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 彼がこれほど息を切らす姿を見たのは、あの大会のとき以来だ。


 決勝の場で兄様と対峙したセオ様は、準決勝までとは明らかに雰囲気が変わっていた。そしてそれは、兄様も同じだった。


 兄様は誰が相手だろうと手を抜かない、よくも悪くも公平な人だった。そしてその兄様と戦う相手はみな、はじめから勝ちを狙っていないのが、素人のわたしの目からもよくわかった。


 わたしでわかるのだから、向き合っていた兄様ならばなおのことだろう。だからそれまではわりとすぐに勝負がついた。勝つ気のない相手が勝てる世界ではない。


 だから決勝の場で、ふたりの剣が交わったその衝撃の重さに、わたしは目を大きく見開きながら息を呑んだ。


 それまで兄様は手を抜いてはいなかったが、全然本気を出してはいなかったのだと思い知った。


 そしてそれに食らいついていく彼に、わたしだけではなく次第に周囲も引き込まれはじめた。


 開始直前までの白けた空気とは一転、白熱する決勝戦に、観覧席にいた観客たちはその日一番の盛り上がりを見せ、熱狂していた。さっきまで兄様が勝つことを当然のように語っていた周囲の人たちの変わり身の早さにも驚いた。


 互いに譲らない戦いが続き、そして最後の最後、セオ様が兄様に押し負け剣を弾かれ敗北が決まったとき、彼は片膝を突いて、遠くから見てもわかるほど、激しく肩で息をしていた。


 誰もが勝者である兄様に喝采を送る中で、わたしはその人を見ていた。そして兄様もまた、彼を見ていた。


 兄様がやや躊躇ってから差し伸ばした手を、彼は不要だとばかりに弾いた。


 表情なんて全然見えなくても、負けたことへの悔しさが痛いほどに伝わって来た。


 わたしはそれを、兄様と戦った誰からも感じられなかった、ごく当たり前の、とても人間らしい反応だと思ったのだった。





 息を乱したセオ様を前に、わたしは反射的に彼へと駆け寄った。


「セオ様、どうしたん――んんっ!?」


 言い切る前にきつく抱きしめられた。引き締まった胸筋に鼻と口が押しつけられると、もう息ができない。逃げようにも、さすが騎士という締めつけの強さに肋骨が肺を搾り上げ、体が声なき悲鳴をあげた。


「く、苦し……」


「はぁっ、アリッサ!! ああっ、よかった……っ! 僕のアリッサ……!」


 死ぬ死ぬ! と、その背を何度か叩くと、ようやく腕が少しだけ緩んだ。新鮮な空気とはこんなにおいしいものなのか。心臓があり得ない爆音で鳴っている。これは抱きしめられたことによるかわいらしいどきどきなんかじゃない。死を目前に息を吹き返した心臓が必死に血液を体中に送るための、必要な生命維持活動のための、どきどきだ。


 わたしの暴れる心臓の鼓動と同じくらい、セオ様の心拍も激しい。呼吸を落ち着けるためか、深呼吸を繰り返している。


 ようやく息遣いが平常のものに近づいた頃、片腕は変わらずわたしの背を抱きしめたまま、もう片方の手で頰を包み顔を上げさせられた。見上げたその顔が思いがけず泣きそうで怯む。圧死させられかけたことに対する文句は一瞬で頭から消え去った。


「どうしたんですか……?」


 こわごわと指でセオ様の頰に触れると、そこに彼の手が重ねられる。そして目を合わせて、潤んだ瞳のまま、彼はふわりと笑った。そこにあるのは純粋な安堵と喜びのような感情だった。


 あどけなさを内包した大人の男性のやわらかなその笑顔の破壊力に、わたしの胸は圧迫されていないのにきゅっと縛られた。意識を逸らしたくて、さっきと同じような言葉を重ねた。


「なにか、あったんですか?」


「ううん、なにも。…………なにも、なかったんだ」


 とてもなにもなかったようには見えない。だけど彼がそう言うのなら、なにもなかったのだろう。そういうことにしてほしいということだから。


「アリッサ……」


 熱っぽく呼ばれるとこちらも熱に浮かされたように全身がふわふわする。わたしを映す瞳にしばし見惚れた。


「はい」


「……本当に本物だよね?」


 なんか急に疑いだした。


 わたしの偽者でも出没しているのか。


 わたしをわたしだと確認するためなのか、頰から首筋をたどり肩から腕まで順繰りになぞられ、背中がぞくりとした。手の甲をくすぐってから指を絡めると、顔を肩口へと近づけ、なにを思ったのかすんすんと匂いを嗅いできた。


「ひぃっ! 汗っ、汗臭いですよ!?」


 逃げ腰になるわたしを逃しはしないセオ様の鼻がうなじに擦りつけられ泣きたくなった。一日働いた後の匂いなんてひどいに決まっている。


「全然汗臭くないよ。ただ……嫉妬するくらいじゃがいもの匂いが染みついてるけど」


 それは我慢してもらうしかない。


 それこそわたしがアリッサ・カレンである証拠だろうに。


「……じゃがいもは仕事上のパートナーなので」


「じゃあ生涯のパートナーは?」


 じっと間近で目を見つめられて、こういうときの彼の性格を十分過ぎるくらい熟知しているわたしは、照れながらも彼の望む答えを返すことができた。


「……セオ様、です」


 嬉しそうに破顔して、こめかみにちゅっと音を立てて軽いキスをしてきたセオ様は、さて、と小さくつぶやいてからようやく解放してくれた。


「それで、アリッサはどうしてここに?」


 訊かれてようやくその件のことを思い出した。


 ここ。


 つまりふたりの思い出の場所。


 すなわち、城の敷地内にある近衛騎士団の無骨な石造りの建物脇である。


 最初に兄様の姿を見ようとわたしがこっそり隠れていたあの場所だ。


 大きな括りで言えば騎士団だろうが、これといって名もなき場所なので、名指しで指定できなかったとしても理解できる。


「ここがふたりの思い出の場所だと思ったんですが……違いましたか?」


 ここは兄様の妹ということで絡まれたわたしに、セオ様が王子様のように手を差し伸べてくれた出会いの場所だ。


 ふたりのはじまりの場所。


 思い出の場所にふさわしいのはここしかない。


 わたしは試験結果を待つような心地でセオ様を見上げた。


 だけどあんまりにもなにも言わないから、やっぱりあのカードはなにかの罠で、途中から疑ったとはいえ意気揚々とかけつけてしまった自分の愚直さにうなだれていると、セオ様が食い気味に「違わない!」と言ってくれたのでほっとする。


 だけどそれも束の間、彼はわたしが差し出したカードを目にすると、その表情はみるみるこわばったものへと変容していった。


 その様子で察せないほどわたしは耄碌していない。やはりこれは彼からのメッセージではなかったのだ。


「これは? これ、どうしたの?」


 手首を掴まれて、鋭い口調で問い詰められ、彼にそんな意図はないと思いながらも自分が叱られているような気分になる。騙された自分が悪いと粛々と受け止めた。


「厨房に届いていました。ちらっと男性が厨房から出て行く姿が見えたので、その人が持ってきたんだと思います」


「男……顔のいい、若い?」


 なにか心当たりがありそうな言い方を疑問に思う。だけど今質問されているのはわたしの方なので、答える側に徹した。


「顔がいいかはちょっとわかりませんでしたが、若い人だったと思います」


 顔がいいというのはうちの兄様やセオ様のことで、そんな人早々いない。


 わたしの手首を握りしめていたことに気づいたセオ様は、ごめんねと優しく謝りながらも有無を言わさずカードを抜き取る。


 文面を一瞥し、苛立ちを散らすようにかぶりを振り、心を鎮めるように大きくひとつ息を吐き出した。


「つまりアリッサはこれを、僕からの伝言だと信じてここに?」


「最初は……そうです」


「最初?」


 わたしは必死に弁解した。


「えぇと、途中で、セオ様っぽくない書き方だなとは思いましたよ? だけどここなら思い出の場所でありながら、待っていれば仕事終わりに寄るだろうし、セオ様との約束を破らずに済むから一挙両得だな、と」


 疑いを持った時点で引き返さなかったのは、真偽はともかく、どちらに転がっても彼に会えると踏んでいたからだ。


 最悪本人に会えなくても、騎士の人に頼んで取り次いでもらえばいい。ここよりも安全な場所なんてないのだから、動く必要がなかった。


「約束って……まさか」


「はい。ひとりで街に行かないって、約束したので」


 だからこのメッセージが本当にセオ様からなら、いくら楽しい思い出があったとしても、指定された場所が街であるはずがないのだ。それを禁止しているのがセオ様本人なのだから。


 これが頭を振り絞って導き出したわたしの最良の解答。


 実際こうして会えているのだから、わたしの頭脳も捨てたものじゃないかもしれない。兄様と同じ血がわたしにも流れていると実証されたはず。


 そんなわたしの主張に、ぽかんとしていたセオ様は口元を手で覆いうつむくと、ふるふると肩を震わせだした。


 そして。



「ふ、ふふっ、……あははははっ!」



 なぜか大笑いしはじめたのだった。




美の基準がバグっている自覚はある、アリッサ・カレン


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