表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/72

41話 誰?(視点:崎島教助)

 私は、聞き分けのいい子供だった。

 親や、兄、先生、先輩方の教えをよく聞き、そしてその教え通りに行動する。それはひとえに私が、自己というものを持ち得ていなかったからなのだが、周りの人達はそうは思わなかったらしい。私は周りの人達から、優等生という烙印を押された。ここで言う優等生とは、別に勉強が出来るとか、運動が出来るといった類ではない。最初に述べたように、聞き分けがよく素直な子という意味での優等生だ。


 だからだろうか、私は生まれてこのかた、叱られたり、ましてや殴られた事など一度たりとしてない。

 別に自慢じゃない。ただの事実だ。だからこそ、その時がやって来た時、私は何が起こったか、分からなかった。


ーーーーーーー


 視界が揺れた。自分の意識で動かしたのではない、外部からの衝撃によるもの。

 それと伴い、視界がぼやける。眼鏡が外れたからだと気づいたのは後から。


 はっきりとしない、ぼやけた視界。それでも目の前に立つ彼女の姿は認識出来た。

 私の妻である、崎島京子。彼女は、手を振り下ろした格好を取っていた。それを見て、私は漸く理解する。

 殴られたのだと。正確に言うならビンタ、だろうか。


 ともかく、生きてきて20数年、この日始めて私は殴られた。

 しかし、それは……思っていたよりもずっと軽く、痛みなどほとんど無かった。

 周りの人達は殴られた際、痛そうにしていたのに、実際はこんなものなのか。

 

 と、そんな風に殴られたにも関わらず、私は冷静だった。だからこそ、私は分からなかった。何故妻が私を殴るのか。理由がわからない。

 だからこそ、私は口を開こうとした。何故殴ったんだい、と、言われた側からしてみたら、一層怒ること間違いない言葉を。

 しかし、その言葉が出る事は無かった。


 私のぼやけた視界に彼女が手にしている物が入った。

 白い布切れである。眼鏡を外した今、くっきり見えない分、普通なら聞くだろう、その布切れは何なのか。

 しかし、はっきりと姿を捉えられなくとも、今の私にはそれが何なのか、分かる。

 

 昨日の出来事があったから。

 昨日、川瀬さんに貰った白のハンカチーフ。間違いないだろう、妻が持っているのは十中八九川瀬さんから貰ったプレゼントだ。

 見つけられたのだ。おそらく、スーツのポケットを勝手に探られたのだろう。


 妻が夫を殴り、物を見せびらかす。

 ここまでくれば、経験がなくとも推測出来る。私は疑われているのだ、俗に言う浮気を。

 

 ……私は惹かれていたのだろうか。

 いや、疑問系にする意味はないか。私は惹かれていた、生徒である彼女、川瀬添に。妻では感じられなかった魅力を、彼女に抱いてしまった。


 どうすれば良いのだろうか。あっさりと認めてしまうべきだろうか……いや、兄が二股をかけた際、バレてしまい手酷い目にあったのを、私は知っている。

 なら、ここは誤魔化すべきだろう。大丈夫、妻はハンカチーフの件しか知らない。確かにそれは私の好みから逸脱した、言わば私が買うことの無い品物だが、なに、同僚から貰ったとでも言えば言い訳がつく。


 始めてのビンタを受けた直後だと言うのに、私の頭は冴えていた。だからこそ、言い逃れが思いつくし、同時に彼女の異変にも気がつく。

 彼女は黙ったままだった。ハンカチーフを見せびらかしてから、それこそ一言も話していない。唇も真一文字に閉じられたまま。

 彼女は黙って、そこに立っていた。


 そんな彼女を前に、私の開きかけていた口もまた閉じられる。言い訳をするのが、酷く滑稽であるように思えてしまう。

 ……なら、どうすれば良いのだろうか。私は……何をすれば……。


 黙る私達。先に動いたのは彼女だった。彼女は私から視線を逸らすと、私の後ろ側を見つめる。

 普段なら、何を見ているのか、気になり彼女の視線の先を見たに違いない。

 だが、この時は出来なかった。それはただ浮気を疑われている状況だからという訳ではない。

 

 私は……魅入っていた。彼女……に。

 彼女の目から涙が流れていた。一筋の、だが決して無視できぬ涙。

 そして、それを見たとき、胸が苦しくなった。ズキズキと苦しく、痛む。


 あぁそうか、漸く分かった。殴られて痛いのは、体じゃなく心なのか。

 私は妻の涙を見て理解し、そして……後悔した。


ーーーーーーー


 家に帰ったのは日が落ちきった後であった。

 別に、用事があった訳ではない。あの後私は部活にも顔を出していないし、明日の授業の準備をしていた訳ではない。


 ただ……帰りづらかった。あの後妻は何も言わず、涙を拭うと車に乗り帰っていた。

 そして、そんな妻に私は最後まで言葉をかけることが出来なかった。

 自身の犯した行い、そして、それによって妻を傷つけてしまったという事実。

 ……何をすれば良いのだろう。情けない私は、こんなときでも、解決策が見いだせなかった。ただこんなに遅くになるまで逃げ、そしてそれにも関わらず、結局の所、何も見つける事が出来なかった。


 ……情けない大人だ。何一つ決める事が出来やしない。彼女が苦しんでいるのに、それが分かっているのに、私は……諦めきれないのだから。


 玄関を開ける仕草、靴を脱ぐ仕草、そして廊下を歩く仕草。どれもこれも遅い。

 だが、止まっている訳ではない。だからこそ、私はリビングへとたどり着く。普段彼女はそこに居るはずだった。そこで夕食の準備をしてくれる筈だった。


 だが、今はいない。誰もいないリビング。電気すらついていない。

 妻は帰ってきている筈だった。車はあったし、それに私が着く前から家には電気がついていた。

 なら、妻は何処にいるのだろうか。浮かび上がった疑問。それは直ぐに解決される。


 物音が聞こえた。私達の寝室がある方から。

 私はリビングへと向かっていた時よりも幾分かペースを上げると、寝室へと向かった。


 ……彼女は寝室にいた。

 仕事に疲れて寝ていた訳でも、服を着替えていた訳でもない。

 彼女は……新婚旅行の際買ったキャリーバックに荷物を積み込んでいた。服に、化粧品から、会社で使うであろう書類まで。ただ、黙々と荷物を積めていく。

 そして、そんな彼女の後ろ姿に私は……何も言えなかった。


 ただ、黙って彼女の行動を見つめる。止める訳でもなければ、憎まれ口を叩く訳でもない。何もしない。

 分からなかった。どうすれば良いのか。

 沈黙が流れる。私も、彼女も、誰も言葉にしない。寝室には、ただ、彼女の荷物を積める音のみ響く。


 時間が経っていく。時計を見て確認した訳じゃない。ただ、キャリーバックの空きスペースが小さくなっていくのを見て、そう思った。

 そうして、空きスペースがごくわずかとなったとき、彼女が口を開いた。


「覚えてる、出会ったときのこと」


 彼女は、私の方を見ず、変わらず荷物を積めながらそう尋ねてきた。

 そして、私は、質問の類い()()答える事が出来た。


「覚えてる。君は……研究室の中心だった」

「私も覚えてる。貴方は皆を繋げてくれる、優しい人だった」

「……」


 彼女は変わらず荷物を積める。手を動かしながら、口も動かす。


「貴方は周りに合わせてくれた。周りの望む事をしてくれた。けどね、貴方は自分の意見を言わない人だった。言ったとしても、それはどこか、貴方の気持ちじゃない気がした」

「……」

「だから知りたいって、そう思ったの。貴方がどんな人で、どんな事を思うのか。実際、接してみて、貴方の事は分かってきた。そして、貴方の事が好きになった。だから結婚もした。貴方の事はもう分かってたつもりだったから……けどね」


 そこで、彼女はキャリーバックを閉じた。荷造りが終わったのだ。

 彼女はキャリーバックを手に取ると、立ち上がる。そして、そのまま寝室戸口に立ち尽くしている私の元へと近づくと、そのまま横を通りすぎる。

 内緒話をするかのように、小さな声を置いて


「やっばり、貴方の事は分からなかった。貴方は……誰なの」


 言葉尻まで聞き終わった時には彼女は寝室を出ていた。

 今すぐ後を追えば、外に出るまでには追い付く事ができる。彼女を止める事が出来る。

 それぐらい分かっていた。しかし、私は動かない。誰もいない寝室で、ただ一人、立ち尽くしたまま。動くのは……口だけだった。


「僕が誰か、僕が知りたいよ」

次は高城見治視点です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ