66話 呪いじゃないよ 〃
相変わらず、ここは変な匂いがする。薬品の匂い、とでも言うのかな。嫌に清潔で、静かで、日常の気配はここにはない。向こう側の世界の気配が微かにする。そんな場所だからこそ、彼女の存在は、一種の光のように思えた。
陽先輩は、一ヶ月前にお見舞いに来たときと変わらない姿で、病室のベットに佇んていた。
変わらないその姿に安堵する反面、凛としている彼女の姿は……今でも眩しく感じられた。
「あっ、添ちゃん来てくれたんだ」
私に気づいた陽先輩は、手を招く。その仕草が可愛らしく、少し私は笑った。
「すいません、来るのが遅くなってしまって」
誘われるがまま、私はベットの近くにあった丸椅子に座った。
「いいよいいよ、それに添ちゃん一ヶ月前に来てくれたばっかりじゃない。もっと来るように、とは頼めないよ」
「けど、四条先輩は良く来てるんですよね?」
「彼女は特別だから……あれ、私、結が良くお見舞いに来ること言ってたっけ?」
「いえ、この前四条先輩と話す機会があったんで、そこで聞いたんです」
「へぇ結がねぇ」
何か含みがある陽先輩。陽先輩は以前から人を見透かすような所があったけど、今回は違うように見える。なんだろう……なんか仲の良い友達をからかう時のような、そんなニヤついた笑顔と同じものを感じる……まぁ陽先輩がそんな表情をする筈がないんだけど。
陽先輩は続けて、口を開いた。
「それで、結は何か添ちゃんに話した?」
「そうですね……兄と仲良くなった経緯とかは聞きましたけど……」
「経緯? どんなこと言ったの」
「えっとその……陽先輩が兄を好きな事が気に入らず、ちょっかいを出したのが、きっかけと……聞きました」
嘘ついた方が良かったかなと、後悔する。いくら兄の事を好いていた事がバレバレでも、本人は隠していたしそれに……振られた筈。そんな彼女に、言うのが正しかったのか、自信がない。
現に今、陽先輩は俯いてしまっている。腰にかけられた布団を握り、体が震えていた。
それに声が出で……え、声?
「くくく……アハハハッ、結ったらそんな事言ったの」
唐突に笑う、陽先輩。彼女の声は病室に響わたり、私は笑い声に包まれた。
この時の私は呆気に取られていた。だって、陽先輩がこんなに声を上げて笑う所なんて初めて見たから。高嶺の花である彼女が、そんな俗な行動をするのが意外で……それこそ、目の前の景色を上手く処理出来ない。
「ハァ……面白かった。それで、何か他にも話してた?」
「……えっ、誰がですか」
オウム返しになる私。
それに対し、陽先輩は口を開いた。
「結が添ちゃんに。お兄さんの件だけだった?」
「えっと……いえ。それ以外にも陽先輩の事で、お見舞いに言った方がいいと勧められました」
「そっか、それで添ちゃん今日来たんだ」
「それもありますけど、入院が長くて心配でしたから……でも、元気そうで良かったです。退院はいつ何ですか。今年中には退院出来そうですか」
「退院? 結とかから聞いてない?」
首を傾げる陽先輩。それにつられ、彼女の長い髪が揺れた。私にはない、それに私の目は惹かれる。
「特には……あ、けど四条先輩は何か陽先輩から私に話しがあるって言ってました。本人から聞いた方が良いとか言って」
「……そっか、そうだね。その方がいいね」
「何かあったんですか」
「うん、えっとね……前から言おうとは思ってたんだけど……実は私もう退院出来ないんだ」
「えっ、それって……」
「うん、もう治らない」
高嶺の花、彼女の事をそう思っていた。
でも……その日、私は幼馴染でお姉さんだった、彼女の本当の姿を知った。
ーーーーーーー
陽先輩が語った話は信じ難いもので、身近にいる人がそんな、運命を背負っているなんて、思ってもみなかった。けど……何処か納得する私もそこにいた。
「……驚かないんだね。これまで聞いた人達は、みんな動揺してたけど」
「いや……驚いてはいます。いきなりこんな話を聞かされて。てっきり治るもんかと思っていましたから。でも……腑にも落ちたんです」
「というと?」
「何処か底知れなさを感じていましたから。陽先輩には」
感じていたことを口にする。それを聞いて、陽先輩は、目を細めた。
「へぇ、添ちゃんって、私の事そんな風に診てたんだ」
他人を推し量るような、薄暗い感情。時より見せる表情を、この時の陽先輩はしていた。
「そんな、風に見えてたんですよ。同じ女子としては」
「結はそんな風には、私のことを見てなかったと思うけど」
「あの人はそうでしょうね。この前初めてまともに話しましたが、なんとなくそんな感じはしました」
「それだと結ががさつみたいに聞こえるよ」
「そうは言ってません」
「真面目なんだから」
陽先輩の声が明るくなる。
陽先輩を見てると、本当に四条先輩と仲が良いんだと分かる。そして、そんな彼女に、言ったのだろう。自分が、死ぬことを。
「……四条先輩も知っているんですよね。陽先輩の体調のこと」
「うん、知ってる」
「……悲しんでましたか」
「どうだろう。悲しみよりも怒りの感情が強いように見えたけど」
「怒り? どうして」
「色々あるんだよ。それに……本当の気持ちなんて、本人しか分からない」
「………兄への思いもですか」
何を言ってるんだろう、私は。兄の話題でも無いのに、口にだして。
頭で思うより先に、口が開いていた。
外に出た私の言葉。それを前に陽先輩は、表情を正した。
「そう。私の、貴女の兄への思いも私しか知らない。誰も分からない。これは私のものだから」
私のもの、そのように表現した陽先輩がひどく新鮮に感じられた。
陽先輩は続ける。
「人は推測する生き物よ。分かりもしないくせに、人の思いを推し量って、コイツはこの人が好きに違いない。あの人とこの人は両思いだ、とか。好き勝手に言う。本当はどう思っているか、分かりもしないのに」
「……でも、陽先輩は兄の事が好き……ですよね」
「好きよ……でも、私がどれくらいあの人の事を好きかは、分からないでしょ?」
「それは………そう……ですけど」
言葉に詰まる……好きなのは知っていた。でも、どんな風に陽先輩が兄の事を想っていたか、私は分かっていたのだろうか。
自分がもうすぐ死ぬと、一緒に大人になれないと分かっていて、それでも想い人の側に居続けた彼女の気持ちを、私は分かってない。分かるはずがない。
私は小さく口を開いた。
「……兄にも言ったんですよね、体の事」
「言ったよ」
「……兄に、体の事を言ったのはどうしてですか」
「……死ぬのが怖くなったから……じゃないかな」
「陽先輩は、そんな、弱い人には見えません」
「……弱い、ね」
……部屋が暗くなり始める。日が沈み始め、照明がついていない室内は光を失い始めた。
「私は、弱い人間だよ。死ぬのは怖いし……告白も、するつもりじゃなかったから」
「………」
「ねぇ、悪いことなのかな」
「何が、ですか」
「もうすぐいなくなると、分かってる人が、好きと告白するのはいけないことなのかな。好きという思いを抱いちゃいけないのかな。私に、その資格は無いのかな」
「……」
「……ごめんね、しんみりさせちゃって。私は、添ちゃんが思っているほど強くないし、それに臆病なんだよ。正しいって何か分からなくなる。自信が持てなくなる……告白した事が正しかったのか、今も分からない」
「……でも」
「ん?」
「後悔してないですよね」
そう思えたし、それに……後悔してほしくなかった。
陽先輩は私の言葉を受け、気が抜けたような、呆けた表情となる。
「……貴女は本当に、あの人の妹さんなんだね」
「と言うと?」
「貴女のお兄さんにも同じこと言われた。そして、それは正解」
陽先輩は、思い返すように、途切れ途切れに、言葉を紡いでいく。
「長年貴女のお兄さんの事は想ってた。好きだって言いたかった……だってずっと側にいたんだもん。だから……私の想いを伝えられて、気分が良かったの。最も、これは呪いかもしれないけど」
「呪い、ですか」
「そう、呪い。人に想いを一方的に伝え、相手を縛る物。呪いと変わりないよ」
陽先輩は笑う。誤魔化すように、隠すように、想いを見せないように笑う。
兄は苦しんでいた。あの日、電気を点けていない暗闇の中、兄はうずくまっていた。悩んでいた。きっと、陽先輩が告白しなければ、兄は悩むことなく、いつものように過ごしただろう……陽先輩の気持ちに気づかずに。
でも……それは……
「悲しいです」
「何が?」
陽先輩は聞き返す。
そんな彼女に、私は目を合わせる。自分が今、抱いている思いを伝えるために、陽先輩の考えを……正したいから、私は口を開いた。
「想いを伝えることが呪いだなんて、そんなの悲しすぎます。呪いなんかじゃないです。絶対」
「添ちゃん……」
「確かに兄は悩んでいました。でも、それはどう答えるべきか考えていただけです。陽先輩の気持ちを迷惑に思うなんて事はありません。逆に嬉しかった筈です。陽先輩に想われて……告白されて……それが呪いな筈がないです」
呪いの筈がない。だって、そんなの……悲しすぎる。想いが呪いだなんて、そんなこと……信じたくはなかった。
陽先輩は、私の言葉を聞き目を閉じる。ゆっくり、何かを思うように。
目を開けた時、先輩の瞳はいつもより潤んでいるように見えた。
「ありがとう添ちゃん。そう言ってくれて……救われたよ」
「救うだなんてそんな……」
「本当だよ。後悔してないと言っても、やっぱり気にはなってたんだよ。迷惑じゃなかったのかなって。でも……貴女が言うなら、きっとそうなんだね」
「陽先輩……」
陽先輩は、指で、目元を拭う。そして、ベット脇においてある置き時計を一瞥した後、口を開いた。
「こんな時間、もう遅いから帰った方がいいよ。ご両親も心配するだろうし」
「……分かりました。また来ますね」
「うん、お願い。私も添ちゃんに会いたいから」
私は、椅子から立ちあがり、ベットに佇むように先輩に手を振る。陽先輩も答えるように手を振り返してくれた。
陽先輩から背を向け、廊下に出ようとする私。そんな時、背後から声が聞こえた。
「呪いじゃないよ」
「えっ?」
思わず、立ち止まり、私は振り返る。そこにいた彼女は、記憶の中で1番、優しい顔をこの時していた。
「兄妹の、血のつながりは呪いなんかじゃないよ。それに……貴女の想いも、呪いなんかじゃない」
「……嫌じゃないんですか。想い人をこんな、人物に取られるかもしれないのに」
「貴女だからこそ、いいの。貴女なら広を幸せにしてあげられる。だって……貴女は」
「広が好きな人だから」
言われた言葉、再び突きつけられた想い。けど、今はあの時みたいに、逃げ出したいとは思わなかった。




