失身
目が覚めると、視線の先には天井があった。そのすべての色の成分を含み、白としか表現のしようがない天井が目の前を塞いでいた。視線を変え、壁にかかってあるはずの時計の針を確かめようとする。その時、針が判別できず、寝起き特有の視界に靄がかかったような現象が起こっていることを自覚する。目をこすったり、瞼を開けたり閉じたりするが、なかなか視界は戻らない。しばらくし、ようやく視界が回復すると、時計の針は六時を指していた。休日の起床にしては早すぎる時間だ。もう一度寝ようかと思い、目を閉じたが、なぜだか心臓の鼓動がいつも以上に気になり、寝付けない。そして、汗ばんだ体にはりつくシーツが不快でより一層目が覚める。再び寝ることを諦め、ベッドから立ち上がろうとした。日々の疲れからか、思わず立ち眩みが襲い、その場でしゃがみ込む。無意識にため息が出た。もう一度立ち上がり、カーテンを開き、留め金を外して窓を全開にした。カーテンによって閉ざされていた光が一気に部屋へ差し込む。窓によりせき止められていた風が部屋の中へ我こそはと言わんばかりに入ってくる。ほこりっぽい部屋の匂いが風によって流されていくのを心地よく感じた。風の音が止むと、部屋の外から鳥のさえずりと、セミの単調な声が耳を襲い、一日の始まりを告げていた。
部屋を出て、べたついた身体を洗おうと風呂場へ向かう。着ていた寝間着をベッドの上に放り投げ、それ以外の着ているものを全て洗濯機の中へ入れ、ガスのスイッチを付けた。夏場特有の下水の匂いが鼻を刺激する。お湯になるまでのシャワーの水は冷たく、皮膚に緊張を走らせる。その気持ちよさから、口を開きお湯に変わりきらないままの冷たいシャワーの水を口に浴びせた。舌に次々と水の粒子が当たっては口から外へ流れていく。無味だが、おいしさを舌で感じた。シャワーを止め、石鹸で体をこすると、皮膚の表面のべたつきがはがれていくような心地がした。セミの脱皮はこのような気分なのかもしれない。石鹸で泡立った体を再びシャワーの水で流す。そして最後にガスを切り、冷水を全身に浴びせた。急に冷たくなった水で皮膚が一瞬固くなるのを感じる。その感覚に何とも言えぬ気持ちよさを感じる。水を止めタオルで濡れた皮膚を撫でた。そのときに鏡に映った自分の体を改めて確認する。
もう少し痩せないと。
そんなことを思いながら背中も確認し、風呂場を後にした。風呂場を出ると、風呂場の湿った温い空気から解放され、部屋の中にわずかに起こる空気の流れを感じる。そのわずかな空気の流れにさえ、涼しさを感じる。衣裳箪笥から、肌着を取り出し、パンツを履こうと、片足を上げた。なぜかバランスが崩れた。思わず、手で顔を守ろうとする。自分の現状を確認し、頭の中に疑問が湧きおこったが、疲れているのだと納得をした。普段まともに睡眠時間が取れないにも関わらず、早起きしすぎたのだ。仕方がないので座ったまま、パンツを履き、部屋着に着替えた。着替えが終わるころには何事もなかったかのように、立つことができ、歩き回れた。そのまま洗面台へ行き、歯ブラシに歯磨き粉をつけて咥える。歯磨き粉のミントが口の中に広がり、起床を促す。そのミントを歯に擦り付けるかのように、歯を磨いた。口で濯いでも、口内にはしつこいほどにミント味が留まっていた。
歯磨きを済ませると、台所へ向かい、冷蔵庫の中身を確認した。普段それほど自炊をするわけでもないので、冷蔵庫の中はほとんど食材と呼べるものはなかった。ベーコンと使いかけのレタス、袋の開いた食パンを取り出す。フライパンにベーコンを入れ、火にかける。次第にベーコンの焼ける音が大きくなっていく。菜箸で適当にベーコンを突くと、レタスを水で洗った。水の冷たさが心地よい。そうして、二枚ほどレタスの外側をぺりぺりと剥いだ。台所の正面にある窓から窓から日光が差し込み、レタスの緑が明るく映えて、目に映る。トースターがないので、魚焼きでトーストを焼き始める。その時にフライパンを見るとベーコンが焦げていた。
なぜだ?なぜ、焦げていることに気づかなかったのか?
そしてその答えを考えながら、焦げたベーコンを菜箸で削って、皿へ落としていた。そのあと、剥いだレタスをちぎり、ベーコンの上にふりかける。魚焼きを確認すると、トーストがちょうどいい具合のきつね色の焦げ目をつけていた。その時に焦げの匂いを感じないことに気づいた。鼻をすすっても、何も音がしない。どうやら鼻が詰まっているようだった。ティッシュを取り出し、鼻をかんでみるが、鼻水が出てこない。
風邪気味かもしれない。
そんなことを考えながら、トーストを皿の上に重ね、テーブルの上に置いた。テレビをつけると、休日にもかかわらず、いつものようにニュースキャスターがニュースを伝えていた。それを横目に見ながら、冷蔵庫からコーヒーを取り出し、コップに注ぐ。
朝食の準備が整った。椅子に座り、テレビを見ながら、トーストの上に焦げたベーコンとレタスを慎重に載せた。黒々としたベーコンに対し、トーストとレタスが美しい色彩を形成していた。その上にもう一枚トーストを載せ、齧り付いた。レタスのシャキッという感触と同時にベーコンのコリっとした感触がトーストのサクッという感触に包まれ、歯を通して伝わってくる。焦げたベーコンで味が濃縮されており、それをトーストとレタスが中和し、程よい味にしてくれている。二口目を頬張ると、一口目ほどのベーコンの味のしつこさが消え失せていた。味に慣れてきたらしい。そうやってすべてを食べた。最後の締めとしてコーヒーを飲むとなぜかコーヒーの味がしなかった。コーヒーは前日自分で淹れたものなので、薄かったのか。コーヒー豆が足りなかったのか。そんなことを思いながら、もう一杯飲んだが、味は全く感じられない。口の中にしばらくコーヒーをとどめたが、味がしないことに変わりはなかった。
体調が悪いのだろうか。熱があって、舌が馬鹿になっているのかもしれない。
味のしない不味いコーヒーを飲みながら、そう納得した。体調が不安になり額に手を当てたが、いつもより体温が高いという感じはなかった。
しばらくぼんやりとニュースを眺めた後、テレビのスイッチを切り、台所へ皿を運んでいく。水道のレバーを上げると、水が勢いよく出てくるが、なぜか水が手に当たっているはずなのに、その感覚がない。そのとき、ガシャンと音がし、シンクの中を見ると持っていたはずの皿が落ちて蜘蛛の巣のように中心から八方に線が入り、粉々になっていた。思わず、あっという声にならない声が口から洩れる。
疲れているのだ。最近働きすぎたのかもしれない。
皿の破片を一つずつ慎重に拾っていると、指先が深紅に染まっていることに気がついた。なぜか、痛みは感じない。
傷が小さいのかもしれない。よかった。
血で濡れた手を水で流していると、ふと体に違和感を覚え始めた。なぜか、今服を着ていないような錯覚に襲われたのである。そして、水で流している手も、水に触れているという感覚がない。自分の体を見て確認すると、間違いなく、服は着ている。その矛盾に気持ち悪くなり、怖くなった。
何が起こっているのか?
そう思った瞬間、耳鳴りが襲ってくる。キーンという、モスキート音のような音が徐々に徐々に大きくなって、水の音などが聞こえなくなっていく。不快感がこみ上げ、シンクに嘔吐した。吐いているのに、吐いているという感覚だけがない。いや、むしろ吐いた感覚がないのに目の前に吐しゃ物だけがある。
何が起こっているのか?
耳鳴りが突然止まった。それでも、違和感がぬぐえない。
何かがおかしい。病院へ行かねば。
そう思い、玄関へ向かおうとしたときにその違和感にようやく気付いた。音が聞こえないのだ。歩いているとき、普段なら足音がするはずなのに、その音がしない。そして、歩いているはずなのに、歩いているという感覚がない。足の裏に床の上に立っているという感覚がないのだ。
やはり疲れすぎだ。早く病院へ行かねば。
そう思うのと同時に視界が真っ暗になった。
俺は今眠っているのだろうか…。今日はせっかくの休日なのだから、やることがたくさんあるのに。洗濯に、掃除に、買い物に…。
ジリジリジリ
朝日が差しこむ部屋で目覚ましがけたたましく虚しく鳴り響いた。
止める者は誰もいない。




