1.プロローグその1
95日目。
目の前には満点の星空。「星降る夜」という表現がぴったり当てはまるほど、空一面を星がびっしり埋め尽くしている。俺はビーチに寝転がって寄せては返す潮騒を聴きながらそれを眺めている。都会の喧騒を離れて過ごす最高にリラックスした時間だ。ふと、口さびしくなりヤシの実のジュースを一口飲む。時折吹いてくる風は湿度をはらんでいて少しべとつく。波の音以外には焚き火の炭が爆ぜる音がたまに聞こえるだけ。静かな夜だ。俺の足の間には猫が丸まって寝息を立てている。
ここは俺のプライベートビーチ。誰にも邪魔されない自分だけの場所。ここが私のアナザースカイ、的な。ここでは空も海も陸も、そう大自然そのものが俺だけのもの。最高の空間だ。…不満を挙げるとすれば、酒が無くて、女っ気が無くて、電気は通ってなくて、トイレはその辺で、俺は全裸で、ここに遭難していて、明日の保証はないってことぐらい。…最低の状態だ。
空に浮かんだ月をぼんやり見上げていると、思わず独り言が漏れた。
「帰りたい…」
事の始まりは飛行機事故だった。
出張のために乗った、東京からオーストラリアへ向かう便でまさかの事態。
日頃の疲れから熟睡していた俺は、周囲のざわつきを感じて目が覚めた。すると、突然酸素マスクが目の前に落ちてきて「当機はやばいです」的な放送が聞こえた。一発で目が覚めた。朝起きたら出勤時間を過ぎていた時の1億倍ぐらい目が覚めた。あまりの目覚めのショックで逆に気絶するレベルだ。それはさておいて、恐怖と不安で飛び出しそうな心臓の音と阿鼻叫喚の機内の騒ぎを聞きながら、なんとか酸素マスクを着け、震える体で救命胴衣を着た。緊急着陸時の姿勢をとってからの記憶はない。
気がつくと俺は白い浜辺に打ち上げられていた。春のような日差しは優しく俺を目覚めさせてくれたが、膝下が波打ち際に入っており下半身はじっとりしていて不快だった。体を起こす動作でさらに濡れた。着ている服もなんだがごわついている。覚醒しきらない頭で辺りを見渡すと、南国リゾートを思わせるようなコントラストの強い海岸線が延々と続いているのが見えた。海と反対方向、白い浜辺の先は木々が生茂る森だ。鬱蒼としたその先は手つかずの原生林なのか少し暗く、奥の様子は窺い知れない。
意識はあいかわらずぼやけていた。なんとか立ち上がれないかと体を動かしながらあたりの状況を確認し続けると、砂浜に打ち上げられているものが目に留まった。少し遠くにある人工的な色使いのそれがスーツケースだと認識した途端、一瞬にして機内に蔓延する絶望と絶叫がフラッシュバックして吐き戻した。涙が出て、体も震えだした。吐いてしばらくは、ぶりかえした恐怖で、俺は死んだんじゃないか、ここは死後の世界なんじゃないかと考えてしまい、うずくまったまま動けなかった。
暖かい日差しと波の音とで精神と体が落ち着いてきてようやく、俺の他にも漂着した生存者がいるかもしれないと気がついた。よろよろ立ち上がると見える範囲に人がいないかと視線を動かす。ついでとばかりにスーツケースを3つばかり波打ち際から波の当たらないところへ移動させた。誰かいませんかと大声を出しながらしばらく浜辺を歩いてみたが、ペットボトルを3つ拾っただけだった。
暖かい日差しは、体を動かしていると若干汗ばむような陽気を産んでいた。海が目の前で湿気があることも発汗を助けているようだ。成果の上がらない捜索にため息が漏れ、ふと「遭難」のふた文字が頭に浮かんだ。俺は今、遭難しているんだよなぁ。と、側から見れば明らかな事態だが、俺はここで初めて遭難を自覚し、何も行動を起こさなければそう遠くない未来に死ぬ、と言うことに気がついた。やっと頭がはっきりしたと言えるだろう。
こうなりゃ体力と水分を使う捜索は後回しだ!俺には唯一の家族、年の離れた妹・沙奈を東京に残している。絶対に死ぬわけにはいかない。あのかわいい笑顔にもう一度会うためになんとしてでも生き残り、救助を待たなくてはならないっ!飛行機事故から奇跡的に生き残ったんだ、救助が来るまでの遭難生活ぐらい乗り越えてやるっ!!
こうして俺の長い遭難生活が始まったのだった。




