47話 何もくれない(視点:川瀬添•愛梨陽)
翌日、私は市内にある病院にいた。
勿論今回来たのは医者に診てもらう為じゃない。別の理由。陽先輩のお見舞いの為。
思えば、陽先輩が入院してから、一ヶ月近く私はお見舞いに言っていなかった。
陽先輩が倒れた直後、私は別の事で頭を悩ませていたというのもあるけど、それでも一ヶ月近くも放置し続けて来たのは言い訳のしようがない。
やっぱり可笑しかった、最近の私は。
普通に過ごしてたつもりだったけど、全然そんな事なくて、ただ考えなしに生きてきただけ。
けど、そんな生活とはおさらば。変わるって決めたんだから。だから……陽先輩のお見舞いに来たんだ。
お見舞いの理由として、陽先輩を心配しに来た事もあるけど、別の理由もある。陽先輩に聞きたかった、人が傷ついてしまう時どうすればいいか。
昨日の兄さんの言葉を真に受けたつもりじゃないけど、それでもあの言葉には一理あった。それに、変わりたいと望むなら、彼女に会ってみるべきだと思った。
だって陽先輩に対し私は、兄と同じくらい嫌悪してたから。兄とは正反対の理由で。
けど、今は兄と同じように嫌悪はしなくなった。でもあまり積極的に関わる気分じゃない。だからこそ、一ヶ月間も来ていなかったとは別の理由で私は、陽先輩にはあまり会いたくは無かった。
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ただ、一人。狭くもなく広くもなく、心安らぐ、または賑わせてくるものなど一つもない質素な空間に、陽先輩はいた。
けど、陽先輩は、そんな病室という特異な空間の中でも、変わっていなかった。
人の目を釘付けにさせる気品と優美。一人なのに、それでいて孤独を感じさせない佇まい。
私がどんなに望んでも手に入らない、愛梨陽の姿がそこにはあった。
そして、そんな彼女は、劣っている私に向かい、人の良い笑みで、裏表なんてないような声を出した。
「添ちゃんお久しぶり、お見舞いに来てくれたの」
陽先輩は読んでいた本に栞を挟み込み閉じると、私に顔を向ける。
本に興味がない私は、彼女がどんな本を読んでいたかは分からない。ただ、本を読んでいた彼女の姿は様になっていて、そんな彼女を目にするたび、私から本は離れていった。そしてそれは今も変わらない。
彼女の持っていた本から視線を外すと私は口を開いた。
「はい、お見舞いに来ました。これ良かったらどうぞ」
「えっ良いのこれ貰っても」
「良いですよ、といっても安物の菓子折りですけど」
「安物でも何でもいいよ。ありがとう、頂くね」
私が渡した菓子折りに、彼女はまるで小学生のように、明るく、元気一杯に微笑んだ。
知人にしか見せない、クールな陽先輩とは別の活発な姿。そんな彼女を見ていると、とても一ヶ月も入院してるとは思えなかった。
「容態どうなんですか、大丈夫なんですか」
「大丈夫だよ、ただ検査入院で長引いているだけだし。それに、ほらこの通り」
陽先輩は、腕を折り曲げ私に見せつけてくる。上腕二頭筋を見せたいんだろうけど、陽先輩の腕は華奢で、筋肉なんてものは見当たらない。もちろん、不健康というほどじゃない。
でも、健康の証でもないその陽先輩の行動に、私は少し笑ってしまう。
そして、そんな私を見て陽先輩は頬を緩ました。
「良かった、やっぱり添ちゃんは笑った方がいいよ」
穏やかな声で陽先輩は言う。そしてそんな彼女を前にして、私は思わずにはいられない。やっぱり陽先輩は、素敵な人だと。それこそ、兄には勿体ない程に。
そんな私の思いが伝わったのか、陽先輩は再度口を開いた。
「お見舞いに来てくれた人が笑うと私だって元気になるもん。広も良く笑ってくれるから私だって嬉しいし」
「兄が……ですか?」
「うん、広は良く来てくれるよ。それこそ週に二、三回来てるかな」
「そんなに……」
私は言葉を細める。
だって意外だったから。兄がそんなに律儀だったなんて。でも、それは相手が陽先輩だからかもしれない。
男なら誰だって陽先輩みたいな人を好きになるに決まってる。私みたいな人間じゃなくて。
「それは陽先輩だからですよ」
「私?」
「陽先輩だから、兄さんはよくお見舞いに来るんですよ。他の人だったらここまで来ません」
陽先輩から焦点を外しながら私は言葉を口にする。
視線の先には窓があった。窓からは外の景色が見える。木々のある自然豊かな景色じゃなくて、見えるのは灰色のコンクリート、電柱、建築物のつまらなく、けど、当たり前にあるごくありふれた光景。
特別じゃない光景がそこにはあった。そして、そんな光景を背景にすると、彼女はますます特別に見えた。そんな時、焦点のあっていない彼女の口が動いた。
「私は特別じゃないよ」
ドキリとした。
思わず私は陽先輩へと焦点を合わせる。
陽先輩は私の気持ちが分かるのかな。不安になる私。そんな私の気持ちを消すかのように、陽先輩は私の目を見る。じっくりと、そして陽先輩は目を瞑るとゆっくりと首を振った。
「私じゃなくても広はお見舞いに来るよ。それこそもし見治が入院しても。私は……彼の特別じゃないもん」
どうしてそんな事言うんですか。
その言葉が、外に出ることはなかった。その前に陽先輩は続けざまに言葉を紡いだから。
「特別扱いなら添ちゃんの方だよ」
「私……ですか?」
「そっ、貴方なら違う」
そう言って陽先輩は笑う。けど今度の笑みは気持ちのいい笑みじゃなくて、何かを匂わすような、そんな含む所がある笑み。
見覚えがあった、今の陽先輩に。
そう、確かあれは5月の初め。陽先輩と学校の帰り道を共に歩いたとき。陽先輩は私を試すかのような発言をした。そして、あの時私は切り返した。陽先輩は兄の事が好きなんですよねって。
今もそう切り返すべきだった。陽先輩の心に付け込むべきだった。けど、何故か今の私はそれを選択しなかった。
「……兄妹だからですよ」
捨て気味に私は発言する。
そして、そんな私の発言を聞いて、陽先輩は先程の意味深な笑みを変えずに口を開いた。
「どうだろうね……けど、添ちゃんは可愛いんだからもっと自身を持っても良いと思うよ」
突然の陽先輩から、私への褒め言葉。勿論私はその陽先輩の言葉を素直に受け取らなかった。
だって、完璧な女性である陽先輩に言われて素直に受け取れるほど、私は肝が座ってない。
それに……可愛いからといって、態度は変わるものだろうか。だって相手は兄……なのに。
そんな私の気持ちが三度見透かされたのか、陽先輩が再度言葉を発した。
「ねぇ添ちゃん。広のことどう思ってる」
「兄を……ですか」
「そう、お兄さんに貴女はどんな思いを抱いてるの」
真剣な口調の陽先輩。先程の含み笑いは消え去り、今の陽先輩は真面目な顔つきだった。それこそ、正座でもしてるのかと思われるくらい、ベット上の陽先輩は凛としていた。
そして、そんな彼女を前に私は……
「わか……らないです」
中途半端だった。
けど、中途半端に驚いたのは何よりもこの私自身。だって、意外だったから、自分がこんな事を言うなんて、否定しないなんて。
確かに今の兄を私は昔のように嫌悪してない。けど、嫌悪してないなら私は今の兄をどう思っているんだろう。どう感じているんだろう。
分からない。兄妹なのに。
今の兄に私はどんな思いを抱いているか。
悩む私。
それを前に、陽先輩は微かに頬を緩ます。
「考えて見ると良いよ時間はたっぷりあるんだからさ」
そう言って陽先輩は微笑む。
普段の私なら、この陽先輩の言葉を訝しんだかもしれない。けど、この時の私はそんなことなくて、ただ悩んでいる現実から目を背けるように、別の話題を出した。
「時間なら陽先輩もあるじゃないですか」
「……私にも?」
「はい、それこそ兄に思いを伝えないんですか」
「いや……それは……」
「春の時みたいに誤魔化したって無駄ですよ。分かってるんですからね。陽先輩が兄のこと好きなことくらい」
私の言葉に陽先輩は沈黙する。
そんな陽先輩は私から視線を外すと、自身の腰あたりに置かれた手元に目を落とす。
それから、何分経ったか分からない。
どう伝える気でいるのか、どう言葉を選んでいるのか、それともどうやってこの場を切り抜けるかの策を巡らせているのか。陽先輩の思考が覗けないから、分からない。
だから、私の出来ることと言えば、外に出たものから推測するしかない。
だからこそ、沈黙をやぶった彼女の言葉を私は一語一句聞きのがなかった。
「私は……今のままでいいの」
ーーーーーーー
床が落ちていく。
地面に吸い込まれるように、不安定で不安な気分にさせる。
私は一階のボタンを押したのエレベーターの中で、一人壁にもたれかかっていた。
思い出すはあの時、あの言葉の陽先輩の姿。
陽先輩は私に再度顔を合わせてその言葉を言った。まるでそうだと、自分の中で確信しているみたいに。
でも、私から見たらその時の陽先輩は酷く脆そうだった。それこそ、触ってしまったら元に戻らないんじゃないかと思うくらいに。
私には……陽先輩の事がよく分からない。陽先輩は只のお人好しじゃないと思うけど、じゃあ彼女は普段何を考えているのと言われたら多分答えられない。兄のことが好きだと思っていたけど、それももしかしたら勘違いかもしれない。
人は見かけによらない、何を考えているか他人からは分からない。そんな当たり前の事を、彼女を前にすると再確認する。
そんな時、ふと思った。陽先輩じゃなくても他の人だってそうかもしれないと。
見治先輩だって、それに……兄……だって。何を考えているか分からない。私は、兄が変わったのは、あの、誕生日の出来事があったからだと思ってた。
でも、何で兄がそんな事をしたのか、今の今まで気にもしてなかったし、思わなかった。
何で……あの時兄さんは、私の絵を酷く言ったのかな。
久しぶりに思い出したあの日の出来事。そして、あの場面。
けど、せっかく表に現れたその考えは最後まで続かない。
音がなり扉が開く。エレベータは既に一階へと辿り着いていた。開いたエレベーター前には家族だと思われる大人の男女と子供たちが立っていた。
私はそれを確認するとすぐさまエレベータから出た。一瞬無人になったエレベータ。しかし、直ぐにその家族を乗せると扉を閉め上昇していった。
一人残された私。
思考を途切れさせられた私は、その考えを続ける気にはなれなかった。そして、私は兄の事を考える訳でもなく、そして、当初の目的だった陽先輩への相談を忘れたまま家へと帰った。
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久しぶりに見た添ちゃんは変わっていた。
何だか、大人っぽくなってた。私が倒れてから一ヶ月ちょっと、何かが添ちゃんを変えた。けど、病室に囚われている私にはそれが何なのか分からない。
病室じゃなく、今でも学校に通ってたら気づくことも出来たかもしれない。けど、そんなもしもは、ない。可能性を幾ら思い浮かべたって無駄なだけ。
今の、病室に囚われている私が出来ることと言えば、サポートする位。各々の恋を……幾らか恣意は入っているけど。
添ちゃんが教助先生の事を好きなのは分かってる。けど、今の添ちゃんは迷いがあるように見えた。先生の事も、自身のお兄さんの事も。
私としては、添ちゃんはお兄さんである広と結ばれてほしい。だって、広は妹である添ちゃんが好きだから。
広には、幸せになって欲しい。笑ってこの先の人生を過ごしてほしい。その為には隣で一緒に笑い合う人が必要。一人じゃ寂し過ぎるから。
別に一人じゃなかったら誰でもいい。それこそ、私の知らない人から既知の人まで。結や……見治だって誰だって。
でも、やっぱり広にとって一番いいのは想い人と一緒になる事。だから、私の願いは、広と添ちゃんが結ばれるのが一番いい。実の兄妹でも……。
それは過酷な、茨な道。
きっと、傷つかずにはいられない。きっと多くの物を失う。
失い傷付く彼らを誰も助けないかもしれない。寧ろそんな道をいく彼らを、周りの人たちは後ろ指を指すかもしれない。
二人は人並みの幸せを……手にいられないかもしれない。
でも、それでも、実の兄妹でも、私は一緒になって欲しいと願う。
だって、二人には道があるから。幾ら困難で、険しくて、見えづらくても、そこには確かに道がある。
私とは違って。
私には道がない。くっきりと切れている、喪失している。
残る道はもう残り僅か。
だから、いくら願ったって、いくら手を伸ばしたって、いくら足掻いたって、私は先に行く事が出来ない。私は置いてかれる、誰からも。
手を閉じる。
握ったものは、腰にかかった布団。薄く、熱のない布団は何も私にくれない、何も返してくれない。でも、それでも私は握らずにはいられない。
強く、強く、破けそうなくらいに。
私は手を閉じた。




