27話 好きなんですから!(視点:川瀬添)
駅のホームを抜け、目に入ってきたのはどこまでも続く地平線だ。
蒼く輝く海と、蒼く澄んだ青空。両者は似ている色の筈なのに、ハッキリと違いが分かる。けど、水と油のように解離している訳じゃない。同じような色、けど違う色。互いが互いの魅力を引き出し合い、調和している。
美しい光景。それが曲線を描きどこまでも続いていく。地球は丸かったんだと、実感させる。
けど、自然だけがある景色じゃない。広大なる海と空が支配する上半分。そして下半分は人が支配する領域だ。所狭しと立てられている建物達。住宅や学校、ホテルなどが下半分の領域に詰められている。
けど、それを私は邪魔だとは思わなかった。だって、人の営みは暖かさを与えてくれる。海という特別な存在から、成り立つ街。それを今私たちは見下ろしている。
季節は夏、高校初めての夏休みがやって来た。そして、初めての夏休みに相応しく、既に沢山の予定がカレンダーを埋めている。友達と遊びに行く予定が殆どだけど、中には、部活の予定もある。
私が所属している写真部は、他の大多数の文化部と同じように、夏休みの部活動は殆どない。けど、殆どないだけで、あるにはある。
それが今日。写真部は夏休みという事を利用して、電車を使い少し離れた海沿いの街へと来ていた。何の味気もない私たちの街じゃなく、他の特殊な成り立ち方をした街を撮ろうという趣旨のもとである。
降りた駅は高台にあり、街を見下ろす格好で、海と空との地平線を駅から出て早々見る事が出来た。
普段見る事が出来ない光景。そして、そのような光景を目にしているのは写真部の皆。つまるところ、やることはひとつ。
パシャパシャ、皆カメラを手にシャッターをきっていく。このような美しい景色を前に、私たちのような人種はいてもたってもいられない。私たちということは、無論私も写真を撮っていた。
目の前の光景に夢中な私たち。けど、そんな私たちの空気を打ち破るかのように、背後から破裂音が鳴り響いた。
「はい、一旦写真を撮るのは止めにして、こちらを見てください」
振り向くと、そこには手を合わせている教助先生がいた。部活動ということもあり、私たち学生は制服なのだけど、それに合わせるように、先生もまたお祭りの時のような私服ではなく、スーツ姿である。
別に学校じゃないからスーツ姿じゃなくても良いのにと思うのだけれど
、先生的に何か思うところがあるのだろう。
暑苦しい炎天下の中、スーツ姿の先生は、本日の部活内容について説明し始めた。といっても厳密に決められたスケジュールに沿う、みたいなガチガチに決められたものではなく、もっとフワッとした生徒の自主性を重んじるような内容だった。
「皆さん、本日は好きなように写真を撮ってください。海を撮るのも結構ですし、それ以外を撮るのも結構です。今回はテーマをこちらから決めませんし、写真の出来についても話し合う事はありません。折角、遠くまで出掛けたのですから好きなように撮りましょう」
それは、自由だとさながら言っているようなもの。けど、そんな本日の部活内容でも二つほど制限が加えられた。
一つ目は、約束の時刻に駅に集合だと言うこと。これは当たり前。各々勝手に帰ったら、安否確認なんて出来ないのだから。
けど、二つ目は少しばかり特殊。
「皆さん、一人では行動せず、必ずペアを作って行動してください。何人でも大丈夫です。一人以外ならそれこそ何人でも」
先生のその言葉に、部員たちが僅かにざわめき始めた。いくら高校生とはいえ、学校以外の場所で一人で行動するのは、良くないと先生なりに考えた上での提案なのだろう。
提案を受け、皆近くにいる部員達とこそこそと話し始めた。誰と行くか決める為である。私たち写真部の部員は、10人ちょっとしかいない、比較的中規模の部活動だ。だから部員同士の繋がりはある方だけど、それでもよくつるむ人というのはいる。私も部活動中はよく、ほかの1年生たちと行動を共にしていた。けど、今日の私はそうじゃない。
私は足を動かす。それこそと同じ年代同士で話をしている部員同士の輪を抜け、違う年代である男性の元へと、私は近づいた。
「先生、一緒に周りませんか?」
猫なで声とはいかないまでも、なるべく可愛い声で、かつ上目遣いを意識して私は、部活の顧問である教助先生の前に立つ。
そんな私を、先生は驚いたように見つめた。そんな先生の瞳には他の部員達は居らず、私しか映っていない。
「私……ですか?けど川瀬さんはいつも南さんや北上さんたち、同じ1年生たちと一緒だったでしょう。今日は違うのですか」
「今日はいつもの部活動じゃないですから、いつもと違う行動をして見たいんです。それに……」
「それに?」
首を傾げる先生。そんな先生に私は笑みを向ける。思いっきりの小悪魔めいたからかいの笑みを。
「先生、一緒に行く人がいるんですか」
笑みと同じように、からかいの成分を含ませた声。それを聞いた先生は、戸惑いの表情を綻ばした。
「一本取られましたね」
クスリと、小さく笑う先生。そんな先生の顔を見ていると、私の心は踊り出す。どうしようもなく、胎動する。
そう、これでいいんだ。一歩、一歩慌てることなく、私は脆く危なげない橋を歩いてく。踏み外すことないように、落ちることないように、いつか思いを伝え届けるために、今日も私は行動して行く。
ーーーーーーー
落ち着いた街、それが私の第一印象だった。高台からは、景観こそ分かれど、雰囲気までは分からない。
それこそ、あまり都会じゃないなと思ったぐらい。
私たちがきた海沿いの街は、静かな街だった。寂れているのではなく、静かな雰囲気。家や建物は老朽化したり、朽ちたりしてるものはなく、自然に溶け込むかのように落ち着いた趣を醸し出している。
この街は自然と人工物が共存していた。それこそ、街中にいても波音が聞こえてきそうな、そんな落ち着いた雰囲気。
故郷がここだったら良かったのに。こんな風にのどかで、落ち着いられる場所が、あの街にはない。あんな都会と田舎の悪いところを取ったような場所なんて、好きになれる筈がない。
と、内心自身の故郷をディスりながら、私は街の景色をカメラに収めて行く。自身との街とは違う成り立ち、様相のため撮りがいは物凄くあった。それこそ、カメラに目を通している時間の方が、離している時間よりも長いほどに。
「川瀬さん、歩いている時はカメラから目を離してください」
「あっ、すみません」
そんな私を先生は叱った。けど、それを嫌だと私は思わなかった。だって、こうして叱られるのも、先生が一緒にいるからこそ。周りに他の部員は居らず、先生との二人っきりの状態。
そんなんだから、叱られカメラから目を外した時、私は反省した顔つきをせず、代わりに笑みを浮かべてしまう。別に反省していないわけじゃない、ちゃんと悪かったと、自身を戒めもした。けどそれ以上に嬉しかった。先生と二人っきりでいるこの状況が、今の私に取っては、これ以上ないほどの幸せだった。
そんな心境だったからこそ、驚いてしまう。いつもと違う街、いつもと違う人、特別な今。そんな状況下にて、唐突にそれは私の視界に現れた。
自然と、そして潮風に包まれた静かな街。それに伴い街中を歩く人数も少ない。だからこそ、いつもより通行人が目立つのだけれど、それでもその人は、私に取っては目立ちすぎていた。
街を散策し始めて一時間近く経った頃。幸せ気分の私と、先生が歩く先にとある十字路が現れた。
静かな街にある静かな十字路。車一つ通っていないこと以外は、特にこれといって特徴のない道だ。けど、道は普通でも通る人次第で、そこは特別へと変わる。
先にある十字路で、とある人物が横切っていく姿が私の目に入った。何の特徴もない十字路に加え、特にこれといって特徴のない平凡な顔立ちの男性である。普通なら記憶すら残らないことだろう。でも私にとっては違う。
だって、その人は私にとって特別な人……その人物は兄だった。
何故電車で何十分もかかるこの街に、兄がいるのか、まず一番に浮かぶであろう疑問。でもその時の私は、そんな当然とも言える疑問を思い浮かべられなかった。
目につく兄、そんな彼の隣には私が知らない人物が並び歩いていたから。
お婆さんだ。白髪で背筋が曲がった老人。そんなお婆さんに付き添うように、兄は歩いている。よく見ると、二人は兄が手にしているスマホ画面を見つめながら、何やら話し合っていた。
そんな二人は、私たちの存在に気づく素振りを見せず、通りすぎて行った。
十字路、もう誰もいない道。そんな通り道で、気がつけば私は立ち止まっていた。
「川瀬君でしたか、今のは」
「はい……多分、兄……でした」
辿々しく答える私。
多分じゃない、あれは兄だ。生まれて早15年、嫌がおうにもずっと一緒にいた人を見間違える筈がない。
けど、そうだと分かっている筈なのに頭が追い付かなかった。見知らぬこの街で、そして見知らぬお婆さんと一緒にいる兄。
理解できるけど、言語化出来ない。そんな物思いにとらわれていた私は道先にある、兄が通り過ぎた十字路を立ち止まったまま見つめ続けてしまう。だから、この時隣にいる先生がどんな表情か私には分からなかった。それこそ声音しか、分からない。
「そうですか、やはり川瀬君ですか。川瀬君はこの街にはよく来るんですか?」
「いえ、そんな筈はない……のですが」
思わず言い淀んでしまう。私が知る限り、兄がこの街に来たことはなく、そして今回来た理由も、私には思い付かなかった。
けど、それはあくまで私が知らないということだけ。見治先輩と……陽先輩は知っているのかもしれない、私の知らない兄の一面を。
だから、先生の次の言葉を私は否定出来なかった。
「そうですか、なら尚更川瀬君は立派ですね」
「立派……?」
「はい、だって知らない街で、知らないお婆さんを助けているのですから、立派以外の何者でもありません」
すらすらと話す先生。そんな先生の言葉に私は黙って頷く。確かに、思い浮かべると、兄があのお婆さんを助けていたように思える。道案内とかそんな所だったかもしれない。
けど、私が知っている兄は、人助けをするような活力を持っていない。自分の事で精一杯のような、そんな人間だ。
でも、そんな兄もここ最近変わってきた。前なら私や陽先輩にプレゼントを渡すなんて真似はしなかったし、遊園地に行くなんて事もなかった。
私の知らない兄の一面……いや違う。それは、もしかしたら私の知っていた兄の一面かもしれない。
戻ってきたのか、あの兄が。あの頃の皆が、私が憧れていた兄が。そう思うと、自然と頬が緩んでしまう。その矢先だった、先生が話しかけて来たのは。
「仲が良いんですね、本当に」
柔らかな声で先生はそう告げてくる。けど、その言葉を受け止めた私は柔らかな気持ちにはなれなかった。だって、そうではないのだから。
「違います、仲が良いなんて……そんなことは」
「違うのですか?」
「ちが……いません」
十字路から、漸く隣にいる先生へと顔を向けた私の目に入って来たのは、瞳を哀しそう俯かせる先生の顔だった。そんな顔をされたら否定だなんて出来る筈がない。
ヤオンの時と同じように、私はまた先生に嘘をつく事となった。
小さく呟くように答えた私。それでも私の返答を聞き、先生は嬉しそうに頷いた。
「それは良かったです。兄弟は仲が良くてはいけないものですから」
「そういえば、先生も兄弟仲が良かったですもんね」
何気なく言ったつもりだった。だって、ヤオンで聞いた限りそんな感じだったから。だから先生の顔が、学校の時のような微笑すら浮かばない真顔へと変わったのを見て、私は肝が冷えた。
「違うの……ですか」
やってしまった、そんな思いで私は尋ねる。多分その時の私の顔には暗い影が差していたと思う。だって、私の顔を見た先生は、直ぐに真顔からいつものような、人の心を和ませる微笑へと変わったのだから。
「違いません。少なくとも他人から見て、私と兄の関係性は良好に見えていたのでしょう」
「他人から?」
「そう他人からは」
そこで、先生は私から視線を外し前へと向くと、先程兄が横切った十字路へと瞳を向けた。
「私は兄にベッタリでした。けど、それは仲が良いからじゃなくて、不安だったからなんです」
「不安?」
「はい、不安です」
先生の瞼がゆっくりと降り、瞳を小さくしていく。そんな先生が見ているのは、他人から見れば十字路を見ていると思うに違いない。だって、先生の瞳はそこへと向けられているのだから。
けど、同じ他人でも私には、先生が見ているものは十字路ではないように思えた。けど、同じく他人の私には、先生が本当に見ているものは何なのか、分らない。
そんな先生の、話は続いていく。
「私には何も無いんです。だからこそ、私は兄に付きまとった。それこそ腰巾着のように。そうすれば、兄の、中身ある人格を私の物に出来ると思ったから」
「……」
「けど、それは間違いだった。確かにその目論みは成功しました。兄の人格をベースに、様々な人たちの性格を合わせ今の私は産まれた。けど、そうやって出来た私は私なのでしょうか……私ではないですね。それはあくまで借り物であり、私は依然空っぽのままなんです。空っぽで空白で影響されやすいつまらない人間、それが私なんです」
「……どうして、それを私に話すんですか」
表情とは裏腹に先生の声には悲壮感は無かった。けど、同時にいつものように柔らかく暖かくもなかった。事実確認をするようなそんな固く重い声。
そこには私の知らない、私の望んでいない先生がいた。
小さな、周りに溶け込んでしまそうな私の問いかけに、先生は時間を置く事なく答えた。
「多分、貴方のお兄さん、川瀬君に影響されたからでしょう」
「兄に……ですか」
「はい、だって川瀬君は、自分を持っていますから。こうすべきという己を持ち、そしてそれを行動に移している。他人の空真似である私とは違って」
そこで、先生は笑った。けど、それは高台の時のような明るい笑い声なんかじゃなかった。暗く、そして自身を貶めるような笑い。
それを見て、そして聞いた瞬間、私の中であるものが弾けた。それは抑え込もうとしていた分、弾けた際の反動は何よりも大きかった。
「違います、先生は自分を持っています!」
自分でも驚くほどの大声が口から出た。自分でも驚くほどなのだから、当然目の前にいる先生は目を丸くし、唐突に叫んだ私を見つめる。
「川瀬さん、いきなりどうしたのですか」
珍しく慌てた様子の先生。けど、そんな先生の姿が目に入っていながら、私は声を止めずにはいられなかった。
「先生は私に優しくしてくれました、私の写真を誉めて下さいました、私のプレゼントを喜んでくれました、先生は、今の私の全てなんです!だから……だからそんな事言わないで、そんな自分で自分を否定するなんて真似、しないで下さい!」
胸に手を当て叫ぶ私。
何故だか無性に悔しかった。違うと思いっきり伝えてあげたかった。そん思いを自分で制御することが出来なかった。減衰どころか加速していく。熱を失うどころかより高くなる。声が小さくなるどころか、より大きくなる。
先生の事をより深く想う、想ってしまう。もうその想いを……止める事は出来なかった。
「……川瀬さん、ありがとうございます。けど、川瀬さんが思う私は、私ではないのです。川瀬さんの思う私は、きっと……他人なんです」
「違います、だって私のこの想いは他人なんかじゃなくて、先生に向けられているものだから、先生だけへのものだから。だって私は」
「先生が好きなんですから!」
物静かな街。人の声は勿論、セミの音すら僅かなこの街では、声がよく通る。
小さな声は音を失わずに、大きな声は思いの強さを失わずに相手の耳へと届く。
深い谷底にかけられた脆くて崩れ落ちそうな橋。その上を一歩、また一歩とこれまで歩いてきた。けど、そんな日々ももう終わり。私は飛んだ、向こう岸に向かって。その衝撃によって、橋は崩れ落ちる。もう、これまでのようにはいかない。落ちるか、辿り着くか、二つに一つ。
そして結末を握っているのは、私ではなくて、向こう岸にいる先生。
夏休みのこの日、見知らぬ海沿いの街にて私は先生に告白した。
次は川瀬広視点となります。




