11話 それは願望(視点:川瀬広)
誕生日は嫌いだ。
別に年を取るのが嫌だという大人ぶった理由でも、この年にもなって祝われるのが恥ずかしいという背伸びした理由でもない。
僕には、誕生日を祝ってくれる人がいる。見治と陽、二人と開く誕生日パーティーは楽しい。それは本心だ。でも、僕はやっぱり誕生日という日を好きにはなれない。
何故なら、あの日の事を思い出してしまうから。トラウマというべきあの出来事を。
あの日から、僕は変わった、変わってしまった。何でも出来て何でも決断出来た自分は鳴りを潜め、変わりに産まれたものは、今のごく平凡な、中途半端な僕だ。
僕が変わってしまう切っ掛けとなったあの日以来、僕と妹との関係性も変わった。
あの日から僕は、妹から誕生日を祝われる事も、そして誕生日プレゼントを貰う事も無くなった。
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案外、誕生日というのは自分から言い出さなければ、分からないものだ。
僕は別に見治や陽ばかり係わっていたわけじゃない。友達と読んでも差し支えないような人はクラスに三、四人はいるし、そいつらといつも昼飯を共にしている。見治は昼練に、陽は部室で食べるから、僕は僕なりの関係性を持つ人達と食べるようにしているのだ。
けど、そんな彼らは僕の誕生日を覚えていない。知らないではなく、覚えていないのだ。
今日は僕の誕生日。僕は17歳になった。
けど、それを祝ったのは今のところ、誰もいない。見治や陽、それと両親に祝われる事が確定しているとしても、やはり少し寂しい。
誕生日は嫌いだ。けど、幼馴染や肉親以外に誕生日を祝われないほど、自身の存在は希薄なのかと思ってしまい、そのことに虚しさを感じる。
なら、自分で今日誕生日だって言えば良いじゃないかと思う人もいるだろう。けど、そんな自分で自分をアピール出来るようなら、僕はきっと今の僕を嫌いでないだろう。
誰にも祝われない。僕は密かに憂鬱な気分のまま、いつもと変わらぬ自分の席で、いつもと変わらぬ授業と昼食、変わらぬホームルームを経て、これまでと変わったところなく今日の学校は終わりを告げた。
でも、クラスメイトたちは、学校が終わっても、部活をするなりして学校に残るに違いない。けど、帰宅部である僕は違う。学校では、僕には何のイベントもないし、起こらない、起こるはずがない。普通の僕には。
ホームルームが終わった後、僕は無言のまま、荷物を片付けていく。机の中から、筆箱やら、ノートやら取りだし、鞄に詰め込む。これもまたいつもと変わらない作業。しかし、そこから先が違っていた。
「なぁ、このあと少し、時間いいか?」
少しばかり緊張、いや固い様子で見治が話しかけてきた。
放課後、見治と話すこと自体は珍しいことではない。それこそ、彼が部活に行く前に少しぐらいは話をする。けど、この時の彼の様子とその内容は珍しかった。
何か合ったのだろうか。もしかして、今日の夜、僕の家で行う誕生日パーティーに、出席できないとか?
だとしたら嫌だ。見治と陽、二人に祝われなきゃ、嫌いな誕生日がより憂鬱になる。
「時間はあるけど……何かあった?」
僕の声は、不安で少しばかり揺らいでしまう。けど、そんな僕の変化に気づかなかったのか、彼は安心する言葉を僕に、かけてはくれなかった。
「いやまぁ……とにかく来てくれないか?ここじゃ話しづらい」
「……分かったよ。見治がそう言うなら」
重苦しく僕は首肯する。
僕は荷物を入れた鞄を机にかけると、教室を出ていく見治の後を、重くなっている足を動かし付いていくのだった。
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この時間帯は学校の中で最も騒がしい。ホームルームと部活との間の空いた時間帯。学校が終わったという開放感と、人々の移動が重なり、学校内が活気に満ち溢れるのだ。
だからこそ、僕はこの時間が嫌いだ。僕はその波に呑まれることが出来ないから。さながら海に漂うペットボトルのように、僕自身この空気に浮いている。
だから、第三校舎に入ったとき、僕はほっとした。ここは人の出入りが少ない。特に放課後は誰もいないのではないかと思われる程に静寂に包まれる。喧騒に包まれる第一、第二とは正反対の静寂に包まれた第三校舎。なるほど、人に聞かれたくない話をするには丁度いい場所である。
けど、見治は第三校舎に入っても止まらなかった。そのまま二階、三階へと階段を登っていく。
ひょっとして、話をしたいだけじゃなく、何処かへ連れていきたいのかな。けど第三校舎の、それも三階に何かあったっけ?
と、そんな物思いをし始めた頃、僕の前に歩いていた見治が足を止めた。それにつられ僕も足を止める。
左手を見るとそこには、部室があった。扉には本来、中を覗く為のガラス窓が嵌め込まれている筈だけど、中を覗かせまいとするためか、他の部室と同じくガラス窓を覆うように紙が貼られていた。読書部、黄色く変色している紙にはそう書かれている。
そうだった、第三校舎には陽が所属する読書部があった。
陽から話は聞いていたが、僕自身読書部を訪れた事が無かった為、すっかり忘れていた。
けど、読書部、つまりは陽と会わせて何かあるのだろうか。今日だって朝、僕は陽と登校を共にした。けど、その時の陽は何かあるようには見えなかった。いつもと変わらぬ朝である。
だからこそ、ますます僕の不安は募る。良くない事ばかり頭に浮かぶ。
「陽に何か用があるの」
と、ダジャレを言ったことすら気づかないほどに、この時の僕は冷静さをかいていた。けど、それは見治も同じである。僕から見て、見治は教室の時よりも固くなっていた。
「そう、陽にも少しばかり用があるんだ……先に入ってくれないか広」
きごちない仕草で、見治は読書部の扉へ手を向ける。さながらセレブの人達をエスコートするような仕草で。
そんな見治に、僕は首を傾げる。
「えっ、僕が先に入るの?」
「うん、俺は後から入って扉を閉めるから」
「……分かった」
と、今にして思えば、不自然な見治のお願いを僕は聞き入れた。この時、僕の頭は不安で十分にまわっていなかったのだ。
というわけで僕は読書部の扉に手をかける事となった。引き戸となる扉の窪み部分は鉄板を変形させ覆っているのだが、それがやけに冷たく感じたのは僕自身に要因があるだろう。
心臓がバクバクと激しく動く。息が荒くなるのを押さえるので手一杯だ。願わくば引きたくはない。けど、引かねばならぬのだろう。陽の荷物を持ち運べなかった僕だけれど、扉を開けることぐらいは出来る。いや、引かなければ、逃げたら僕は、今度こそ僕を嫌いになる。
だからこそ、僕は扉をゆっくりではなく、覚悟を決めたように、思いっきり、それこそいきよいよく開けた。
「誕生日おめでとうっ!」
『バンッ!、バンッ!』
「うわっ!」
突然の大声。そして、鳴り響いた破裂音に鼓膜を揺さぶられ、僕は思わず声が出る。
部室の中には、クラッカーを持っている陽がいた。それを見て、僕は理解する。サプライズだったと。いつもみたいに誕生日パーティーを僕の部屋ではなく、学校でやり僕を驚かすというサプライズ。だから、見治があんなに緊張していたわけだ。主役である僕に気づかせることなく、ここへ案内するという大役なのだから。
けど、僕にとって一番のサプライズは、そこじゃない。僕が一番驚いたのは陽の隣にいる人物の存在だ。
クリーム色の癖っ毛、陽より少し背の小さく、からかうような笑みを浮かべている女の子。
陽の隣に当然のように立っている四条さんの存在に、僕は面食らうのだった。
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四条結、確かそんな名前だった。僕たちと同じ二年生。クラスは知らない。陽と同じ読書部で、仲のよい友人……の筈である。
そもそも、僕と四条さんは仲良くない。いや、仲良くない以前にお互い喋った事など一度としてない。陽から話を聞いている程度で、それこそ廊下ですれ違っても、挨拶すらかわさない間柄。つまるところ全くの赤の他人という所だ。
だからこそ、彼女が何故この場にいるのか分からない。陽の誕生日なら分かるが、今日は僕の誕生日だ。
いつもの幼馴染みだけではなく、赤の他人を加えた誕生日パーティー。それに僕は先程とは違う種類の不安を感じてしまう。
今僕たちは、教室で生徒が使う机を四つほど合体させ作った仮初めのテーブルに着いている。
僕の隣には見治が、真正面は四条さんでその隣が陽と、男と女に別れてテーブルを囲んでいる格好だ。
テーブル上には缶詰めに敷き詰められたクッキーと2Lのコーラ、それとコーラが注がれた紙コップが各人の前に置かれている。準備完了だ。いつもなら、ここで見治か陽が音頭を取るのだが、今回は当のあの人が音頭を取った。
「お菓子の準備よし。それにコーラも配った事だし、始めようか。川瀬君の誕生日を祝して~かんぱ~い!」
コーラの入った紙コップを高々と上げる彼女。そんな彼女にワンテンポ遅れる形で、僕らもコップを掲げた。
良くいえば活発、悪くいえば空気を読まない。
四条結、僕が苦手とする人種だ。てか、そもそもなんで彼女は参加しているんだ?
さも当たり前のようにこの場にいるけど、僕は招待した覚えはない。なら、陽が招待したのだろうか。陽と四条さんは同じ部活動だし、それに仲もいいらしい。僕としては性格が真反対なあの二人が仲良くやれていることが信じられないけど。
やっぱり尋ねるべきなんだろう。どうして四条さんがここにいるのか。じゃなきゃ素直に祝われる気にはなれない。
「少し聞きたいんだけどさ、どうして四条さんは参加する気になったの。僕とは初対面の筈だけど」
音頭をとって早々に、紙コップのコーラに口をつけている四条さんに僕は尋ねる。若干の棘を添えて。
四条さんは、そんな僕を目だけ動かし見ると、少し遅れてコップから口を離した。
「いやさ、陽が仲良くしてる川瀬君がどんな人かなぁって気になって。それで参加したんだ」
「えっそれだけ?」
「それだけ。ほら、私陽とは仲が良いけど、陽の幼馴染みである川瀬君たちの事はよく知らないからさ。話してみたいなぁって思ったんだ」
あっけカランに言う彼女。少し、そう言う所は凄いと思った。
僕は彼女の言うことが、本当かどうか分からない。けど、少なくとも嘘はついていないように思えた。
陽の幼馴染みである僕たちの事を知りたい。知ってどうなるんだという気持ちもあるが、少なくとも僕は四条さんの願望とも言うべき思いに賛成だ。
僕だって、珍しくも陽と仲のよい四条さんのことを、気にしてない訳じゃない。話してみたいという気持ちが無かったと言ったら嘘になる。
四条さんから歩みよってくれたこの機会、逃がす訳にはいかない。
こうして僕は幼馴染の見治や陽を混ぜつつ四条さんと色々な話をしていった。勿論、クッキーやコーラを添えて。
「見治、少し前から思ってたけど、部活出なくて大丈夫?もう学校終わってから随分経ってるけど」
「大丈夫だよ、先輩方はもう部活を卒業したし、それに大きな大会も暫くはないから」
「それ、大丈夫って言う?」
「へぇサッカー部てそう言う形なんだ。キツいと思ってた」
「キツいのはかわりないよ。ほぼ毎週土日は部活だし」
「それは大変。私達読書部とは大違い」
「読書部が大変だったら私は入ってないよ」
部活の話から。
「この前の金曜ロー誰か見たか?面白かったよなあれ」
「そう?僕は最後納得できなくてモヤモヤしたけど」
「私も見てたけど、最後主人公が生きてて良かったぁて、思ったよ」
「そうだけど……なんかご都合主義すぎるって言うか何と言うか」
「ご都合主義でもハッピーエンドなら良いじゃない」
「う~ん、でも僕は嫌だな。陽はどう思う?」
「私は脚本が駄目だったと思うよ。場面転換が雑で、それに最後の展開も、監督のやりたかったことと脚本が書きたかったことが解離してるように、私には見えたな」
「うわ、陽に裏切られた!」
映画の話。
「私のクラスの担任、貝嶋なんだけどさ。すっごい細かいんだよね。そこまで厳密にする必要ある?みたいな。だから陽たちが羨ましいよ。教助先生で」
「教助先生は優しいからな。だから俺も心底あの人が担任で良かったって思うよ」
「だよねぇやっぱり。川瀬君はどう思う、教助先生のこと。やっぱり、良いと思う?」
「う~ん、僕はあんまり……好き、ではないかな。嫌いでもないけど」
「広はあんまり教助先生に入れ込んでないもんな」
「そうなんだ……陽はどうなの、教助先生」
「良い先生だと思うよ。私はよく先生には助けてもらってるから」
担任の話まで、実に多彩に。
話をしていく中で分かったことは、やはり四条さんは陽とは真反対の活発な女子だと言うことだ。それに彼女はコミュ力も高かった。出なければ、幼馴染というグループを形成している僕らの中に、こんなにも早く馴染めないだろう。
だから、意見の食い違いこそあったが、おおむね良好な会話が出来たと思う。
あの事を言い出すまでは。
「皆ってさ好きな人とかっているの?」
クッキーを手に取りながら、何でもないように四条さんは尋ねてきた。彼女に取っては何でもない、ただの好奇心からの質問なのだろう。先程まで話していた話題と同じくらい、会話を盛り上げるための話題。それ以上でもそれ以下でもない。
けど、四条さんとは違い、僕はこの話題を嫌悪している。と言っても哲学的見地から論理を重ねたような小難しい理由ではなく、ただ単純に僕が話したくないという理由で。
僕は恋関連の事を口にしたくはない。言ってしまえばどうしても僕の報われない恋の事を考えてしまうから。だからいつも避けてきた、はぐらかしてきた、逃げてきた。
だから、今度もこの話題が僕へ行かないことに、僕は全力を尽くす。
「そう言う四条さんはどうなんですか」
カウンターパンチ。質問に質問で返してはいけないという決まりはあるが、そんな事僕の知ったことではない。
そう言う話題を出すなら、先ずは自分が答えるべき。ただそれだけ。これで四条さんが答えをはぐらかせば、僕もはぐらかせる権利を貰える。
だからこそ、この時の僕の願いはどうか、答えないでくれと言う、普通の人は思わないであろう願いであった。けど、そんな僕の願いは叶わなかった。
「私はいないよ」
これまでと同じように、呆気からんに、何でもないように四条さんは答える。それこそ、迷いなく。逃げの一手で一先ず言ったのではない。彼女は本当に好きな相手がいないのだ。
ここで、僕は己のミスに気づく。尋ね返すのではなく、空気を悪くしてでも拒否すれば良かったのだ。初対面となる相手故に、僕は知らず知らずの内に気を使ってしまったのである。
好きな人がいるか、四条さんは答えた。なら、僕もまた答えなければならない。公平をきすために。
「それで、皆はどうなの。好きな人はいるの?」
再勧告の声が出される。
誰か止めさせてくれと思わずにはいられない。誰か四条さんを止めてくれと。でもきっとそれを思ってるのは僕だけなのだろう。だって、見治や陽は僕とは違う。
「俺はいないよ」
四条さんの言葉から少し経って、見治が答えた。恐らくこのままずっと沈黙が流れてしまうのは不味いと思ったのだろう。彼はいつだってそうだ、彼はいつも皆の事を思い、皆の先頭に立つ。僕らの前にも。
見治の返答に四条さんは嬉しそうに頷く。女子は恋バナが好きだとは聞いていたけど、四条さんを見る限りそれは嘘でないように思われた。彼女は楽しんでいた、皆の恋愛事情を聞けるこの状況を。
「それで、川瀬君はどうなの。好きな人はいるの?」
見治の返答を聞いた四条さんは今度はピンポイントで僕を狙ってくる。そんな彼女のことを、僕は少しだけ嫌いになった。
四条さんに取っては只の話題の種。僕に取っては悪魔の質問。
四条さんが好奇心丸出しの瞳で見てくる。そりゃあ他人の恋愛事情は気になるだろうさ。
見治は四条さんほどではないけど、僕の返答に興味があるようだ。でも、悪いけど僕は見治の興味を満たせてやれそうにない。こればっかりは本音は言えない。
陽は、棲んだ瞳でこちらを見てくる。四条さんや見治とは違い感情が読み取れない。あまり感情を表立って出さない彼女らしいけど、でもいつもよりは真剣みを帯びているような、そんな気がする。
皆がみな、僕を見ている。視界に捉えている。逃げないように見張るように。
答えるしかないのだ。それしか道は……ない。
「……いないよ。僕には好きな人はいない」
ーーーーーーー
今まで散々自分を騙してきた。それでも、口に出す嘘はしてこなかった。口に出してしまえば嘘が本当になる気がしたから。
でもあの時僕は嘘をついた。嘘をつかざるを得なかった。だからこそ、僕の中の僕が、僕を責め立てる。
お前は妹を好きなんかじゃない。
違う。
認めちまえ。そして楽になれ。妹を好きなんて気持ち悪いって思ってるんだろ。
それは……。
だから、好きな人なんていないと答えた。けど、あの言葉は本当に嘘なのか?
……嘘だ。
いいや、本当だね。考えてもみろ。好きな人がいない生活を。お前はもっと自由になれる。何のしがらみもなく、自由に。他人に責められ、冷たくされる恐れがない人生。
……自由。
そう、自由だ。好きな人なんていないと認めちまえば自由になれる。他人の視線を恐れるような、閉塞感を感じずにすむんだぞ。
……。
強情だな。妹を好きな事に罪悪感を感じているのに、何故想いを切らない、切ればいいんだよ。切って両親に誇れる息子になれ。親不孝ものの川瀬広くん。
……親不孝もの。
そんな物思いをしていた時、唐突にガツンと強い衝撃が顔に伝わってきた。心理的要素ではない。物理的に。
顔をしかめ、手で当たった箇所を擦りながら、指の隙間から僕は前を見る。
目に入ったのは所々茶色のペンキが剥がれている木材、もとい自宅玄関の扉であった。どうやら考え事をしてる間に、もう家に着いたようである。
誕生日パーティーは、あまり気分良く終わることが出来なかった。その原因は僕にある。
僕が、頑張ってついた嘘は見治や四条さんのように軽く流されなかった。多分、真剣に答えすぎたのだ。本気で悩み、本気で考え、そして本気で言った言葉はあのような和気あいあいとする場では、相応しくない、寧ろ空気を乱してしまう。
そう言った意味では空気を読めていないのは四条さんではなく、僕のほうだった。
僕のあの発言で皆が静まりかえってしまった、つい数十分前の光景を僕はつい思い出してしまう。新たなトラウマとなったあの場面を。
駄目だ、思い出すなリラックスしろ、リラックス。僕は髪を掻きむしり、記憶を追い出そうとする。しかし、それで消えてくれるほど、嫌な記憶は軽くはない。
こういった記憶はいつまでも引きずるものだ。現に僕は今だあの日の事を引きずっている。
髪を掻きむしっていた僕だが、気分を落ち着かせる事で漸く、掻きむしるのを止める事が出来た。
こうして、嫌な記憶を払拭した僕は玄関の扉を開け、自宅へと入る。
いつもなら帰宅部である僕が家に帰るのが一番早い。だから、家に帰ったらまず消えてある明かりをつけるのが、僕の習慣でもあった。
けど、この日は学校で誕生日パーティーをやった為、いつもより帰るのが遅くなっている。だからなのか、僕が帰った時には、家の中は既に明かりがついていた。誰かが先に帰ってきたのだ。
僕は靴を脱ぎ、廊下へ上がるとそのままある部屋へと直行する。玄関に一番近く、かつ皆が集まる部屋。そんな部屋の前に着いた僕は直ぐには扉を開けなかった。
さながら、先程の読書部の扉に手をかけたときのような、躊躇いが今の僕にはある。薄々感づいていた、先に帰ってきたのが誰なのか。だからこそ、開けたくないという気持ちに駆られる。でも、それでは、駄目なのだ。逃げていては、決めなくては。
だからこそ、躊躇っていた僕は読書部の時のように、いきよいよく扉を開けた。
入った部屋はリビング、そしてその中にあるソファーには、僕が想定した通りの人物がいた。
僕と同じ黒髪黒目で、何処となく幼さを感じさせる小さな顔。僕の妹、川瀬添がソファーにくつろいでいる。
この時添は、スマホを弄っていたが、やがて、僕の存在に気づくと、スマホから顔を上げた。
「……おかえり、遅かったね」
「あぁ、ちょっとあって」
添が言葉を発するまで、一呼吸分の間があったのだが、この時の僕はその事に気づかなかった。
添は、僕と挨拶を交わすと、またスマホへと視線を戻す。この時僕と添との間に交わされたのはこの挨拶のみ。いつもより、さっぱりした会話に僕は少し寂しく感じる。
いや、きっとこれくらいは普通なのだろう。そう感じる僕が異常なんだ。
妹を好きなこと自体が異常。それが分かっていながら諦めきれていない僕は何処か壊れているに違いない。
そんな僕は治ることが出来るのだろうか。妹を諦めれば、昔のような僕に戻れるのだろうか。自由になれるのだろうか。
『僕には好きな人はいない』
それは嘘の言葉、偽りの言葉。
けど、同時にそれは、僕の願望だった。
次の話も川瀬広視点となります。