40話 加害者(視点:川瀬添)
幸せだった。
周りが輝いて見えた。
空も街も人も、全部が全部綺麗に、愛おしく見える。
あの人がいたから、私はこんなにも幸福に感じる。
あの人から返事を貰っていないのに。
あの人の境遇を考えていないのに。
私は得られた幸せを、身勝手に、我儘に、享受し続けた。
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先生にプレゼントを渡した翌日の放課後。
私は年甲斐もなくワクワクしていた。だって、これから部活動が始まるのだから。
先生に会えるかは分からない。いや、寧ろ会えない可能性の方が大きかった。けど、何故だがこの時、私は会える気がしてならなかった。
だからこそ、一刻も早く教室を出て、部室にいきたかった。カバンに乱暴に荷物を詰める私。そうして、帰り支度を済ませると、席を立つ。そのまま教室出口へ私は向かったのだけど、道中声をかけられた。
「添、ちょっといいか」
声をかけてきたのは、片目が髪で隠れた不良少女、もとい私の友人の戸塚だった。
彼女もまた私と同じようにカバンを手にしていた。
「良いけど、部活があるんだから、手短にね」
じれったい思いを押し込め、私は言葉を返した。けど、ここで、私は我慢を強いられる事になる。
「なに、大した用じゃ無いよ。ただ、下駄箱まで一緒に来てくれないかってだけ」
「下駄箱まで一緒に? 私が?」
「そうそう、あんたが」
「何で?」
眉を潜めながら、私は口にする。
けど、そんな嫌だと丸わかりな顔を見ても、戸塚は笑った。
「良いじゃん、たまには。毎回一人で帰るのは寂しいってだけだよ」
そう言って、戸塚は先に教室を出た。どうやら、私に拒否権は無いらしい。
昔から戸塚には自分勝手な所がある。そしてそれは治りそうもない。だから、この時も私は半ば嫌々ながらも、彼女の後をついて行く羽目になった。
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「あぁ、それにしてもあちぃなぁ。全くいい加減涼しくならないかねぇ」
「秋だと言っても9月初めなんだから、仕方ないんじゃない」
「でもよぉ、こうも暑いとプールに入りてぇよな。スカッと気分よく泳いでリラックスしたいよ」
「戸塚はプールの時だけ、水を得た魚みたいになるもんね」
「当たり前だろ、それなのに2学期はプールが無いとか死にたくなるね」
「私はあまりプールは好きじゃないけど……ね」
「ふふーん、まぁそれじゃあ……ねぇ」
「あっ、ちょっと戸塚、どこ見てるのよ」
「どこって、決まってるだろ。成長しないねぇ添は」
「成長しないって、もう花みたいな事言って」
「ハハッ。まぁ私や花は添とは違って成長してますから」
「もう〜、気にしてるんだから」
笑い声に包まれる私達。
最初こそ嫌々だったけど、一転こうして、楽しく感じるのは、友達である戸塚だからこそ。
だから、下駄箱についたときは素直に、見送ってあげようと思っていた。それこそ、明日にも会えるのに、夏休みに入る時みたいに名残惜しく。
だから、だからこそ、彼女が下駄箱へと続く階段を降りなかった時、私は口をつぐんでしまう。
楽しく、弾んでいた会話が止まる。それは、戸塚も同じだった。
戸塚は喋らなくなった。そして、それと同じく、私達の間に距離が生まれ始める。
戸塚の歩く速度が上がったのか、それとも私が遅くなったのか、どちらかは分からない。少なくとも、私達は並んで歩かなくなった。
戸塚の一歩後ろを歩く私。
そして、しばらくした後戸塚が立ち止まる。そこで、彼女は廊下にある窓に近づく。そして、彼女は窓に手をつける。名残惜しそうに。
そうして、彼女は口を開いた。
「……なぁ、一緒に行かないか」
霞んだ声を出す戸塚。
今私達がいるのは真下に下駄箱が位置している渡り廊下だ。
きっと、彼女の目に写っているのは下駄箱を出る生徒達に違いない。窓に、彼女に近づかず、私はそう思った。
「一緒に、て、何処に」
突き放すような声となる私。そんな私に視点を合わせず、変わらず窓の外を見ながら戸塚は口を開いた。
「何処でも、だよ。スタバでもヤオンでも。それこそ電車に乗って何処かにでも」
「なにそれ、甘酸っぱい青春でも味わいたくなったの」
先程とは違い、暗い成分の笑い声となる私。
でも、そんな私の笑い声を、戸塚は黙って受け入れ続けた。そうして、私が笑い終わった後、漸く彼女は口を開いた。
「それで、どうなの行くの。行かないの」
戸塚の、窓へと当てていた手が、握りこぶしとなる。けど、そんな彼女の行動を、思いを見ても私の考えは変わらなかった。
「行かないよ。だって私には花と同じく部活があるんだから」
「同じじゃない」
「同じだよ。花はバスケのマネージャー、私は写真部と部活の違いはあるけど、どちらも今日は活動があるんだから」
「私が言っているのはそう言う事じゃない」
「じゃあ、どういうこと。ちょっと感じ悪いよ、戸塚」
「私が言っているのは」
そう言って戸塚は窓から目を離し、私の方へと向いた。
戸塚の顔は……彼女に似つかわしく、歪んでいた。
「部活に行く……理由だよ、添」
「……何が言いたいの」
「教助の事、好きなんだろ」
戸塚は口にした、その名前を。戸塚は聞いてきた、私が隠してきた思いを。
けど、その言葉を前に、私の胸中は自分でも驚く程静かだった。そして、私は特に迷うことなく口にした。
「好きだよ、教助先生の事が」
言った、兄しか打ち明けていなかった思いを、隠し続けていた思いを。私はあっさりと晒す。
けど、打ち明けられた側はそう簡単にはいかないのか、私の答えを聞いた戸塚は舌打ちした。
「分かってんのかよ。それがどう言う意味か」
「分かってるよ。それくらい」
「いいや、分かってない。先生と生徒という立場だけの話じゃ無いんだぞ」
「分かってる。結婚してるんでしょ、教助先生」
ヒートアップする戸塚。一方の私はと言えば、自分でも驚くほど冷静……いや他人事みたいに、熱くはならなかった。
何故なら、きっと今の私が幸せだから。
だから、能天気になっているんだと、私は他人事みたいに、分析する。
そんな、私を前にすれば、誰だってムカつくに決まってる。それは戸塚だって例外じゃなかった。
彼女は、歯ぎしりし、言葉を吐いた。
「……本当に、分かってるのかよ。その意味を」
憎々しく戸塚は言葉を紡ぐ。
そんな彼女を前にしても、私の思いは変わらなかった。
私は教助先生の事が好き。
それは、彼が既婚者だろうと変わりない。だって、相手が結婚しても、しなくとも、好きという思いが誤りである筈がない。好きという思いは確かにここにある。
だから、私はそれを伝えようとした。関係ない、だって好きだからと。幼稚園からの腐れ縁の友達相手に。
けど、それを言う前に、私は口を噤んだ。だって、彼が姿を現したのだから。
大人なのに、私達と距離が近くて、それが嬉しくて、もっと近づきたいと思った。
そんな彼、教助先生が戸塚の後ろ方向から現れ声をかけてきた。
「何してるんですか、戸塚さん、川瀬さん」
先生は私達の名を呼ぶ。
彼の声に、私は笑みを、そして戸塚は舌打ちと共に苦々しい顔つきとなる
「しらけた。帰る」
たった一言。
そう言うと戸塚は踵を返すと、歩き始める。
振り返らず、真っ直ぐに迷いなく離れていく彼女。そして、そんな彼女に私は追いかけようともしなければ、声もかけなかった。
ただ、私はその場に動かす、去っていく彼女の背中を見ることしか、しなかった。
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後に残されたのは、先生と私、二人っきり。
普通なら、喜ばないに違いない。だって、友達とあんな形で別れたのだから。
けど、悪いけど、私はこの状況を、楽しんでいた。
「喧嘩……でもしたのですか」
先生が心配げに話しかけてくる。けど、そんな先生には悪いけど、私は心配されるような思いなんてしていなかった。
「はい、喧嘩しました」
喧嘩したにしては、何事もないような声を出す私。気になりそうなものだけど、先生は喧嘩したという事実のみが気になるようだった。
「喧嘩したなら、仲直りすべきです」
「相手が悪いのにですか」
「どちらが、悪いか。それは問題ではありません。問題はお二人の仲がどうなるかです」
「どうなるか……」
「川瀬さんは、このままずっと戸塚さんと話せずにいてもいいのですか」
「それは嫌ですっ」
声が出る。今度は何事もない感じじゃない。つい、というか何というか、思わず声が出てしまった格好だ。だからこそ、これは私の本音……なのだろう。
「仲直り……したいんですよね」
「そう、みたいですね」
照れ笑いする私。やっぱり少し恥ずかしい。肝心の戸塚にこんな姿を見せたらからかわれるに違いない。私が普段しているみたいに。
そんなことを思っている最中、先生が口を開いた。
「大丈夫ですよ。きっと」
「どうしてそう思うんですか」
「だって、川瀬さんはそんなに思っているのですから。ならきっと、戸塚さんにも、その思いは伝わります」
裏表なんて無くて、それこそ、本気でそう思っている。そんな純粋な、真摯な顔つきを先生はしている。
だからこそ、私の中で少悪な一面が顔を出す。夏休みの時みたいに。
「なら〜、この私の思いも伝わりますか」
私は先生の腕を掴むと、そのまま腕を組んだ。
……先生の体温が伝わってくる。暖かくて、心地がよくて……いつまでもこうしていたい。
頬が赤くなる。からかうつもりだったのに、寧ろ私がからかわれているみたい。
先生の顔から私は目を逸らし、顔を下げていく。それに連られるように先生の腕をより一層、私は強く抱きしめる。
離したくない。けど、きっと、駄目……なんだろうな、こんな事。だって、先生がだまって受け入れる訳が……
「大丈夫、伝わりますよ」
「……えっ」
私は思わず顔を上げる。
先生の目が合った。それから何秒、いや何分見つめ続けたか分からない。私も先生も、口を開かなかった。けど、この時ほど、私は幸せに感じた事は無かった。
誰が話し始めたか、それは覚えていない。ただ、少なくとも見つめ続けた私達は、腕を組んだまま、雑談し始めた。学校生活の事から、最近話題になった映画やドラマ、食べ物の事まで、実に多彩に飽きることなく私達は、見つめあったまま話し合った。
ずっとずっと長く、ずっとずっと濃く、そしてずっと……幸せだった。
きっと、それこそ、部活の事を忘れ、永遠と私達は話し合ったに違いない……邪魔さえ入らなければ。
声が聞こえた。
何処かは分からない、誰が言ったのかも。ただ少なくとも、私達の会話を途切れさせる分には十分だった。
辺りを見渡す私、誰かに見られているかもしれないと思ったから。
一方の先生は、先程戸塚が覗きこんでいた生徒の出入りを望める窓とは反対側に位置している窓を覗き込んでいた。
「あれは……もしかして」
「? どうしたんですか、先生」
「川瀬さん、部活の皆さんに遅れるから、先に部活動を行っているように、伝えてくれませんか」
「良いですけど、先生、何か用事でもあるんですか」
「えぇほんの少し……では宜しくお願い致します」
そう言うと、先生は私の元から離れていった。
一人残った私。私の足は部室ではなく、先生が先程覗いていた窓へと近づく。
窓からは駐車場が見えた。教師やお客さん、保護者等が車を止め、そして私達一般生徒にとっては馴染みがない場所。
私もその例に漏れず、今まで駐車場をまじまじと見たことなどなかった……まぁ、担任や教助先生がどんな車に乗っているかぐらいの興味はあったけど。
そんな駐車場には、今一台の車が止まろうとしていた。オレンジ色の軽だ。
運転している人が誰なのか、この角度からだと分からない。けど、服装から女性であるように思えた。
また、その女性以外にも別の人物が目に入る、先生だ。教助先生は、駐車場へと出ていた。
けど、それ位なら、私は気にはしなかったに違いない……運転している人が男性だったのなら。
今回は違う。先生が止まろうとしているその車に近づくのを目にした時、私は勘付いた、その車を運転している女性が何者か。
そして、勘付いたからには、私は部室には行けなかった。
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外に出る私。向かうは駐車場。先生と、そしてあの女性がいる場所。
時間はかからなかった。それこそ、辿り着いた時、女性が車から降りる所だった。
長い茶髪と羽織っているジャケットが風に靡いている中、涼し気な顔で降りる彼女は、私から見たら大人の女性の雰囲気を身に纏っていた。それこそ、大人っぽい陽先輩が隣にいても、彼女の方が大人だとはっきり分かるに違いない。
服装とか、化粧とかもあるんだろうけど、何だろう。学生の私達とは違うと感じる。
綺麗な女性だった。それこそ、嫉妬心すら浮かばないほど。だからかな、私は彼女を見て疑惑から確信へと変わる。
先生の奥さんだと。
そんな彼女の元に、先生が歩いていく。私じゃない、彼女の元に。当たり前だ、学校に奥さんが来たら。
けど、そうと分かっていながら、何だか少し……悔しかった。
今、私には先生の後ろ姿しか見えない。近づいてもいないからきっと、先生は私がこの場にいる事に気づいていない。
気づいたら、どんな反応をするのかな。驚くかな。奥さんの元へ行く足を止めてくれるのかな。
引き留めたかった。行かないでと言いたかった。けど、そんな事が出来るはずがない。だって、それが普通だから。夫婦な彼等の関係性、学校でもきっと変わらない。
そして一人の私は、離れた位置から、先生と奥さんの邂逅を見守る事しか出来なかった。
「京子、どうしたんだ。学校へいきなり来て。何かあったのかい」
先生が、彼女に声をかける。離れていても、周りが静かな分、声は透っていた。
……やっぱり先生は優しい。先ず最初に心配するなんて。
けど、不思議な事に、旦那に会えた筈なのに、彼女の方はというと、仏頂面のような、感情が見えない表情だった。
あまり感情を出さない人なのかな。と、先生の奥さんに始めて会った私は……
そう思っていた。
バシッ
破裂音が辺りに響く。
廊下での先程の声と違うのは、音の発生源が分かるということ。
彼女が、先生をぶった。
仏頂面のまま、表情を変えずに。そして、ぶたれた先生は、頬を抑える。先生の足元には、掛けていたであろう眼鏡が転がっていた。
先生は無言だった。ぶたれたにも関わらず、何も声を発しない。先生の顔を見れば、どうしてか分かるかもしれない。けど、後ろ姿しか、遠目からしか見えない私には何が何だか分からない。
ただ、少なくとも、彼女が先生に何かを差し出したのは分かった。けど、先生が壁となっている分、それが何なのかは分からない。
詰まるところ、何が何だか私は分かっていなかった。どうして、彼女が旦那である先生をいきなりぶったのか。そして、何で先生は声を出さず黙ったままなのか。
ただ、少なくとも、見てはいけない、立ち会ってはいけない場面だと言うことは分かった。
だから、私は立ち去ろうとした。疑問を押し込み、回れ右をして。
けど……それは出来なかった。だって、先生の奥さんである彼女が、遠くにいる私に目を合わせて来たのだから。
私は動けなかった。さながら蛇に睨まれたかのように。彼女の眼光は鋭く、そして……脆かった。
彼女の目から涙が流れる。それは、号泣のような激しいものではなく、一筋の、けどだからこそ、痛いほど伝わる涙だった。
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勘違いかもしれない。
ただ、彼女は一生徒に不味い場面を見られたと思って、睨みつけただけかもしれない。
けど……私にはそうは見えなかった。私には彼女が分かっていて、私を睨みつけたような気がした。
そして、その意味を分からない程、私は楽観じゃない。
だから……だから私は、逃げられなかった。彼女の思いに、そして、現実に。
『……本当に、分かってるのかよ。その意味を』
分かってなかった、分かってなかったんだよ。先生が結婚している事は分かっていた。けど、実際は……分かってたつもりだった。
先生に想い人が既にいる事が問題じゃなくて……先生を想う人が既にいるという事が重大で、そしてそれは……私が無意識に避けていた問題で……。
分かってなかった。私が先生を想う事で、傷つく人がいるという事を。そして、それを目の当たりにして、私は……。
次回は崎島教助視点となります。




