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8





 日が沈み、西の空はすでに群青に染まっている。この時間、アリッサは寮に帰って来ているはずだ。


 絶対、寮にいる。


 間違いない。


 それなのに、なぜこうも焦燥に駆られるのか。


 とにかくアリッサの無事を確認しない限り、この不安は解消できない。


 しかし走り着いた寮の部屋の窓は、遠目で見ても暗く、人の気配もなくまだ帰宅していないことを示していた。


「そんな……」


 背筋が凍る。


 こうなると不安は的中したとばかりに、厨房までの道筋を急ぎたどって行く。道中にアリッサがいないか、必死に探しながら。


 ばったりと出くわして、「どうしたんですか?」とのんきに言ってくれないだろうかと願いながら。


 本調子でないせいか、疲労の訪れが早く、すでに息も上がりはじめている。


 覗いた厨房には人はなく、アリッサの行方はわからぬまま。


 最悪の事態が頭をよぎり、慌ててそれを否定する。考えてしまったら現実になりそうで、この事態を招いた自分に対する怒りで震えてくる。


 とにかく、探すんだ。アリッサの行きそうな場所を。


 アリッサは軽い脅しのために襲わせて以降、僕がいないときは誰に誘われても街に出ていないはず。誰がどんな手段を使おうと、自ら出て行くことは考えられない。


 だからまだアリッサはこの広大な城の敷地内にいる可能性が高い。


 厨房と寮の往復しかしないアリッサが唯一足を伸ばす場所。ひとつ思いつき、急いで向かった。


 しかしその場所、アリッサがよく昼を食べている裏庭の片隅は、昼間よりもさらにしんとしていて人気はない。かすかに聞こえて来る声はおしゃべりなメイドたちのものだろう。長居することなく踵を返した。


 アリッサの同僚たちを訪ねて情報を集めるべきか。それとも一旦騎士団に戻り捜索願いを……。


 焦っている場合ではないのに、考えがまとまらない。


 もしアリッサを失ったら…………やめろ、考えるな!


 考えないようにすればするほど、最悪の想定ばかりに埋め尽くされる。


 ありもしないアリッサの泣き叫ぶ声や悲鳴が幻聴のように耳の奥に響き、闇を振り切るようにあちこちあてもなく駆け回る。


 もしカレンならばなにか思いつく場所があるだろうか。頼りたくなる衝動を必死に堪える。これではなんのためにアリッサを任されていたのかわからない。


 それにアリッサがこの場所に来てから一番そばにいたのは僕だ。その僕が知らないことをカレンが知っているとは思えない。それくらい、あいつは徹底的にアリッサを避けていた。


 アリッサが行きそうな場所……どこだ!


 彼女と過ごした時間をめまぐるしく思い返し、一度、突然お弁当を持って現れたときのことを思い出した。


 自意識過剰かもしれない。だけどアリッサが僕に黙ってどこかに行くはずがない。家にいないのなら、行き先なんてそんなの、僕の元に決まっている。


 無我夢中で走った。いつもなんとなく歩いている道なのに、こんな時だけやたら長い。


 休みなく全速力で走り抜けた先、その建物脇に女性らしい人影が見えたところで、足を止めた。だけど呼吸が乱れて、うまく声が出なかった。二度失敗して、三度目でようやく、彼女の名前を絞り出すことに成功した。

 

 彼女の耳にも届いたのだろう。こちらを見て驚いた顔をしたが、すぐに慌てて駆け寄って来た。無事であることを全身で確かめたくて、なりふり構わず抱きすくめた。


「はぁっ、アリッサ!! ああっ、よかった……っ! 僕のアリッサ……!」


 もう絶対に離さない。


 侯爵が捕まるまでは、少なくとも、例の侍従や残党どもが捕まるまでは、絶対に。


 こんな不安を味わうくらいならいっそひとつになってしまえないかと締めつけ過ぎたら背中を叩かれた。アリッサの力なんて大したことはないが、それすらも愛おしくて、抱きしめる力は緩めたけれど逃げる隙は与えなかった。


 少しでも離れてしまえば失ってしまいそうで、安堵と喜びで胸がいっぱいで、みっともなくぽろぽろと泣いてしまいそうになるのを必死に堪えていた。


 ……なにもなかった。


 不安になることなど、なにも。


 ……よかった。


 ただの杞憂だった。


 彼女の体に触れて、しつこいくらいに匂いを嗅いで、彼女がここにいるという確かな証拠をひとつ、またひとつと集めていく。


 そしていつも僕の望む答えをくれるアリッサに、ありがとうとこめかみにキスをした。


 ここは僕にとっては単なる職場のひとつで、変わり映えのしない無機質な建物だけど、彼女にとっては大切な僕との思い出の場所だと知って、僕にとっても思い出の場所へと昇格した。


 アリッサがかわいくてかわいくて、このまま部屋に連れ帰って一晩中愛でようかなと本気で悩んでいた僕は、彼女に見せられたその白いカードを目にして、高揚した気持ちが一気に冷えた。

 

 見覚えのないカード。


 そこに記された自分の名前。


 誰かが自分の名を騙り、彼女を呼び寄せようとした証拠品を前に、まず怒りが先行した。


 ああ……やっぱりだ。


 なにもなかったはずがなかった。


 一歩間違えば今頃、アリッサは奪われていた。貴重な人質だから、命までは奪われないだろう。


 だけど逆を言えば、命さえあればいいということで。


 アリッサを呼び出したのは間違いなくモニカ妃の侍従だろう。その背後にはおそらく例の残党たちがいる。


 かつてやつらに拐われてぼろ切れのように扱われて心を失くした少年少女たちの姿にアリッサが重なる。生きているが心が死んでしまったアリッサを腕に抱いていたかもしれないと思ったら、もうだめだった。どす黒い憎悪に全身が支配される。


 ……落ち着け。アリッサは、ここにいる。


 かぶりを振って平常心を戻す。僕が心を乱されていてどうする。


 荒れ狂う心を鎮めるように大きく息を吐き出した。


「つまりアリッサはこれを、僕からの伝言だと信じてここに?」


 こんな簡単に騙されるなんてと失望しかけたが、アリッサと手紙のやり取りをしていなかった自分にも非がある。


 それにこのカードの筆跡。よほど親しい者でもなければ僕のものだと見間違うくらいには、完成された模写をしている。


 だからこそこれほど短い文になったのだろうが、たとえ一文でも自分の手癖を真似されるのはおもしろいものではない。


 だから騙されたことを咎めはしない。悪いのはアリッサではなく、こんなものを作ってアリッサを呼び出そうとしたやつらなのだから。


 だけどアリッサは、凡庸な僕の考えの斜め上を行っていた。


「えぇと、途中で、セオ様っぽくない書き方だなとは思いましたよ? だけどここなら思い出の場所でありながら、待っていれば仕事終わりに寄るだろうし、セオ様との約束を破らずに済むから一挙両得だな、と」


「約束って……まさか」


「はい。ひとりで街に行かないって、約束したので」


 褒めて褒めてと言わんばかりに胸を張る姿に唖然として、次第にひくつきはじめた口元を慌てて手で覆いうつむくが、我慢しきれず全身が小刻みに震えた。


 不思議そうなアリッサの顔を見てしまったら、もう、だめだった。


「ふ、ふふっ、……あははははっ!」


 いつもそうだ。


 この子はそうやって、いとも容易く僕を喜ばせてしまう。


 また襲われるのが怖くて街に出なかったのではなく、僕と約束したから行かなかったのだと、こんな誇らしげに。


 それに一挙両得って。その発想がおかし過ぎる。


 なんで得を狙ったのか。


 本物か偽物かわからないのなら、誘いになど応じないのが普通だろうに。


 アリッサを拐おうと画策した連中も、まさか彼女がまっすぐ騎士団に向かうとは思いもしないだろう。


 ふたりの思い出の場所と書くくらいだから、ふたりだけの特別な場所にアリッサが向かうことを期待していたはずだ。たとえば、ふたりがはじめて結ばれた(と本人以外は思っている)、街にある僕の部屋のように。


 城の敷地内から出さえすれば、彼女が向かう先はどこでもよかったに違いない。


 それなのに、アリッサは無邪気に敵の裏をかいて僕の腕の中に戻って来た。僕との約束を守って。


 痛快すぎて笑いが止まらない。


 もはや投げたボールを咥えて持ってきてしっぽを振り回す仔犬にしか見えず、アリッサを思い切り撫で回した。


「そんなにお仕置きが嫌だったの? あははははっ!」


 あれほど身に燻っていた憤りが薄れて、笑いが止まらない。


 お仕置きなんて念押し程度につけ加えていただけなのに素直に信じて。


 それでなぜ自分が賢いと思えたのか。


 おかげで頭は急速に冷静さを取り戻したが、アリッサの予想外の行動はきっと、まだ誰にも知られていないはずだ。


 アリッサを呼び出した連中は、今か今かと獲物を待ち構えているに違いない。


 アリッサはこうして無事だったが、もしアリッサに似た容姿の娘が運悪く拐かされたとなったら、いくら他人でもさすがに寝覚めが悪い。


 そうなる前に、こっちから仕掛けるか……。


 僕自身がアリッサの身代わりとして囮になるのが一番手っ取り早く、うまくいけば敵のアジトを特定できる。


 しかしリスクは高い。確実に敵に接触できるが、アリッサでないとバレたらカレンに対しての人質の価値がない僕は間違いなく口封じに殺されるだろう。


 だが今動けるのは僕だけだ。同僚たちに一から説明するには時間も惜しいし、カレンと手を組んでいると言ってもおおよそ信じてはもらえない。その間に被害が出たら後悔する。


 僕が囮になるのは決定事項として、問題は、そのことをカレンに伝えるべきかどうかだ。僕らは伝言を交わすような間柄ではないので、逆になにか企んでいるのではと怪しまれそうだ。


 アリッサを安全な場所に匿い、誰にも悟られることなく囮として街に向かうには……。


 あまりに突飛な思いつきが浮かびはしたが、始末書程度で済まないこともちらりと脳裏を過ぎる。が、最後には僕のアリッサに手を出そうとした報いを受けさせてやるという復讐心に突き動かされた。


 そうと決まれば。


 アリッサを抱き上げて、職場へと堂々と乗り込んだ。


 

忠犬アリッサ

やっぱりあんまり賢くない

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