表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/72

63話 カメレオン 〃

 変わって欲しくない。


 彼女の、川瀬さんの言葉。その言葉は驚くほど私の奥、その隅々へと行き渡った。

 たぶん、それは……私が探していたものだった。他人に影響される、変わりやすい自分。だからこそ、私は……欲しかった。自分という変わらない、確かなものを、ずっと……探している。


ーーーーーーー


「変わってる」


 一人、私は曇り空の下、呟く。

 休日、私はかつていた大学の門前にいた。そこから見える大学は随分と記憶と異なっていた。さして高くない時計台は、新築され簡単に気がつくほど高い時計台に。灰色にくすんでいた校舎は、塗装されたのか、真っ白に。コンクリの地面から所々顔を出していた雑草は、舗装されその影をなくし、駐輪場からはみ出ていた自転車は、駐輪場自体が移動したのか、無くなっていた。頭の中にあった小汚い大学の姿はもうない。

 私は羽織っているダウンのポケットに手を入れると、入っていたものを取り出す。


 写真である。大学卒業の際、記念に撮った、人が主体ではない写真。私はその写真を眼前に持っていく。そして、目の前の光景と重ねた。


「……」


 言葉は……出なかった。記憶のみの時より、受けた印象はずっと、大きなものだった。


 そんな折、吹いてきた風が私を包み込んだ。

 冷たい、けれどさほど強くない風。だが、紙を連れ去るには十分だった。持っていた写真が離れ、宙へと舞う。風は、写真と先程まで私が抱いていた観念を奪い去っていく。

 観念の方はいい。だが、写真の方は、取られては困る。

 風の流れに乗り、大学内へと入っていく写真。その後を追うように、私は大学卒業以来、久しぶりに大学の敷地を跨いだ。


 大学には、休日ということもあってか人はほとんどいなかった。

 だからこそ、風に舞う写真を追う男の姿など、怪しく思われることなく、私は人の目を気にすることなく、写真を追う事が出来た。

 最も、それが良くなかった。私は人気を気にしないあまり、目の前の存在に気づかなかった。


 風に舞っていた写真は、始めは私の身長より高く保っていた高度を落としていくと、やがて地面に触れ始める。だが、それで写真が止まった訳でない。

 風に引きずられながら、地面の上を流れていく。いつ止まるのか、心配になった頃、ようやく写真は、障害物に引っかかり動きを止めた。


 安堵しながら、私は走っていた足を緩め、止まった写真に近づく。その障害物が何なのか知らずして。


「崎島君か?」


 突如して私の名が呼ばれた。その事に驚くと共に、私は気づいた。写真が引っかかった障害物は、人の履く靴だということ。

 そして目の前にいる人が、大学生時代、私が所属していた研究室の教授であるということに。


ーーーーーーー


「……綺麗になってますね」

「あっ、分かる? そうそう流石に歳だからねぇ」


 先生に誘われ入った部屋は、かつて私が学生で入った時よりも随分と雰囲気が違っていた。

 学生の頃は、学生のレポートと思われる書類の山がデスクに積まれており、入るたびに崩さないよう、ダンボールにて埋もれた床を進みながら、気をつけたものである。

 その面影はもうない。書類の山も、何が入っていたか結局分からずじまいだったダンボールの軍団も、無くなり、あるのはデスクとPCと……と、ここで戸棚にあった書籍が無いことにも気がついた。


「もしかして先生、大学辞めるんですか」

「うん、さっきも言ったけどもう年だからね。大学を辞めてこれからは年金生活に入るんだ。この部屋も新しく入る先生に受け渡す事になる」

「それで片付けていたんですか」

「そうじゃなきゃ私が片付けられるわけ無いでしょ」


 そう言って先生は笑う。年のせいもあってか、カラカラと乾いた、けど裏を感じさせない笑い声だった。

 でも、先生とは違い私は笑えない。私には先生の部屋が大学の景色と被って見えた。


「それは……寂しくなりますね」


 口から出た言葉。それを聞き先生は、近くにあったマグカップを手に取った。


「コーヒー飲むかい」

「えっ、いやいやいいですよ。直ぐに帰りますから」

「ほぅ、恩師に向かってそう言う態度を取るのかい」

「自分で恩師って言いますか……ですが、まぁはい。一杯だけ頂きます」

「宜しい」


 先生は、コーヒーの支度を始める。それを横目で見つつ私は椅子に座った。


ーーーーーーー


 真っ黒な水面ではなく、少しクリーム色が混じった茶色の水面が、マグカップに満ちていた。

 熱がマグカップから、手に伝わる。そして、ほんのり甘みがある味わいも、私の心を氷解した。


「ブラック……ではないのですね」

「昔は徹夜続きでそうだったが……今はすっかり甘党になってね。いやはやこれも年のせいかね」

「ハハ、そうかもしれませんね」


 だが、今日はその甘さが、私を満たしてくれた。


「……落ち着いたかい」

「えぇ、お陰様で少し……落ち着きを取り戻す事が出来ました」

「そうか、それは良かった」


 そう言い、向きあって座っている先生は、ゆったりとした動作で持っていたマグカップに口をつけた。

 それから暫し、音が無くなった。私も先生も、黙ったまま手に持っている、湯気が立つマグカップに口を幾度かつけていく。

 先生の部屋がある構内も、いやそもそも大学内にさえ物音が聞こえない。私と先生しか、この世界にはいないように思えた。

 そんな不安定で、だが何処かで安定さえも感じられる今、私の心は何処か今ではない昔を旅しているかのように陥る。

 そんな時先生が口を開いた。


「もうそろそろ聞いてもいいかい。何で大学に来たのか」

「……」

「懐かしくなって来るような人間ではないだろう、君は」


 同じく椅子に座り、同じ視線の先生の言葉。だが、この時の私は先生と目を合わせず、残り僅かになったコーヒーの水面を見ていた。熱はもうない。湯気はもう出ていない筈なのに、私には白い空気が見える気がした。


「私って、何でしょうかね」

「……何かあったのかい。教職の仕事で」


 視界外からの先生の言葉。その言葉によって私は思い出す。


『貴方って……誰なの』


 妻の言葉。そして……


『変わりたくないから撮るんです』


 彼女の言葉。私は口を開く。


「少しだけ……ですが。でも……これは昔から思ってた事なんです」

「というと?」

「私は……影響されやすんです。いつも他人の真似事。教職についたのだって兄を真似たから。この研究室に入ったのだってクラブの先輩の真似事ですよ」

「それぐらい誰だってあるだろう。私だって大学の先生になろうと思ったのは、教授だった父の影響があったからだよ」

「違うです。そうじゃなくてただ私は……」

「……」

「私が欲しいんです」


 口から出た言葉。重々しくもなく、かと言って弱々しくもない。きっと声に色がついていたら、私の今の言葉は透明なのだろう。

 染まらないし、染めない。私の色などそこにはない。今にして思えば、こんな私が、生徒を導く教師など何かの笑い話かと思えた。

 手に持っているマグカップには、まだ僅かにコーヒーが残っている。でももう飲めるような気がしなかった。


 先生はしばらくの間黙っていた。そして、先生は口を閉ざしたまま、私に手を差し出してきた。


「コーヒー、冷めてしまったね。もう一度入れ直そう」

「いや、いいです」

「いらない……のかい?」

「……飲みたくないので」


 失礼と思われかねない言葉。だが、先生は私の返答に一言、そうかと言うと、席を立った。

 未だ、顔を上げれず、頭を垂れる私……音が聞こえた。瓶を開ける音。砂を掬うかのような音。おそらく先生が自身の分を入れ直しているのだろう。

 その時、先生が声を発した。


「どうして、私の提案を断ったのかい」

「えっ、どうしてって」

「飲みたくないから、君はそう答えた。だか、それは可笑しくないか」

「可笑しい? どうして」


 そこで、ようやく私は顔を上げる。案の定、この時先生はコーヒーを入れ直している最中で、私に背を向けていた。だから、先生がこの時、どのような心づもりで発言したのか、私には理解しきれなかった。

 

「もう一度問おうか、何故君は私の提案を断ったのか」

「……飲みたくないから」

「それは誰の言葉だ」

「誰のって……」

「君は、影響されやすい人間だと言った。自分という存在がないとも取れる発言もした。なら、君の先程の言葉は、誰からの影響なんだい。誰から引用したものなんだろう」

「それは……」

「まさか、年上でかつ恩師とも言える人物の心遣いを、貶すような行動を取る人物が身近にいて、なおかつその人物の行動を真似た、何て言うんじゃないだろうね」

「いや……違います」

「なら君は居るじゃないか」


 そこで先生は、私の方へ振り返る。先生の手には湯気がたっている2つのマグカップが握られていた。


「確かに君は他人と比べ影響されやすい人間かもしれない。研究室にいた時のように、周りに合わせ、カメレオンのように環境に対し変化し続ける人間かもしれない。でもね、カメレオンがカメレオン自身であるように、君は君は君自身だよ」


 先生は、湯気がたったマグカップを一つ差し出す。私はそのマグカップへと視線を移す。それを暫くの間私は見つめた後、湯気が消えぬ内に受け取った。


「カメレオンって、私そんな風に見えてましたか?」


 受け取ったマグカップから熱が伝わる。その影響かは分からない。だが、少なくとも私の出した声は、私が思っていたよりもずっと、暖かなものだった。


「見えてたよ、私から見ればね。だから、そんな君が貴音さんと付き合っていると知った時は驚いたよ」

「そんな風に思っていたんですか。てっきりその手の話題には興味がないのかと思っていましたよ」

「私だって妻子がある身さ。その手の話題くらい興味はある」


 そう言い、先生は私の前に座ると、顔を綻ばせながら持っているマグカップに口をつける。そして、私も先生に習うようにマグカップに口をつけた。


ーーーーーーー


 昔から知りたかった。私は誰なんだろうと。けど、その質問に答えてくれる人は誰もおらず、だからこそ私は他人を真似た。少しでも誰かになろうとした。

 でも……そんなこれまでの二十数年間悩んできたものは、簡単なものだったのだ。私はここに居る。ここに居ていいのだ。

 そして、そんな昔からの願っていた答えを手にしたとき、私の胸に湧いてきたのは、たったひとつの、シンプルな願いだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 更新有り難うございます。 続きを楽しみにしております!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ