ゾンビと警察
その街の宿を出たとき、まだ空は遠く白ばんでいたばかりだった。寝不足のまま薄暗がりの街を歩いていく。
スズメとカラスの声の両方が聞こえる。
それに輪をかけて横断歩道の向こうには何か叫んでいる者がいる。
町の人々は、それを見て見ぬふりをしながらそれぞれ歩いていく。
それはこっちにズルズルと近づいてきた。どうも、自分の行く手を阻んでいるようだ。
何かの思い間違いだろうと思い、右に行けばその人間も右に行き、左に行けば左に行き、そして徐々に近づいてくる。しかも、あからさまにこちらを凝視している。
目を合わせたくない。かかわりあいたくないと思いながら、ハンスは自分の道を行く。
ちらりとそちらのほうを向いた。
ゾンビであった。肌はすっかり腐りきってしまい真っ黒にくすみ、骨が見えている。そこから飛び出した目だけが充血しこの現世に何か言いたげでもあるようにこちらをにらみつけている。
そのゾンビは襲い掛かってきた。
「ナンナンダヨ!テメーハ!ナンナンダヨ!」
「なんでだよ、なんでおれだけなんだよ・・・おれが何かしたのかよ!?」と思いながら、身を守ろうと構えた。
ハンスはとっさに、西の国で習得した「呪文」を唱え、天から炎を降らしゾンビを焼き尽くそうと手に印を組んだ。
偶然、近くにいた警官が駆け寄ってきてゾンビを取り押さえた。
「はい、そこのゾンビ、通行人を襲わないよ。そこの青年、きみも少し離れてようか。」
警官はゾンビを毛布でくるみ、「ちょっと待っていてください」と、遠くまで送り届けた。
ゾンビの姿ははるか遠く見えなくなった。
「ありがとうございます。」
怖かった。ハンスは心から恐怖を感じた。ハンスはあれくらいであればやり過ごせるだけの体力もあったが問題はそうではなく、普通に街中で襲い掛かるゾンビがいるということだ。
警官は慣れた具合に不愛想に言い放った。
「ま、ここらへんは夜となく朝となくゾンビが出るので有名なんだよね。
で、何ですか?暴力沙汰にはならなかったですか?」
「え、ええ、まあ。」
炎で焼き尽くす一歩手前であったことを彼はうっかり言おうとしたが、そう答えた。
「それなら安心しました。もし、あなたが何かの拍子でゾンビを殴ったりけったり魔法でダメージを与えたりした場合、あなたをタイホしなきゃならなくなるところだったからね。暴行罪だからね。」
どうも腑に落ちない。
いやいや、正当防衛の範囲でしょう・・・そう言いたかったのだが、異国で権力には逆らえない。
「そして、信号無視をしたあんたも悪いよ。仕方ない。
あのゾンビも君の信号無視に腹が立ったんでしょう。」
「は??」
気が付かなかった・・・。
疲れていて信号が赤であったこと。わずか数メートルの小さな横断歩道・・・いや、どっちが先なんだ、ゾンビがこちらを狙ってきたのと、自分が信号を守らなかったこと。
「ああ、それより、あなた・・・その恰好・・・法律違反だね。
ギターにホウキ、カバンについているアクセサリーに、その靴もそうだ・・・。
まさか、何?君はテロリストか何かか。嫌疑をかけられても仕方がないよ。君は、西の国の人だよね。
いいことを教えておいてあげよう。この国には百万もの法律があって、とらえようと思えば警官はすべての人間をとらえて裁き、死刑にすることだって可能なのだ。さし当り、君をテロリストやスパイとしてしょっぴけば、君は一切のいいわけができず牢獄に入れられる。
それに、警官の報酬(ほうび)も逮捕の人数と比例して上がるシステムなのだからな。正義の名目の下、罪を犯した人間をひっとらえれば、鼻も高々というものさ。法律も弁護士も今や皆、我々の味方だ。
・・・さて、君の罪は・・・」
ハンスは全身から血の気が抜けたようになった。
「・・・まあ、今回は君も若いし初犯ということで免除しておいてあげよう。」
ハンスはほっとした。
「今回、私で良かったな。ほかの警官であればそんなことを教えず即、逮捕か射殺もありえる。
警官は市民の安全を守るために存在するとおもってはいかんよ。法を守るために、人びとに法を守らせるために、そして、法に忠実であることによって利権を得るためだけに存在する。法の中であれば、暴力も正義だ。
警官どもは、とにかく自分の報酬を上げ出世するために、法律の名のもとにできるだけ多くの人間を逮捕し射殺したがっている。
特に・・・我が国と西の国はもうすぐ戦争になる。全警官には重点的に西の国の入国者を捉えるように、と遠回しに命じていた。」
怖かった。ハンスは、ゾンビに恐怖を感じたが、それ以上に警察にも恐怖を感じた。
「なぜ、被害者が加害者や犯罪者として扱われなければならないのだ。
そして、なぜ加害者であるゾンビが放し飼いにされているのだ・・・。」
そう何気なくつぶやいた。
「気を付けたほうがいい、その『放し飼い』という差別的な言い方は。下手をするとそれも牢獄に入れられかねない。どれだけ多くの政治家が東の国を悩ますゾンビ問題に対してゾンビの人権を損なう失言をしたため社会から葬り去られてきたことか。」
警官は語り始めた。
「東の国では医療も当然発達し、不老不死を実現することさえできるようになった。
一方、どうせ死なないからと、生活を崩し暴飲暴食と堕落の結果病気になる輩が増えすぎた。
そんな輩の一部が、死にたくないとわめきながら病院に多額の金を払って死ぬことのできない治療を受ける。
医療も金のためならグルだ。金さえ積まれたらその後のことなど考えずあっさりと不老不死の治療を施す。
死んでも死にきれず、結局体も脳みそも腐ったまま、ただ肉体と生への執着のみの意識だけ。
しかし、ゾンビにだって生存している限り人権は認められている。また、東の国では憲法によって自由が認められている。
殺すに殺せない。収容できる施設も墓もなくなって、ゾンビたちは朝方、夕方と徘徊するしかない。
・・・おっと、こんなことまで言ってしまったら、私の首すら危なくなってしまう。」
ハンスは無表情であれ、そのようなことをあえて忠告してくれた警官にわずかでも人間味を感じた。この警官も制服さえ脱げば一人の人間で、こんなことがおかしいとか不条理であるとはどこか心の片隅で理解していているのだろうか。しかし、ただ役職上の責務や恐れからその法を遵守する以外に生きていくすべはないゆえに、それを「正しい」と疑いもなく信じ込み、実行することしかできないのだろうか。
「もっとも、ああはなりたくないと死を選ぶ患者もいるが、ゾンビとして生きるにしても、死ぬことにしても・・・そこには絶望しか存在しない。」
警官はそうつぶやいた。
「死にたくねえ・・・死にたくねえよ。だけど、こんな世界で生きていたくもない。」
ハンスには、その気持ちがよく分かった。
「この国に・・・精霊といったものは見えないのですか、心は存在しないのですか?」
「言ってることが全くよくわからない。西の国はいまだそんな蒙昧で無知な迷信に囚われているのか。」
と警官は怪訝そうに笑った。
「人間は単なる複雑なたんぱく質のかたまりでしかなくそれ以上でもそれ以下でもないことが科学で完全に証明された。人間なんて単なるモノだ。これは疑いようのない事実。
ただ、生活をよくするためだけ、みんな自分自身がよければいいと思っている。
心?なんだそれは。単なる脳の電気信号。必要ない。
人間とは動物と変わりがない。いや、今では機械と同じさ。精巧な機械。もう、じわじわと人間がロボットに取って代わられつつあるような気もする。かつてはロボットとは人間の道具だったが、今では我々人間はロボットの道具になりつつある。いや、もうすでになっているといったほうが良いかな。」
「そんな社会でなぜ人権だとかそんなものが大切にされるという発想が出てくるのです?」
「そりゃあ、おめえ、金よ金。金こそが正義、金こそが愛、金こそが法よ。
人権を大切にしねえと、金すら失ってしまうからな。あとは人間の生産性を上げる最低限のルール。ただそれだけだ。あとは知らん。
そんなこと、考えすぎないほうがええぞ!
・・・それにしても、不思議だ。
おまえの目を見ていると不思議と普段話せないようなことを・・・」
「そこの警官ナンバーT107-4822!!
職務中に関係ないことで話し込むことは、職務違反で給与を差し引かれますぞ!
はい、君も用事がすんだらどっか行った。」
と、別の警官がやってきて二人を引き離した。
歩きながらハンスはひとり考えた。
「そうか、この国では、人間なんて単なるモノで、むしろ機械のために働く部品ですらある。
誰も守ってくれないのだ。
ここにも、人間はいても、心を持った人間はいないのだ。いたとしても、その心はすぐに殺される。
ああ、これが東の国・・・これが、東の国か。」
ハンスは、旅先、ひとりで実に心細くなった。
不安が募る。
「旅とは、いつも孤独から始まる。
旅とは、不安の森の中を開拓していくものだ。
がんばれ、ハンス。」
そう自分に言い聞かせ自分を励ましながら、ハンスは道を急いだ。