11
たとえばこれが参考書のヒロインたちならば、ヒーローの言いつけを守らず無謀な行動をしがちだ。そして結果的に悪役に捕まったりとピンチに陥り、ヒーローに多大な迷惑をかける。それなのに彼女たちは愛される。重たいくらいに愛される。
わたしはヒロインではないので、セオ様の言いつけを守って目立たずおとなしく行動していた。
これが単なる独占欲や、最悪嫌がらせでもそれならそれでいいのだが、なにか意図がある気がしてならない。
水面下でなにかが起きている……とか?
王太子殿下が狙われた時点で、わたしには考えもつかないなにかは起きているのだろう。城で見かける騎士たちも、普段よりもどこかぴりぴりとして見える。
今わたしにできることは、じゃがいもの皮を早く綺麗にむくことだけ。
セオ様はわたしに、極力目立たず普段通りの生活をしていてほしいと思っているのなら、それに従うまでだ。
きっと一時でも厨房に捜索が入ったから、気にしてくれているのだと思う。変にいつもと違う動きをしたら疑惑の目が向けられると暗に教えてくれたに違いない。
だけどご安心を。元々わたしは余計なことに首を突っ込むような積極的なタイプではない。巻き込まれて無駄死にする類の人間だ。
セオ様や兄様の手柄のために犯人を捕まえよう! とか意気込んだところで、それがもう迷惑で邪魔にしかならないことは目に見えている。
なぜ物語のヒロインたちは自分の力を過信してヒーローに相談もせず、事件に顔を突っ込むのか。乙女心はときに頭を悪くするらしい。
騎士団には兄様もいるし、セオ様もいる。わたしは黙々とじゃがいもをむくのが一番いい。ようやく在庫不足のじゃがいもも新しく納品されたことだし、意気揚々とナイフを滑らす。
それなのに、こういうときに限ってなぜか、人の頭の上を好奇心を疼かせる噂話が飛び交うのだ。
「王太子殿下がいなくなって一番得をするのは、やっぱり側妃様じゃない?」
「たしかに。男児を生んだところで、すでに王太子が決まってるから、自分の子を王太子にするなら……って思うかも」
同じ下働き仲間たちの会話についつい聞き耳を立ててしまう。
陛下の側妃の方はたしか侯爵家の娘で、絶世の美女と名高く、年はまだ二十をいくつか超えたばかりという話だ。
年若い美女にふらふらっとしてしまった陛下の男心などわかりたくはない。
陛下は側妃様を寵愛していても、公の場では王妃を立てると聞くので、その子供が男児だったところで、王太子の地位は揺るがないだろう。それこそ、死なない限りは。
もうすぐ産まれるらしい赤ちゃんも苦労することになりそうだ。
王侯貴族たちのどろどろとした話は参考書内でたくさん耐性をつけたつもりだったが、身近に起きていると思うと恐怖しかない。わたしみたいな下っ端の下っ端には全然関係ない話でも、関係ないからこそ知らない間に利用されていて口封じされることだって往々にして起こり得るのだ。
「おまえたち! そんな話誰かに聞かれたら今度こそ首が飛ぶぞ」
料理長の叱責に、みんなひゃっと肩を竦めて口を閉ざした。
確証がない以上、どれだけ怪しかろうと、自分の身がかわいいのなら余計な詮索はしないに限る。
真相を暴くのは、そう、兄様やセオ様たちの仕事なのだから。
とてもいい子にしていたわたしは、セオ様を見つけて嬉しくなって駆け寄ろうとした。だがどう見ても、彼は仕事中のわずかな合間に移動しながら手早くパンを囓って食事を済ませているようにしか思えず、そうでなくてもひとりでなかったこともあり、寸前で思い留まった。彼は同僚らしき人と一緒だった。
すぐにUターンしようとしたが、その同僚の一言に足が止まってしまった。
「いい加減レオの妹にちょっかいかけるのはやめてやれよな」
またか、と思いかけたが、彼らの雰囲気は見るからに気安くて、兄が弟を諭すような砕けたその口調からは、彼が本当にセオ様のことを心配しているのだということが伝わって来た。
セオ様は兄様と違ってとっつきやすい振る舞いをしているが、それはいわゆる処世術で、親しくしている人はそれほどいないと勝手に思い込んでいた。だから少しめずらしく思い、つい魔が差して木陰に隠れた。
兄様はどちらかと言えば後輩に慕われるタイプで、セオ様は圧倒的に先輩にかわいがられるタイプだと思う。
友人という感じでもないので、雰囲気的に相手の人は職場の先輩あたりだろうと見当をつけた。
わたしの話でなければもっと穏やかな気持ちで踵を返すことができたのにと思いながら息を殺す。
セオ様がパンをすべて飲み込んでから言った。
「……そういうわけじゃないんですけどね」
「だったら本気なのか? いや、本気なら本気でいいんだけど……」
気遣いを見せる先輩相手に、セオ様は曖昧に笑ってごまかす。わたしは本気と言ってくれなかったことに、少しだけへこむ。
嘘。べっこりへこむ。
「レオはなんて言ってるんだ? 今それどころじゃないのはわかるが、おまえたちを気にかけて職務に専念できないと、あいつも困るだろう」
「カレンは一言、勝手にしろ、とだけ」
「それって、あの珍しく声を荒げてやり合ったときの?」
「そんなこともありましたね」
セオ様はにっこりとする。まったく表情とオーラが一致していない。先輩さえ顔を引きつらせている。よほど大きなケンカだったのだろうか。原因は一体なんなのか。
「なんで揉めたかは知らないけど、あれのせいなのか? あの後すぐにレオの妹に……」
「カレンのものに手を出すのは僕の専売特許ですから」
「あー、一時期そうだったな。レオに寄ってきた女を取っ替え引っ替え」
セオ様はそれを否定しなかった。兄様の取り巻きたちをつまみ食いしていた、ということなのだろうか。過去のことながらできれば知りたくない事実だった。
遅まきながら耳を塞いでみたが、すでに手遅れだったのですぐに下ろした。
その行いは褒められることではないが、兄様は気にもしていないだろうし、きっと女性たちも合意のことだろう。
わかっているが、それでも嫉妬してしまう。
その女性たちにもだが、なんか、兄様に。
セオ様はいつも、いつだって、兄様のことばかり。すべての行動の理由に兄様が絡んでいる。
となるとやはり、わたしとつき合っているのも、なにかしら兄様に関係する理由が根本にあるのかもしれない。
当てつけなんかじゃなく、もっと深い理由が――。
「やだな。人聞きの悪い。お互いちょっと遊んだだけですし、それに最近はしてませんよ」
「ここ数年はな。てっきり好きな人でもできて心を改めたんだと思ってたけど」
「そうですよ」
「え!」
「……叶わない恋、みたいなものですけどね」
セオ様がため息をついたそのとき、わたしは唐突に思い当たった。
こ、これは……これは、まさか。
上級者向け参考書にのみ記されているという、禁断の恋愛。
セオ様がいつも気にしているのは、ほかでもない、兄様だ。
これまでちっとも考えたことがなかったのが不思議なくらい、すとんと腑に落ちてしまった。
セオ様は、兄様のことが、好き……なの?
ふらりとその場にうずくまる。
聞いているのがつらくなってきたが、動けずセオ様たちが通り過ぎるのを待った。
つまりわたしは兄様の代用品、ということ?
そんなことって……あるのだろうか。
そこからどうやって戻ったかわからない。だけどちゃんと仕事をしてまっすぐ帰宅したわたしを自分で褒めてあげたい。
部屋で一旦冷静になって、布団に入った頃には、わたしはセオ様が兄様のことを好きだというのはやっぱり違うのではないかと思いはじめていた。
セオ様は兄様のことを嫌っていると言うが、実力を認めているのは言葉の節々に感じていた。そこに劣等感や諦めみたいなものはあっても、さすがに恋情はなかったように思う。
うまく気持ちを隠しているだけかもしれないけど……セオ様のことを近くで見ていたわたしが見逃すだろうか。
となると、別に好きな人がいると考えるべきなのではないだろうか。
むしろそっちを思いつくべきだったのに、上級者向け参考書の存在のせいで惑わされてしまった。
当たっていることも多いけれども、やはり現実と物語は別物と考えた方がいいのかもしれない。
適当な参考書をめくって、流し読む。そしてわたしはとある一冊を手にしたとき、雷に打たれたような衝撃を受けた。
その物語のヒーローは、幼い少女にしか恋心を抱けないという特殊な性癖を持っていた。
こ、これだ!
よく考えれば気づけたのに。
兄様じゃない。
セオ様の一番そばにいるのは、セオ様が一番そばにいるのは――王女殿下だ。
王女殿下相手ならば、叶わない恋というのが現実味を帯びて来ないだろうか。
まず年齢の問題。そして王女殿下は幼いながらも例にもれず婚約者が決まっている。そして王女殿下の兄である王太子殿下の婚約者がセオ様の妹という関係性。
障害しかない。
まさに、叶わない恋。
つまりわたしはカモフラージュのための恋人ってことで……。
兄様の代用品よりは、まし、だけど……。
兄様の当てつけのためかつ、恋心のカモフラージュという一挙両得を考えていたのなら、あまりにも策士だ。
相手がまだ七歳の子供でも、今さらそんなことでセオ様のことを軽蔑したりはしない。
だけど……本当に?
わたしに思いつく仮説なんて、このくらいしかない。
ない、はず、だけど……。
考えて、なにか掴めそうで、だけど、自分からそのしっぽを掴む手を下ろしてしまった。
気づいてしまったらなにか取り返しがつかないことが起きるような気がしてと、自分自身に言いわけをして。
王女殿下以外にも、そばに女の人がいるのかな……。
セオ様が昔つき合っていた人たちの中に、もしかしたら忘れられない人がいるのかもしれない。
わたしは彼のことを本当になにも知らないのだなと情けなくなる。なにも知ろうとして来なかったことを恥ずかしく思う。
でも、仕方ないじゃないか。
まだ会ったばかりなんだから……。
自分のごちゃついた気持ちをごまかすように、明日またじっくり考えよう、と明日の自分に思考も感情も丸投げして、ばさりと頭から布団をかぶった。
なかなか寝つけなかったのは、言うまでもない。
悶々としていたせいで眠りが浅く、目が覚めたときにはまだ夜更けだった。
なんとなくベッドから降りて、月でも見ようかと薄くカーテンを開け――ひっと息を呑んだ。
窓の外にセオ様が立っていた。
悲鳴をあげそうになった口を手で押さえて、おそるおそる窓を開けると、セオ様がこちらを見て、しまった、と顔を歪ませた。
「あの、ここで……なにを?」
尋ねると、いつものセオ様の顔でにっこりと微笑む。
「会いたくなって、来ちゃった」
セオ様は一瞬のうちに頭を回転させて、今の状況にふさわしい言葉を紡いだ、のだと思う。それに気づけるくらいには、彼のことを知っているのだと単純な心が浮き立つ。
セオ様のことだ。なにか目的があってこのあたりをうろついていたのだろう。
だけど少しくらいは、わたしに会いたくて様子を見に来たと思ってもいいだろうか。だめだろうか……。
またずくんと胸が痛んだ気がして、ごまかすよう口を開いた。
「寮母さんに見つかったら怒られますよ」
ここは男子禁制の敷地内。見つかったらおそらく肉切り包丁を持った寮母さんに追いかけ回される。冗談ではなく。
「大丈夫、見つかる前に逃げるよ。逃げ足は速いから。それより、アリッサの方は……問題はない? 変な男に言い寄られたりだとか、絡まれたりだとか」
「それはないですから。それよりセオ様は大丈夫ですか? 厨房もまだ噂話が飛び交っている状態ですが、よくないことが起きているんですよね……?」
セオ様はめずらしく疲れたような表情を浮かべたが、それもすぐに消してしまった。
そっと触れた手は冷たい。いつからここにいたのだろう。早く温まりますようにと願いながら両手で包む。
「……いずれ解決するよ。うちにはレオナルド・カレンがいるからね」
嫉妬してしまうくらいセオ様は兄様への信頼が厚い。
やっぱり兄様が本命なのではと疑いたくなる。
「セオ様は……」
兄様のことを慕っているのでしょうか? それとも、王女殿下のことが好きなのでしょうか? そう続けられたら、答えがどうであれ、この胸のつっかえは下りる。
だけど代わりに、もっと重たく苦しいものを背負うだろう。
失恋という名の苦悩を。
「僕が、なに?」
「あ、いえ……。なんか、疲れた顔をしているから……心配で。気をつけてくださいね」
月明かりを浴びてやわらかく微笑んだセオ様は、ありがとうと言うと、わたしの頰に少しだけ触れてから、おやすみと名残惜しそうに去っていった。
わたしがためらって、おやすみなさい、と返す前に、その姿は視界からも消えていた。
就寝の挨拶をしていいのか、わからなかった。
寝ている暇などないだろうと、わかっていたから。
寮生活初日に肉切り包丁を持った寮母さんに追いかけ回される男を目撃したアリッサ
都会ではそれが普通の対応だと思っている
その後侵入者がどうなかったかは誰も知らない