1.入り口は語りかける
合成樹脂のトランクを立てかけ、朽ちた円筒の上部が開く。枯れ草が敷き詰められたそこから無精ひげを生やした男が起き上がると欠伸をし、円筒から体を出す。そこは海から少し離れた山の中腹であり、機械の存在した文明を思わせる物体が顔をのぞかせる洞穴であり、男はそこを生活拠点としている。それがなぜ存在しているのかは男にもわからない。
そもそも男は自分のことについてあまり覚えておらず、そのためどこに帰ればいいかもわからない。手掛かりといえばトランクに入っているカメラの写真だけである。写真には活気ある町とあどけない男の子が写っているが、それが何なのかは依然としてはっきりしていない。
男はいつものように手槍とナイフを携えて洞穴を出ると野山へ狩りに出掛ける。野草を見つけては検分してから採取し、動物の痕跡を見つけては獲物の目測を立てる。広い獣道を見つけた男はナイフを懐にしまい、手槍を準備した。脇道に隠れて暫くすると遠くから速く走る四つ足の影が近づく。タイミングを見て手槍を突き出す。快調に走っていた影―猪の首辺りをそれは捉え、傷を負わせることは出来た。猪はすぐに反撃に出ようとするが、男は手槍で上手くそれをさばきながらダメージを与えていき、数十もの攻撃の末に猪を仕留めた。数年も山で闘った男にとってこの程度の獲物なら造作もない。が、そんな彼にもまだ勝てていない例外はいる。
腰を深く下ろして慎重に進んでいくと、やがて開けた場所に出た。見える範囲には大きな熊が一匹、うつ伏せであたりを警戒していた。その熊は男にとっては因縁の相手であり、それと戦って仕留めたことはおろか撃退すらままならなかった相手である。手槍を取り出し握りしめると茂みに身を潜めて様子を伺う。相手が離れる隙を見て動く算段であったが、運悪く見つかってしまったため、男も両手に持った手槍を熊の左脇あたりに向け、自身の左足を下げて半身に構えた。熊の方も男が構えるのを見て体半分ほど間合いを開け、前足を付く。それからはお互いに一撃ずつ様子を見つつ、時々突っ込んでは膠着して元の間合いに戻るといった読み合いが続いた。
遂に熊が大胆な行動に出る。手近の樹木に飛びつくとその勢いのままへし折り、それを男に向けて倒した。丸太を躱すと男はその隙をついて手槍を熊に向かって突く。熊が飛び退いて着地し、男と熊は丸太を挟んで向き合う形となる。しかしそれが相手へ踏み込む障害になって次の攻撃がお互いに出せず、熊が立ち去る形で戦いは幕を閉じた。男は熊が見えなくなると辺りを見回した。倒れた鹿を認めると近づき、ナイフを使って処理を始めた。その鹿は喉元には大きな歯で潰された跡がある。もはやあの熊とは奇妙なライバルのような関係すら出来ていた。これもその表れだろう。男は鹿を切り分けると半分をその場に、残りの半分を自分の持ち物に纏めて背負い込んだ。長い集中と緊張のしわ寄せが荷物の重さを倍に感じさせる。そのせいもあるのだろうか。
これまでの疲労を押し切って立ち上がったところで狼の遠吠えを耳にする。見上げると逆光の中に一匹、こちらに向かって吠え続ける影がかろうじて確認できた。いや、もう一つの影がある。それは狼のような影より高く見えた…人間か?そう思って夢中で斜面を駆け上る。近づくにつれてもう一つの声が狼の吠え声に交じって聞こえた。それは子供の声のようにも聞こえる。が、蔓に足を取られて転んで顔を上げると木漏れ日すらない森の風景があった。狼の声も聞こえなかった。きっと幻覚だろう、そう思いながらも山の向こう側にある何かが自分を呼んでいるような気がしてならなかった。頂上を睨んだのち、この日は引き上げることを決め、その日はねぐらの洞穴へと引き返していった。そんな日も経験しつつ数日が経った。