48話 覚悟するしかない(視点:崎島教助・愛梨陽)
誰も居ないリビング。
誰も居ないキッチン。
誰も居ないトイレ。
誰も居ない浴槽。
誰も居ない寝室。
何処を見渡しても、彼女は居ない。あるのは出ていってしまったという事実のみ。
この家には、事実が染み付いている。消そうとしても消せない程に。
そして、その家に変わらず生活している私は、その事実に染まってしまったのだろう。
居ないという事実が、私の心に巣をつくる。心は感情だ。
そして、私が変容した心で感じた思いもまた、事実なのだろう。
私は、寂しいとは感じなかった。私が感じたのは、虚無だった。
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いつかは起こるとは思っていた。避けられない事だと。
だが、それを我が校は受け入れ、その決断に私も同意した。
1年の頃から私が受け持つ事になったが、それを嫌だとは私は思わなかった。
正義感から出た行動だ。兄のような教師を見てきたからこそ、受け入れられた。
だが、今にして思えば、それは認識の誤りだ。
正義感で動いていた訳ではなかった。私はただ、実感していなかっただけだ。
彼女が死ぬという事実を、受け入れられていなかった。そして、それは病室にいる彼女を前にしても、同じだった。
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病院特有の鼻につく匂い。明るい表情の看護師とは反対に、暗い表情の病人達。異様な程清潔な内部。大勢の人が居るはずなのに、そうとは思わせない程に静まっている雰囲気。
変わらない。ここは何もかも異質であり、そして死の気配がある。
なのに、彼女は、私の目からすれば生の気配しか見えなかった。
病室にいる彼女は屹然としていた。
彼女はベットに半身を起こし、本を読んでいた。
背筋を神経質に思える程起立し、同じ間隔でページを捲る姿は、教室でいつも目にしているのと変わらない。
刻々と死が迫っている筈なのに、それでも彼女はまだ生を体現していた。
「あっ、先生。こんちには、何時もお見舞いありがとうございます」
彼女が病室入口に立つ私に気づいて、声をかけてきた。
明るく、穏やかな声。ここにも死の気配はない。そして、そんな彼女だからこそ、私もまた彼女の前では多少穏やか気分になれた。
「こんにちは、愛梨さん。お邪魔では無かったですか」
「お邪魔だなんて、とんでもないです。個室だから静かなんですけど、寂しくもあるんです。だから、お見舞いに来てくれるだけでも嬉しいです」
「それは、お見舞いに来たかいがあるというものです。どうぞ、今週の分です」
私は、彼女のいるベット側に近づくと、近くにある丸椅子に座る事なく、立ったまま持っているビジネスバッグを開ける。そして、中からプリントが入ったクリアファイルを取り出すと彼女に手渡した。
「ありがとうございます。わざわざ毎回手渡して来てくれて」
「いえいえ、とんでもない。教師である私にはこれくらいしか出来ませんから」
「そんなことないですよ。何時も助かってます。学校に通っていた時……だって……」
彼女の声が止まる。
口が半開きのまま、閉じられていない。そのような格好は入学当初から彼女を見てきた身としては珍しく感じる。だか、同時に不思議では無いとも思った。手渡したプリントの内容を鑑みれば当然の事。
普通の高校生なら。
「……そっか、もうそんな時期……何ですよね」
クリアファイルの表面をなぞるように彼女は手を触れる。手渡したクリアファイルには、何の色も絵も入っていない。だから、中身を取り出さなくとも、一番上のプリントには何が書かれているか分かる。
一番上のプリント。それは来週行われる修学旅行を通知するものだった。
「……やはり、厳しいですか」
私は口を開き、そして声を出した。
しかし、それは愚かという他ない。実感が無かったとは言い訳にはならない。何故なら、私は聞かされていた。彼女がどのような容態なのかを。
私の声を聞き、彼女は手に持っていたクリアファイルから、顔を上げる。そして、彼女は、口を開いた。
「無理ですよ。だって、私はもう退院出来ないですから」
彼女は笑う。何でもないように、それこそ、友達との会話みたいに、自然に、笑う。
……普通の教師なら、何か思う所があったかもしれない。けど、少なくとも私が思う私は普通の教師じゃない。
最低の教師だ。自分の意見がない、他人を導けない教師。
だからこそ、彼女が脱線していた話題を元に戻したのを、私は止めず、見逃した。
「……先生には、お世話になっています。だって、部員で残っていた3年生が卒業して本来なら廃部する筈だった読書部に、私を入部させてくれるのを後押ししてくれてたのですから」
「……当たり前です。生徒の後押しをするのが教師の約目ですから」
「それに、二人だけの読者部で、規定部員数を満たしていないから、廃部するのが当たり前なのに、校長先生に直談判して存続させる許可を取ってくれもして……本当に助かりました」
「いえ、そんな事はないです。先程も言いましたが当たり前の事です……それに、読者部はかつての私が所属していた部ですから、個人的にも廃部して欲しくなかったんです……顧問はやれて挙げられませんでしたが」
「仕方ないですよ、写真部の顧問をやっているのですから……寧ろここまで力を貸して下さり有り難かったです」
頭を下げる彼女。
そして、頭を上げた彼女は先程と変わりない人の良い笑みをしていた。そんな彼女を見て思い出すのは先程の彼女の言葉。
私はもう退院出来ないですから。
何気なく言った彼女の言葉。その言葉が目の前にいる彼女と重なり合う。悲壮感なんて少しも感じさせない彼女。
その活力は、元気は一体何処から出るのだろう。一体どうやって、自身と向き合ったのだろう。
知りたいと思った。
教師と生徒という関係なしに、ただ一人の人間として私は知りたいと思ってしまった。
そしてスーツ姿である私は、ベットにいる入院服姿の彼女に、先程の脱線した話題、いや本題を蒸し返した。
「……川瀬さんは、どう覚悟したのですか」
「……覚悟ですか?」
首を傾ける彼女。あどけなさと共に、大人のような余裕を感じさせる。
彼女のいる病室は平穏そのものだった。
半開きの窓から心地よい風が絶え間なく流れ、レースのカーテンによって弱められた西日が部屋に充満する。
そしてその平穏は、次の私の言葉でも揺らぐことは無かった。
「自身が死んでしまうという事実にです」
外に出された死という単語。
それは、教師という肩書が無くとも、言ってはいけない禁句とも言える言葉だ。
それを私は口にした。他でもない彼女の担任である、この私が。
しかし、それだけ事は深刻で、切羽詰まっている。それが伝わったのだろう。
彼女は、浮かべていた笑みを退かせ、真顔に近い表情へとなった。
彼女は私から視線を外す。何処を見たかは分からない。少なくとも客観的事実を述べるとしたら、彼女は壁にかかっていた時計を見つめていた。
この時、針は午後の6時を指していた。
「……覚悟するしかないんですよ」
紡がれた彼女の言葉は、強くも無ければ、優しくもない、その中間でもない。
事実のみを伝えるかのように淡々としていた。
「だってそうでしょ、どんな事をしても救われる訳じゃない」
「……」
「死という現実、そこから逃げる事は出来ない。なら」
「覚悟するしかない……本人の都合関係なく」
私は口を挟んだ。自らの意思で。
そして、そんな私の行動に気分を害さなかったのか、彼女はその真顔に近い表情を変えることなく、私へと目線を合わせた。
「……これが私の答え。納得出来ましたか」
「納得……出来たか分からない。でも」
「それを含めて、覚悟するしかない」
そこで私は一息つく。そして、凝り固まっていた表情を軟化させ、崩した。
「ありがとう、川瀬さん。生徒に教えられるのも悪くないですね」
「いえ、そんな事無いです。人生経験の浅い16歳からの助言です」
「年齢は関係ないですよ、現に私は良い助言を貰えました」
そこで、私は言葉を一区切りする。
そして、先程より一段階ほど声のボリュームを下げ、声を出した。
「……聞かないのですか、どうして私がそんな事を聞くのか」
「聞いたら、答えてくれるのですか」
「努力はします」
「それって答えたくないって事じゃないですか」
「それも、そうですね。失言でした。答えます、ハッキリと明確に」
かしこまる私。一方、彼女はと言えば、真顔を崩しまたもや人の良い笑みへと戻っていた。
「別に良いですよ、聞かないであげます」
「……良いのですか」
「いいもなにも、先生のプライベートに突っ込めるほど私は図々しくないので」
そう言って彼女は笑う。
その笑みはとても不治の病を持っている人には見えない。ごく普通にいる女子高生にしか、見えない。
強い、とても。私よりもずっと。
私も彼女のような強さを手に入れられるだろうか。彼女のように自身の道を自覚出来るだろうか。彼女のように、覚悟、出来るだろうか。
……いや、やるしかないのだ。私は、妻か、川瀬さんか、あるいは両方か、決めるしか、ないのだ。
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分かってた。
先生が何であんな事を聞いたか。
添ちゃんだ。
彼女の思いが先生に伝わった。先生があれだけ悩む程に。彼女は先生を好いている。私の思いとは反して。
でも、そんなことは今はどうでも良い。今はただ、あの思い、あの言葉が頭の中を駆け巡ってる。
起き上がっていた半身を倒す私。
枕に頭をつけた私が目にするのは、真っ白な天井。どこも汚れてなんかいない、さながら真っ白なキャンパスのよう。
人は手渡されたキャンパスに絵を描く。思い通りの絵を、望む絵を。でも私に手渡されたのは、真っ白なキャンパスなんかじゃない。思い通りの絵なんて……かけない。
「覚悟するしか、なかったんだよ」
呟いた言葉。誰も居ない病室には、その言葉は驚く程響き、そして、私に染み渡った。




