参考書の真実 2
引き続きアリッサ視点
ちょっと参考にならないな、と思った時期もあった。
だけどまさか、まったく参考書の意味を成していなかったなんて。
「一番気に食わないのは、これ」
セオ様が手にした一冊、それは複数の男性に愛されるヒロインの物語。いわゆる逆ハーレムという形式のものだった。
「他の男と競うだけならまだ許す。嫌だけど、それは現実にもありうることで、仕方ないことだから。だけど、だからといってヒロインを共有する意味がわからない。ヒロインの博愛主義にもほどがあるし、男どもの倫理観が壊れ過ぎてて違法薬物の使用すら疑う。これを参考にしてるってことは、アリッサは実は複数の男を侍らせたい願望が――」
「ありません!! そのあたりの上級者向けの本は、ただ読んでいるだけです!」
「それならいいけど……」
「わたしはヒロインに自己投影しないタイプの読み手なので、人の恋愛模様をヒロインの肩に乗った小鳥の視点で見守っている感じで読んでいるというか……」
「小鳥……?」
言いたいことはわかる。ヒロイン全員、肩に小鳥を乗せている異常事態になってしまうが、ほかにたとえようがないのでそこはなんとなくで理解してほしい。
「登場人物の誰かを好きになったりは?」
「推し、という意味ですか? 特にいません。わたしは本当に、参考書として読んでましたし、わたしが本当に知りたかったのは、ほかでもなくセオ様の気持ちで……」
当て擦りみたいな言い方になってしまったかと後悔したが、発言を撤回する前に、セオ様の胸に抱き込まれたままベッドに転がっていた。
「……うん。不安にさせて、ごめんね。今から言うことは、全部本心です。……正直なところ、多少心は開いてくれていてるのかな、とは思っていても、まさか本当に好きになってくれるとは思わなかったんだ」
なんでそんなところでも自己評価が低いのだろう。わたしなんてすぐに落ちたのに。
わたしがセオ様のことを好きなんて、誰の目から見ても明らかだっただろうに。
「だって普通、自分の兄のことを嫌っている男に好意なんて抱かないだろう? カレンのことを目の敵にしているのは紛れもない事実で、別に今も仲がいいとは思わない。前よりも会話が増えたのも、アリッサという共通の話題があるからというだけで……」
もし接してみて本当に嫌な人だった場合はどうだったかわからないけど、彼の人柄を知らない段階で、兄様のことを目の敵にしているから嫌い、とは、ならないのがわたしだ。
むしろ、兄様のことを目の敵にしているからわたしのことも目の敵にしているのでは、と不安を抱いたくらいで。
相変わらずセオ様の心の奥深くには、鋭い氷のように突き刺さって影響を及ぼし続けている兄様がいる。
わたしはいつまで兄様に嫉妬すればいいのだろう……。
「……アリッサが僕から離れたいと言ったときは、きちんと、手放すつもりでいた」
思わず彼のシャツをぎゅっと握った。
わたしの意思表示が伝わったのか、髪に手のひらが触れた。頭を撫でる手つきがとても優しい。
「アリッサは、僕とカレンの諍いに巻き込まれた被害者と思われていた方がいいと思った。別れた後、周りがきみに優しくしてくれるだろうから」
「わたしのために、悪役ぶろうと?」
「ううん。そんなかっこいいものじゃないし、それだけが理由ではないよ。僕はずるい人間だから、好きな子にふられた、よりは、目の敵にする男の妹を利用して捨てた、と思い込む方が心の傷が少なくて済むと思ったこともある。……最悪の想定はしておかないと」
最悪の想定自体はわたしもしていたから、するなとは言えない。
「わたしの最悪の想定は、セオ様に手酷く振られたショックで田舎に戻って泣き暮らす、というものでした」
「でもアリッサは、意外と早く立ち直りそう。それにかわいいから、すぐに次の男が見つかるだろうし…………って、自分で言ってなんだけど、想像しただけで腹が立って来た」
そんな理不尽な。
「えぇと……わたしの結婚相手は、兄様より強くないといけないそうなので……」
普通の人には無理だと思う。
兄様はあれで結構セオ様のことを気に入っているようだから、今後兄様のお眼鏡に適う人などそうそう見つからないだろう。
性格的には合わないのも事実だろうが、彼の努力や実力は誰よりも認めている。
きっとセオ様のことを一番評価しているのは兄様なのだ。
口にしないから一生伝わらないかもしれないが、そういう関係性もきっとあるのだろう。男の友情というやつだ。
「僕もカレンよりは強くないけど?」
「兄様の言う強いの定義は、純粋に力だけのことではないと思うんです」
最近になって気づいたのだ。想いだって強さだ。
兄様は妹の結婚相手を、力の強さだけで選ぼうとするほど脳筋じゃない。一見冷たく見えるが、ちゃんと思いやりのある人なのだ。
だから兄様は、自分からわたしを奪おうと立ち向かえる想いの強さを持った人、わたしを愛して守ってくれる人を探そうとしてくれていたのではないかと思っている。
だから彼は、兄様が認めるに値する強さを見せたのだと思う。
「セオ様より強い人はいないと思います」
兄様関係なしにわたしを望む奇特な人なんてこの先現れないだろう。
「カレンがいるけど」
それが世界の真理であるとでも言うような顔のセオ様にむっとした。だけど今のはわたしの言い方も悪かった。言葉足らずだった。
「わたしに対する想いの強さの話です」
言い切ってから羞恥に悶えた。でももう取り消せない。自意識過剰過ぎて痛いと思われていたら泣ける。
黙って待っていると、セオ様の体がわたしごとふるふると小刻みに揺れ、すごく嬉しそうに笑いはじめた。
「それは確かに、カレンに勝ったかも」
ひとしきり笑ってからわたしの髪に顔を埋めたまま黙り込んだ。あまりにもなにも言わないから心配になってきた頃、彼は本当に悔しそうに掠れた声で本音を吐露した。
「でも……一度でいいから、剣で勝ちたい……」
その切なげな響きに泣きそうになった。
だけど、勝ちたかった、ではなく、勝ちたいと言った彼の心境の変化に、わたしの涙腺が緩む。
いつか勝てる、なんて、無神経で無責任なことは絶対に言えない。慰めなど必要としていないのもわかっている。わたしにできることなんて、結局のところなにもない。
でも役立たずのまま終わりたくないから、ほんの少しだけ爪痕を残すように、彼の背を、子供を寝かしつけるときのようにぽんぽんとごく軽く叩いた。
「……気を遣わせてごめんね」
しばらくすると彼はちょっとだけバツが悪そうな上目遣いをして、こつりと額を合わせて来た。
「いえ……。でも、あまえられるのは、嬉しいです」
そう言ったら彼は照れ笑いのようなやわらかな表情から、神妙な顔つきになった。
「……。僕って、猫っぽい?」
「え?」
なんで急に猫?
だけど、言われてみれば……犬よりは猫寄りだと思う。
なんでそんなに不服そうなのかわからないけど、タヌキよりはマシじゃないだろうか。
「……猫、嫌いですか?」
「猫は嫌いじゃない」
じゃあなにが嫌いなのか。
わからないまま流された。
「……アリッサは、どんな男が好き? 本当はどんな男が理想だった? 動物でたとえるとなに?」
「えっ、動物で?」
なんで動物?
ものすごく猫を引きずっている気がする。もしくは猫に引きずられているのか。
好きな男性のタイプを動物で考えたことがないから、いきなり訊かれてもわからない。動物は恋愛対象ではない。参考書に出てくる獣人なら許容範囲ではあるが。
「……ごめん、今の質問は忘れて。ちょっと職業病が……」
セオ様が、くっと寄った目頭を揉む。
騎士の職務の中に動物との触れ合いがあるのだろうか。王女殿下がペットを飼っているのかもしれない。
よくわからないが、彼の望み通り忘れることにした。
「アリッサの理想に近づけるよう努力するから、どんな男に惹かれるか知りたい」
「わたしは……一途な人が好きです。それで、困っているときにはさりげなく手を貸してくれて、病気のときは自分のことのように心配してくれて、わたしの作ったご飯をおいしそうに食べてくれて、わたしを兄様の妹じゃなくわたしとして見てくれる、そんな人が好きです」
「ん。アリッサの理想に近づけるように、がんばる」
わたしの渾身の告白がまったく伝わらなかった。
兄様が彼に卑屈過ぎて鬱陶しいと言ったときの気持ちは、きっとこんなもどかしさを帯びていたのだろう。
彼は本当に自分のことが見えていない。
言葉で言っても伝わらないのならと、思い切って自分からキスをした。微妙に唇から外れたけど、不意打ちは成功して彼の目がまん丸になっている。
その顔は驚いたときの猫っぽいかも……と、じぃっと見入っていると、じわじわとその頬が染まっていき、乱暴に髪をかき乱した彼が、「ああ、もう!」と毒づいたと思ったら抱きしめられたまま体の向きが変わり、仰向けに転がされていた。覆いかぶさるように上になった彼の瞳は、はじめて見るような情欲の火が灯っていた。
これはもしかして、いけないスイッチを押してしまったのでは……?
焦って逃げ腰になるが、抱き込まれているので逃げられるはずもなく、わたしの髪を焦ったいくらいゆっくりと耳にかけると、彼の唇が寄せられた。その吐息が触れるだけで、全身が未知の感覚に戦慄いた。
「ちょっとだけ……いい?」
それはいわゆる、あれだろうか。参考書で定番の、ちょっとで済まないあれこれだろうか。顔だけでなく全身が熱くなる。
「あの、それは、まだ心の準備が」
「煽った責任、取ってくれるよね?」
「え、と……その」
「と、る、よ、ね?」
「あの……はい」
押しの強さにどうしても勝てなかった。
嫌ではないから、余計に。
頰に手を添えられて、視線が絡む。ふ、と笑ったセオ様から触れるだけの口づけがまぶたに落とされると、くすぐったくて目を閉じた。
唇にやわらかい感触が触れたことでわずかに開いた口の中に容易く侵入されて、次第に深まっていく口づけに、彼の背に回した手でシャツを掴んで必死でついて行こうとするも、息つぎがうまくできずに、早々に音を上げた。
はあ、はあ、と全力疾走した後のような荒い息を繰り返す。乱れた呼吸を整える間もなく、首筋に顔を埋めたセオ様の舌が頸動脈をなぞるように這い、背筋がぞくりと震えた。これまで感じたことのない、お腹の奥が疼くような妙な感覚に頭まで痺れはじめる。鎖骨の上でちくりと跡をつけられると、ぴくんと体が小さく跳ねた。
これが参考書でよく出てくるキスマーク……と気が逸れたが、すぐに咎めるようなキスで思考を封じられた。
固い手のひらが腰をなぞり胸の膨らみに触れたとき、ふいにあることに思い至って、あ! と色気もなにもない場違いな声を上げていた。
唇がかすかに触れ合ったまま、はぁ、と小さく呼吸を整えてから、セオ様が顔を起こした。
「痛かった?」
「あ、いえ……」
「なに?」
いつもより掠れた艶っぽい声と髪をかきあげるその仕草にいたたまれずに目を逸らし、小さな気づきを得たことを正直に白状した。
「その……もしかしたら、ここから先がカットされるところなのかな、と思ったら、つい声が」
参考書の全カットの部分。切られるのならきっとこのあたりだと思ったのだ。
セオ様が目を瞬いて、じっくり十秒経ってから、ふはっ、と噴き出した。
ひとしきり笑ってから、こつりとおでこを合わせた。
「じゃあ、ここから先は、ふたりだけの秘密」
次のページで朝になっているかもしれないとお互い思ったのを感じ取り、顔を見合わせて笑い合った。
残念ながら、この後すぐに見回りに来た寮母さんに、風紀が乱れるとふたり揃って叱られました