44話 最低(視点:四条結)
分からなかった。
彼女が何を言っているか。
声が頭を通り過ぎて、何も残っていない。
ただ、今居る病室がどこか、夢みたいにはっきりとしなくなった気がした。
「……何……て言ったの陽」
私は口を動かす。けれど、それもまた夢みたいに、実感が伴わない。だから、私が、何を言ったのか、私自身も分からない。
けど、そんな言葉を受けて、病室のベットに佇む彼女は、私に顔を合わせる。そして、彼女は口を開いた。
「死ぬって言ったの」
主語のない言葉。けど、彼女の声はいつもより力強くて、だからこそ、私は、今度は聞き取れた。
陽は、死ぬんだって。
でも、そうだと知っても、まだ夢の中にいるみたいに、はっきりとしない。
窓の外が、晴れなのか、曇りなのか。彼女の着ている服は何色なのか。彼女は今、どんな表情をしているのか。
何もかも曖昧で、不明瞭で。そして、それは私の中も。
陽からの告白に私は……何も思わなかった。いや、多分何か感じたとは思う。けど、それを認識することができない。
私は彼女がいるベット近くに置いた丸椅子に、今座っている。
最初は、彼女と二人きりになれたことに喜んで、近くにいたくて座っていた。けど……今は違う。今は、座ってないないときっと、私は崩れ落ちてしまう。
それだけは、想像がついた。
「いつ……分かったの……自分が死ぬって事に」
私は口を開く。彼女に向かって。
その真実を認めたからじゃない。ただ、これはオウム返しのように、彼女の言葉を使って、取り繕ったに過ぎない。
そんな、私の発言に、彼女は首肯する。そして、彼女は口を開いた。
「ずっと昔から。それこそ幼稚園の頃から。最近アメリカに行った時も実はその関係なの」
……怖くないのかと、そう思った。だって、内容とは違い、彼女の声は、あまりに穏やかだったから。
けど、その事を私は追及しなかった。
「……みんなに言ってないの」
呟くような声を私は出す。
この時の私は声を出そうとは思っていなかった。ただ、思っていたものが言葉に……。いや、思うとか前に、私は……自分が何を思っているか分からない。まだ、夢の中みたいに現実味が……なかった。
視界が、徐々に下がっていく。彼女の瞳から、口へ。口から胸へ。胸から腰へ。腰からベットへ。ベットから床へ。
白く、清潔な床。でも、汚れがない訳じゃ無い。元来の綺麗な白の床を侵食するように、黒い汚れが点在する。このままいけば、黒はより大きくなっていくに違いない。そして……いつの日か、元の白が消える、消えてしまう。そして、それを私は掃除することなくただ、黙って見ているに違いない。
頭を垂れる私。どっちが病人か分かったものじゃない。もっとも、自分自身を客観視したのは、後のこと。
そんな私に、病人とは思えない暖かな声がかけられる。けど、その答えは暖かさとは無縁だった。
「言ってないよ」
……きっと彼女は微笑んでいるに違いない。あの春の兆しみたいな、素敵な微笑みで。
でも、そんな事は今の私には分からない。今の私に出来るのは、ただ言葉を紡ぐこと。
「……誰にも?」
「誰にも」
「川瀬君にも?」
一瞬、空白が生まれる。
誰も口を開かない、そんな時間。でも、それはあくまで一瞬で、直ぐに音が場に満ちた。
「言ってないよ。広にもね」
何でも無いように声を出す彼女。そんな彼女に、少しだけ……夢見心地の心がささくれだつ。
「どうして」
私は声を出す。思いから滲み出たかのように、棘がある声を。そして、それを分かってか、それとも分からずか、彼女はいつもの、穏やかな声を出した。
「どうしてって、皆に言ってないこと?」
「うぅん、違う。私が言いたいのは……」
「どうして川瀬君に言ってないかってこと」
気がついた時、私は手を合わせていた。
祈るためじゃない。これはきっと、思いが身体を動かしたから。思いが手を動かし、そして……口を動かした。
「だって、陽、川瀬君のこと好きでしょ」
陽の目を見ずに、私は言った。
散々、勿体ぶって、そしてかねてより分かりきっていた真実を、今この瞬間に。
開け放たれた窓から風が舞い込む。
バサバサとカーテンを揺らし、癖っ毛の私の髪を撫でていく。きっと、彼女の髪も風によって、靡いたに違いない。ただ一点、こめかみの部分を除いて。
目に浮かぶ。彼女の、川瀬君から貰った髪留めを付けている姿が。
そして、彼女は口を開く。私の考えじゃなく、彼女自身の言葉を。
「好きよ。ずっと前から」
それは、さっきよりもずっと、暖かくて、穏やかで、そして……何処か悲しそうだった。
握っている手が強くなる。グッと、血管が浮かび上がる。手と同様に、口も、強くなる。
「告白しないの」
「いいよ別に」
「告白しなよ」
「しないよ」
「告白しなって!!」
椅子が鳴る。
気がついた時、私は立ち上がってベットに佇む彼女を見下ろしていた。
眉にシワをよせ、唇を噛む私。きっとブサイクだ、今の私は。
それに引き換え、彼女は、いつもと変わらない慈愛に満ちた美しさのまま、私の事を見上げていた。
暫く見つめ合う私達。それこそ、今までに無かったほど、長く、退かず、相手を視界におさめる。
退くつもりはさらさら無かった。だって、本気でそう思うから。ずっと想っていたのなら、尚更、告白するべきだと思ったから。彼女の彼に対する思いを、一年以上間近で見続けて来たから。
だから……退けない。退きたくない。
その一心だった。彼女に目を合わせ続けるのは。
……先に折れたのは彼女だった。陽は私から視線を外すと溜息をついた。溜まっていたものを吐き出すように、彼女の溜息は長く、深かった。
「……出来ないよ」
彼女は呟く、弱々しく。そこには先程までの穏やかな彼女はいない。
憔悴したかのような、それこそ病人のような彼女がそこにいた。
けど、そんな彼女を前にしても、私の激情は消えない。思いだけが先走る。
「出来ないってどうして。だって、告白するのに資格なんて必要無いじゃない」
「資格は必要だよ」
「そんなわけ無い。告白は誰だって出来るよ。勇気さえあれば」
「勇気とかはそんな問題じゃないの」
「じゃあ! 一体どんなもんだ……いなの」
尻しぼみする私の言葉。
だって、目に入ってしまったから。
彼女の顔を。彼女の涙を。
「だって、仕方無いじゃない……私は死ぬから。一緒に……年を取ることが出来ないから。一緒に……大人になれないから。一緒に……居られないから」
陽は泣いていた。
けど、彼女の泣き顔は、とても綺麗で、崩れてなんてない。それこそ、涙を消したら、泣き顔じゃなくいつもの微笑に見えるくらいに、その涙は自然に、彼女の透き通っている瞳から流れ頬に伝わり、布団へと落ちていく。
そして、その涙を見て、私は夢から醒める。
彼女は本当に死ぬんだと。避けられないんだと。
けど、それはあくまで私の中のほんの数%の思い。
大部分は、違う。
夢から醒めた私には、彼女の思いが、涙がストレートに伝わって……そして
最低だと、そう思った。
次は別視点です。




