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アリッサの手作り弁当をもらった僕は、内心浮かれまくって油断していたのだろう。
まさかそれが狙われるとは思っていなかった。
うろうろするアリッサを見たとき、ちょうど僕は建物内にいた。
王族の近衛とはいえ、事務仕事から逃れられるわけではない。午前と午後、その都度報告書を書く必要があるからだ。
机にかじりついてちまちま報告書を書くことを嫌いな者も多いが、僕は特に好きでも嫌いでもなく、淡々と作業を終えて窓の外を眺めているときにアリッサを見かけて、反射的に玄関口まで走った。
咄嗟に彼女をその場から連れ出して隠した僕の判断は正しかったと思う。運よくあそこに居合わせたのは僥倖だった。
無理強いはできないが、本音を言えば騎士団には来てほしくない。まだカレンの妹だと興味を持つ者がいるのも事実で、今は僕との関係が知れ渡っている。善意で傷つけられる可能性もある。
というのは建前で、実際は単なる独占欲なのかもしれない。
誰にも見せたくないし、隠しておきたい。
それなのに、だ。
僕に会いたかったとか、本当にもう……殺す気?
僕の心臓の音を止めにかかっているとしか思えない。
アリッサは僕の素性や噂を知ってなお、僕に対して心を開きはじめている。この手作り弁当がなによりの証拠だ。
嬉しいのだが、少々まずくもある。……僕が。
このまま背後に花を飛ばす勢いで幸せを噛み締めながら彼女の手作り弁当を食べていたら。周りにどう思われることか。
平時ならばいい。誰かにやっかまれようと好きなように振る舞うし、本気で他人の反感を買うようなお粗末な自分自身を演じてはいない。
だけど今は。
アリッサを利用していると見せかけている今はだめだ。
どうしたってにやけずに食べれる自信がない。すでに頰がひくひくしていて、いつ崩壊してもおかしくない状況だ。
本心ではにやにやしながら食べたい。自慢して回りたい。
しかしそうなると、カレンへの当てつけで妹に手を出したという設定が狂ってくるわけで。
いや、カレンの目の前でこれ見よがしに食べるのは、ある種の攻撃になり得るのでは?
なるほど、それは妙案だ。
そうと決まればカレンが来るまで食べるのを我慢して、と、自分の机の引き出しの一番下に大切にしまっておいた。
王太子殿下に比べたら年相応に天真爛漫な王女殿下の遊び(主におままごと)に延々つき合って、くたびれながら一度事務室へと戻ると、ふと違和感を感じて隣の席の先輩にすかさず尋ねた。
「誰か……僕の机、触りましたか?」
「いや、知らないけど……。俺も今来たところだから」
「そうですか……」
騎士たちの机は基本的に汚い。私物の持ち込みに規定がないせいか、どう考えても業務に必要ないものが机上を占領していたりする。それに加えて未処理の書類が次々積み上げられていく状態が常なので、片づくはずがない。
自分の机は他に比べたらまだ片づいている方だが、それでも、勝手に置かれた書類やら冊子がいくつか重なっている。
それはいつもの光景なのに、どことなく妙な感じがして、引き出しがごくうっすら開いているのに気づくと慌てて中を確認した。案の定と言うべきか、そこにあったはずの弁当はバスケットごとなくなっていた。
……やられた。
お腹を空かせた仲間が盗んだというのなら、そいつを二、三発殴って終わりだが……いや、四、五発かもしれないが、それは置いておくとして、おそらくそんな単純な話ではないだろう。
正確な意図は不明だが、予想できる理由として最有力なのは、何者かが僕らの仲を引き裂こうとしている、ということだ。
アリッサの周りをちょろちょろとする僕を排除して、堂々と正攻法で近づく気なのだろう。
カレンのように鍵つきの執務室をひと部屋割り当てられているならまだしも、この大部屋は誰でも出入り可能なため、犯人は誰でもなり得る。
それどころか受付さえクリアすれば、騎士でなくても入室しようと思えばできるのだ。それなりの理由と身分さえあれば。
たとえば、側妃が遣いに寄越した侍従、だとか。
ふたりの間に亀裂が入ったところでアリッサにつけ入る気なのだろう。
僕への警告の意味もあるのかもしれない。
しかし今はそんな謀に嵌められたことよりも、この感情のやり場が見つからないことが問題だった。
……最悪だ! アリッサの手作り弁当が……!
このときを楽しみに、今日一日を乗り切ったというのに!!
無意識に、ガン、と机に拳を落としていて、隣にいた先輩や部屋にいた同僚たちがぎょっとした様子でこちらを向いた。
「セ、セオ……? どうした……? 大丈夫か?」
「…………大丈夫です」
怒りを堪えてどうにか絞り出した声でそう答える。
「いや、本当に? 本当に大丈夫なのか……?」
「ええ…………ちょっと、お花摘みに行って来ます」
「お、おう……ゆっくりして来い」
この先の展開を予想して対策を練らなければ。
犯人を見つけて半殺しにしている時間などないのだからと、煮えたぎる憎悪と憤怒を抑えながら、引き気味の先輩に見送られてふらつく足取りで部屋を出た。
アリッサと僕を引き離そうとする許しがたい連中の思惑になど乗ってたまるかと、やつらが接触を図る前にアリッサを捕まえて、誠心誠意謝罪することにした。
今回ばかりは嘘ではない。紛失したのは事実だ。謝ればきっと許してくれる。
しかしこういうときに限ってなかなか会うことができずに、ようやくアリッサを発見したのは翌日になってからで、その妙な様子から、すでに事が動いているのを察した。
考えられる可能性としては、わざとアリッサの目につくところに堂々と捨てたとか、そんなところだろうか。へし折ってバスケットに詰めてやりたい。
どんなに嫌われても、せめてこのかりそめの関係だけは続けたい、許されるのならもう一度彼女の手作り弁当を食べる機会がほしいと、ほとんど極秘任務を忘れて願望のような縋り方をしたが――。
「いえ、お弁当はもう……作りません」
こわばった表情で、スカートをぎゅっと握りしめながらそう拒絶されて、頭の中が真っ白になった。
心のどこかで、アリッサならば、仕方ないなというように許してくれると思っていた。また作ってくれると期待していた。
そう、だよね……。手間暇かけて作ったものを台なしにしたんだから……。
自分が同じことをされたら絶対に許さないくせに、優しいアリッサならばとたかを括って……情けない。
ざっくりと傷ついた心から意識を背けて、彼女の周辺に怪しい人間が接触していないか探りを入れなければと自分を叱咤して口を開いたが、それより先に彼女がこちらをまっすぐ見上げて宣言していた。
「今度作りに行きます。セオ様の家へ」
「作りにって……なにを?」
話の流れから、それが相当間抜けな質問だとわかっていたが、脳がなかなか認めようとしなかった。
僕の家にアリッサが来て、手料理を振る舞ってくれる……?
本当に?
そんな夢のような話があるはずないと思ったが。
「なにを作るかは、そのときのお楽しみで」
そう言い残して踵を返したアリッサの後ろ姿を眺めながら、強めに頰をつねってみた。
普通に、痛かった。
*
「新婚って、いいね」
「セオルドはとうとう妄想で結婚しちゃいましたか」
いつもの定時報告中、我慢できなかった独り言に王太子殿下が冷静な突っ込みを入れてきたが、今はまったく気にならなかった。
ふたりの間に生まれる予定の子供の話までしたのだから、もうほとんど結婚しているようなものだ。
もしかしたら忘れているだけで婚姻届を提出していたかもしれない。
「レオ。セオルドが戻って来ません」
「セオルド・マクニール」
カレンからフルネームで名前を呼ばれ、浸っていた妄想の世界から渋々帰還した。
「はいはい、報告ね。アリッサの手作り弁当を盗んだ犯人は、十中八九例の従者。顔がよくて口のうまい男らしくて、新人の受付が側妃の名前を出されて通したみたい。今締め上げるのは我慢しておくから、容疑が固まって捕縛したら僕に取り調べをさせてくれないか? 食べ物の恨みは恐ろしいってことを、骨の髄まで叩き込んでやる」
「……そのときが来たらな」
「それで? まだ泳がせたままでいいのか?」
今回は弁当の紛失程度で済んだが、早いところなんとかしてもらわないと今度こそかわいいアリッサに直接手出しされかねない。
どうせ部外者の僕に進捗状況など教えるつもりはないだろうが、焦燥感が伝わったのか、カレンのではない愉快そうな声が返ってきた。
「侯爵はとうとう入手した毒を城内に持ち込んだらしいですよ。私、もうすぐ暗殺されちゃいますね」
まるでおもちゃをもらった子供のような反応に思わず顔を顰めた。
自分の暗殺計画のなにがそんなに楽しいのか。それくらい神経がイカれた人間でなければ王太子などやってられないのかもしれないが、常人の僕からしたら普通に引く。
殿下の異常性はさて置き。
「つまり近々仕かけて来ると?」
なんとなくカレンが殿下に物言いたげな視線を向けているような気配がしたが、一度口にしてしまったものは取り消せないと仕方なそうに話しはじめた。
「おそらく、一番の目的は殿下から俺を引き離すことだろう」
「だろうね」
「セオルドなら、それを踏まえてどう動きますか?」
「まず、厨房をチェックします」
敵の目的がカレンならば、事前にアリッサの出入りする厨房に同じ毒を隠しておくだろう。成功するにしろ、失敗するにしろ、隙のないカレンを失脚させるにはやはり隙しかないアリッサを利用する。だから厨房は念入りに調べておいた方がいい。
「それでは、厨房に出入りしてもぎりぎり疑わしくないセオルドに任せますね」
厨房を捜索していて誰かに見つかった場合でも、恋人へのサプライズプレゼントを隠そうとしていたとでも言っておけば……いや、それ大丈夫か? 今度は自分が疑われる気しかしないけど。
最悪疑われたとしても、うちは王太子派。殿下を毒殺する理由がない。アリッサが疑われるよりはるかに身の潔白の証明が容易いだろう。
「ちなみに、どのような毒か判明していますか?」
「じゃがいもの芽や皮の毒と似た効果がある毒のようですよ」
……殺そう。
アリッサが疑われるようにあえてその毒を選んだのか。じゃがいもの芽や皮には毒がある。殿下の食事にその毒が混ぜられていたのなら、じゃがいもの下処理の甘さで中毒になったと判断され、故意でなくとも担当のアリッサが過失で処分されるだろう。
ちょっと嫉妬するくらいじゃがいもに情熱を向ける彼女がそんな適当な仕事をするはずがないと弁明したところで、情状酌量はされないだろう。最悪処刑もありうる。
「殺気を抑えろ、マクニール。あくまでも、似た効果のある毒、だ」
血の繋がった兄のくせに、なぜそんなに冷静でいられるんだと切り返す声が無意識に尖る。
「ということは別物だと鑑別できる手筈は整っているんだよな?」
「そんなことをしなくとも、殿下の料理にじゃがいもを使わなければいいだけの話だ」
「あえてじゃがいも料理を外すとなると……向こうの思惑にこちらが気づいていることに気づかれないか?」
「ふふ、大丈夫ですよ。ほかの食材をじゃがいも料理のように見えるように作ってもらうつもりで、料理長にはすでに手配済みです。じゃがいもに飽きたので、しばらくそうしてほしい、と。恥ずかしいのでほかの人には内緒ですよとかわいくお願いしたら、快く引き受けてくださいました。厨房内では、じゃがいもの在庫が尽きたことにしてくれるそうです」
殿下は対外的にはわざと年相応の子供っぽく振る舞っているので、料理長もかわいらしい子供のわがままだろうと思ったのだろう。
こうやってじわじわと周囲を懐柔していくのだろう。
本当、恐ろしい人だな。
料理長を味方につけているということがどういうことなのか、それがわからないほど自分の察しが悪くないことにため息をつきたい気分だった。
そうして殿下の暗殺は未遂に終わった。
料理に手をつける前に毒を見抜いたカレンが近衛を外されることもなく、密命の通りに夜中に厨房に忍び込んであれこれ回収しておいたおかげで毒どころか萎びたじゃがいもひとつ出て来なかったことを知った敵は、さぞ悔しかったことだろう。
すべて予定通りの展開だったが、アリッサが不当な目に遭っていないか心配になり、時間を作って駆けつけた僕が見たのは、厨房の捜索に駆り出されていたカレンの部下にしがみつく彼女。
予定調和の暗殺未遂なんかよりも、取り乱したアリッサが自分以外の男に抱きついていたことの方がよほど重大な問題に思えたのは、仕方のないことだった。
見た目天使な腹黒ショタ王太子殿下
日々の健康は普段の食事から
人知れず身内を害するのも普段の食事から
今は特に予定はないが、今後のために厨房は掌握済み