46話 大切な人(視点:川瀬添)
時間が過ぎていく。カレンダーが捲られるように、ゆっくりと、静かに、けど確実に。一日が流れていく。
けど、そこにあるのは代わり映えしない生活。朝起きて、顔洗って歯をみがいて、朝御飯食べて、学校へ行って、授業受けて、合間に友達と談笑して、部活動をして、家に帰って、夕御飯食べて、風呂に入って、雑誌を眺めて、今日撮った写真を整理して、眠る。そして次の日、何時もと同じように起きて、顔洗って歯みがいて、朝御飯食べて、それで……。
本当に何も変わらない。あれを見る前と同じ生活、同じ流れ。
そして、そんな生活を私は受け入れていた。
「ちょっと添、それ食わないならくれよ。旨そうだし」
「えぇやだよ、楽しみに取ってあるんだから」
「そうですよ戸塚さん、トマトにはリコピンが含まれていて、これは美肌作用があり、女子なら誰もが嗜むもの何です」
「う、うん、その話はまた今度な」
「花……ほんとに何でも関連づけるよね」
友達との会話から。
「川瀬さん、この写真良く取れてますね」
「ほんとですか部長」
「えぇ、消えていく夏への思い、切なさ、そんな代わり映えの効かない場面が克明に表現出来ています」
「ほんと凄いよ川瀬さん。コンクールに応募してみたら良いよ」
「いやいや、そこまでじゃないですよ」
「謙遜することないですよ、応募するに値する絵です、これは」
「そうですか?」
部活動の会話から。
「ちょっと、添。雑誌なんか読んでないで料理手伝ってよ」
「えぇ、やだよお母さん。手伝っても文句ばかり言うもん」
「そんなことないから、ほらこの具材切ってよ」
「えぇー、あっ父さん帰ってきた。じゃ私はこれで」
「ちょっと添、二階に逃げるんじゃないわよ」
家族との会話から。
変わることない生活。ほんとに。
でも、そんな日常は、私にとっては何処かおかしく感じられた。
おかしいって言っても別に、変なイベントに遭遇しているとか、体調が優れないとかそんなんじゃない。
ただ……いつもと違う。
友達と話ても、カメラを覗いても、家族と過ごしても、何処か霧がかかったみたいにはっきりしない。考える事が出来ない。ただ、目の前に出された宿題を解答を見ながら書き写すかのように、呆然と目の前に起こるイベントをこなしている。
そんな……日常だった。
だから……あの時のような、嵐もなく、そして嵐の前の静けさと言った不気味な静寂もない。ただあるのは霧のような曖昧な現状。
けど、そんな代わり映えの生活も私だけの話。皆は、世界は違う。
それに気づいたのは、あの事があった日から一ヶ月ばかり経った時。
いつものように部活を終え、私は家までの登下校を自転車で一人で漕いでいく。
そんな時だった。ふと思った、あれ、こんなにお日様は低かったっけと。
その時太陽は既に地平線に触れ始めていて、西日が私の眼にさしかかっていた。
漕いでいる時はそうも行かなかったけど、信号で止まった際、私は手でお日様を遮った。
眩しいと、ただそう思ったから。
けど、それで何かが変わったかもしれない。何だがいつもより頭が冴えているかのように、周りの光景、音が頭に入る。
明るく灯る外灯。長袖姿の通行人たち。窓を閉めたまま走る自動車。コロコロと鳴く虫の声。
そして……湿っぽくない空気。
風が吹いてきた。ヒューと、弱くもなく、けど強くもない風。けど、そんな風を受けて私は咄嗟に、腕を擦る。そして、そんな行動をした自分が、不思議に感じられた。
だって、あの頃はこんな事はしなかったから。寧ろ風を有りがたく感じられた程。けど……今の私は、吹いてきた風を寒いと思ってしまった。
腕を擦っていた私。寒いと思う事を不思議に思い、そしてあることも不思議に思った。
来ている制服が、シャツではなく、ブレザーになっていることに。
いつの間に、衣替えしたのかな。ふと考える。けど、記憶を辿っても、思い出せない。
夏服であるシャツで過ごしていた、あの季節しか、思い出せない。
いつ変わったのか、分からない。
いつ季節が、夏から秋に変わったのか分からない。あんな暑い暑いと嘆いていたあの日々は何処に行ったのだろう。
いったい何時から肌寒さを感じさせる秋へと変わったんだろう。
いったい何時から、私は、そんな世界に置いていかれたんだろう。
……最後の悩みだけは、答えが分かった。あの時、あれを見てから、私は……置いてかれた、心が何処かに行ってしまった。考えなくなった。
先生に会わなくなったし、先生もまた私に会おうとはしなくなった。
もう、あの頃から先生は部活に顔を出していない。
そして、それを私は寂しいとか、安堵とかそんな……思いすら抱かなかった。
変わったんだ、変わってしまった。そしてそれを、私は受け入れられなかった。
これじゃあ、あの時と同じ。あの、悲しむ人の存在を考えないようにしていたあの頃と。
変わりたいと、ただそう思った。考えなしのあの時から。
信号が変わる。赤から青へと。
それにともない、動き出す。人も、車も、そして私も。
ペダルに足を乗せる。力をのせる。そして、私の乗る自転車は、ゆっくりと、けど確かに前へ動き出した。
ーーーーーーー
家に着きリビングに入るとそこには、母がいた。
母は、今帰ってきたばかりなのか、帰りに買ってきたと思われる食材を腰を屈め冷蔵庫に入れている最中だった。
「あら、おかえり添」
「……ただいまお母さん」
母は、私の方に視線をやらないまま声をかけてきた。親子だからこそ、分かるんだと思う。見なくても誰が帰ってきたかぐらい。
そう、親子……だから。私は母の子供。そして、父の子供。私が生まれたのは、二人がいたから。二人が恋に落ちて、大切な人になったから。
なら、その大切な人に、裏切られたらどう……思うんだろう。本当の意味で……大切な人がいない私には、分からない。想像は出来るけど、多分これは、私の恣意が混じってしまってる。
だから、聞かないと。大切な人がいる人に。裏切られたらどう、思うか。
相変わらず、冷蔵庫に食材を積め私の方を見ない母。そんな母に私は口を開いた。
「ねぇ、お母さん。一つ聞いてもいい」
「ん、いいけど、なに。好きな人でも出来たとか」
「そうじゃないけどさ……それにちょっと関係あることかも」
「なになに、娘の恋愛相談を受ける年頃なのもう。で、なに聞きたい事って」
能天気に、言葉を出す母。そんな母に私は真面目な顔つきで口を開いた。
「お父さんが浮気してるって知ったらどうする」
ゴトッ。
音がなる。何かが落ちた音。見ると、母が手に持っていたジャガイモを落としていた。
そして、落ちたジャガイモはその場に留まる事なく、転がる。
コロコロと、私の方に。それに私の目は引っ張られる。やがて転がっていたジャガイモは、私の足にぶつかりと動きを止めた。
「それ……ほんとなの」
声が聞こえた。目線を上げるとそこには、相変わらず冷蔵庫の方へ体を向けながらも、肩を震わす母がいた。
間違った、そう思った。けど、そう思った時には手遅れだった。
母は中腰だった姿勢を伸ばすと、私の方へ体を向け、そのまま向かってきた。
決して、速くはない。それに母はもう私より背が低い。それなのに、思わず足を下げてしまう程、今の母は恐ろしかった。
「ちょっ、ちょっと待ってよお母さん。私の話を聞いてよ」
足を下げながら、口を開く私。でも、母はそんな私の言葉が聞こえないのか、唇を真一文字に閉じながら私に迫りくる。
そして、そんな母から逃れようと私は足を下げ続ける。
けど、それも終わりがくる。
やがて、後ろ向きのままリビングを出た私はそのまま、廊下に出ると直ぐに壁にぶつかった。
もう退路はない。そんな私を前に更に母は距離を詰めてくる。
逃げられない、そうと分かりながらも、まるで蜘蛛の如く壁に張り付かずにはいられないほど、私から見た母は鬼気迫っていた。
「と、止まって、一先ず。話すからっ、止まってよ」
情けない声を出してしまう。
そんな私の意思が通じたのか、母は止まった。私の目と鼻の先で。
「ほんとに浮気してるの」
「えっ」
「ほんとに浮気してるのっ」
怒気を滲ませる母。その恐ろしさっと言ったら。顔面に迫る距離だった事もあり、熱気が伝わってくる。
けど、顔を背ける事が出来ない。そうはさせないとばかりに母は私に目を合わせて、いや睨みつけていた。
私は首を振る。それは一生懸命に。違うと伝える為に。
でも、それでも、母は私から目を外さない。鋭い視線が相も変わらず私を捉え続けた。
「なら、何でそんな事聞くの」
目と同じくらい鋭い声が私を貫く。逃してくれない。それでも、そんな母を落ち着かせるべく私は言葉を吐いた。
「た、ただ気になったから、お父さんが浮気したらどう思うかなって」
力ない言葉。
イヤイヤながらに吐いたような、そんな弱気な声。
そして、母はそんな私とは違っていた。
「浮気してたら? 嫌に決まってるでしょ」
即答だ。それも是非を挟めないくらいに力強い言葉。
そして、それを聞いた時、こんな事を今の状況で感じるのは可笑しいんだろうけど、それでも私は感じた。
嬉しい、と。
だって、怒るぐらいに母は父の事を思っている。その事が、何だか二人の子供である私には、嬉しく感じた。
けど、それも長くは続かない。怒り心頭の母が、眼前にいるという事もあるけど、それ以上に、思い出したから。
あの日、あの人の涙を。
そして、思い出したら最後、私は母に目線を合わせる事が出来ない。避けてしまう。上げていた頭を下げてしまう。足元を見てしまう。
そんな時だった。ドアが開く音が響いたのは。
私は下げていた頭を上げ、音のなる方を見る。
そこに立っていたのは父であった。父は玄関で棒立ちのまま、私と、そして母を見ていた。
「何してるんだお前たち」
ただ一言、父は口にする。当たり前だ。それ以外にどんな言葉を吐けば良いのだろうか。
壁を背に追い詰められる娘と、追い詰める妻の姿を見て。
でも、そんな父が現れても、いや現れてからこそ母は態度を崩さなかった。
「あなた浮気したんですってね」
こちらもたった一言口をする。けど、同じ一言でも趣が違う。私以上に父は面食らっていた。
「えっ……何の話?」
戸惑いがちに父は言葉を吐く。そんな父に向かい、母は歩き出す。私の眼前から離れて。
開放された私。けど私は言葉をかけずにはいられなかった。
「ちょっとお母さん、それは違うってさっき」
「添は黙ってなさい」
一蹴だ。
何処か変なスイッチでも入ってしまったかのように、もう母に言葉は届かなかった。なら、残された私の出来ることは……。
私は母の背後越しに父に向かい合図を出す。
手を合わせ、謝るように頭を何回も下げる。
そんな私を見て、父は完璧に察しなかったようで、首を傾げる。そんな父に向かい迫る母。
そして、私はというと合図を出した後、その場から逃げるように二階へと階段を登るのだった。
ーーーーーーー
二階にある自室。
これと言って落ち着く訳でもないけど、それでもあの場にいるよりはまし。
だって、一階では、未だに母の怒声が飛んでいる。まぁ……その原因は私にあるだけど。私が言わなければこんな事には、母が怒り出すことも、父が何の落ち度もないのに怒られる事もなかった。
それには、責任を感じているし、謝意の思いもある。けど……やっぱり今の私には別の思いが頭から離れない。
あの人の涙。母の怒り。
全部、全部私の知らない、私にはない思い。
なら……その思いがない私はどうすればいい……
……いや、本当は分かってる。どうすればいいか。
すっぱり諦めればいい。先生への想いを無かった事にして、先生との出会いも無かった事にして。先生への告白も無かった事にして。
全部、全部無くしてしまえばいい。それで解決。誰も……悲しまない。
……悲しまない、頭では分かってる。けど……嫌だと心が告げている。理性と感情が決別している。
だから……分からない。どうすればいいか。私は……どうすればいいの。
膝に顔を埋める。
誰もいない部屋。そこで私は一人、床に体育座り。寂しいとは思わない。ただ、今はこうしていたかった。
けど、そんな一人きりになる私を世界は放っておかなかった。閉じられていた部屋の扉が開く。そして、そこから現れたのは、何の特徴もない平凡な男の人、私の兄だった。
私はそれを、膝から微かに出した瞳で確認した。
「勝手に入らないでよ」
膝に口を埋めたまま、私は喋る。そして、私は再度膝に顔を埋めた。だから、兄がどんな表情や、仕草をしたか分からない。
ただ、開かれている耳からは、兄の声が届いた。
「いや……ノックはしたんだけど返事はなかっからさ。それで……」
「……そう、それはごめん、私が悪かった」
そこで会話が止まる。
私も、そして兄も。兄妹なのに、話さない。
でも、決して静寂じゃない。下からは相も変わらず、母の怒声が響いている。そして、それが兄が来た理由だった。
「……下凄かったよ、母さんがあんなに怒ったのを見るの久しぶりだ」
「……」
「何であんな怒っているのか、添何か知ってる。もし知ってたら教えてほしいけど」
「……」
無言の私。
原因が私にあると言うのが嫌だったからじゃない。ただ、面倒くさかった。暫く放っておいてほしかった。
独りよがりなのは分かってる。それでも今は話す気分じゃなかった。
けど、そうはいかないのが兄妹というもの。いつだって兄は、私の思いを無視する。私が予期してない行動をする。この時も私が予期していた部屋を出るという考えに反し、兄はその場に居続け、そして、言葉をかけてきた。
「……何かあった? よければ相談に乗るよ」
柔和な声。
それと同時に布が擦れる音が耳に入る。恐らく兄は腰を落としたんだろう。目線を合わせる為に。
でも、私は合わせる為の目を隠している。だからこれは予想だ。音を聞いてたてた、兄ならこうするかもしれないという予想。
そして、兄が部屋を出なかった、私を一人にしなかったことに、不思議と私は腹をたてなかった。寧ろ何だか居心地の良さを感じていた。何故そう感じたのか分からない。けど、少なくとも高校初めの頃のような嫌悪を、今の私は、今の兄には感じなかった。
だから、私は口を開いた、いや……口を滑らせた。
「……自分のしたい事が、人を傷つけてしまうって分かった時、どうしたら良いと思う」
膝に顔を隠したまま出した問いかけ。だから、兄がどんな思いでこれを聞いたか分からない。ただ、兄が返事をするまで、時間がかかったのは分かった。
兄は、熟考しているようだった。
それこそ、私とは違い、口を滑らす、なんて事を恐れているみたいに。良く考え咀嚼し、そうして出てきた答えは、意外なものだった。
「……分からない……だって、それは簡単に出る答えじゃないから。答えがあるにしてもきっとそれは、人によって異なるし、人によって肯定も否定もされる。だから、本当にその悩みに向かい合いたいなら、誰かに聞くといいと思う。その人はどう思うか、聞くことで答えが見えてくると思う」
穏やかな口調で言う兄。
兄は他者に聞けとそう言った。確かにそれは尤もな事で、正しい事だと思う。
けど……私は、私が聞きたかったのはそう言う事じゃなかった。
「兄さんは?」
「えっ」
「兄さんなら、そういう時どうするの」
私は顔を上げる。
部屋に入って来たとき以来に見た兄の顔。この時の兄は、思い詰めたような、苦悩と逡巡が混じったような顔をしていた。
兄は私に向けていた目を落とす。そして、先程とは違い、呟くように口を開いた。
「僕は……」
そんな時だった。何が割れる音が響いたのは。二階ではない、一階から。
一回だけではない。断続的に、音が響く。
その音に私が驚いている最中、兄はほくそ笑んだ。
「下に行ってくるよ。お父さんを助けないと」
そう言って立ち上がった兄は部屋を出ていく。そして、階段を降りる音が後から響いた。
部屋には、私一人。
この時の私はと言えば、一人になれたことに安堵したり、兄の答えを聞けなかった事に憤慨したりはしなかった。
ただ、兄にどうして胸の内を明けたのか、その事を不思議に思うと同時に、悩みを明かしてしまった事を恥ずかしく感じた。
そして、最初のときとは違う理由で、私は再び膝に顔を埋めるのだった。




