来たのかを聞いてるの」
「セオ様に……会いたくて」
正直に言うと、セオ様は息を呑み、しばし固まった。
あんまりにもなにも言わないから、早急に用件を済ませようとバスケットごと彼の胸へと押しつけた。
「この前のお礼です!」
「お礼?」
「買い物につき合ってくれたこととか、その、リボンとかの……。それで、これ、お弁当を作って来たんですが」
「え、お、お弁当……?」
困惑気味の上擦った声を出したセオ様は、両手で持ったそれを見下ろして目を白黒させている。
「お腹が空いたときにと思って……あの、いらなかったら捨てていいので……」
そこでようやく我に返った様子のセオ様は、いつもの優しい微笑みでわたしの頭を撫でた。
「ありがとう。後で食べるね」
後でなんだ……。
ちょっと残念に思っていると、セオ様が身をかがめた。
「そんなに僕に会いたかったの?」
耳朶に直接吐息が触れるとびょんと心臓が跳ねた。なんて声を出すんだ。どこまでわたしを翻弄する気だろう。
もうほとんど落ちてるのに、無駄な色気を振り撒かないでほしい。
顔を赤くしながらもにらむと、セオ様はおかしそうに笑った。
「アリッサのそういう顔、はじめて見た。かわいい」
わたしとしては、セオ様のそういう顔をはじめて見た、と言い返したかった。
だって、セオ様が本当に愉快そうに笑っている。好きな人が笑っているだけでなんか嬉しいとか、乙女心は単純過ぎて困る。
「もっと話していたいけど、まだやることがあって」
「あ、はい。お仕事がんばってください」
うん。と優しく目を細めながらうなずき、セオ様は中へと戻って行った。
受け取ってもらえた……!
たったそれだけのことなのに、自然と頰が緩む。
貴族の末席に片足だけ乗っているだけのわたしは普段から実家のキッチンによく立っていたし、料理ができると言っても庶民的なものばかりで、彼の口に合うかどうかはわからないという不安はあった。だからとりあえず見栄えだけはよくなるように工夫した。
寮に納入される食材を融通してくれた寮母さんに感謝しながら、大仕事を終えた高揚感でいつもよりも多くじゃがいもをむき、仕事を早めに終えようとしたが、そう簡単に早上がりさせてもらえないのがこの職場。
時間があるならやっといてくれと、料理長直々に生ごみの処理を命じられた。解せない。
厨房で出た野菜の皮や芯などが溜まった銀色のバケツを両手に、焼却炉までふらふら歩く。
野菜の皮なんて食べればいいのに。
たとえ食べれない部位なのだとしても、肥料にするとか、使い道などたくさんあるのに、燃やすなんてもったいない。
灰は灰で使い道があるのでそう文句は言えないが、城はちょっと無駄が多い。
重い思いをしている原因の一端はじゃがいもをむき過ぎたわたしにもあるので、そう文句を言えることでもないが。
城の外れにある焼却施設では、いらなくなった私物を勝手に捨てていく人がいるので、たまに掘り出し物があると噂に聞いていた。
なので、わたしの眼前で男性がなにかを拾おうと手を伸ばしていたことを、特に不思議には思わなかった。
だがどうやら相手は違ったらしく、わたしに見られていることに気づくと、慌ててその場を立ち去った。
うん、まあ、捨ててあるものを拾うところなんて、普通は誰にも見られたくないよね……。納得。
さっさと切り上げようとバケツの口を逆さまにして、生ごみを一気に吐き出し踵を返そうとしたとき。
ふと、視界に見覚えのあるものが映った。
あれ……?
胸の奥がざわついた。おそるおそる近寄る。ごみに埋もれながらもちらりと覗いた小麦色のバスケットの持ち手。それがなにかわかった瞬間、鈍器で頭を殴られたような気がした。
見間違えるはずがない。
昼にセオ様に渡したばかりのバスケットだったから。
震える両手でごみをかき分けてそれを拾うと、渡したときと変わらない重みが、わたしの腕にずしりとくる。
確かに言った、捨ててもいいって。……だけど。
本当に捨てるとは、思っていなかった。
わたしが今日みたいにごみ置き場に来ることはほとんどない。だからこんな風に無造作に捨てても、バレないと思ったのだろうか。
わたしはたぶん、自惚れていた。
心のどこかで。
兄様のこと嫌っていても、わたしのことは嫌っていないだろう、と。
いつも優しいから、確証もないのに、そう信じていた。
信じ切っていた。
そう気づかされた。
傷つけられる覚悟はしていても、思ったよりもショックだったみたいで、気づくと涙が頰を滑り落ちていて、慌てて袖で拭った。泣いたところでどうにもならない。自分で選んで決めたことだ。
……でも。
「そっか……」
お弁当がいけなかったのかも。
セオ様は気さくだから忘れがちだけど、高位の貴族だし。
お弁当を作って来る女なんてよく考えると重たいし、面倒くさいと思ったのかもしれない。
それとも、わたしの作ったものなど、口にするのも嫌だったのだろうか。
好きになってくれたら問題解決、なんて、やっぱり現実は物語のようにそうあまくない。
好きになってもらうのは、思った以上に難しいことだとつきつけられた。
これが兄様への当てつけなのだとしても、わたしとつき合っていることが本当は嫌で嫌でたまらないのかもしれない。腹の底では、わたしの顔なんて見たくないと思っているのかもしれない。
無理して微笑んでいるのかもしれない。
だったらとても悲しくて……申し訳ない気持ちになった。
わたしがそう思うのも変な話ではあるにしても。
ひどい、最低、と、泣きながら罵れたら、どれだけよかったか。
いっそ愛想を尽かしてしまえたら楽だったのに。
一度進み出してしまった気持ちを、どう後戻りさせることができると言うのか。
こんな仕打ちをされても、嫌いになれない自分が不思議で。
汚れたバスケットを抱えたまま、しばらくその場から動けなかった。
生ごみまみれのバスケットを持って帰ってきちんと中身をおいしくいただいた、傷心よりももったいない精神が勝ってしまう、アリッサ・カレン