或る日
モデルにした線区は数知れず(東海道、常磐、北陸etc.)
なのでお好きな線区のお好きな急行でどうぞ。
日本国有鉄道。その仕事は多岐にわたる。そしてそれは如何なる荒天下であっても変わることはない。そう。今このときのような日でも。ひどい雨だ。機関区の窓に打ち付ける雨粒は轟音をたてていて、そのうちこのぼろガラスをかち割ってしまうのではないだろうか。それこそ大正何年とか言うような建物なのだから、それが不安をあおる。波打ったガラス面を伝う雨はいよいよ滝じみてきた。
誰かの点呼を聞く。締めくくりに必ず言う言葉は今や悲壮なものであり、誰しもそれを実現し得ないとも感じている。『絶対無事故で行って参ります……』その機関士たちが小さく見えた。
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このような日の窓口は凄惨極まりない。払い戻しに押し掛ける列と切符を得ようとして並ぶ列はいっしょくたになって今目の前にある。声を枯らして、『払い戻しは半年先まで有効です。特急券や急行券を無くさないように保管してください。』声を張り上げるのは毛補清治、通称ケポリ星人である。普段仕事において笑顔を絶やさない彼が声を荒らげるのは珍しい。
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機関区の待ち合いの掲示板に今目を通し、必要事項を手帳に書き取る。どこで工事が行われて制限速度は下がっている、豪雨の中落石注意の区間。水没の危険性の有無。他申し送り事項。そして「定時」の時計と自分の持つ時計の誤差はあるか。鉄道電話は鳴りっぱなしで、助役さんがなんだか忙しそうにしている。機関車の手配が云々と。
点呼をとる。助役さんと掲示板にあった内容や特別な指示について。そして最後の締めはやはりいつもの『絶対無事故で行って参ります』だ。急行の機関車がなかなか手配できず、代務の機関車が用意されているとか。
そして代務機関車として用意されていたのは全国津々浦々どこでもいる貨物機関車だった。その小径動輪は高速化を最初から求めていない。雨天ゆえに庫のなかにいるそれは本当に一両こっきり、ボクらを待っていた。熱を発するボイラが今や時は来たりとばかりに待ち構えている。お呼びでないとかそんなのは無い。ただただ、信じられないという思いしかない。萩野さんはなんだか辺りにいる庫内手から縄を貰っている。昔、縄をほぐして機関車を磨くやつを作ったことが思い出させられる。
保火は正しくされていたこともあって極めて調子よく圧が上がる。これが調子悪くともこの機関車しかない。なら調子よく上がってくれるのはありがたい。各種点検と注油を終えた萩野さんが運転台に上がってくる。そして、機関士席につくと言う。
「俺を席に括り付けろ!早く‼」
戦前の頃は予備役兵の訓練の免除理由に鉄道職員というのがあったくらいには軍隊に近いこの鉄道職場。師匠のいうことは絶対に近い。ボクからすれば萩野さんは師匠だ。言われた通り座席に括り付ける。
列車が来て機関車を交替させる。ここまで牽いてきた罐はくたびれはてているように見えた。蒸気機関車は極めて生物に近い機械だ。人間らしいとも言えるだろうか。この機関車は反対にすごく張り切っているように見えるだろう。初めての急行牽引に湧く機関車。足取りも軽やかに列車の先頭につく。機関車は濡れようが気になってないだろうが、ボクらはいつもの菜っ葉服である。あまり濡れると躯の芯まで冷えてしまう。
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背の低い、そしてどこか抜けてるようで抜けてない、憎むにも憎めない、そんなような客室乗務員の菜須よつ葉は受持ち客車の戸締めを確認して車掌長に合図を出した。甲高い笛、重々しい汽笛、駆け込もうとする男の喚きと駅員の怒号。雨はそれらを灰色に塗りつぶしている。
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「後部オーライ!」
何度かの空転を抑えて巧みに走らせる萩野さんの技。それを学びたくあり、そしてそんな人の弟子であることを誇らしく思う。余韻も許されない連続投炭が待っているだろうが。いつもと違う乗り心地。違う罐だから当然と言えば当然で、だからこそ難しくもある。機関車と炭水車との間が僅かに伸び縮みし、それに合わせて足場が揺動する。さらには四軸分のバランス錘が引き起こす振動が重なり、罐に投炭することを阻んでいる。いっそ片手スコップの方が何かに掴まれるだけマシでなかろうか。
何時もよりも圧倒的に速いままに曲線部を通過する。小径動輪であるからその分低い重心がそれを可能としている。単軸の先輪が動輪を導き、動輪が線路を蹴る。それらが織り成して列車というものを走らせる。機関車はエンジンだ。そしてボクら乗務員はその構成部品なのだ。
「甲駅迄に詰める!煽るからどんどん揚げろ‼」
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菜須よつ葉が担当する二等車で騒いでいた酔っぱらいが急に静かになり、くてっと座席の下へと崩れ落ちた。不振に思った彼女はその人物を揺り起こすことにした。はじめは普通に揺り起こすのだがなんの反応もない。さりげなく爪を立てたりつねったりするが、僅かに身じろぎをするだけで振り払うともできていない。呼び掛けにも答え方が曖昧で混濁している。体温はますます上がっている。巡回してきた車掌長が偶然居合わせた。
「車掌長!」
「そうだね、これはマズイね。この辺だと……乙駅だ。乙駅なら病院に近い。抑止を依頼しよう。それまでとりあえず乗務員室につれて行こうか。」
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丁駅信号掛、秋津邦夫は今の乱れた列車運行行程と格闘していた。
「次通過急行列車三番線!三号定位!」
上から下がる三号の信号テコを操作している。
「三号定位よし!標識灯よし!」
そのテコは確かに定位か、そして標識灯は正しく現示しているか。それを手を確かめ目で確かめ声に出して認識を正す。
「十四番定位!十四番定位よし!一番線安側開通よし!一番定位!一番定位よし!二番定位!二番定位よし!三番線開通!」
床から出た大きな転轍テコを動かして次の列車に備えて進路を形成する。何百メートルとあるテコのワイヤをも動かすそれはボロ雪駄で蹴飛ばしながらやるのが一番調子が良い。最後に信号を出す。
「三号反位!」
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丁駅の信号所に汽笛をならせば、信号掛が敬礼で見送っているのが見えた。心で答礼しつつホームを監視する。飛び込まれたら何かと大変だから。何とか行き過ぎて後ろを見れば車掌が何かをホームに投げたのが見えた。
「車掌が砂袋投げた!」
「あいよ」
「後部オーライ!」
「後部オーライ!二十四分四十三秒の遅れェ!」
「二十四分四十三秒!」
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轟音と共にわたる鉄橋。激しいブラストで煙る隧道。すべてがすべて置き去りだ。一トン半はくべているだろう。僅かに自覚した疲れはその瞬間から一挙に躯を蝕む。何度か焚口の縁にスコップを当ててしまう。ただでさえ揺れがいつもより激しくて正確な投炭が難しいこの状況でこれは致命傷になる。クッと圧が落ちる。
「何をしてる、急げ‼」
萩野さんの叱責が飛ぶ。もう一度。スコップを握り直してテンダから石炭を掬う。気力の限りをもって火室に投げ込む。ペラペラになってきている火床を生きた力ある火床にせねばならない。
鋳鉄の動力焚口扉が圧搾空気の力で開いては閉まる。油と煤に汗の匂いが混じる機関車乗務のそれに僅かに錆が混じる。生きた錆が。
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丙駅も何ら問題なく通過した。二十一分十六秒の遅れ。直前横断しようとした阿呆を踏切警手が追払い合図灯を掲げてこちらを送ってくれる。進路は見渡す限り支障なし。よい線形のところを飛ばして行ける。前方確認から戻りまた連続投炭に戻る。火室に渦巻く深紅の炎はきっとこの罐の心だろう。そして魂かもしれない。
乙駅に接近してきた。
「遠方オーライ!」
「遠方オーラァイ!」
四角の遠方信号機を通り過ぎる。そしてポツンと場内が見えてきた。
「本場内進行!」
「本場内進行!」
「通過は、通過は下りているか!」
「下りてない!」
「クソ!」
運転取扱心得、それには通過信号機が下りていないならば出発信号機が停止現示であると見なして減速して駅に進入せねばならないことになっている。徐々に減速しながらホームに進入する。ホーム端から反対の端の出発信号機を確認する。確かに出発信号機は停止現示だ。徐々に減速してやがて列車は止まる。何が理由で抑止がかかっているかわからないから聞きに行くのが助士の務めのひとつ。降りしきる雨のなかキャブからホームに飛び出して走る。向こうから駅長さんが走ってくるのが見えた。帽の眉庇から雨粒が滴る。
駅長さんによれば丁駅からの連絡で信号機を下ろさなかったとのこと。急病人発生による抑止措置を当列車の車掌長から依頼されたらしい。駅長の背後を担架を担った駅員たちが通り過ぎる。載せられている人に生気はない。
機関車に戻る間に出発信号機が下りた。キャブに上がりながら信号の確認喚呼をして、萩野さんに状況を報告する。後ろを振り替えれば車掌長の合図が見えた。雨に濡れて芯まで冷えた躯に対して燃え盛る火室の火炎。地獄の業火もこれに勝ることはないだろう、そう確信するに足る光景だ。見る間に躯中に熱気がよみがえってくる。
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「甲駅通過!」
「甲駅通過!」
「本線場内進行!」
「本線場内進行‼」
「通過オーライ!」
「通過オーラァイ!」
飛ぶように流れる町の景色。雨粒が入り込もうとも何ら変わりはないキャブの有り様。鉄路は続く。それが存在する限り、国も職掌も、過去も未来も飛び越えて鉄道員の心は同じだろう。安全運行。ただその一念のみ。
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折り返しの夜行を終えて、列車で出た死人の調書だとかなんとかをとられて昼過ぎに機関区を出る。こんな明けの時は何が起こるかと言えば衝動的になにかを買ったりしてしまう。前に買った本もまだ読んでいない。それはいまでもそうだ。はて、本当にこんな大盛りの支那蕎麦なんか頼んだのだろうか?つい先程のことの筈が全く定かではない。激務のあとはこれでもあっさりと平らげてしまうけれども。間に仮眠があろうが総計で四トン半も焚火したのだから。
おかんの歌が始まる。この『七転び八起き亭』名物、その歌声は澄んでいて、そしてしっかりと響く。おかんは元々フルート吹きだったとか。最後の公演は戦争でたち消えになってしまったらしい。そんな細腕にどうしてこれほどの活気があろうか。そしてその細目の身体に似つかわしくないほどのお胸。全体的に細い肢体からぐっとせりだしたそれは強調されていると言っても過言ではない。疲れはてたときとか何とかには流石に『キ』すぎる気もしないではない。というか何度かあの胸で泣かせてもらったこともある。何故か非常に落ち着くんだよね。
あしたは花の嵐山
夕べは月の筑紫潟
かしこも楽しここもよし
いざ見てめぐれ汽車の友
かしこも樂しここもよし
いざ見てめぐれ汽 車 の と も