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斎木icラボ

かくれんぼ奇譚

作者: 斎木伯彦

「もう、いいかい?」

「まあだだよ」

 子供たちの遊ぶ声が聞こえた気がして、留吉(とめきち)は目を覚ました。しかし、眼前に広がるのは油皿に灯した炎に照らされた、仄暗い岩肌だけだ。

「夢か……」

 薄暗い中、毛布一つで寝転がるのには、もう慣れてしまっていた。留吉がこの洞窟に隠れてから数週間が経過している。鬼畜とまで言われた戦争相手の猛攻の前に、同胞たちは為す術なく散華し、命からがらの思いで逃げた彼は、森の中で偶然にもこの洞窟に落っこちたのだ。

 最初こそ恐怖感が強かったが、灯りや毛布、食料に至るまでを調達できるようになってからは、居住性を意識して内部を整えて来た。密林の奥の洞窟の中に潜んで敵軍をやり過ごし、どうにかして本隊と合流しなければならない。

 祖国から遠く離れた南の島を脱出して、家族の待つ故郷へ必ず帰ると誓って、留吉は頑張って来たのだ。

「うらぁ、子供ん時から、かくれんぼだけは得意やったでの」

 子供時代を思い返すと、兄姉たちの顔も思い浮かぶ。留吉には兄三人と姉が二人いた。六人兄弟ぐらいは珍しくもない時代、むしろ政府の産めよ増やせよとは逆に、両親は六人兄弟で止めてしまったのだ。

 長兄が一郎、長姉が二三子、次兄が六郎で次姉はなな、すぐ上に八郎がいて留吉は末っ子だった。両親に言わせると、四(死)と九郎(苦労)のない家族にしたかったそうだ。

 長兄や長姉とは年齢が離れていたこともあって遊んだ記憶はないが、とても優しい兄姉だったのは憶えている。よく遊んだのはなな姉さんと八郎兄さんだった。

 鬼ごっこや独楽回しでは勝てなかったが、かくれんぼでは誰にも負けたことがない。田舎の農家には納屋があり、その中には農具が片付けられていた。農具と農具の隙間に小さな身体を押し込むと、誰も見つけられなかったぐらいだ。酷い時には隠れたまま寝てしまい、兄姉たちも見つけられないまま日が暮れ、血相を変えた両親が村中を探し回ったこともあった。

「あん頃ぁ、こっぴどく怒られたのぅ」

 兄姉と揃って親父の拳骨で殴られたのも、今となっては良い思い出だ。

「今も、探してるんやろか?」

 部隊からはぐれ、孤独に耐えながらの生活を送る心の支えは、故郷で待っているはずの家族たちだ。もしかしたら戦死報告が届いてしまったかもしれない。それでも、必ず生きて帰ると留吉は心を奮い立たせた。

「さて、食べ物っぺ取りに行こかの」

 鉄兜を被り、小銃を手元に引き寄せると彼は洞窟の入り口に向けて移動する。洞窟の入り口は幾度目かの調達で入手した(むしろ)を吊り下げ、洞窟の奥が見えないように遮蔽していた。それを越えると地面には窪みがあり、そこを水が流れている。彼は上流側を生活用水の取水口とし、下流側を排泄物を流す便所として活用していた。その横の壁に、天井に向けて縄梯子を吊るしている。農家の仕事の一つに稲藁で縄をなうこともあって、彼は密林で入手した丈夫な蔦を用いて縄梯子を編んだのだ。

 縄梯子を登って、まずは頭だけをソッと外に出す。慎重に周囲の様子を窺ってから、危険がないのを確認すると、下生えの中へと這うようにして入り込んだ。目線の高さにある草木を傷つけると居場所が判明してしまう恐れがあるので、彼は出入り口付近は匍匐前進、やや離れた位置からは中腰で移動する。やがて、大きな野営地を見下ろす位置に到着した。

 大柄な男性たちが迷彩服に身を包み、周囲を警戒している。しかしどのような警戒網でも穴はあるもので、食堂裏手の残飯捨て場は警戒らしい警戒はされていなかった。留吉は密林の中で食料調達しているが、一週間に一度の頻度で野営地の残飯漁りも行っている。夕闇が迫り、周囲が暗くなれば好機到来だ。

 留吉は逸る気持ちを抑えながら、忍び足で兵舎裏に接近する。ここから食堂裏手までは目と鼻の先だが、一方で最も敵兵と遭遇し易い地点でもあった。

「慌てたらあかんのやって、落ち着いてやらなの」

 敵の陣地は盛土がされていて、そこを乗り越えなければならない。しかし逆に盛土に近づいて伏せていれば、暗闇に紛れて敵兵をやり過ごすこともできた。味方は最初の猛攻でほとんどが玉砕していたので、留吉のような残存者がいるとは考えられていないのだろう。警戒網が緩いのは何度も訪れている間に判明していた。

「もうちょびっとやの」

 歩哨が兵舎裏を通過すると、小一時間ぐらいは戻って来ない。残飯処理の若い軍属と何事か会話して、敵兵は去って行った。ここで我慢できずに飛び出すと、思わぬ遭遇も有り得るので、留吉は息を殺して好機を窺う。

「ほんなら、そろそろ……」

 留吉が腰を浮かそうとした刹那、遠くが明るくなった。続けて爆発音が響く。反射的に身を伏せた彼にも、敵陣地の慌てぶりが伝わって来た。

「まさか、御味方の生き残りが……?」

 いろいろな可能性を思い付くが、留吉は玉砕よりも生き残る方法を選択した。

「ただの事故かもしれんのに、後先考えんようでは、単なる犬死にや」

 慌ただしく駆け出して行く敵兵を見送って、留吉はこれまで通りに残飯を漁り、めぼしい品々を背負い袋に詰めて遁走に移る。盛土の斜面を駆け下りて、密林の茂みに飛び込んでしまえば追っ手も来ない。問題は先程の爆発音の影響で大型の投光器が野営地周辺を順次照らし出していることだ。留吉は侵入前と同様に盛土の斜面に身を伏せる。

「どうか見つからんように」

 心の中で阿弥陀如来に懇願した。彼の周囲が明るくなる。投光器の光だ。ゆっくりと光の帯が通り過ぎ、留吉はホッと一息ついた。だが茂みに隠れるまでは安心できない。彼は周囲に聞き耳を立てた。遠くから銃撃戦の音が聞こえて来る。やはり御味方が無理な攻勢を掛けたのだろう。それを陽動作戦と考えた敵兵が、反対側の留吉がいる方向から奇襲攻撃がないか警戒しているのだ。再び光の帯が彼の周囲を照らした。

「なんまんだぶ、なんまんだぶ」

 生きた心地さえしない。永遠とも感じた時間も、ほんの数秒間だった。光の帯は彼の隠れていた場所を通過して、別の場所を照らしている。留吉は中腰で背負い袋を担ぎ上げると、前屈みの姿勢のまま茂みへ一直線に駆け出した。彼が茂みに隠れたのと、投光器がその茂みを照らしたのは、ほぼ同時だ。光の帯は何事もなかったかのように移動して行く。間一髪で彼は見つからずに済んだようだ。

「危なかった」

 銃撃戦の音は当初よりも散発的になっている。どうやら無謀な突撃は鎮圧されたようだ。留吉は長居は無用と自らの隠れ家へと急いだ。


 三日後、留吉は息を殺して洞窟に潜んでいた。あの夜の翌朝から山狩りが始められ、いよいよ彼の隠れ家近くにも敵兵の小隊が進んで来たのだ。

 洞窟の入り口は自然に開いた穴だが、縄梯子が見つかっては元も子もない。彼は岩肌のように見える莚だけを残して、他の人造物は洞窟の奥に片付けていた。更に毛布と莚で身を包み、岩壁と一体化したようにしていれば見逃されるだろうと開き直ってもいる。

 洞窟の入り口から敵兵の声が響いて来た。何を言っているのか理解はできなかったが、入って来る気配はない。

「早う、通り過ぎてんでま」

 恐怖で身体が震えそうになるが彼は必死で耐えた。やがて洞窟の中に金属製の何かが落下して来た音が響く。それが何か理解する間もなく、洞窟の中を爆風が舞い狂った。

「もういいかい?」

「まあだだよ」

 頭の中で声が響く。留吉は薄らと目を開いた。周囲は暗い。恐る恐る右手を動かして、左腕を触った。右手の感覚はあるし、左腕もある。ジンジンと左足が痺れたような感覚が徐々に襲って来るので、今度は左腕を伸ばした。腰から下、左足の太股もある。膝下へ腕を伸ばしたが、そこには石が積み上げられているようだった。

「埋まってもたんか」

 あの爆風は手榴弾によるものだろうと留吉は推測していた。ろくに調べもせず、手当たり次第に洞窟へ手榴弾を投げ込んでいるのだとすれば、それはそれで腹も立つ。留吉は部隊長から兵器の一つ一つ、弾薬に至るまでが臣民の血と汗の結晶であり、百発百中を期して無駄遣いのないよう徹底されて来たからだ。

「ほやけど、ほんだけの差があるんやろな」

 物資を切り詰めて戦う帝國軍と、圧倒的な物量で押し込んで来る敵兵とでは、戦う前から勝敗が決しているとも言えた。

「あかんあかん。栄えある帝國軍人である自分が、ほんな弱気やあかん」

 埋まっていた左足を何とか土砂から抜き出して、足先、指まで五体満足であるのを確認して、ホッとする。戦場では怪我が日常茶飯事で、大きな負傷では軍医が手足の切断を行う場合もあった。傷痍軍人は手厚く保護され、名誉の負傷として尊敬の眼差しを浴びる。しかし留吉はそのような名誉や金銭よりも、我が身の無事を最優先していた。

「身体さえ無事なら、いつまでも御国の為に働ける」

 負傷して軍事保護院で余生を送るよりも、彼は健康体のまま働くことを望んでいる。それは同世代の中でも極めて異質な考え方で、ある意味では危険思想とも捉えられていた。

「身体髪膚、父母より享く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」

 尋常小学校で必ず習う一文を諳誦しながら、彼は洞窟内の様相を観察する。まず、入り口が大きな穴となって満天の星空が見渡せるようになっていた。こうなっては隠れ家としては全く機能しない。集めた道具類も彼が抱えていた背負い袋の中身以外は崩れた土砂に埋まって、使い物にならなくなっていた。彼の手元に残されたのは、背負い袋と毛布一枚、小銃一挺のみになってしまった。その大きく開いた出入り口とは対照的に、彼の周辺は崩れた土砂で埋まっている。

「天皇陛下はうらら帝國臣民の父親も同然なんやっての。その陛下の為にも、この身体は傷一つのう過ごすのが何よりの孝行なんや」

 背負い袋から小型のスコップを取り外し、慎重に崩れた土砂を掻き分けた。夜の密林を移動するのは危険だが、ここに残るのはもっと危険だ。留吉は背負い袋を担ぎ上げると、世話になった隠れ家を後にした。

「ほやけど、派手なことをしたもんやな」

 あちこちに大穴が開いているのは、敵兵が手当たり次第に穴という穴へ手榴弾を放り込んだのが原因だろう。よくぞ命があったものだと、今更ながらに身震いする。小銃を左肩に掛け、スコップで前方の蜘蛛の巣を払うように振りながら足を進めた。山頂に向かっても却って身を隠す場所がないと考えて、敵陣地とは反対側の浜に向かう。道なき道を掻き分けて進むと、密林の中には似つかわしくない小屋が見えて来た。

「何やあれは、さても面妖な」

 留吉は立ち止まると、背負い袋を下ろしてスコップを所定の位置に戻す。それから背負い袋を担ぎ直して、小銃を手にした。有坂ライフルこと三十年式歩兵銃の改良発展型の、三八式歩兵銃である。日露戦争を帝國の勝利に導いた有坂ライフルを、より簡素化、洗練した三八式歩兵銃は、整備性と信頼性から開発より四十年近くも現役で働いて来た名品である。その銃身へ三十年式銃剣を着剣した。黒ずんだその細長い刀身はゴボウを連想させた為、帝國軍人はゴボウ剣とも呼んでいたが、銃も銃剣も陛下からお借りした大事な品物であるので、留吉は敬意を籠めて制式名を使っている。

「よし」

 銃剣の固定具合を素振りで確認すると、彼は怪しげな小屋に近付いた。右手に小銃を抱え、左手で扉を開く。そうしながら身体は壁に隠れるようにして中からの攻撃に備えた。しかし、予想していたような反撃はない。留吉は前屈みになると中腰で家の中に突入した。

「そないに身構えんでもよろしおすえ」

 流暢な日本語でそう呼び掛けられ、彼は驚いて声の主を探す。家の中は洋風だが、一人の女性が椅子に腰掛けていた。女性は緋色の和服を着用して、手には扇子を持っている。

「これは失礼しました」

 銃剣を下げ、彼は敬礼した。真の帝國軍人は婦女子には優しいのだ。

「兵隊はん、お困りのようでしたさかい、うちで休んでお行きやす」

 女性は細面の美人で、その所作は流れるようで卓上に出された湯飲みからは緑茶の良い香りが漂って来る。留吉はおかしいと思いつつも、目の前に用意されたお茶を無碍にもできない。据え膳食わぬは帝國軍人の恥とばかりに、彼は湯飲みを掴んだ。

「それでは、有り難く頂戴致します」

 普段は出身地方の訛りが出る彼も、他人と話す時はなるべく標準語を使うよう心懸けていた。夜風に冷やされた身体に染み入る、程良い熱さの緑茶は彼の身も心も解して行く。

「美味い、このような上等なお茶は内地で飲んで以来だ」

「お口に合うたようで、嬉しおす」

 扇子で口元を隠して微笑む彼女に、留吉は心が奪われそうになった。

「お食事も如何(いかが)どすやろか?」

「馳走になりましょう」

 留吉は銃剣を近くの壁に立て掛けると、その脇へ背負い袋を下ろす。鉄兜を脱いで背負い袋の上に置いた。すると女性は部屋の隅から椅子を持ち出して、卓の方へと誘う。

「こちらでお待ちしとくれやす」

「はい」

 フワリと漂う香に彼は赤面した。田舎では嗅いだこともない香で、また卓を挟んで見るよりも間近で目の当たりにした彼女の美しさはこの世の者とは思えないほどだったのだ。彼女は奥へ姿を消す。留吉は椅子に腰掛けてボンヤリと室内を眺めていた。どこにでもありそうで、それでいて一種独特の雰囲気を漂わせる室内は、ここが外地なのか内地なのか分からなくさせる。

「お待ち遠様どした」

 彼女はお膳を持って戻って来た。その膳が彼の前に差し出される。

「これは、美味そうだ」

 白米に、薄揚げの入った味噌汁。里芋と厚揚げの煮浸しに、キュウリとワカメの酢の物、キンピラゴボウと懐かしの内地の献立だ。

「どうぞ、たんとおあがりやす」

「いただきます」

 留吉は合掌してから箸を持った。まずは味噌汁から口をつける。出汁の効いた白味噌仕立ては優しい甘さと共に彼の胃袋を優しく温めた。

「これや、これこそ内地の味や」

 感激して食べ進める。もうここがどこかなのかは些末な問題でしかない。どうせ敵兵に捕まれば命はないのだ。ならば今生の最期に美味い御飯を食べるぐらいの贅沢は敵ではなく、素敵だ。一心不乱に彼は食事を味わった。

「本当に馳走になった。ご婦人、感謝致します」

「ええんどす、うちは昔、あんさんに助けてもろた恩がありますさかい」

 留吉が感謝の言葉を述べると、女性はニッコリと微笑んだ。しかし彼の記憶の中に、彼女のような女性は全く情報がない。訝る彼に、彼女は事情を説明し始める。

「そうどすな、鶴の恩返しは知っておすえ?」

「ああ、尋常小学校で国語の時間に習ったな」

「それでしたら、話は早うおますえ」

 留吉は何が早いのか全く見当も付かなかった。

「うちは伏見の出身どす。あんさんが小さい頃、助けてくれた狐どす」

「は?」

 留吉は瞬時、思考回路が停止する。言われた言葉の意味が理解できなかった。助けた狐、彼が記憶を掘り起こすと確かに幼い頃、京の街中でグッタリしていた狐を助けたような記憶が微かにあった。

「あの時の?」

「そうどす。あんさんに助けてもろた恩を、今返さへんかったら、いつ返そうか思て」

 そう言って微笑んだ彼女の頬は薄らと紅を差したようになっている。

「そうか、それで鶴の恩返しか」

「ええ、好きなだけゆるりとしていっておくれやす。お食事も済みましたさかい、お風呂は如何どすえ?」

「風呂か、ここ暫く入ってないな。手拭いで身体を拭くだけでは、どもならん。喜んで頂戴しよう」

「でしたら、こちらどす」

 彼女に案内されて部屋を出ると、長い廊下を渡って離れに行き着いた。

「さあ、どうぞ」

 促されて室内に入ると、確かに浴室だった。彼女は建物の裏手に回る。火加減を見るのだろうと解釈して、留吉は軍服を脱いで、あっという間に全裸になった。

「風呂だ」

 嬉しさの余り、童心に返ったかのようにはしゃいでしまう。湯桶にたっぷりとお湯を汲むと、頭から勢いよく被った。

「気持ちいい」

 洞窟に隠れていた頃は沸かしたお湯に手拭いを浸して、それで身体を拭くだけだったから、まさに湯水のように使えるお湯に彼は夢中で身体を洗う。石鹸も使って洗い終えると、後は湯船に身を委ねるだけだ。

「ああ、生き返る心地だ」

 湯加減は申し分なく、留吉の身体を芯から温めてくれる。

「助けた狐に助けられるとはな」

 情けは人の為にならず、積善には福が戻って来ると留吉は実感していた。しんと静まり返った風呂場の中で、彼は今後を考える。これまで潜んでいた洞窟は敵兵の無差別攻撃で破壊され、身を隠す場所を失ってしまった。海岸へ出ても恐らくは身を隠す場所もないだろう。ならばいっそのこと敵陣へ突撃して華々しく玉砕し、靖國神社で護国の鬼となるのも一つの選択肢だった。

「生きて虜囚の辱めを受けず」

 部隊で散々に聞かされた話だ。捕虜となった者は生爪を剥がされ、或いは指先を切り刻まれ、目玉をくり抜かれる。誇張された部分もあるだろうが、支那戦線から転属して来た戦友の中には、誇張ではなく控え目の表現だと言う者もいた。戦友は多くを語らなかったが、とりわけ悲惨なのは女性で、だからこそこの南方の前線で敵を食い止めるのが祖国の、故郷の村で帰りを待つ家族や恋人を守れるのだと強調していた。戦争は人を変えてしまう。普段ならばできないような残虐行為も、戦時の興奮状態ならばできてしまうのかもしれない。留吉にしても普段は虫すら殺すのに躊躇するが、自らの命や家族の命が掛かっている時は、迷うことなく引き金を引くか、銃剣で刺し貫くだろう。否、そうして来たのだ。

「それが日本男児の覚悟やっての」

 弱きを扶け、強きを挫くのが帝國臣民の心意気であり、欧米諸国の植民地として蹂躙されている亜細亜の同胞たちを解放するのが聖戦の目的だったはずだ。その為だったら玉砕も辞さない覚悟と、崇高な使命があると信じていた。

「無敵を誇った皇軍も、食糧がなければあっけないものよ」

 南方の戦線では陸軍の上陸作戦が成功したものの、その後の補給が続かず敗退が続き、大本営は転進などと説明して実態を隠蔽している。

 後に『ジャワの極楽、ビルマの地獄、生きては帰れぬニューギニア』と評されたのが南方戦線の実態だった。

 その南方戦線に留吉はいる。帰還の望みは薄いが、それでも最期の瞬間まで帝國軍人として恥ない気概を示そうと決めて立ち上がった。

「お召し物をお持ちました」

 まるで待ち構えていたように外から声が掛かる。留吉はギョッとしたが、相手が狐なのだからこれが普通と強引に自らに言い聞かせた。

「何から何まで世話になり、本当に有り難い」

 一糸纏わぬ姿も意に介さず、留吉は風呂から上がって浴布(タオル)を受け取る。水気を拭き取って着替えに目をやると、白地に絣模様の入った浴衣が用意されていた。

「こちらは洗濯しますよって」

 汚れた軍服は既にタライの中で水に沈んでいる。彼は褌を締めて、浴衣に袖を通した。

「お食事もお風呂も済ませましたさかい、お次は寝るだけどすなあ」

「そうだな」

 浴衣の帯を結びながら女性が声を掛けると、留吉は歯切れの悪い返事をする。

「どないどす、添い寝しますえ?」

「そ、添い寝?」

 驚いて赤面した留吉に対して、彼女はクスクスと笑っていた。

「そない驚かんでもよろしおす。うちは狐やさかい。それとも、戦場で溜まってはりますのん?」

「ば、ばばば馬鹿を申すな」

 図星を指されて留吉は慌ててしまう。しかしそのような態度も織り込み済みなのか、彼女はニッコリと微笑んだ。

「あんじょうしてくれたら、よろしおす」

「お、おう」

 風呂場を出て、彼女の案内で母屋の一室までやって来る。

「こちらどす」

 彼女は膝を廊下について、両手で障子を開いた。留吉は促されるままに部屋へ入る。続けて彼女も入室し、静かに障子を閉めた。部屋の中央には布団が一組あるだけだ。

「どうぞ、ゆるりとお休みよし」

「気の毒なことだ。言葉に甘えさせてもらう」

 留吉は腹を括ると布団の中へ滑り込んだ。何カ月ぶりか忘れるぐらい久方ぶりに布団で眠れる幸せを噛みしめる。彼の意識はすぐに途切れた。

 それから数日間、留吉は穏やかな日々を過ごしていた。

遙子(ようこ)殿」

 彼を助けてくれた狐に、そう名付けている。名がないと呼び難いのが理由だ。彼に呼ばれて、女性が顔を出す。

「何用ですやろ、お前様」

「小銃の手入れがしたい、軍服を持って来てくれ」

「直ちに」

 留吉は押し入れから小銃と、背負い袋を持ち出した。手入れ道具を用意している間に、遙子が軍服を持って来る。

「何に使うんどす?」

「小銃の手入れは服を汚す恐れがある。それに軍服を着ることで気合が入る」

「そうどしたか、くれぐれも変な気だけは起こさんよう気ぃつけておくれやっしゃ」

 遙子は見る者がゾッとするような笑みを浮かべて退出して行った。留吉は背筋が凍るような思いで寝間着を脱ぐと、気持ちを切り替えようと軍服を着用する。

 小銃の手入れそのものは本当のことだ。この先、彼が目的を達成するには小銃は欠かせない。彼の目的は、この屋敷を脱出し、遙子の手から逃れることだ。

 遙子はこの屋敷で共に生活しようと提案して来た。しかしその実態は留吉に外出を許さない監禁状態に等しく、彼は一生をこの屋敷で終えるよう強要されていた。

 もし逆らって拒否すれば、先日まで潜んでいた密林の中に放り出されてしまう。承諾も地獄、拒否も地獄の板挟みと思えたのだが、偶然にも遙子が出入りしている勝手口が別の場所に繋がっている可能性を見た。勝手口の向こうに広がる景色は、内地を思わせる。既に里心がついてしまった彼に、戦場への放逐は死を意味した。かと言ってこの屋敷で遙子の相手をして一生を過ごすのも死んだも同然と言えよう。

 それならば、一か八かの大勝負を挑んでも良かろうと彼は決心する。遙子の目を盗んで勝手口から外の世界へ脱出するのだ。その大勝負には小銃と軍服が必要だった。脱出した先で丸腰は心許ないし、軍服を着用せずに小銃を手にしているのも不審者扱いされる可能性が高い。万難を排して、彼は決行予定を今夜と定めていた。

 小銃の手入れが終わり、銃剣を着剣する。背負い袋には必需品が納められており、留吉はそれらを鉄兜と共に押し入れへと片付けた。

「お前様、食事の用意ができましたえ」

「分かった、すぐに行く」

 呼びに来た遙子に返事をして、彼は怪しまれないように普段通りの振る舞いを心懸ける。

「今日は魚が手に入りましたよって」

「おお、刺身とは豪勢だな」

「お酒も如何どす?」

 卓上には刺身の他、油揚げと白菜の味噌汁、胡瓜の糠漬け、大根なますなどが並んでいた。

「酒は遠慮しておこう、この後も装備品の手入れをしたいからな」

「ほなら、うちも遠慮します」

 他愛のない話をして、二人は朗らかに食事を済ませる。遙子は食器を片づけて、洗い場へ向かった。留吉は部屋に戻り、今夜の行動計画を再確認する。

 軍服を奪われないよう、寝間着に着替えて押し入れの中に隠した。それから、風呂場に向かう。洗い物を済ませた遙子は微笑みながら風呂場へついて来た。

「お前様、背中を流しまひょ」

「ああ、頼む」

 これもここ数日間でごく当たり前となった流れだ。身体を洗い流すと、湯船に浸かる。遙子は火加減の調節に外へ向かった。言葉を交わす必要もほとんどない。変わり映えのない日常を繰り返すのみでは、話すことも億劫になってしまう。

 風呂から上がった留吉は、そそくさと部屋へ向かった。押し入れから軍服を出すと、寝間着の懐に隠して寝室に向かう。寝間着を一旦脱いで軍服を着用すると、その上に寝間着を重ね着した。灯りはそのままに布団の中へ潜り込む。

「お前様」

 遙子が障子越しに声を掛けて来た。彼は狸寝入りを決め込む。

「もうお休みにならはりましたんえ?」

 遙子が障子を開けて、彼の様子を窺っているようだった。息の詰まるような時間が過ぎて、遙子は彼が眠っていると判断したのか、障子を閉じて去る。寝床の中で彼女が戻って来ないかしばらく様子を窺ってから、留吉は静かに起き上がった。寝間着を脱いで軍服姿に戻る。

「ここからは、慎重な行動を要する」

 彼の見立てでは好機は一度きり。今回を失敗すれば二度と彼女は彼から目を離さないだろう。留吉は静かに障子を開けると、辺りに誰もいないことを確認して廊下へ出た。抜き足差し足、音を立てないように気を付けながら装備品を隠した部屋に向かう。廊下を曲がると寝室の前に遙子が戻って来た。予定よりも早く彼女が戻って来てしまったので、彼は急いで部屋に向かう。焦りつつもなるべく音を出さないように気を付けて、装備品を隠した押し入れに辿り着いた。

「一度、やり過ごそう」

 押し入れの中に入り、背負い袋を担いで、鉄兜を被る。軍靴を履くと、右手に小銃を持って部屋の中の様子を窺った。まだ変化はない。ややあってから、部屋の襖が勢いよく開かれる。

「お前様、どこどすえ?」

 彼女は明らかに普段とは違った。鼻息も荒く、興奮状態のようだ。

「かくれんぼどすか?」

 ズカズカと室内に入って来るが、彼の隠れている押し入れには見向きもせず、部屋を素通りして行ってしまった。これぞ千載一遇の好機と、留吉は押し入れから出ると、彼女と入れ違いになるように台所へ向かう。勝手口は台所にあるのだ。

「もうすぐだ」

「お前様、見ぃつけた」

 勝手口の直前で背後から声が掛かる。振り向かないでも分かるが、遙子だ。

「どこへお越しどすえ?」

「廁に」

 咄嗟に出た嘘とは言え、あまりにも無様な嘘だった。

「お前様、廁はこちらではありまへんえ」

「そうだったかな?」

 ジリジリと迫る彼女に、留吉は冷や汗が流れる。捕まったら最後、このまま一生、この屋敷に囚われの身だ。小銃を腰に構えると、彼は小さく気合いを入れた。

「遙子、世話になった。それは本当に感謝している」

「お前様、それどしたら」

「だがな、人は、男は……、自由に生きたいんだよ!」

 彼は一気に引き金を引く。パンッと乾いた音が響いて、遙子の右肩から血が噴き出た。

「え?」

「許せ」

 ガクッとその場に膝をついた彼女を置いて、留吉は勝手口の扉を開く。

「さらばだ」

「お前様!」

 呼び止める声を振り切って、彼は無我夢中で走った。どこをどう走ったのかさえも記憶にない。ただ気が付いた時には夜が明け、彼は幾つもの赤い鳥居が並ぶ参道脇に腰掛けていた。

「あら、兵隊はん、こないなとこで何してはりますの?」

 若い女性に声を掛けられて、彼は身体をびくつかせる。しかし若い女性は遙子ではない。

「ここは?」

「けったいな兵隊はんやな、ここは伏見稲荷どすえ」

「内地か? 内地なのか?」

「へえ?」

 留吉はまさに、狐につままれたような気分だった。つい数日前までは南方戦線で生きるか死ぬかの瀬戸際にいた。それが狐に助けられ、今は伏見稲荷にいるという。夢ならば覚めないで欲しいとも思った。

「境内から出るには、どちらへ向かえばよろしいだろうか?」

「そちらどすえ」

 女性の指し示した方向へ、彼はふらつく足取りで進む。京都なら、伏見なら、彼の叔母の家が近くにあったはずだから。


「こうしてワシは、九死に一生を得たんじゃ」

「そうですか」

 三八式歩兵銃のモデルガンを手にした老人は自らの半生を熱く語っていた。聞き役に徹しているのは施設でも美人と評判の女性だ。細面の彼女は頷いて聞いている。

「戦争は大変ですね」

「ああ、しかしな、戦争を生き延び、震災を生き延び、どうにか子や孫たちに財産を残すことができたが、それでもあの時の狐には申し訳ないことをしたと後悔しきりじゃよ」

 留吉は故郷に帰ったが、実家は空襲で焼かれて家族は掘っ立て小屋のような粗末な家で暮らしていた。ようやく生活の再建が目前に訪れた頃、今度は大地震に見舞われる。地獄絵図とは戦場だけではなかったと彼は痛感した。ラジオで応援を呼び掛けた大学生は『死ぬ気で来い』と呼び掛けたほどの惨状だ。その震災を歯を食い縛って生き抜き、彼は小さいながらも会社を興して昼夜を問わず働いた。

「そうして財産を残したワシを、今ではこのようなところに押し込める。これなら狐の屋敷がなんぼかましじゃて」

「お爺さん、それは言い過ぎじゃありませんか? だって、そのお屋敷から逃げて来たのでしょう?」

「ああ、彼女に見つからんよう隠れて生きて来たつもりじゃが、もう長くはない。誰かに話してしまいたかったのじゃよ」

 三八式歩兵銃を手にするまでは忘れていた話だ。今頃になって思い出したのは何故なのか。


『モ ウ イ イ カ イ?』


 突如、留吉の頭の中に声が響く。目の前の女性は微笑んでいるが、何を言っているのか聞こえない。

「もう一回?」

「まだじゃ、まだじゃ」

 彼自身も何を言っているのか理解できなかった。取り乱した彼を施設の職員が押さえて、寝台に寝かしつける。

「暴れないで下さい。お身体に障りますから」

「いやじゃ、いやじゃ」

 何か恐ろしいものが近付いていると彼の直感が告げていた。


『モ ウ イ イ カ イ?』


 脳裡に遙子の歪んだ笑みが鮮明に浮かび上がる。彼は気を失っていた。

 夜半、施設職員も減り、入居者も寝静まった頃、留吉は目を覚ます。まるでそのタイミングを計っていたかのように、彼の個室の扉が開いた。声も出せないまま彼は誰が入って来るのかと目を凝らす。

「お前様、見ぃつけた」

 あの時と同じように言われて、彼の全身が怖気立った。

「もう今度は逃がしまへん、もうよろしおすやろ?」

 首を横に振るが、有無を言わさぬ迫力が彼を襲う。


『モ ウ イ イ カ イ?』


>『マアダダヨ』

 『モウイイヨ』


 ピッ。


『モ ウ イ イ カ イ?』


>『マアダダヨ』

 『モウイイヨ』


 ピッ。


『モ ウ イ イ カ イ?』


>『モウイイヨ』

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― 新着の感想 ―
[良い点] 遅まきながら『小説を読もう!』で検索して、今年の夏ホラー企画を片っ端から読んでおります。 皆さん、どうしてもテーマ『かくれんぼ』から没個性がひしめくのは仕方ないとして、気概が足りない作品が…
[良い点] 濃厚でした! 美味しゅうございました、という感想は変でしょうか。 とても面白かったです!
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