21.エリレ・タイトロティモの憂鬱と希望その1。
エリレ・タイトロティモは階段を上がってくる何者かの気配に目を覚ました。月明かりがカーテンの脇から入る室内でベッドサイドの時計を確認すると、針は4時50分を過ぎた頃だった。彼は何事か問題でも起きたのだろうと考え、眠気の残る目頭を指で揉みながらベッドを降り身支度を始めた。まだ部下が到着するまで少し時間がかかることはわかっているが、さっさと着替えなければ到着までに気持ちが切り替わらないからだ。自分も歳を取ったもんだと、エリレはそんなことを考えながら、白が混じった髪と髭を撫で付けた。
ベッドルームの扉の先は執務室。使い込まれて黒光りする革製の椅子に腰掛けて部下の入室を待つ。重厚な木製の机の上にはすでに灯りの灯ったランプと淹れたてのコーヒー。湯気を立てるカップを手にとって香りを楽しむ。いつもの事ながら上品で香ばしい香りが鼻腔を通り抜けた。
「失礼します、旦那様。」
ノックをして入ってきたのは老齢の執事。彼の入れるコーヒーや紅茶は、今やエリレの仕事に欠かすことのできないアイテムになっていた。眠気を飛ばしたり、心身をリラックスさせる効果はもちろん、その時々に合わせた飲み物を提案して場をうまくコントロールする布石として使うことができるほどだ。最早一種のセラピーと言ってもいい。その、用意されたコーヒーを飲みながら目で話の先を促す。
「アトンケ様が至急お耳に入れたいご報告があるとの事で…」
「……わかった。通してくれ」
エリレは短いやり取りの間にも執事の表情を読み取っていた。その後ろには部下のアトンケが息を切らせながら直立不動で立っていた。
(こんな夜更けに、ロクな内容ではない様だな…)
夜は今、もっとも暗いところへ進んでいた。
◆
「魔人が?」
エリレは思わず聞き返してしまった。
「そうなんですっ!魔人です!立ち入り禁止区とのちょうど境に、魔人が突如現れたのですっ!は、早く討伐隊をっ!!」
アトンケは用意された紅茶には見向きもせず、唾を飛ばしながら大声で訴える。彼は戦闘装備に身を包んでおり、エリレが号令を飛ばせばすぐにでも飛んでいきそうだ。
エリレはその様子を冷めた目で見ていた。なぜなら魔人は300年以上前に滅んでいる。いや、滅ぼされたといったほうが正しい。しかし、人種の多様性を認めよと叫ばれて続けているこの世界で、無用な混乱を避けるためこの真実は世間には知らされておらず、ごく一部の立場の者のみに知らされていた。しかし、単なる田舎貴族で地方領主に過ぎないはずのエリレはそれを知らされていた。そして単なる地方領主の部下のアトンケは知らされていなかった。
エリレは不法侵入者が魔人では無いと確信していたが、その魔人もどきと興奮した部下には対応しないわけにはいかなかった。だが、本来なら部下たちに任せておいても問題ないだだの不法侵入に叩き起こされたのだと思うと嫌気がさし、少しおざなりな態度になっていた。
「あー……。見張りが立ち入り禁止区域に突然現れた光源を捜索すると、そこで魔人がキャンプして寝ていた、と?」
コーヒーを一口飲みながら聞く。
「そうです!奴が寝ている今こそ勝機!事は一刻を争います!早急に討伐隊の編成をっ!!」
アトンケは流れる脂汗を仕切りに拭きながら必死の形相で伝える。
「そうだな……」
エリレの反応が何故か鈍いことにアトンケは焦りを感じていた。この突然降って湧いた領の窮地、対応を間違えば領は焼け野原になってしまうというのに、彼の主人は椅子に腰掛けたまま気のない返事をよこしただけ。
「タイトロティモ様!何を悠長に構えておられるのですかっ!?魔人が目を覚ませば辺り一帯に甚大な被害が出ますぞっ!!」
アントケはエリレが座る机に迫り、大きな身振りでことの重大さを訴えた。しかし、自身の主人たる領主はまったく気にしたそぶりもなく、また顔色ひとつ変えない。
「そうだな。もし本当に魔人なら、我々は今頃揃ってあの世だ。」
エリレはそう言ってもう一口コーヒーを飲んだ。その所作は優雅で、コーヒーの味と香りを楽しんでいる様にアトンケには見えた。その様子を目にしてアントケの態度が突如変わった。悲痛な表情で顔を下げ背を丸めて、消え入りそうな声を出す。
「…私の息子も今夜見張りで、おそらく連絡を受けて現場に向かっているはずなんです……タカナカに何かあったら、私は…私は……」
エリレはここに至ってようやく、アントケの焦り様に思い至った。アトンケの息子タカナカは、長きに渡る夫婦二人三脚の不妊治療の末、やっと生まれた待望の一粒種で、アトンケの可愛がり用は領内でもたびたび話題に上がるほどだった。
「そうだったか…。すまないアントケ。さぞ私の態度に不満だっただろう。しかし、大丈夫だ。断言しよう。魔人ではない。お前には詳しく教えてやれないが魔人ではない。」
勤めて優しい声色を作りアントケの目を真っ直ぐにみて、その心情に配慮する様言った。アントケはその言葉の意味を思考の中で咀嚼し、我に帰った。
「た、大変申し訳ございません!事情は理解しました……申し訳ありません…」
アントケは自身の不徳を詫び恥じ入りながらも、いくらか落ち着いた様子でソファに戻り紅茶を一口飲んだ。すっかり冷めていたはずのソレは、いつの間に淹れ替えられたのか適度な熱さのものだった。執務室の扉に視線をやると外にいるはずの執事が静かに立っていた。
「魔人もどきの不届き者の特徴を詳しく教えてくれ」
はい。とアントケは答えて、連絡を受けた魔人の、魔人もどきの特徴を主人に伝えた。
窓から見える山際は少し明るくなり始めていた。
◆
「これが魔人もどきが所持していた物の全てです」
警邏長が緊張した面持ちで、植物の葉でできた袋をテーブルに置いた。その動作には怯えの色が色濃く出ている。その後、自分の仕事は終わったとばかりに彼は足早にその場を後にした。その様子を見ていたこの場に残った10人の人物も、エリレを除きテーブルから体が逃げている。ため息をつきつつエリレは言う。
「なんども説明したが、魔人ではないぞ?ただの馬鹿でかい人間種だと判明しているからな?」
結局魔人は、ただの人間種の男であることが判明した。しかし、何者であるかは全くわからなかった。
まず、言葉が違うようでこちらの質問に答えられなかった。タカナカによるとどこの地方の言葉とも違ったらしい。おそらく他国の言葉ではないかとの所感が伝えられている。加えて、魔人の言葉には呪いが含まれるとの伝承を信じた、見張りをはじめ多くの警邏の者たちが、魔人もどきの尋問を恐れた。部下の混乱を避けるため、追求は皆が落ち着くまで先送りされた。
次に、服を着ておらず全裸だったことも魔人もどきが何者でどこから来たかをわからなくしている。衣服のデザインや使われている素材を「鑑定」すれば、ある程度何処の者かあたりをつけられるのだがこれも不可能だ。唯一身につけていた履き物も珍しくもないスニーカーだったし、腕時計も大量生産品の安物のようだった。
唯一、何かの葉で作られたこの袋が、魔人もどきが何者なのかを特定する手がかりだった。
「中身を確認しないことには始まらん」
エリレが手を伸ばすが、9人は顔を引き攣らせるばかりか体がさらに斜めに逃げている。
いつもなら他の者が率先して行動を起こすか、「タイトロティモ様、ここは私が…」なんて言いながら誰かがやってくれるのだが……。エリレはモヤモヤしたものを抱えつつも、魔人ではないと断言したのは自身だし、早くこの問題を解決して皆を安心させたいと思い袋を開けた。
中のものは、木製の水筒、手帳、ペン、錆びたナイフ、何かの干し肉などの食料。
先ずは重要そうな手帳を検分してみる。やけにボロボロなソレは装丁がすでに剥がれ落ち、ページも濡れてから乾いたように縮れていた。パラパラとめくってみると案の定、文章と思しき文字の羅列が確認できる。しかし、その内容は全くわからなかった。エリレ以外の面々も顔をしかめつつも興味には勝てないのか、器用に首だけ伸ばすようにして覗き込んだ。
「全く未知の文字ですな」
「最初の数ページ以降と後半とは筆跡も文字体系も違っているようだ」
「前者は女性の字のようだが、後者は筆圧も強いし魔人が書いたものでしょうか…?」
「文字がたしかに全く別のものだ。異なる人物が書いているように見える」
「マス目のページは暦、でしょうな…。」
怯えていた者たちは、この領地の学者や知識人で、その頭脳を刺激する手帳の中身を見るごとに恐怖より興味が優っていったようだ。次第にテーブルに近づいていき、各々の考えを述べながら、ついにはエリレの手元を覗き込むようになっていった。傍では書記役の者がキーボードをタイプして記録を取っている。
「皆調子が出で来たようで何よりだ。一先ず他のものも詳しく見てみよう」
そう言って他のモノも見てみるが、これといって珍しいものはない。唯一、錆で固まったナイフの「持ち手」が興味を引いたぐらいだった。手垢でくすんでいたが、布で軽く拭くとあっさり汚れが落ち、輝きを取り戻した。どこか神々しい光を放つ錆びたナイフは議論の的となった。
「これは金ではなさそうだが、むしろ金以上の輝きがある」
「真鍮でもないし…こんな金属は見たことがありません。それに加工の跡が全く見られない」
「この青、実に素晴らしい色をしている。この青いラインは別のパーツのようですね」
「しかし、肝心の刃がこれでは……。実用性もないし、この刃のせいで美術的にも残念なことこの上ない」
各々が所感を述べて場が雑然としていく中、議論に参加していなかったアトンケが何か思い出そうとするように、腕を組んで唸っている。上を向いてみたり下を向いてみたり、組んだ腕の上下を変えてみたり、しまいには部屋の中をウロウロ歩き出した。
「どうされましたかな、アトンケ様?」
「…ここまで出かかっているのですが……」
と何か引っかかっているような物言いのアトンケが答えたその時だった。ナイフを手に取り細部を観察していた者が手を滑らせてしまった。あ!という声に注目が集まる。アトンケも同様にそちらに視線をやり、ナイフがテーブルに落ちていく様を見ていた。
そして、見た。
音もなくテーブルに根元まで突き刺さる、錆びたナイフを。
その衝撃がアトンケの記憶を呼び覚ますきっかけとなり、至急調査が必要な事柄が3つ、会議で共有された。領の行く末を左右する、毒にも薬にもなるような重要な内容だった。
会議が終わる頃にはすっかり日も登り切っていた。
◆
執務室で大きなソファに座り紅茶を飲む。エリレの目の前ではアトンケが同じように紅茶を飲んでいる。
「お手柄だったぞ、アトンケ」
「ありがたきお言葉」
未明の取り乱し様が嘘のように落ち着いたアトンケが静かに答える、
「私も歳をとったもんだ。お前に指摘されてやっと記憶の扉が開いた」
「いえ、タイトロティモ様の膨大な記憶量のためでしょう。私たち人間種はせいぜい長くても100歳までの寿命です。それに比べて長者種の血を持つタイトロティモ様は…確か今230歳でいらっしゃいますよね?その長い人生の中から、ひとつまみの記憶を取り出すことは容易ではないでしょう」
エリレは支配者階級の生まれのため、その血統の中に長寿の血が混じっている。
その昔、タイトロティモ家が功を挙げ貴族となり、ついに念願の領地を拝領した際、当時の家長はクォーターほどの血の濃さのエルフと婚姻を結んだ。より長く己の権勢を謳歌したいと思うのは権力者の常。そして長寿種の血を迎えれば己の子孫にその夢を託せる。貴族として末長く権力を振るうことができる。親から子へ、孫やそのさらに先に至るまで、栄光が長く続くようにと願うのは親の常だ。タイトロティモ家を貴族にまで育て上げた当主も、御託に漏れずそう思っていた。これは王家やその他の貴族も同じようにしていたし、さらに言えばこの世界では別種族同士での混血が当たり前で、一般の民草にも長寿種との混血は珍しくなかった。当たり前、に近いことだった。
「そうだ。しかし、寄る年波には勝てん。故に頼りにしてるぞ」
「重ね重ねありがとうございます」
エリレとアトンケは同時に紅茶を一口飲んだ。
「「しかし…」」
2人の声が重なる。アトンケが話を譲る。
「…しかし、『メルサ・ローターの朽ちたナイフ』と『祖王の暗号』とはな……」
「ええ。さらには『欲望の洞』の可能性も。ツキが回ってきた、かも知れませんな…」
アトンケはニヤリと顔を歪めて言った。
「暗号の方はともかく、ナイフと洞が本当なら厄介ごとになる可能性が大きいぞ?」
魔人もどきの持ち物を調べた結果、エリレを領主とするタイトロティモ領の重鎮たちは天国と地獄、その両方の可能性に震えた。
まず錆びだらけの刃のナイフ。「モノ」であれば例えどんなに硬かろうと、まるでバターを切り分けるが如く切ることができる、しかし生あるものは一切傷つけられない聖遺物『メルサ・ローターの朽ちたナイフ』ではないかと結論付けられた。伝説上の僧侶メルサ・ローターが厳しい布教の旅の中で愛刀として使用していたナイフで、現在は三月教の総本山に、聖なる行いであるところの布教の旅を助けるため神より授けられた物として厳重に保管されているはずのもの。つまりこれが本物なら、三月教の総本山からどのようにか盗み出してきた物と言うことになる。この事実が知れれば三月教との戦争の火種となってしまう。タイトロティモ領はおろか、国がその戦火に晒されるだろう。その発端がここにある。
次に、手帳の後半に記されていた文字は、タイトロティモ家が属する「ヨアマタ王国」の祖王が残した未解読の文章『祖王の暗号』の文字体系と酷似していた。『祖王の暗号』は二千年前に残された祖王の遺言を記したもので、祖王が崩御した当時より誰にも読むことができなかった。この暗号は貴族位を持つ者、その家の要職に就いている者や学者には知らされていたが、今に至るまで誰にも解読出来ないままであった。解読者には特別な褒美が約束されており、数多くの挑戦者が挑んだが、今ではほぼ忘れ去られており、当の王家も解読を諦めている。魔人もどきが書いたとみられる言語が祖王の物と同じであれば『祖王の暗号』を彼に読ませれば解読は容易だ。こちらはタイトロティモ領の利益に直結する事案として期待が集まっている。
また、手帳に書かれていたとある「絵」もエリレ達に衝撃を与えていた。
その絵は、2つ並んだ小さい塔と、少し離れたところに立つ大きな塔とを表した3本の塔の絵。その絵の前のページには洞窟を横から書いたと見られる図と、3本の塔があった場所のふかん図も書かれていた。知識人達は、この絵が『欲望の洞』を表していると考えた。三月教の「聖地」である『欲望の洞』ではないかと。実はこれだけでは別段珍しくもない。『欲望の洞』は伝説として広く知られており、信者であれば誰でも知っている知識であるし、信者でなくてもその存在は知っている。曰く、そこで願えばすべての望みが叶う、と。そして聖地と定められているにもかかわらず『欲望の洞』の所在が全くわからず、三月教が長い歴史の中で血なまこになって捜索している事も。
しかし、おそよ盗み出せるはずがない『メルサ・ローターの朽ちたナイフ』を持ち『祖王の暗号』と同じと思われる文字体系を使う人間種、と言う2つのことが合わさると、1つの予想が完成する。
「なんにせよ裏付けを急がせろ。魔人もどきの不法侵入者、奴はおそらく祖王と同じ文明から来た転移者だ。」




