8.5話 勇気を出して(視点:川瀬添)
今回の話は、8話と9話の間で起こった話であるため、8.5話とさせて頂きました。
忘れた事はない、兄が変わったあの日のことを。
あの日から、私が憧れた兄は消えて、いなくなった。原因は多分私。私が兄を拒絶したから。
けど、あの時やった自身の行動を、悪いことだとは私には思えなかった。だって先にやったのは兄なのだから。
でも、何故だろう。悪くないとは思っている筈なのに、あの日の事を思い出すと、胸が苦しくなる。
だから私は、あの日の事を考えなくなった。忘れたんじゃなく、思わなくなった。
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日曜日の昼間。
いつもなら友達と遊んだり、家でゴロゴロしている私が、今はたった一人で地元にあるヤオンにいた。
別に友達と待ち合わせとかではなく、正真正銘の一人、である。
何故、私が一人で休日のヤオンにいるか。その理由は簡単、昨日兄の話を聞いたからである。
土曜日、兄は陽先輩と一緒にヤオンへ遊びに行った。
その日の朝、私はそんな兄を見送ったのだが、その時に私が思っていたことと言えば、主に陽先輩の事だった。
数日前に私は陽先輩と一緒に帰った。その時私の、『兄の事が好きなんですよね』という直球にもほどがある質問に、陽先輩は『幼馴染みとして好き』と、好き違いの返答をした。
けど、私はそんな陽先輩の答えを素直に飲み込めなかった。陽先輩は他の人と同じように本音と建前がある。だからこそ、兄の妹である私を前に、本当の事を言えなかったのでないかという、疑問がどうしてもあった。
そんな時に、発生した兄と陽先輩が二人きりで出掛けるというイベント。疑うなというほうが、無理な話。
やはり、陽先輩は兄の事が好きなんだという確信めいた思い。
その日他人の恋心を詮索していた私であったが、そのしっぺ返しなのか、その日の内に私は自身の恋心に対峙しなくてはならなくなった。
夕方ごろ、家に帰ってきた兄は何故か落ち込んでいた。それこそ、普段感情表現が乏しい兄が、傍目からみて落ち込んでいると分かるほどに。
けど、そんな兄は私を見ると、何故かよそよそしくなった。いつも以上に、私との会話を短く切るし、私を避けていた。
当然そんな事をされれば、気になるというもの。だから私は兄に詰問した。
何があったのと。兄の目を見て、強く言った。
弱気な兄なら大概はこれで、直ぐゲロるのだけれど、何故だが今回は直ぐに吐かなかった。
と言っても直ぐにはというだけであって、しばらくした後、これまでと同じように観念した様子で兄は、ヤオンで何が会ったかを話し始めた。
そこで私は兄が、先生と会ったことを知る。当然ながら私は悔しがった。何故、私じゃなく兄が先生と会えたんだと、心の中で叫んだ。
けど、少し疑問だったのは、何故それで兄が落ち込んでいたかということ。私を避ける事は分かる。先生の事が好きと兄に言ってしまっているから。でも先生と会ったことで何故兄が落ち込むのか、私には分からなかった。
当然、その事を兄に質問した。で、兄の返答と言えば、休日に担任に会うこと事態が嫌だからという。
それは、間接的には先生の事を侮辱してることと代わりない。私は兄を責めようとしたけど、やっぱり止めることとした。
休日遊んでいる時に、担任と会って、その際宿題の事を言われて嫌な思いをした経験が私にもあったから。
でも、兄の落ち込みようはそれだけじゃないように思えた。それこそ、何か思いを打ち砕かれた人みたいに。
何か別の理由があるのではないかと、思わずにはいられない。
けど、結局のところ、落ち込みようは人それぞれとして、私はとりあえずは納得するのだった。
最も、その時の私と言えばあまり兄の事に意識が言っていなかったという理由もあるかもしれない。
その時の私はどのようにして、兄と同じように休日に先生と会えるか、そればかり考えていた。
その日の夜、自室に引きこもっていた私が思い付いたのが、兄が先生と会ったヤオンへ、明日の昼間に行くという考えだ。
といってもこの考えは衝動的なものである。だって普通考えて同じ所へ二日続けていく事など殆どないはず。明日の日曜ヤオンへ行ったって先生に会えない方が確率としてはずっと高いのだから。
でも、私は先生に会いたいという衝動を押さえきれなかった。だってお祭りの日に会ってから一度も先生は部活に出てくれていない。職員室とかで、会っても挨拶ぐらいで、私はあの日から先生と一度もまともに話せていない。
だからこそ、会いたかった。会える可能性が低いと分かっていても、私は先生に会いたかった。
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ヤオンは、休日ということもあって人混みで賑わっていた。家族連れ、友達連れ、恋人連れ。一人の人もいるけど、殆どが誰かと一緒に歩いていく。
そんなヤオン内で私は一人っきり。けど、寂しさや恥ずかしさといった思いは、今の私には無煙だった。
だって、今の私には明確な目的があるから。先生に会うという願望からの目的。だからこそ、今の私は一人でも平気。
ヤオン中を隅から隅まで歩き回る私。けど、私は先生を見つけることは出来なかった。
そもそも、先生と会えない方が普通なのだけれど、この時の私はと言えば、ここまで必死なのだから先生にきっと会えるだろうという、迷信めいた思いを抱いていた。だからこそ、その思いが裏切られた私は落ち込んだ。
いつもは花や戸塚といった友達と一緒に行くヤオンも、一人だとやけに広く、そして虚しく感じる。
連れ人がいる人達を見たら、余計に。
露骨にため息をつく……ということは流石にしなかったけど、それでも肩を落とす位はしていたと思う。
一人、落ち込みながら歩いていた私。そんな時、とある店舗に私は目を止めた。
人目につくように、通りに面して設置してあるショーケース。そして、その中にある数多の腕時計たち。
ちくたくちくたく、中にある腕時計は同じ時を刻み続けている。
そして、私はそんな時を刻む腕時計を見つめる。流れていく時間、戻らない時間。時計は変化を告げる。
戻らない、あの頃には、もう。だから私は……。
そんなときである。ショーケースに目を取られ、私は周りを見れていなかった。
「川瀬さん。買い物ですか」
突然声が聞こえた。柔らかな、聞き覚えのある男性の声、間違いようのない声。
だからこそ、分かった、顔を見る前から。声をかけたのが誰なのか。
私はおもむろに、ショーケースから顔を離し、声の方向を見る。
あぁやっぱり、思った通りの人が、そこにいた。
「せ、先生……いつからそこに」
声が上擦る。頬が紅くなる。
私の目の前に会いたいと願っていた人、教助先生がいる。しかも、学校の時のようなスーツ姿じゃない、私服だ。
私服姿の先生は白のトップスに、ネイビー色のジャケットを羽織り、黒のデニムパンツ履いていた。モノトーンが目立ちつつもスッキリと纏まっている服装。
いつもパーカーばかりの兄や、ジャージばかりの見治先輩とは違う大人の趣。
そんなレアとも言える先生の姿が、尚更私の鼓動を早くさせる。
綺麗に見えているかな、そんなお祭りの時に、思っていた事が、今は抜けてしまう。先生に夢中になる。
「さっき来たばかりです。川瀬さんこそ、ここの時計を買いに来たんですか」
「え、そう見えますか」
「ええ、とても熱心に眺めていましたから」
優しく、相手の事を思いやる微笑み。
先生はいつもこんな笑顔を私達に向けてくれる。私達生徒の事を思っていなければ、こんな表情にはなれない。この笑顔に私はやられた。
だからこそ、先生のいつもの笑顔を向けられた私は、なおのこと先生に、惹き付けられる。
「いや、違います……ただ、少し気になったものですから」
「そうでしたか。ここの時計は良いものを揃えていますからね。川瀬さんもこういうものがお好きなんでしょうか」
「好きです」
直ぐに出た言葉。けど、その言葉を言った直後、自身の顔が紅くなったのが、自分でも分かった。
先生の意見に同意しようとして、嘘をついてしまった事が恥ずかしかったんじゃない。
あの言葉を意識している私が、別の意味でも出した、出してしまった。
『好き』
という言葉を。だからこそ、恥ずかしい。
だからこそ、私は探す。好きという言葉を消す言葉を。けれど、余裕がない私の頭は上手く機能しなかった。
「兄が」
言った瞬間、顔から血の気が退いた。私は何を言っているのだろうと。何故そこで兄が出てくるのだと。
一方、先生と言えば意外なものを聞いたような表情で、私を見ていた。
「川瀬さんは、お兄さんの事を大切にしていらっしゃるんですね」
「兄を、私が?」
「えぇ、だってお兄さんのプレゼントを買いに来たんでしょう?」
純粋無垢に語る先生。
一方の私はと言えば、純粋ではいられない。私の頭の中はごちゃごちゃだ。
私が兄にプレゼントを?何で。何で私が兄さんにプレゼントなんてしなくちゃならない。確かに兄はもうすぐ誕生日だ。けれど、もう私は兄に誕生日プレゼントを渡すつもりはない。
だからこそ、違うと言うべき。先生に嘘はつけない。
「いや、その……」
「あれ、違いました?」
「いえ、兄への誕生日プレゼントを買いに来ました」
嘘をついてしまった。先生の戸惑う顔を前にしたら本当の事なんて言えない。
そんな嘘の解答に先生は頷く。
「いい心がけですね。偉いです、川瀬さんは」
「そう……でしょうか」
「そうですとも、私にも兄がいたけど、プレゼントを渡すなんてことは恥ずかしくて出来ませんでした」
頬を掻き、恥ずかしがる先生。
そして、先生は私から、近くにある腕時計が飾られたショーケースへと視線を移した。
「兄は、私の手本でした。弟の私を見てくれて、気をつかってくれて、そして道を教えてくれた。今の私がいるのは兄がいるからなんです」
先生が話す、先生の私生活。私の知らなかった先生の一面。私はそんな先生の言葉に、とらわれる。
一通り先生は話し終わると、ショーケースから再度私の方へと振り向いた。
「話が逸れてしまいましたね、すみません。退屈、でしたね」
「いえ、そんなことはありません。私も兄がいますから、その……親近感がわきました」
「そう言ってくれると助かります。私も同じ兄がいる身としては、川瀬さんとは親しくなれそうです」
微笑む先生。これまで以上に身近に感じられる。
そんな先生を前にして私は思わずにはいられない。やっぱり私は、先生を好きなんだと。
「……先生はプレゼントを渡されると嬉しいですか?」
両の手に力を入れ、勇気を振り絞った私は尋ねる。顔が真っ赤になっている気がするけど、そこまで気が回らない。
「私が……ですか?」
「はい、その……よければ誕生日も、教えてくださったら……嬉しいです」
顔の熱さで分かる。今間違いなく私の顔は真っ赤だ。そんな自身の顔を見られたくなくて、つい私は顔を下げてしまう。
心臓が高鳴る。これでもかというくらいに。高校受験でもここまで緊張はしなかった。
だからこそ、怖かった。先生の返事が。
長く、時が感じられる。けど、受験の時もそうだったみたいに、今回もまたその時がやって来た。
「誕生日ですか……7月の25日です。私の誕生日は」
あっさりとした声。重苦しさとは無縁の声。
その声を聞いた時、私の鼓動は緩やかになった。
「7月25日……ですか」
「はい、その日が私の誕生日です。本当は生徒からプレゼントを貰うなんて良く無いのですけど……まぁ秘密、ということで」
隠し事を打ち明けた時のような、いつもとは違う笑みを先生は私に向けてくれる。
そして、先生は別れを告げると、私から離れていった。
段々と小さくなり、人混みに紛れ消えていく先生の背中。
そして私はと言えば、先生が見えなくなってもなお、ずっと彼の消えた方角を見つめている。
思うのは、先程の先生の表情、言葉。
胸にしまうべき大切な、今日の宝物。
けど、永遠とはいかない。隣にあるショーケースが存在感を示してくる。私を見てくれと言っているように。
目を向けるとそこにあるは、先程と変わらない腕時計たち。ちくたくと時を刻んでいく。そんなおり思い出すのは、胸にしまったものとは違う先生と私とのやりとり。
それが、私の背中を押す。私と兄との時を動かす。変わってしまった変化に抗う為の力を、その日先生は私にくれたのだった。