67話 幸せじゃないからさ 〃
落ち着かない。問題集を見ても、答えが思いつかない。
今は休日。週明けにある中間テストの為、私は自室にある机を前にテスト勉強をしていた。
と言っても、集中することが出来ず、今私はペン回しに興じている。
ペン先を紙につけることなく、ぐるぐると、親指を軸に何回も回す。でもやがて、それも上手くいかなくて、親指から外れシャーペンが床へと落ちる。
転がり離れていくシャーペン。椅子から立上がり、私はそれを拾う。ため息と一緒に。
「駄目……」
上手く行かない。頭がこんがらがっている……勉強をする余裕なんてない。
一人ごとを呟いた後、私は廊下へと出る。
でも、出て直ぐに、私は後悔した。
「ん、あぁ添。勉強捗ってるか」
視界に入ってきた人物。私と同じ黒目黒髪に、幼さを思わせる中性的顔立ち。はっきり言って目立たない。でも、目が捉えてしまう。血が繋がっているから? 違う、それ以外の理由も……きっとある。
だから……
「……」
素直に答えられない。
廊下で、至近距離で、私は兄と鉢合わせした。
そして……だからこそ、顔を見れない。心臓が高鳴るものを感じる。
しばし無言となる廊下。顔を見れないから、兄がどんな表情をしているか分からない。声からしか……判断できなかった。
「これからコンビニ行ってくるけど、何か欲しいものある?」
「……」
「それじゃあ、何かデザートでも買ってくるよ。糖分とらないとリフレッシュできないもんな」
明るげな声。何の憂いもなく、何の悩みもないかのように……普通に振る舞う兄。
……どうして?
そう思ったときには、兄は姿を消していた。
恐らく、階段を降り、家を出たのだろう。でも私は……その場を動く事は出来なかった。ずっと……そう。変わらず、変化を恐れて……変わってしまう事を恐れている。
動けない私。淀んでいる空気。そこに、変化が生じる。兄の部屋の、ドアが開く。
風が流れる。現れたのは兄の友達……見治先輩だった。
ーーーーーーー
「いや〜驚いたよ、添ちゃんが廊下にいるのは分かったけど、部屋に戻る音も、階段を降りる音もしなくてさ。それで気になって、顔を出して見れば、この世の終わりみたいな顔してるんだもん」
「ちょっと、笑わないでくださいよ、見治先輩っ」
「ごめんごめん、いやぁ〜先ずは笑顔ってね」
そう言って、見治先輩は私の前に座った。
今私達は、廊下から移って一階のリビングにいた。テーブルに向かい合って座る私達を除いて、今この家には、私達しかいない。土曜日の今、母も父も休日出勤でいなかった。
「で話は変わりますが、何で見治先輩が家にいるんですか」
私は一先ず抱いていた疑問を口にした。
それに対し、見治先輩は時間を開けず、返答する。
「何でって、勉強の為さ。来週の中間テストがあるからね。添ちゃんもそうだろ?」
「まぁそうですが……」
何だろう……何かが、引っかかる。
見治先輩が家にやって来るのも久しぶりだけどそれ以外に、何かあるように感じた。
私は口を開いた。
「でもいいんですか、私と話してて。勉強する時間が惜しいんじゃないですか」
「そんなに心配しなくていいよ。それに、今は添ちゃんと話したいしね」
「私……ですか」
「そっ、添ちゃんとね」
そう言って、見治先輩は微笑んだ。
そんな先輩と、あの人の面影が重なる。屋上で、私に向かって微笑んでくれたあの人の顔。
そっか……そうなんだ。一人でに、私は納得し、口を開いた。
「また……置いてかれちゃった」
「ん、何か言った?」
見治先輩の言葉に、私は静かに首を振った。
「いいえ、何でもないです。それに……私と話したって何も得るものなんてないですよ」
自虐的気分になる私。
置いてかれている私に、見治先輩が得るものなど、ないように思えたし、それに……私には眩しすぎた。
先輩が口を開く。
「得るとかじゃなくて、ただ話したいんだよ。思えば最後にまともに話したのって、夏休みの時以来だしね」
「……そんなに前でしたっけ?」
「うん、だから添ちゃんにも色々あったんじゃないかなって」
「色々……」
頭に思い浮かぶ、ここ数ヶ月の出来事。先生に惚れて、先生に振られて、そして……兄に告白されて……私は……私は……。
「可笑しくなっちゃったんです」
口から出た言葉。見治が反応したのが分かる。でも、見治先輩に口を挟む時間を無くす陽に私は次の言葉を吐いた。
「可笑しいのは分かっているんです。こんな気持ちを抱くのが普通じゃないって分かっているんです、気持ち悪いって思ってもいるんです。でも、でも止められないんです」
想いが……止まらない。悩み続け、憔悴状態となった私はもう、自制なんて出来なかった。
「兄が好きなんです、私」
言った言葉。それと同時に、私は私の想いに気づく……あぁ私、兄さんの事、好きなんだ。
混沌とした想いから拾い上げた感情。でも、それは拾い上げたばかり、どう処理していいか分からない。
どう……続きの言葉を吐いたらいいか分からない私は黙ってしまう。
それは見治先輩もそう。見治先輩は、口に手を当て難しい顔をしていた。黙り続けている見治先輩を見て、私のこんがらがった頭も次第と落ち着いていく。そうして、残ったのは、インモラルな告白という恥ずかしい物だった。
「あぁやっぱなし! なしでお願いしますっ」
大声を上げ、私は否定するように、両手を忙しなく振る。
顔が暑い。鏡を見なくとも、顔が赤くなっていることは想像に難くなかった。
「なしって、どうかしたの」
首を傾ける見治先輩。
先輩は笑っておらず、真面目な顔つきのままだった。
「どうかって……恥ずかしいからに決まっているからじゃないですか! もう、いいですから忘れて下さい」
「別に恥ずかしくないよ」
「恥ずかしいに決まっているんじゃないですか! 兄を好きだなんて」
「俺もお兄さんの事好きだったから、気持ちは分かるよ」
「お兄さんの事が好きだからって私の想いが分かるわけ……え?」
「俺もお兄さん、広の事が好きだったんだよ……気づかなかった?」
あっけなく、それも恥ずかしげもなく言う見治先輩、私と違って。でも、それは……
戸惑う私をよそに見治先輩は話を続ける。
「さっきはごめんね、黙ったままで。少し思い出しててね」
「……考え事ですか」
探るように、私は言葉を出す。
見治先輩は、頷いた。
「うん、さっきの添ちゃん。少し前の俺にそっくりだったから……自分の思いに答えを出しきれずに、悩みに悩みぬいて、気持ちを吐露してしまう所が……ね」
「吐露……て。今の見治先輩はそんな悩んでいるようには見えませんが」
「もう、気持ちの整理がついたからね」
「それって」
「告白した。打ち明けたんだよ、広に」
微笑を携えながら、見治先輩は答える。
……何となく分かってはいた。見治先輩は、先生のように自分の気持ちに答えを出したんだと。でも、その中身は先生のと少し違う。私と近い。だって、先輩の想いは……
「……認め難かったんじゃないですか」
対象が抜け落ちた言葉を、私は口にする。でも、それで十分だった。
「男同士……だから?」
見治先輩の言葉に私は首肯する。自分の、兄妹間のインモラルな想いよりは普通かもしれないけど、それでも同性間の想いが普通だとは言えない。
少なくとも、異性への恋心を打ち明けるように、自然には、話せない。隠してしまう。
見治先輩は、私の疑問に答えるように口を開いた。
「まぁ、普通ではないよね。これから先、価値観が変わって普通ではないものが、普通になる日が来るかもしれない。でも、少なくともまだ今は普通ではない」
「……じゃあどうして、告白する気になったんですか。普通じゃないなら、受け入れられず、嫌われる可能性だってあるのに」
「幸せじゃないからだよ」
そう言った後、見治先輩は何か思いだしたかのように小さく笑った。
でも、私はそんな先輩の言葉を、そのまま呑み込むことは出来なかった。
「幸せじゃないからって、どう言うことですか」
「そのままの意味だよ。多分添ちゃんも感じているんじゃないかな」
「私が?」
「うん、さっき、廊下で広と鉢合わせた時、どんな気持ちだった?」
「どんな気持ちって……それは」
私は胸に手を当てる。心臓が動いているのを感じる。そのゆっくりな、確かな鼓動は、安心感を私に与えてくれる。でも、あの時は違った。ゆっくりとは無縁に、激しく動き、私を落ち着かせてはくれなかった。
苦しくて、痛くて、恥ずかしくて……逃げ出したくなる気持ち。兄の前に立ち続けることは出来そうになかった。
あの時の事を思うと、体が熱を帯びていくのを感じる。鼓動が早くなる。恥ずかしくなってしまい、私はつい、見治先輩から目を逸らした。
「つくといいな、自分の気持ちに」
見治先輩は、一言そう言った。私は、そんな先輩に顔を逸らしたまま、口を開いた。
「……つくんですか、その……言ったら」
「分からない、こればかりは人によって異なるからな」
「勝手ですね……」
「勝手だよ、俺も、皆も。でも、勝手だからこそ、最後に決めるのは自分自身なんだ」
自分自身……
先生も、四条先輩も陽先輩も見治先輩も……兄も……皆私の知らない所で決断している。
私が決める……私の想いに素直になるのか……諦めるのか。誰も答えてはくれない。私自身が決断するしかない……
もしかして、兄さんはずっとこんな想いをしていたのかな。私の事が好きで、でもそれは世間からはいけない恋で、傷つく人も出ると分かってて、でも諦める事もできなくて。
決断する事が出来なくて、ずっと……苦しんで。
そんな折、玄関のドアが開く音が耳に入る。続いて靴を脱ぐ音、廊下を歩く音。
その度に、心臓の鼓動が早くなる。心臓が動く音が大きくなっていく。
他の音はもう……聞こえなかった。
「誰かいるの……って見治と添、二人して何してるの?」
「少し休憩がてら、話しをしてただけだよ。なっ添ちゃん」
「……」
「添……?」
「わ、私っ……私、部屋に戻ってますっ!」
それしか言えなかった。
立ち上がり、リビングを出ようとした最中、窓に反射した私の顔は真っ赤で、それが尚更、恥ずかしかった。




