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52話 照らすもの(視点:川瀬広)

 寂しそうな子だった。ずっと本を読んで、誰にも交わらず、誰の輪も入らない。ずっと一人。

 助けてあげたい、初めはそんな上から目線の思いだった。


 ……けど、助けられたのは僕の方だった。小学生の頃も。そしてそれ以降も。

 

『川瀬さん、その……そんなにじろじろ見られると、恥ずかしい……』


 彼女と僕たち3人はずっと一緒だった。校庭で遊んだし、教室でも遊んだ。


『川瀬君、この本面白いから、良かったら……読んで、ほしい』


 中学に上がり、僕が僕でなくなった頃も、見治と同じように彼女は側にて、僕を僕として扱ってくれてくれた……それが凄く嬉しかった。


『広、この本凄く良かったから、読んで欲しいな。私からのお願い』


 高校に上がって、僕らが一緒にいられる時間が短くなっても、僕らの関係は変わらなかった。ずっと、仲良し3人組。小学生の頃から変わらない、関係。僕は、見治と同じく陽が好きだった。彼女が笑うと僕も嬉しくなったし、それに彼女と一緒に、これからも、大人になっても笑っていたいと思った。


『もう……治らない』


 ……だから、嘘だと、そう思いたかった。彼女と別れだなんて、そんなの、簡単に受け入れるほど僕は、後腐れない性格をしていない。でも、それが嘘だと、思えるほど僕は楽観的な性格でも無かった。だから、僕は、どう思えば分からなくなって、どうして良いか分からなくなって、しまいには泣いてしまった。泣きたいのは彼女の筈なのに。気づかなかった僕には、泣く資格なんてないのに。

 僕の、心の許容量は既に一杯で、これ以上入りそうにない。

 そんな僕を前に、彼女は………口を開いた。


『貴方の事が好きです』


ーーーーーーー


 彼女は消えていた。僕の目の前から。そっくりそのまま、跡を残さないで、僕だけを残して……いや、彼女は消えた訳じゃない。ただ……目が覚めただけだ、僕の目が。

 

 辺りは一面真っ暗な世界だった。何があるかすら分からない……分かりたくもない。

 考えたくなかった。ただ、このままずっと、暗闇の中に飲まれていたかった。

 光なんて……見たくなかった。


 しかし、そんな僕の思いに反して、光が現れる。

 最初こそ、現れた光は微量で、直ぐにも消えそうな程小さかった。でも、光は消えず、辛抱強く、時間をかけて大きくなっていった。


 それに伴い、部屋が照らされる。闇のベールが、剥がされる。

 

 部屋の中には、少なからず物が鎮座していた。テレビに、ゲーム機に、本棚に、学習机に、僕が今寝そべっているベット……なんだ、僕の部屋だったのか。


 今更ながらにそう思う。でも、だからといって僕は態度を変えない。変わらず寝そべり続ける……ただ、光を遮るように、腕で目元を覆いながら。


 だから、誰が居たのか、その時は分からなかった。ただ、その部屋……いや正確に言うと、ドアを開けた人物は、声を出してきた。


「兄さん、晩御飯だけど……食べる?」


 甲高い声、それに僕の事を兄さんと呼ぶ人物は一人しかいない。顔を見ずとも、声の主が誰なのか、僕には分かった。

 ……分かっただけだ。


「いらない」


 突き放すように、僕は言葉を出した。


ーーーーーーー


 突き放した筈だった。それこそ、いつもの、僕の知っている妹なら憎まれ口を叩きながら部屋を出た筈だ。

 なのに……なんで、なんで妹は部屋を出ていかないんだ。

 それが、まず初めに僕が抱いた違和感。そして2つ目は、彼女が発した声が、責め立てるようなものではなく僕を心配するかのような声だった点だ。


「何かあったの、兄さん」


 妹は声をかけてくる。ベットに変わらず寝そべっている僕に向かって。

 普段の僕なら、喜んだかもしれない、妹に気をかけてもらったって。あるいは寧ろ嫌悪したかもしれない。情けない所を見せた己自身を。

 でも、今の僕は違う。今の僕はそんな事すら、思い浮かべず、また何か思いを抱くことすら出来ない。

 ただひたすら、心が泥の中に、より冷たく、より動きづらい深淵へと落ちていくように、僕の心は動かない。

 ただ、思考だけが、幽体離脱した魂みたいに無意味に空回りし続ける。

 

「何でもない」


 先程と同じように突き放す言葉を僕は妹に投げつける。失礼だと分かりつつも、心では思えない。分離した行動。

 けど、そんな僕の言動に、変わらず妹は、その場から離れず、まして声を再度かけてきた。


「何でも無くはないよ。だって、兄さん具合悪そうじゃない」


 先程と変わらず心配そうな声。

 でも、そんな事を、そんな声を今は聞きたくはなかった。僕は……1人にしてほしかった。繋がりを……断ちたかった。

 僕は閉じられていた口を、ほんの少し開けた。


「ほっといてくれ」

「ほっといてくれって、大丈夫な人はそんな事言わないよ」

「なら、どう言えば満足するんだ。元気ですって言えばいいのか」

「違う、そうじゃなくて」

「なら、何て言えば満足するんだ」

「何があったのか」

「……」

「私に言ってほしい。聞きたいの何があったか」


 ……何で、こんなに人生は思うようにいかないんだろう。

 妹を好きになってしまったことも。そして、それが他人にバレてしまったことも。

 こんな時に、こんな……言葉を言われるのも。

 

 何もかも……おかしな人生だ。不幸を振りまく神様のせいだ……彼女があぁなってしまったのだって、きっと……


「……告白された」

「えっ……誰に」

「陽に」


 僕は言った。変わらずベットに寝そべり、闇に染まっている天井を見上げながら。

 そして戸口側、光の只中に立っているであろう妹は、直ぐには答えなかった。


 言葉にならない声が微かに聞こえる……それくらいだった、妹の方を見ない僕が、妹に対し分かった事は。

 でも、言葉にならない声は、やがて意味あるものへと変わっていく。そこまでにそう時間はかからなかった。


「……何て、答えたの」


 ようやく聞こえた言葉。それは風の音でもかき消されてしまいそうなほど、小さく、力弱かった。

 でも、気にはならなかった。だって、質問自体は普通のものだったから。

 だから……たちが悪い。

 僕は口を開く。妹の質問に対する答えを言うために。


「答えてない」


 ……きっと、僕の声も風が吹けば消えそうなほど弱かったと思う。けど、僕が妹の声を拾ったように、妹もまた僕の声を拾ってくれた。


「答えてないって……どういうこと」

「そのままの意味だよ、僕は彼女の告白を無為にした。何も言わず、答えず逃げるように陽の前から立ち去った……彼女がベットから動けないのをいい事に」


 そして、僕は思い出す、今でもあそこにいるかのように。彼女の涙を、息遣いを。そして……僕が起こした行動も。

 今でもあの場にいるみたいに、鮮明に思い出す。でも、時間は流れ、今は夜、そしてここは病院ではなく僕の部屋。今が現実。情けなく逃げ出した僕がここにいた。


 今度こそ、拒絶されると思った。最低だなんだと非難されると思った。それだけの事を僕はしたのだから。

 ……でも、妹は非難の声を直ぐには挙げなかった。暫くたってから彼女が口にしたのは別の、ことだった。


「……ひどい世界だよね。皆、何かを思ってる。けど、皆その通りにはいかない。違う道に行く人もいれば、道を前に足踏みしてる人もいる……馬鹿なふりして他人に危害を加える人もいる」

「……添?」

「でもね、道を行く人の覚悟は、無下にしちゃ駄目だと私は思う。だって、その人は悩んだ筈だから。悩んで悩んで、悩みまくって……そうして、出した結論の筈だから。だから……」


「兄さんも、逃げちゃいけないと思う。陽さんの思いに答えるべきだと思う」


 その時、僕は天井から、妹の方へ目を向けていた。

 だから、今の妹が、顔を赤くして、瞳に力を入れて話しているのが分かった。


 ……だから、心に響くんだろう。彼女が本気だと、覚悟していると分かるから。

 その覚悟が、僕の中にある暗闇を吹き飛ばす。そして……僕の道が……見えた。


「……参ったな、添はいつも僕の心を動かす」

「兄さん?」

「でも、ありがとう……お陰で目が覚めた」


 僕は妹に微笑んだ。心の底から、感謝の気持ちを乗せて。

 そしてそのまま僕はベットから立ち上がると、クローゼットを開ける。そして、中を物色しながら僕は妹の顔を見ずに口を開いた。


「添、お母さんに言ってくれないか、夕ご飯はいらないと」

「えっ……良いけど、どうしたの」

「出掛ける」

「出掛けるって……まさか今から?」

「うん、今から」

「今行っても、もうこんな時間だし会えないよ」

「隠れてでも行くよ」

「兄さん……」


 僕はジャケットを掴むと、部屋着の上へ羽織った。今は着替える時間すら惜しい。

 そして、僕は部屋の出口へ向かう。当然そこには妹がいた。


 同年代の子と比べ、小さく童顔な妹。

 その大きな丸い黒い瞳も、可愛らしく自己主張する鼻も、薄い唇も、華奢な体も、僕の知っているあの頃から変わらない。


 一つ年下の彼女。僕と血の繋がった彼女。同じ一つ屋根の下暮らしている彼女。そんな彼女と一緒にいられて僕は……


 彼女の横を通り過ぎる際、僕は口を開く。あっさりと、でも心の底から思う言葉を。


「ありがとう……妹でいてくれて」


 僕は階段を降りる。そして、そのまま一直線に玄関から外に出た。それに気づき、両親が声をかけてくるより前に、僕は自転車に乗ると、目的地に向け一直線に、漕ぐ。力いっぱい、これまでの数少ない人生の中で一番踏ん張ってペダルを漕いでいく。


 そして、そんな僕の頭上には、これからの道を照らすかのように月明かりが、降り注いでいた。

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