22.エリレ・タイトロティモの憂鬱と希望その2。
「目が覚めたか、タカタナ」
ベッド脇に腰掛けながらアトンケが優しい声で尋ねる。
「…お父様」
未だ覚醒しきらない頭ではあるがタカタナは体を起こそうと身をよじった。その頭から額を冷やしていたタオルがずり落ちた。
ここはタイトロティモ領主館近くに居を構えるイエリモ家の邸宅の一室。昼間にもかかわらずカーテンが締め切られており、傍のサイドテーブルにはよく冷やされた水が入った水差しが置かれていた。優しい表情の父が控えるその様子は、さながら病人の介抱のようだった。
魔人捕縛と言う極限の緊張に晒された見張り役と警邏担当は精神的なダメージが大きく、自体が収まってなおかなり不安定な様子だった。震えが止まらない、吐き気がする、動悸が治らないなどの症状が出たのだ。例えから騒ぎだったとは言え「魔人」だ。担当者らは己の不運を呪いながらも、領民のため命をかけて現場で初動対応したのだ。そうした事情から体調不良が認められる隊員に対して、上司としても配慮しないわけにはいかず、彼らは即刻、特別に休日を与えられた。そのためタカタナは午後の遅い時間までこうして休むことが出来た。
「もう、大丈夫なのか?」
「はい。ただの不法侵入者だと聞いて、その、いろいろと気が抜けただけですので…イエリモ家の男として恥ずかしい限りです……」
タカタナは恥ずかしそうにうつむきながら答えた。アトンケにはかなりの落ち込みようが見て取れた。
タカタナは魔人がただの不法侵入者だと聞かされた時、意識を失って倒れた。倒れた拍子に意識が戻るほどの、一瞬で軽いものだったが、それを見た上司より即座に休日となる旨が言い渡され、まるでそこに控えていたのごとく迎えがやってきて、今に至るまでこうして休まされていた。もちろん、タカタナがタイトロティモ領の重鎮アトンケ・イエリモの大切な大切な跡取り息子タカタナ・イエリモである言う事情も大いに含まれている対応だった。いや、それが大部分を占めていた。
「それを言うなら私も同じだ。いやぁ、『魔人』は流石に取り乱すよ。黒く大きな体に、伸び放題の長い髪と髭、一糸まとわぬ姿…全く伝承に聞く魔人そのものだったじゃないか。はっはっは」
息子の言葉にアトンケはそう言って笑った。父のフォローによって、親子の間に流れる空気が少しだけ柔らかなものになった。
「もう今日は休みだろう?また明日も仕事があるんだからゆっくり過ごしなさい」
父は最愛の息子にそう優しく言って立ち上がった。この場を切り上げるような雰囲気を感じたタカタナはその姿を目で追いながら聞いた。
「…お父様。結局、彼は何者だったのでしょうか?」
アトンケの足が中途半端に止まる。やはり聞かれてしまったかと言う心持ちだった。
「今はまだ詳しくわかっていない。と、いうことなっている。すまないな。」
息子に全て話したくて仕方ない気持ちを押さえつけたため、少々硬い声色になってしまった。
「そう、ですか。そうですよね……」
タカタナは、自分には伝えられない事情を察して少し残念そうに答えた。
親子ではあるが、領地での身分は天と地ほども違う。父アトンケ・イエリモはタイトロティモ領主を傍で補佐する役目を担う、領内でもトップに位置する重要な人物だ。それに比べて自身は警邏隊の下っ端だ。たとえ親子でも話せない内容は山ほどある。今回もそれに当たるのだとタカタナは理解した。
「詳しいところは何もわかっていないのは、一応本当のことだ。推測を話しては混乱にも繋がるやもしれん。が…」
そう前置きしてアトンケは話し始めた。
「現在、とある仮定に基づいて調査チームが動き出している。この裏付けを取るためにお前にも仕事が回ってくるはずだ。」
父は息子の落胆を見て、話せる範囲で言葉を濁して伝えた。
「っ!本当ですか!?」
聞きたかった言葉を父からもらいタカタナは顔をあげた。
「お前ももう16歳になった。私の跡を継ぐため、実地での勉強をしていってもらいたい。今回はいい機会になるかも、と思っている。まあ、しかし…期待しないで待っていなさい」
「はいっ!お父様の期待に添えるよう、必ずややり遂げてみせます!!」
タカタナは「跡を継ぐための実地での勉強」と言う部分にやる気をみなぎらせた。期待しないで待て、と言う言葉は聞こえていなかったようだった。
◆
昼間の会議の後、エリレをはじめとしたタイトロティモ領有識者陣によって、可及的速やかに編成された調査チームは、国内外合わせて50名を超える大所帯となった。調査する内容の重要性から、調査員たちはその全容は知らされていなかったが「タイトロティモ領の未来のため」と言い渡されたその言葉を胸に、各人が全力を持って仕事に当たった。
ある者は王都で『祖王の暗号』を求めた。またある者は三月教で何か事件が起きてないか調査を始めた。そして領内では魔人もどきの一挙手一投足を観察していた。自分の持ち帰る情報が領主エリレ・タイトロティモの、ひいては自身が属するタイトロティモ領の利益になると信じて――
その甲斐あって裏取りは驚くほど順調に進んだ。わずか4日でほとんどの検証が終わったのだ。
手に入った『祖王の暗号』は一部分だけだったが、魔人もどきの手帳に書かれていた文字と同じ形の文字が散見された。暗号と手帳が同じ文字文明に生きるものが書いたものである事が明白となった。
三月教の聖遺物『メルサ・ローターの朽ちたナイフ』は、ちょうど聖遺物の御開帳の時期と重なり現物を見ることが出来、またその場で密かに「鑑定」することも出来た。信者に向けて展示されていた聖遺物は残らず本物であったことが報告されている。
また、魔人もどきは、祖王と同じように麺をすすって食べ、さらには祖王が好んで作らせ使用していた、二本一対の棒状の食器「ハシ」を使って器用に食事をしたということだ。
ここまで裏付けが取れれば、魔人もどきはかなり高い確度で「転移者」と言うことになる。タイトロティモ領の識者たちは色めき立った。しかし、エリレの顔色はすぐれない。柳沢の荷物を検分した会議室で、テーブルに着くエリレの顔はとても難しい表情だった。
「どうされましたかエリレ様。これは幸運の神の息吹に他なりませんぞ!?」
「そうです!『祖王の暗号』を解読すれば、王都に凱旋できます。王政に返り咲くまたとないチャンスです!!」
「三月教に対しても有利に事を運ぶ好材料になりますじゃ」
部下たちにそう発破をかけられてもエリレの表情は難しいものを含んだままだった。
「エリレ様は疑っておられるのだ。また何かの謀りに巻き込まれているのではないかと」
お前たちも忘れたわけではないだろう?とアトンケは続けた。
「王都での政争において、タイトロティモ領切っての忠義者と誰もが思っていたカカル・カールマイがエリレ様を裏切り敵方に回った。しかも蓋を開けてみればカールマイ家は3代も前から虎視眈々とその機会を伺うスパイの家系だったときたもんだ。あるとも思っていない、ありえないことが起きたのだ。此度の疑いようも推して知るべし。といったところだ」
エリレはもともと、王政を補佐する国内でも重要な人物だった。タイトロティモ家は大臣を輩出する家柄だったのだ。しかし、先の政争で味方の裏切りにあい失脚していた。
タイトロティモ家は成り上がりの貴族で、その時に与えられた領地は王都から遠く離れたところであった。王政にとって重要な貴族ではないからだ。その後、タイトロティモ家の家長達は政治的な力をつけ、徐々に王政に絡んでいき、エリレの曽祖父の代には大臣の大役を仰せつかるまでに権力を付けていった。王都に広大な敷地を持つ邸宅を構え、遠く離れた本領は部下に任せ、王の側で国に仕えた。その躍進ぶりは目覚ましく、多くの味方を獲得するに至ったが「成り上がりの貴族」の出世はそれに倍する敵もまた作っていた。タイトロティモ家が国内で大きな権力を持つ過程で、なんとも気の長い話だが、エリレの祖父の代から敵の攻撃は始まっていた。イエリモ家と並び立つタイトロティモ領の重役として重用されていたカールマイ家がスパイとして暗躍していたのだ。
イエリモ家が領内の「武」を取りまとめる家柄で、カールマイ家が領内の「文」を担当する家柄だった。この2家がタイトロティモ家の両翼であったのだ。タイトロティモ家が貴族となる前からのブレーン家系の裏切りは、政争に置いて致命的な一撃となり、哀れ成り上がり者は田舎へ送り返された。それ以来、エリレは文武の権力を複数の家に分散し、もしもの時のダメージを最小に抑える知行を行ってきた。
アトンケは、エリレにとって2代目のイエリモ家の側近だ。領内の「武」を担当してきた家柄であったが、エリレはアトンケに「文」の役割も与えた。仕事量超過を是正する名目で「武」を受け持つ別の家も新たに登用するなどして、文武の権力を多数の家に受けもたせた。先日、10人で行った、対魔人もどきの会議の有識者等も文武の分散化によるものだ。
権力の分散は、多くの家の反感を招くだろうとエリレは予想していたが、家臣達はそれをすんなり受け入れた。それは、再び我らがタイトロティモ領が王都での政治に返り咲くため必要なとことだと言う共通の認識があったからだ。また、家臣達は、エリレ程の人材を地方領主として遊ばせておくことは国の損失になると、そう本気で考えていることも理由の1つだった。大きな負けを糧に、タイトロティモ領の結束はむしろ強くなっていたのだ。
成り上がり者のタイトロティモ家は、国の発展の為、国民の幸せの為文武に力を振るい、その地位を手にするに至った。家臣達もまた、志は同じだったのだ。
エリレは不安を顔に貼り付けて言う。
「……都合が良すぎないか?」
突然何もないところに現れた不法侵入者。彼は『祖王の暗号』のヒントと、もしかしたら答えそのものを持って現れた。これだけなら確実に罠だ。エリレに間違った情報をもたらし、暗号を間違わせて王の心情にさらなる悪感情をもたらさんがための。あるはずのない2振目の『メルサ・ローターの朽ちたナイフ』を持っていなければ、かかるはずのない罠で間違いないはずだった。
三月教の聖遺物である『メルサ・ローターの朽ちたナイフ』だけを持って現れたならこれもまた罠だ。いよいよタイトロティモ家を取り潰そうと、敵が戦争の火種を放り込んできたと考えるのが妥当だ。
ここで3つ目の要素『欲望の洞』の詳細な図がこの事態を複雑にし、また希望を持たせている。
三月教の聖地である『欲望の洞』は転生者や移転者にしかたどり着けないとされる。
外の世界から来た彼らは、この世界にそれまで無かった知識や規格外の力を持って世を大きく発展させた。歴史を大きく動かし、良くも悪くもこの世界で生きる人々に強い影響を与えてきた。
彼彼女等が国などの組織に属する場合、それは救世主や英雄ともてはやされ、対立する陣営は悪魔と罵った。異界からの旅人を陣営に迎えられるか否かはそのまま繁栄と勝利に繋がる。世界中の目的ある者や組織、また国はその存在を積極的に探し取り込もうとしてきた。その力をもってして己が野望を叶えるために。
有史以前から度々現れてきた転生者、移転者はそうした経緯からいつしか「神からの使い」と考えられるようになり「神の旅人」と呼ばれてきた。そこには転生者、移転者の一部が存在を認めている、願えば叶う洞窟の存在も一役買っていた。
ありとあらゆる願いを叶えるとされる神の如き力を秘めた洞窟、後に『欲望の洞』と呼ばれるソレは、ただの一度もこの世界の人間にはたどり着けなかった。目撃情報はあれども、招かれざる客は洞窟の入り口に足をかけることすら出来なかったのだ。そのため神の旅人のみが招かれ入る洞窟は神格化されていった。只人には決して入るこのできないそこは、しかし神の旅人たちの証言によって神秘の実在が確実視されており、後に信仰の対象となった。そして世界中で様々な宗教を作るきっかけとなった。洞窟は三月教を含むほとんどの宗教において「聖地」と定められるに至った。
これらの材料を合わせると1つの流れを考えてしまう。
転移者である魔人もどきは、祖王と同じ言葉・文字を使う文明の徒である。この世界に転移した後、神の旅人しかたどり着けない『欲望の洞』で刃物を望み、その望みに近い性能を持つナイフ『メルサ・ローターの朽ちたナイフ』を与えられた。そのため聖遺物が二振になってしまった。その後なんらかの方法でタイトロティモ領に現れた、と。
都合が良すぎるが、彼が神の旅人であるならば無くは無い。ただし、タイトロティモ領に現れた事が敵方の罠なのか、神による幸運なのかを判断できないのだ。故にエリレは踏み切れない。敵方の罠だと分かれば、これを材料にいかようにも反撃できる。しかし、降って湧いた幸運なら……
エリレの脳内はこの判断に迷っていた。
「しかしまあ…このチャンスに乗るしか無いでしょうな」
アトンケは勤めて軽く言い放った。
その場違いな声に皆の視線が集まる。
「そもそも、王はエリレ様を見捨てておられない。政争での敗北、これは即断罪されてもおかしくない事態でした。しかし王はエリレ様に罰として『難題』を押しつけた体で自領に謹慎させた。命までは奪わなかった、これは王が長寿種のエリレ様の復権を期待して庇ったと考えていい」
エリレを除いた場の全員がこれに頷く。
「『難題』の解決は、時間と我らの頭脳を持ってすれば実は難しい話ではない。敵方の世代交代のタイミングも考えれば…ほとぼりが冷めた頃にエリレ様は『難題』の解決を持って王都に返り咲ける」
アトンケは場の全員の表情を見て、自身の話が共通の認識である事を確認する。
「つまり、警戒すべきはこれが罠だった場合に、その罠に嵌り切らないで事を進め、引き際を見定められるか。その後攻撃に転じることができるか。」
全員の表情が引き締まる。
「何事もなくとも、時間をかければエリレ様を王都に戻せる算段は立っている。これが幸運の知らせであれば、そのタイミングを大きく早めることにつながる。これが罠であれば、これを食い破り攻撃に転じ、やはり王都へと戻る布石に使える…。私たちにならそれが出来る。」
アトンケは自信を持って言い放った。自分たちの力量を信じ、たとえ罠であっで攻勢に転じる事が出来ると。王都で束の間の春を謳歌している政敵に、タイトロティモ領の強さを思い知らせてやると。
「……やるしかないか。」
エリレが言った。
場の全員がその目に光るモノが宿っている事を確かに見た。腹を括った者の強い決意の目が即座に跪いた部下たちを見下ろした。
「では、為すべきことを為せ」
短い言葉で号令が下った。
『私たちにお任せください――』
主人の前に跪く9人の部下全員が声を揃えた。
◆
警邏の詰所は主に領内に集中しているが、奴隷区を管理・警戒するため特別に作られた詰所が領の郊外にある。石造りの堅牢な建物はまるで砦のように威圧感のある風貌をしていた。建物内も質実剛健を形にしたような作りで、装飾的な面白みは一切排除されている。その詰所の3階中央にある所長室でタカタナは上司への報告をしていた。
「第8週目の仕事ぶりも相変わらず真面目で、周囲にだいぶ溶け込んだようです。特に掃除・片付けなどは奴隷たちにはない細やかな配慮が見られます。奴隷たちの中にはヤナギサワの真似をするものも出てきてきました。この全く奴隷らしくない働きぶりは私達側の人間にも好評です。」
と、彼は奴隷区警邏所長に新人奴隷ヤナギサワの様子を報告する。
タカタナ本人は奴隷たちの仕事ぶりを管理したり、生活で起こる様々な問題の解決を受け持っていた。はっきり言えば雑用だ。領の重鎮イエリモ家の一人息子に与えるような仕事ではないのだが、エリレとアトンケの指示によりこのようになっている。友人や先輩方はタカタナの境遇を嘆き、時に「お前はこんな仕事をしているような人材じゃない!抗議してくる!!」と義憤に駆られるものが出てきたが、その全てをタカタナは宥めていた。曰く
「どうせ俺は父の権力を継いで、あっという間にえらくなっちゃうんだから、今のうちに一番下から見ていかないと、将来困るだろ?領民が。」
と、おどけた調子でイエリモ家の長男にそう言われた面々は、冗談か本気か計り兼ねた。
その仕事ぶりを見るまでは――
「髪や髭を剃り落とすことにも全く抵抗を見せませんでしたし、ワインへの忌避感もなかった事を考慮しても、やはりマールビル帝国の間者の線はありませんね。」
マールビル帝国。この世界に3つしかない国の1つだ。タイトロティモ家が属する最大勢力のヨアマタ王国と、3つ目の国家は紛争国家リリタと言う。宗教や文化が全く違う3つの国家は外交や貿易は行なっていても、お互いが仮想敵国であり続けていた。
帝国はこの世界の覇を決めんと9百年前のタイアー帝の頃から王国にちょっかいを出していた。戦力差は圧倒的に王国に分があるため、戦闘そのものは小競り合いに等しい小規模なものしか起きてこなかったし、そのように王国がコントロールしていた。王国では当時「いつか帝国のトップが代替わりし、無駄な争いを自粛してくれる」と期待する穏健派が実権を握っていた。あまりにも戦力差が大きいので、王国の上層部は帝国などほとんど気にしておらず、まじめに相手にしていなかったのだ。
帝国では、無駄な争いに人命と血税を消費する帝への不満が高まっていた。一方王国でも、帝国軍を叩き潰して占領してしまえと言う声も大きくなっていた。両陣営もこの無益な戦争になんらかのケリをつけたがっていた。
真偽は不確かだが、この時帝国には転生者がおり、その『遺物』を運用して勝ち目ない戦力差をひっくり返そうとしていたとの情報があった。
そこへ世界の均衡を崩すニュースがもたらされた。
中立の立場をとって事態を静観していたリリタ連邦でクーデターが起き内戦状態に突入したとの報が世界に響き渡った。
帝国は、王国との戦力差を詰めるべくこの内戦に介入した。親帝国国家として再建国させようと内部干渉を始めたのだ。王国もこれは見逃すことができなかったた。戦力差が覆ることはないが、クーデターを起こしたリリタ軍部内にも転移者がいるとの情報もあり、王国もまた自衛のための干渉を始めた。帝国と連邦の神の旅人が手を組み、王国に敵対するとなると全てがひっくり返る可能性を考慮したのだ。
2国の身勝手な内政干渉を受け、元リリタ連邦は荒廃していった。いつのまにか元連邦内には旧政府、クーデター政府の他に第3、第4の勢力が誕生し、その後は戦国時代さながら群雄割拠の国取りゲームへと時代が流れていった。元リリタ連邦は各地で紛争が絶えない戦争の国となったが、その火を焚きつけた帝国と王国への怨みだけは各勢力に共通の感情となり、大国は紛争国家リリタから撤退していった。
帝国は振り出しに戻った事で冷静さを取り戻し、王国に対する対応を変えた。スパイの派遣や内通者の獲得という静かなる戦争にシフトしていったのだ。命のやり取りよりも資源や技術、人材の奪取などが主戦場となる時代が訪れた。
王国内ではいつのまにか多くの陰謀が渦巻き決して無視できない量の、広義の意味での「資源」が奪われていった。その頃には穏健派よりも過激派の勢力が影響力を強めており、王国内はスパイ狩りや裏切り者の吊るし上げがそこかしこで行われた。王国内では疑心暗鬼が蔓延り、政治的な策謀や冤罪がまでも蔓延していった。これを憂慮した王と王政幹部達は、今までろくに相手にもしていなかった帝国をやっと研究し始めた。
それは帝国と同じようにスパイを送り込む諜報であったり、捕らえた工作員を拷問を主とした方法で調べ上げたりといった方法だった。特に有益な情報を持つ上位の工作員には、身の安全の保証はもちろんのこと金品や地位、女を当てがうなどして寝返らせ、帝国が行う敵性行動の詳しい情報を引き出していた。
エリレ達は今回、その頃の活動の中で蓄積された情報を柳沢に試していたのだ。もちろん帝国の間者である確率が低くなったとはいえ、怪しいことには変わりないし、転移者であることの証明にもなるわけではない。
「神の旅人だという確証を得るには、やはり言葉を教えて、いろいろ話を聞いてみないことには難しいですね。」
「そうみてぇだな……。しかしお前さん、色々とよく調べているみてぇだな。ワインや剃髪の話なんてどこから聞いたんだか。……周りには内緒で頼むよ?」
タカタナが報告に何気なく付け加えた事は、およそ下っ端では知り得ない事であったし、今回の件の重要性から、人を使う立場の人間にもごく一部にしか知らされていなかった事だった。
「もちろんですよ。父は何も教えてくれませんでしたから。それが逆にヒントになりました」
資料に目を落としながら何食わぬ顔で言ってのける部下に呆れて溜息をついた。
「頭の出来がいいこった。俺からすりゃあ、ぶっ殺してなんとかできるわけじゃねぇ、こんなまどろっこしい話は向かねぇな。おめぇに全部投げちまいてぇよ」
机の上に胡座をかいただらしない姿でそう言った人物は、警邏隊隊長兼奴隷区警邏所長のカイラ・テン。タカタナの上司だ。短く刈り上げられた灰色の頭が、制服に押し込められた良く引き締まった体の上でうなだれた。
「ははは。こちらのことは取りまとめてご報告いたしますから安心してください。所長にはいざという時に動いていただければ十分ですよ。まあ、この調子だと所長にお手間をかける問題を、彼が起こす事はないでしょうが」
タカタナは笑って言う。カイラはそんなタカタナの姿をうなだれた頭越しにも見ていた。タカタナは本気で問題ないと思っているらしい…
「じゃあ、潜入させてた2人ももう外して良い」
「わかりました。2人ともとっくに応援する側ですもんね。では、今日の報告を終わりますっ。」
タカタナの挙手の敬礼を受けて、カイラはおざなりな返礼をした。そして次の瞬間、カイラは机の上から一瞬にしてかき消えた。
タカタナは長い息を吐く。例え映像通信であっても、領内最強の近接対人戦闘能力を持つ者の間近に近づくのは恐ろしかった。慣れないものだなぁ、などと考えながらタカタナは所長室を後にした。
◆
返礼を返すと、映像が途切れてタカタナが消えた。映像通信の魔工機器はやはり便利だ。隊員が書く報告書の汚ない文字を読まなくてもいいし、電話と違って相手の表情を読める。そう思いながらカイラは傍に控える人物へ雑談の口火を切った。
「あのボンボン、ほっときゃ偉くなるのに、とんでもねえやる気だよなぁ」
「そう言うあんたもボンボンだろうが、ああ?」
いきなり凄まれた。
凄んできた目つきの悪い小柄な女性はカイラの秘書兼付き人イライマ・ラック。ごく最近付き人として着任した、隊内には数少ない女性警邏官の1人だ。彼女が言うようにテン家もタイトロティモ領において高い地位を持つ家だが…
「ウチとイエリモとじゃ家格が違いすぎるぜ?」
「奴隷出身のあたしからすればどっちもかわんねぇよ」
こう言われてしまえばカイラにはもう言い返せない。イエリモ家は古くから領主に仕える「武」の名家だ。体制が代わり「文」の役割をも担当しているが、そちらでも現イエリモ家当主アトンケは目覚しい成果を上げている。それにひきかえテン家はカイラが初めて「武」の使命を仰せつかったばかり。テン家からすれば「イエリモ家と同じ武門の家柄」と纏められると些か以上に気後れしてしまう。しかし、側から見ればテン家も領主より重要な役割を拝命した名家に違いないのだ。
カイラはなんとかして着任したばかりの―「暴れ馬」と評判の―秘書兼付き人とコミュニケーションを図りたいと声をかけていたが全く上手く言っていない。
彼女はその有り余る戦闘力から、よく仕事をやりすぎる。そこで白羽の矢が立ったのは、彼女よりも圧倒的に強いカイラだった。暴れ馬をそこらの牝馬ほどに使いやすく調教しろとの仰せだった。しかし、敵を制圧する事しか考えてこなかった自分に人の面倒など簡単に見れたものじゃないとの自覚もあったし、そもそもが「隊長」なんて人の面倒を見る役職は似合わないとも思っていた。しかし、彼はこれも領主より賜った仕事だと、真面目に取り組んでいたのだ。
一方イライマは、部隊の隊長のもとに秘書として送られて、暴れる機会が減ったことへ不満を持っていたし、態度の悪さを理由に解任されたいと考えていた。当の隊長が自分並みに態度が悪いせいで、この方法では解任は無いと感じていたが、ほかの方策を考えるだけの頭もないので、失礼かつぶっきらぼうな態度を変えていなかった。
結局2人とも似た者同士であったが、お互いに慣れないことをしているために全く噛み合っていなかった。
カイラは話を戻して言う。
「……まあ、やる気があるのは良いことだ。エリレ様のため、領の未来のため…てぇのは領民の幸せへと直結するからだが、そう言われただけであれほど頑張れることはすげぇよなぁ」
「あたしには関係ないね」
蓮っ葉な受け答えに、カイラはひとつ意趣返しのための返答を思いついた。
「んなことあるか。エリレ様が返り咲けば、俺たちの仕事場は王都も含まれるようになる。給金が弾むぞ?なあ?がっつり関係あるだろうがよ?」
からかうような声を聞いて思うところがあったイライマは、ゆっくりと首を上司に向ける。威嚇するような雰囲気を出してカイラを見ると、2人の視線が今日初めて重なった。
「…ねぇちゃん、買い上げるんだろう?」
ニヤついた顔で言うカイラへむける、目つきの悪いイライマの目がさらに険しさを増した。
◆
カイラからの報告を受けたエリレとアトンケが微妙な雰囲気になる。特に最後に言い放った「頭が良いってのも考えもんだな」と言う言葉が耳に残っていた。
「……うちの愚息が…申し訳ありません」
アトンケがどこか嬉しいような困ったような様子でエリレに謝罪する。
「次代もタイトロティモ領は安泰、といったところだな…」
エリレも優秀すぎるタカタナに舌を巻いていた。少し匂わせただけでこれ程正確に事態を把握されるとは、そしてそれが正解か確認するでもなくしれっと報告に乗せてきた。もうタカタナが後を継いだらイエリモ家は「文」に鞍替えせようかと考え始めていた。
帝国のスパイ等工作員は、もちろん国への忠誠が高い。工作員の人種も様々でその線で見分けることは困難だ。人種の分布は王国と同じく、人間種ベースの混血が最も多く、ついで獣人種、鱗人種、長寿者などとなる。しかし帝国の文化を研究するといくつか「踏み絵」として使えるではと言う風俗が見つかった。
帝国の男性はどんなに悲惨な薄毛になっても剃髪を宗教上の理由で行わず、たとえ不幸にも毛髪が枯れても帽子やカツラをかぶるなどして頭皮を人にさらすことはない。薄毛は、悪い精霊に目をつけられて毛を抜かれていると言う考えがあり、いたずらの標的になったものはいずれ大きな不幸に見舞われると信じられていた。そのため薄毛の者は周囲の人間から疎まれていた。いたずらにより起こる不幸のとばっちりを受けたくないと言う理由だ。そんな昔の風習が宗教的に今も残っており、帝国民は頭を剃り上げることに強い抵抗感がある。これにより帝国では最も屈辱的な犯罪の罰として、頭髪を含め身体中の毛を剃られ街を全裸で歩かされる刑罰があるほどだ。ちなみにこの刑を受けた者の社会復帰はまず不可能で、帝国文化圏では生きていくことができなくなるほどだ。死刑ではないが限りなくそれに近い、心を殺す刑として認識されていた。
ナイフによる剃髪をヤナギサワに試した時、最初は「殺される!」と勘違いして怯えていたが、いざ始まると自分で進んで剃り始めた。剃り終わった後は実にスッキリした顔をして気持ち良さそうですらあった、ら
もともと、間者だとは思っていなかったので、確認を込めてのカマかけだったが見事に外れたわけだ。
また、王国では気候的に酒といえば一般的にワインだが、帝国では「血の汚れ」として忌み嫌われ、宗教的な理由で特定の品種のワインを飲まない。そのため工作員はワインを基本的には飲まないが、王国で活動するよく訓練された工作員は進んでワインも飲む。しかし、それを自然にできるものはまずおらず、そこの微妙な不自然さからシロかクロか判断ができる。ちなみに「特定の品種」は王国内では比較的高価な品種のワインであった。
柳沢を奴隷として迎える宴席に、奴隷たちに対する魔人騒ぎの手当てとして、いつもより少し良いワインという体でこれを用意させていた。肝心の魔人もどきが躊躇わずワインを口にし、その後も美味そうにがぶがぶ飲んでいたのでいよいよシロと言う判断になった。
さらに別視点からの確認のため、警邏隊から顔の割れていない2人を奴隷館に潜入させ、奴隷たちの仕事を監視する警邏官にも柳沢の動向を注意するよう指示をしていた。こちらも真面目に働き、みんなに溶け込もうと健気に頑張る柳沢の姿が多数報告で挙げられた。監視隊の中には柳沢のあまりの働きぶりに感化され、自身の仕事を見直し仕事の質が上がった者や、柳沢の厳しい肉体労働を見て健康面を心配する声が上がるなどした。奴隷作業の監督役や、警邏隊の現場指揮官の中には「柳沢をはやく市民に」との声も多い。その本音は柳沢を市民にして、正式に自身の組織に雇い入れたいと言う事に尽きる。魔人もどきの不法侵入者は、いつのまにか一定の人気と信頼を得ていた。
「では、ヤナギサワなる者の疑惑も晴れ、神の旅人であることもほぼ確定したことですし、早速言葉の習得を優先した予定に変更していきましょう」
アトンケは息子の出来にどこか嬉しげな声で、今後の予定を確定させた。その判断にはタカタナの力をエリレおよび領内上層部に示すきっかけとなった柳沢に対する少し甘い判断も含まれていた。
エリレは子煩悩すぎる部下に頭痛を覚えつつも、その判断が妥当だとも思っていた。
エリレはハーブティを口にしながら、ふと窓の外を見る。
領府の街並みは群青に染まり、ぽつぽつと優しい灯りが、家々の窓に灯っていた。
エリレはアトンケの判断に同意の返事をした。




