沈黙の終わり。
「爪、きれいですね」
「ありがとう。あなたは…きれいとは言えませんね」
「ハイ、はっきり言ってくれてうれしいです」
「もしかして、かんでるの?」
「よくわかりましたね」
「ええ…そういう人は多いですからね」
「確かに、そうでしょうね」
「それに関しては、コンプレックスを感じる?」
夫人は、私の目を見ていった。目じりの皺が印象に残っている。いや、それよりも、口元の皺が…
私の、とある大学の講義に参加するには、ある本を読まなければならない。
その本にはこう書いてる。”メディアはうそをついている。データを見れば明らかなことだ。みんなの誤解を解こう”
この本は、とても面白い。だが一つ欠点がある。確かに、問題提起、つまりは、メディアの嘘について書かれている。それを証明するデータも書いある。とてもためになり、いいことだと思う。だが、その情報を知らず、メディアに踊らされている人を小馬鹿にしているのだ。それは、この本を読む前の自分でもあるし、彼も含まれるだろう。
いや、彼はそんなこと考えていない。考えていてほしくない。地球温暖化対策、マイクロプラスチック問題、貧富の差、紛争。そんな人類の恥たるものに興味を示してほしくない。彼は、人間だが、そんなことを気にするような人種ではないのだ。
その本のことで頭をいっぱいにさせながら、食堂に行く。今日は金がある。友人がパチンコで勝った金だ。
友人曰く、「勝ったときは次に勝つように、願掛けとしてパチンコについていった人たちに勝ち分の約半分を譲るんだ」と。科学的根拠も全くないが、そうらしい。隣人愛ってやつだろう。
まあ、でも無料で金が入るのはうれしいから、有難くいただき、有難く使わせてもらう。
そんなこんなで、私は、食堂のレジ横にあるチョコレートを手に取り、130円を支払い、席に着く。
そうすると、また別の彼が声をかけてきた。
「食堂でチョコだけ買うやつ初めて見たわ」
「甘いものにしか興味ないからな」
「でも、コーヒーよく飲んでるの見かけるぞ」
「それはまた別」
そして彼は、人差し指と、中指をくっつけながら、薄い唇に当てて、こう言う。
「行く?」
そうすると私は
「いいよ」
という。
彼の名前はまだ知らない。いや、聞いたが覚えていない。
私は、彼の観客だからだ。
だがここで、悲劇が起こった。彼は、マスクを外しため息をついた。
そのため息の香りの中に、先ほど食べたであろう、牛丼の香りが漂う。だがそれだけじゃない。人間のにおいがした。
私はがっかりした。
もうそんな時期かと。
そうすると、女の子が彼に立ち寄り、
「健太郎君」「教科書借りていい?」
あぁ、ついにこの時が来た。
「健太郎、先行っとるぞ」
私は、そのまま喫煙所へ向かう。
私はもう観客じゃない。
ショーは終わったのだ。
彼の、笑った時の唇が好きだった。ほんの数ミリしかない、あの唇が。
だがもう、それを見つめることはできない。
私は、煙に包まれながらただひたすらに後悔した。




