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第七話

 ──医療法人謳生会信州総合医療センター上田支部。

 信州の地にある、この巨大な複合病院の支部は元々国立大学のキャンパスだったのを改築したものらしい。広大な敷地面積を誇り、新幹線が通る駅が近いため交通の便もいい。近くに千曲川ちくまがわという大きな川が流れており、周囲を山に囲まれた、自然溢れる地である。それでいてそこそこの大きさのショッピングモールもあって静かに住む分には最適な土地であった。

 ただ、健一は、この病院はもっと山奥にあった方がいいと思った。

 信州総合医療センターの本部は松本の方にある。聞いた話によると最新鋭の医療設備を豊富に取り揃えており、どの科にも世界レベルの優秀な医師が一人は在籍している、日本有数の総合病院であるようだ。

 この上田支部も同じく、最新鋭の医療設備、そして優秀な医師を取り揃えている。ただ、上田支部が本部と違うのは、本部は外科を始め内科、小児科、脳外科……と、多くの診療科に対応しているのに対して、上田支部が対応している科は一つのみであった。

 ──精神科。

 つまり、精神病院である。その規模は国内最大級で県内外から『紹介』されてきた多くの精神病患者がこの病院で入院していた。

 そんなことから、この病院を『日本最大のサナトリウム』と呼んで、中には恐れる者さえいる。

 そんな病院へと訪れていた健一は、面会を終えた後に中央ロビーの待合室で一人、長椅子に座って自販機で買ったコーヒーを飲んでいた。

 少し前まではコーヒーなんて苦くて飲めたものではないと思っていたのだが、今はこのほんのりとした苦みがむしろ恋しいとさえ思っていた。──ブラックは未だ少し苦手だが。

 中央ロビーには健一の他に、遠くの受付に女性が座っているだけで他に人は見当たらない。一面純白の壁はこの静寂のせいかこの病院の性質のせいか、どこか不気味で異様な清浄感が辺りを漂う。

 そんな外とは隔絶された異世界のような空間の中で、健一はたまに手元のコーヒーを飲みながら、ただぼーっと座っていた。

「お待たせ。健一」

 缶のコーヒーが丁度空になった頃。健一が声のした方を向くと、純白の白衣を着た一人の見知った顔の男が片手を上げてこちらに歩み寄ってきていた。

「学兄さん」

 健一と静の兄である只見学は、健一より若干長身でひょろっとした体型であり、白衣に眼鏡といかにも医師や研究者といった出で立ちだ。よく顔がそっくりだと言われるが、健一自身はあまりそうは思っていなかった。歳が大きく離れているからか、顔立ちは若干似かよっているものの目元は学の方が少し切れ目で、よく見ると顔も学の方が少し細長い気がする。髪は健一より長く、学のふさりとしたショートヘアの前髪は眉の下にまでかかっている。

 そんな学は外科になろうと思っていた医学生の時代にひょんなことから精神という分野に大きく惹かれ、今ではこの病院でベテランの医師として働いていた。

 学は溜まった疲れをとるかのように「ふー……」と大きく息を吐きながら健一の向かい側の長椅子に腰を下ろした。

「それで、兄さん。その……どうなの?」

 何が、というのを示さなかったが学は健一の聞きたいことは察していた。

「菫子ちゃんのことだよね?」

 健一は何を当たり前のことをと言うように首肯する。学は少し悩むように言い淀んでいたが、やがて徐に口を開いた。

「──この病院の医師として発言するならば、退院はできる。入院当初のような錯乱や自傷、放心は見られないし、今は何の薬物を用いないでも非常に落ち着いている。社会復帰も今の彼女ならそう難しくはないかもしれない。そして既に菫子ちゃんは強制的な措置そち入院から任意入院へと切り替わっているから、本人が望めば制度的には簡単に退院はできる」

 ここまで言って、学はちらりと目線を上げて健一の顔を覗き見る。ここまでは恐らく健一が望んでいた結果だと思ったが、それとは裏腹に健一は喜ぶ様子は一切見せず、ひどく神妙な面持ちでそれを聞いている。そんな表情を見て学は、健一が話はこれで終わりではないことを察しているのだなと感じた。

「……だけど、俺個人の一人の医師としての立場から言わせてもらうと退院はお勧めしない」

 そう、学は言葉を続けた。

「健一も知っての通り、菫子ちゃんは『例の事件に関する記憶の一切を失っている。』菫子ちゃんの状態は落ち着いているのもそのためだ。もちろん、トラウマを封印して日常を普通に暮らせている人も多くいるが──」

「ねえ、兄さん」

 学が話している途中、神妙な顔のままの健一が口を挟んだ。突然のことで学は咄嗟に口を止め、少し目を丸くして健一を見つめた。

「菫子のアレって、本当にただの記憶喪失きおくそうしつのなのか……? 菫子と話していて、もちろん俺はあえてあの話題には触れないようにしているんだけど、それ以上に菫子の方からあの話題を無意識に避けているように感じるんだ」

 ほう、と学は心の中で感嘆の声を上げた。少し前までまだまだ小さな子供だと思っていたが、なかなかどうして観察力があるのかもしれない。それとも、相手が菫子ちゃんだからか?

 そう思って、学は健一にありのままを全て話すことに決めた。

「ただの記憶喪失──といえば少し語弊があるかな。実は人が記憶喪失に至る原因には様々なものが挙げられる。菫子ちゃんの場合は深い心的外傷や強いストレスによって引き起こされる心因性の記憶喪失だ。つまり、耐えられないストレスに対して体が防衛のためにわざとその記憶を封印したんだ。正式には解離性健忘かいりせいけんぼうと言うんだけどね」

「解離性、健忘……」

「そう。まあ、本当の名前なんてどうでもいいかな……。本来は、その障害もゆっくりと治療して少しずつ取り戻させるか、催眠や薬品を使って取り戻させることもあるんだけれど──今回の場合、それは有効な手段じゃないと思っている」

 記憶喪失を治療できるはずなのに治療していないという事実に驚いたのだろう。健一は目を丸くして「どうして?」と困惑しながら尋ねた。

「一つは、記憶喪失の期間があの事件時のみと、非常に短い──つまり、普通の日常を送るうえで重要な要素を忘れている訳ではないということと、……もう一つは、菫子ちゃんのトラウマがあまりにも大きすぎるだろうということだ」

「っ……」

「どれだけケアをしようとも、あの事実は大きすぎて、今の菫子ちゃんにはどうやっても受け止められるものではないと思う。たとえ今、少しずつゆっくりとケアしながら戻させていっても、最初のように錯乱する可能性の方が高い。──あの時の様子を見るに、最悪、廃人になることもあるかもしれない……。つまり、あの記憶を思い出させても危険性だけで、利点や必要性は今の時点ではあまり感じられない」

 その言葉に健一は唇を噛み締めて、苦い顔で俯く。だが少しすると、突然何かを思い出したかのように目を見開き、顔を上げて学を見つめた。

「ちょっと待って! 記憶喪失は直さない方がいいという考えで、退院はお勧めしないってことは、まさか兄さん……」

 気づかれたか──。学は心の中で一つ舌打ちをした。

「菫子はずっと外へ出ない方がいいってこと!?」

 健一がそう怒鳴って、学は慌てて人差し指を唇に当てて静かにするように促しながら周囲を見渡した。幸い、周囲に患者や他の医師はいなかった。ただ、遠くの受付にいた女性だけが何事かとこちらに目を向けていた。

「い、いや、待て、落ち着けって。何も一生とは思っていないさ。時が経って、記憶を戻しても事実に受け止められるようになってから記憶を戻して──」

「それってどうやって判断して、そして何年かかるんだよ!?」

「それは……」

 学は言葉につまり、健一から思わず目をそらす。健一はそれでも構わず、学を睨め付けていた。

 その刺すような視線を感じながら、やがて学は小さく息をつき、口を開いた。

「──悪かった、ごめん」

 すると健一もどこか力が抜けたのか、ふと目を伏せて

「こっちも……熱くなりすぎた……ごめん、兄さん」

 そうぽつりと謝り返した。

「さっきも言ったように、あくまで俺個人の意見だ。他の先生達はこれまでの経過観察から社会へ出ても支障がないと思っているようだけど、俺は万が一のことももっと考えた方がいいと思っている。解離性健忘は解離性同一性障害かいりせいどういつせいしょうがい──所謂多重人格も併発することがある。今はそんな兆候は見られないが、これから先絶対現れないとは言いきれないし、菫子ちゃんの心の奥底の無意識が万が一何かの拍子で事件に目を向け始めた時に、菫子ちゃんがそれを受け止めきれなかったなんてこともあるかもしれない」

 学がそう諭すように語りかける。するとそのことを目をつぶって聞いていた健一は少し間を置いた後、徐に口を開いた。

「──分かった」

「?」

 学が怪訝な表情を浮かべると、健一は学をまっすぐ見つめて言った。

「俺が菫子を見守っていく。なるべく菫子の傍にいて、菫子に何かがあったら、すぐに駆けつけられるようにする。それなら兄さんも少し安心する……!?」

 学は大きく目を見開き、ぽかんとした表情で健一を見つめた。それをまっすぐ見返す健一に、学は思わず吹き出してしまった。

「くっ、ははは……なんかお前、その発言ストーカーっぽいぞ」

「なっ……」

 あははと笑う学に、健一は耳の辺りが熱くなっていくのを感じた。

「いや悪い悪い……ははは……でも、そう、そうか……」

 いや、本当に少し前まで小さな子供だったのになあと改めて学は思った。

 男子三日会わざればなんとやら、というやつだろうか。

「いや、健一じゃもっと不安かなー。ストーカー規制法で取っ捕まりそうだし。静の迷惑にはなるなよー? あいつまだしょげてるんだからお前が捕まったらそれこそ錯乱しかねん」

「う、うるさいな。捕まんないって!」

「ほお、なるほど。証拠は残さない、ということか。しっかりやれよ」

「違う!!」

 学はまた慌てて唇に指を当てて「しー」と健一のトーンを落とさせる。健一はむっとした表情で今にも口から牙が飛び出してきそうだ。

「いやごめん、冗談だよ。そうだな、お前が傍に居れば安心かもな」

 本当のことを言うともちろん、学の中ではまだ一抹の不安は燻っていた。しかしそれと同時に、健一ならば──いや、この二人ならば何とかなりそうな気がする──。

 そんな想いが芽生えたのも、また事実だった。





 健一はどこか胸騒ぎを覚えていた。菫子が顔を洗ってくると言って部屋を出てから五分程経っただろうか。菫子はまだ戻って来ていなかった。

 顔を洗ってくると言っていたのだから、恐らく自分の部屋に戻っているのだろう。女性はそういった身だしなみを整える時間を長く取るとよく聞くが菫子は比較的早い方だと思う。

 確かに、普段ならもう戻って来てもおかしくない時間帯だ。まあ、菫子がすぐ戻ると言ってなかなか戻ってこなかったことはこれまで日常茶飯事であるが、今日は何故か胸に渦巻く不安がどんどんと大きくなっていく。

 そして不安と同時に、先程から何かが引っかかっていた。

 何だ……? この違和感は。何か大切なことを見落としている──忘れている──?

 健一は今日の、今までの出来事を想起する。

 そういえば、今日の菫子は話す時、普段よりも饒舌だった。心なしか、普段よりも声に少し抑揚もついていたような気がする。

 不安に思う原因はこれだろうか? ──いや、違う。若干それもあるかもしれないが、間違いなくそれだけではない。

 朝ご飯を食べなかったことか……? ──いや、それもあるが、違う。それだけじゃない。

 何だ? 何だ……?

 その時、健一の脳裏にとある菫子の発言が浮かび上がってきた。


『可能性は十分にあったから電話であの浅田とかいうウエイターに問い詰めてみたの。そうしたら、口を滑らせてくれた』


「──っ!」

 ──刹那。健一の身体全体に粟粒が出来たような錯覚に陥った。心臓がドクン、と大きく高鳴る。頭の中で、どんどんと最悪のシナリオが構成されていく。

 気づかぬ内に健一は持っていた皿を落としており、床には破片が散らばっていた。しかし健一はそんなこと気に求めず、飛び跳ねるようにして玄関を飛び出した。

 まさか……まさか……!

 菫子が浅田から、ウミガメのスープについても聞いていたとしたら……。

 呼吸をするのも忘れんばかりの勢いで菫子の部屋の前まで駆け寄り、玄関の戸を開ける。戸の鍵はかけられていなかった。

「菫子!」

 部屋を開け放った途端、健一は雷に撃たれたかのような錯覚を覚えた。菫子の部屋からは、人がいる気配は全くしなかった。一瞬思い違いかとも思ったが、玄関の三和土には菫子がいつも履いている靴は見当たらなかった。

 慌てて室内へと入っていくも、やはり菫子はどこにもいない。

「どこ行ったんだ……!?」

 菫子は運転免許も車もなければ自転車すらも持っていない。ということは、移動手段は徒歩のはずだ。菫子が健一の部屋を出て行ったのが五分〜十分前。

 それならば、まだそこまで遠くには行っていないはずだが……。

 健一は何か手がかりがないか、本や書類、服やゴミなどが散乱している室内をぐるりと見回す。

 すると部屋の端に積まれた大きめのハードカバーの本の上に、紫色に輝く菫子の携帯電話が置かれているのを見つけた。どうやら携帯電話は持っていかなかったらしい。それが何を意味しているか。しかし、今の健一にはそんなことを考えている余裕はなかった。

 携帯を取り上げて急いでその中を見る。

 まず始めに通話履歴を見てみた。すると、一番最後に電話をしたところは番号だけが表示されており、電話帳に登録されていない番号であった。健一もこの番号に見覚えはない。

 浅田だろうか──そう思ったがよく見るとその二つ下の番号は「浅田」と表示されている。

 こうなれば──。

 健一は意を決してその番号でリダイヤルボタンを押してみた。これで、誰に繋がるのかが分かるはずだ。

 数度のコール音の後、途中でコール音が途切れ相手が電話に出たのが分かった。

「も、もしもし!」

「もしもし、お電話ありがとうございます。こちら、アルパカ交通株式会社です」

「あ、アルパカ交通……!?」

 その会社って確か──。

「タクシーのご予約でしょうか?」

「──くそっ!」

「は──」

 最後、健一のついた悪態に電話の相手は頓狂な声を上げたがそんなものはお構いなしに健一は電話を叩き切った。

 くそっ、タクシーだって!?

 タクシー会社に電話をした理由は、まずタクシーの予約だろう。そうなると、移動手段は車だ。徒歩とは訳が違う。

「どっこ行ったんだよっ……!」

 健一は呻くようにそう言葉を漏らしてほぼ反射的に菫子の部屋を飛び出し、自身の車へと乗り込んだ。

 落ち着け……落ち着くんだ……

 とりあえず車のエンジンを入れて、健一は自身にそう言い聞かせた。菫子が健一の部屋を出て行ってから既に十五分は過ぎている。移動手段が車となればその行動可能範囲は一気に広がる。

 闇雲に探しても、見つかるはずがない──!

 健一は再び持ってきた菫子の携帯電話を開けて、その中身を見る。

 受信メールボックス──特に行き先の手がかりになりそうなものはない。

 保存メールボックス──何も入っていない。

 そして送信済みメールボックスを開いて、健一はその手を止めた。

「これは」

 健一が目を留めたのは、昨日菫子が健一に送ったメールであった。

『明日、全ての決着をつけます。』

「決着……」

 健一はそうひとりごちる。

 この文面について、先程まで健一は「美守の相談事を解決する」という意味でしか捉えていなかった。しかし本当はそれだけでなく、他の意味も込められていたとしたら。そう、もしこれが、『文面通りの意味』であるならば──。

 健一の脳裏に、一つの候補地が浮かぶ。浅田からウミガメのスープについての真相も聞いていて、それが要因の一つであるならば、あの場所に向かっている可能性は高い。

 だが、確固たる確証は当然存在しなかった。

 健一は思わずハンドルを一回叩き、唇の端を血が出んばかりの力で噛み締める。

 だがやがて、もう一回ハンドルを叩いた健一は意を決して、目星を付けたその場所に向かうことに決めた。

 ここで悩んでいても埒が明かない。そしてそれ以上に、何故か健一には菫子があの場所に行ったという、根拠は不明だが確信めいたものがあった。

 アクセルを踏み込んで車を発信させる。その時、不意に静との会話が思い出された。

『何度も言うけど、何かあったらちゃんと私に言って。一人で抱え込んだりは絶対にしないで。……もっと、私を、頼って』

「……」

 車を進ませながら少し逡巡した後、健一は持って来ていた菫子の携帯電話から静へと電話をかけた。

 三度のコール音。そして、静へと繋がった。

『もしもし、スーちゃん? どうしたの? また何か調査?』

「姉さん、俺だ!」

『け、ケンちゃん!?』

 どうしてスーちゃんの電話から? という問いを健一は無視して、とりあえず一方的に今の状況を早口で伝えた。

 伝え終わると、携帯越しの静の声も焦りと緊迫感を含むものに変わった。

『私も今から向かう。待ってて!!』

 そうとだけ静は端的に伝えると、静の方からすばやくその電話を切った。健一は役割を終えた携帯電話を助手席の上へと放り投げ、道を急ぐ。

 道路は比較的空いていたが、それは向こうにとっても同じ条件のはずだから大して意味はないだろう。健一だけが知っている裏道があればよかったのだが、むしろそういったものは向こうのタクシー運転手の方がよく知っているに違いない。健一は逸る気持ちを抑えて、それでも出来る限り速いスピードで、知っている限りの最短ルートで向かう。

 健一が目星を付けた目的地──赤砂海岸へと。


 それからしばらくして、健一はようやく赤砂海岸の専用駐車場へとたどり着いた。駐車場と言っても海岸はまだ少し先であり、ここからは木々で阻まれて直接海岸の様子を見ることは出来ない。これより先は散策用の遊歩道となっていて車は入ることが出来なかった。

 健一は車を停めて、外へと出ると、仄かな潮の香りを感じた。周囲には数台の古びた車が停まっているだけでタクシーも静の愛車も見当たらない。静はまだ来ていないのだろうというのは分かったが、菫子を乗せたタクシーは菫子を下ろして既に返ってしまったのか、それともそもそもここには来ていないのか。健一には判断がつかなかった。

 やはり実際へ海岸に行ってみないことには──。

 姉さんは待っててと言っていたけれど──。

 健一はチラリと腕時計を見て、そして一人で先に海岸へ行くことを決めた。静も健一の車は知っている。停めてあるこの車を見れば、先に行ったことは分かるだろう。

 散策用の遊歩道を、健一は全速力で駆け抜けた。普段からジョギングをやっていたからか、思ったより足は動く。しかし息はどんどんと苦しくなっていった。迷いと焦りで呼吸のリズムが乱れていたのだ。

 それでも健一はそのペースを緩めることなく駆け抜け続けた。少しでも緩めるとそのまま止まってしまいそうだったから。

 痛くなる肺に耐えながら、健一はついに散策路を抜けて海岸へとたどり着いた。


 ──果たして、そこには一人の女性が海を見ていた。

 大きな潮風が吹き渡り、健一とその女性の髪が靡く。女性はただじっと健一に背を向け、海岸の下の大海原を眺めていた。

 健一からは後ろ姿からしか見えないその女性は艶のある黒髪のショートヘアで、全ての毛が真っ直ぐ同じ方向に向けられ、うなじの辺りでピッシリと切り揃えられている。さらりというよりはしっとりとした印象を持たせるその髪──ああ、高校の頃と何も変わっていない。

「やあ、そんなに君って海が好きだったっけ? ──菫子」

 乱れた息を整えながら、なるべく平生を装うようにして健一は目の前の女性──菫子に声をかけた。

「ああ……健一」

 そう言って振り返った菫子は──その表情に穏やかな笑みをたたえていた。柔らかで、どこか妖艶な笑み。しかし健一は見たことのない菫子のその表情に背中が粟立つのを感じた。

 健一も笑みで返そうとしたが、どうしても引きつったものになってしまった。しかしそんなことは素知らぬ風に、菫子は口を開く。

「どうしたの? こんな所まで来て」

「……それはこっちの台詞だって。急にいなくなって、心配したぞ」

「ふふ」

 菫子は笑みを少し深くして、首を左斜めに浅く傾けた。健一と菫子との間は大体四〜五メートル程の距離だ。あと五、六歩健一が歩けば菫子に手が届くだろう。しかし菫子と崖との間が一メートルあるかないかで、歩かずとも体重を海岸の方へと傾けるだけでそのまま落ちていかんばかりの距離だ。健一はこれ以上は迂闊に近づくことが出来なかった。

「菫子……そこは危ないからさ。ほら、送るからもう帰ろう」

 努めて諭すような口調で健一は言って、手を菫子の方へと伸ばしたが、菫子がその手を取ろうとする様子は全く見せない。

「ねえ、健一。私、あのウエイターから聞いたの」

「──何を?」

「ウミガメのスープの話」

 健一の予想は当たっていた。

 当たっていてほしくなかった──。健一はそう思って歯噛みした。

「ウミガメのスープを飲んだ者は崖から落ちて自殺する……でも、静葉は死ぬべきではなかった」

 菫子は両手を広げ、崩れた笑みを浮かべていた。

「私が死ぬべきだったんだ……っ!!」

「何を馬鹿なことを──」

「うるさい! 思い出した、私はもう全部思い出したんだ!! 健一との旅行でのあの事故の詳細を! そして、私が……老婆の肉を切り分けて、食べたことを……」

 菫子は、そう思い切り叫んだ後、どこかぼーっとしたように虚空を見つめた。その頬には一筋の涙が伝っていた。

「でも……でも、菫子がああしなかったら、俺もお前も恐らく死んでいたんだ! 仕方がなかったんだよ!」

「仕方がない? あはは、人肉だ、人肉だよ!? 牛や馬じゃないんだよ!? 私は、私が生き残りたいがために、許されない罪を負ったんだ。人間を辞めちゃったんだよ? 私なんて生きている資格なんてない! だって、私が自分から切り分けて、そして……おいしっ、おいしって……うっ、うぷっ、……おぼえっ」

 壊れた笑いでどこか歌うかのように健一に訴えていた菫子は突如として口元に手を押さえたままその場に崩れ落ち、そして地面に向かって思いっきり胃液をぶちまけた。あの時の肉を潰す感触、匂い、そして味を思い出してしまったのだろうと健一は感じた。

 そしてそれ以上にチャンスだと思った。

 菫子は今四つん這いで跪いている。健一は一気に菫子の元へと駆け出した。そのことに気づいた菫子が立ち上がろうとしたその腕を健一はしっかりと掴み、そして──

「っ!?」

 思いっきりその頬を引っぱたいた。あまりに突然の出来事に、菫子は無意識に叩かれた頬を抑え、ぽかんとした表情で健一を見つめていた。健一は息を荒くしながら、そんな菫子を睨め付けていた。

「いい加減にしろっ、菫子……! 生きてる資格なんてない? なんでそうなるんだよっ……お前はただ、一生懸命だっただけじゃないか」

 そう言って健一はぎゅっ、と菫子のことを抱き寄せた。

「あ……」

「聞こえるか? 俺の心臓の音が。お前が、救った命の音が……! 菫子に生きている資格がなかったら、俺はどうなるんだよ。俺だって同じく人を食べてるし……それにあの時、本当は俺がやるべきだったんだ。ああすることしか選択肢がなかったことは、あの時俺だってよく分かってた。分かっていたんだ! でも、……勇気がなかったんだ。そして、菫子に一番重い業を背負わせて……しまっ、しまった……。ごめん……ごめん……」

 健一の声は酷く震えていた。菫子は健一の確かな心臓の音を聞くとともに、自身の肩が熱い液体で湿っていくのを感じた。

「分かるか? 最低なのはお前じゃない。俺だ……っ! 俺が菫子を追いつめた。……だから、誓ったんだよ。この先菫子が、穏やかに、幸せに暮らしていけるのならば俺はなんだってするって! お前が事件を忘れるならそれでもいい。他の知らない誰かと結ばれても、俺を恨んで殺そうとしても、それでお前が幸せになるなら喜んで協力するし歓迎する。…………でも、お願いだから死のうとだけはしないでくれ……お前が苦衷の中で死んでしまったら、俺はどうすればいいんだよ……!? どうすれば幸せに出来るんだよ……!」

 菫子はそんな彼の震える声と嗚咽をただじっと聞いていた。それは、菫子が初めて見た、健一の姿であった。健一も、ずっと背負っていたのだ。果てしなく大きくて、そして重いものを。

 小説家は登場人物の心を解し、それを読者に伝えるものだと菫子は思っている。しかし、一番身近にいた彼の心は何も見えていなかったのだと感じた。

 菫子は掠れた声で健一の耳元に呟く。

「……健一も、実はすっごい自分勝手のエゴイストだったんだね」

「人のこと言えんのかよ……」

「ううん」

 菫子は上を見上げて、空を見た。それはどれほどの天才が幾百年かけても創り出せることはないだろう、どこまでも澄み渡るような綺麗な青空であった。

「言えないや──」

 健一は握る力をすっと弱め、菫子を離した。しかしその両手は菫子の肩をしっかりと掴んでいた。菫子は健一の顔を見つめる。その目は、やはり赤くなっていた。

「──ずっと、気になっていたことがある」

「え?」

 健一も菫子の目をまっすぐと見据えて、そう切り出した。

「なんで、菫子が、突然ミステリーを書こうと思ったのかだ」

「それは、書きたいと思ったから──」

「何で書きたいと思ったんだ?」

「それは」

 そんなこと、菫子は考えたこともない。ただ、前々から何となく書きたくなっただけなのだ。

 菫子が言い淀んでいると、健一は再び口を開いた。

「……最初、菫子がミステリーを書きたいと切り出した時、俺はマズいと思った。ミステリーは犯罪や色々な事件を扱うだろ? これまで例の事件からはなるべく遠ざけさせていたから、もしかしたら、ひょんなことから思い出してしまうんじゃないかって」

 まあ、実際にそうなったんだけど──

 健一は苦笑して、そして続ける。

「でも、ふと思ったんだ。俺も遠ざけさせていたけど、それ以上に菫子も無意識のうちに事件に関わりそうなことを遠ざけていた。そんな菫子がミステリーを書きたいと思うなんて変じゃないかって」

「え──」

「俺が思うに、菫子。自分でも知らない無意識のうちに、受け入れようとしてたんじゃないか? 目を背けずに、向き合っていこうと、してたんじゃないのか──?」

 菫子の顔に動揺が走る。そんなことは思いもしていなかったというかのような顔だった。しかしそれでいて、菫子からは反論の言葉はない。何かを言おうとして開けられた口は、そのまま声を出すことも閉じられることもなかった。

 そしてそれを健一は肯定だと受け取った。

「だったら──やっぱり死ぬのは駄目だ。自殺は、その出来事から永遠に目を背ける行為なんだから……! だから……」

 そこまで言って、健一は両手を未だ菫子の肩に置きながら頭を下げて、声を詰まらせた。

「……うん。ごめん……ごめんなさい……」

 そう言って菫子は再びポロポロと涙を零し、そして何度も頷いた。

「……そうだ。あの、それでさ──」

「スーちゃん、ケンちゃん、無事!?」

 健一が徐に顔を上げて口を開いた時、そう言って勢いよく飛び出して来たのは静であった。急いで来たのだろう。肩で大きく息をして既に汗だくであった。

 健一と菫子は未だ同じ場所で跪いていた。二人と目を合わせて緊張が解けたのか、静は大きく息をついてその場にへたり込んでしまった。二人の様子を見て、菫子に自殺の意志がないことを悟ったのだろうか。

「それで──何?」

 菫子が先を促したが、健一はそんな静の様子を見て苦笑し、かぶりを振った。

「いや……なんでもない。もう、戻ろうか」

 そう言って健一が立ち上がった。菫子は少し戸惑うような仕草を見せたが、やがて首を縦に振って立ち上がった──時だった。

「え──?」

「あ──」

 びゅうと、一段と大きな潮風が吹いて、菫子の体勢が後ろへとよろめいた。健一にはその光景が、まるでスローモーションのように映った。

 後ろへ傾く菫子の身体。何が起こっているか分からない、といったようなぽかんとした顔。そして、眼前に広がる大海原──。

「菫子!!」

 健一は反射的に叫んで、一歩大きく踏み込んで思い切り手を伸ばした。

 その様子を、菫子はただ呆然と眺める。

 遠くに見える、青い顔をした静さん。そして、焦りの表情を浮かべている健一とその、伸びた腕──。

「っ!」

 ほぼ無意識に宙に浮いていた腕を、健一がしっかりと掴んだ。しかし、後ろへと崩れゆく菫子を支え、そして反対側へ引っ張るには、焦ってその腕を掴んだ健一の体勢も少々悪すぎた。

「あっ」

 結果、逆に健一は菫子の方へと引っ張られる。

 凍てつくような冷たい風を感じながら、健一と菫子は海へと真っ逆さまに落ちていった。


 健一は走馬灯を見るのはこれで二度目であった。一度目は菫子との旅行の途中で起きた『あの事故』の時。寒さと飢えで意識が朦朧となりながら、それを確かに見た。

 そして、二度目。

 冷たい風と、どこかふわりとした感触を全身に感じながら、確かに健一は走馬灯を見ていた。

 小学校時代、菫子と出会った時のこと。中学時代、部活に勤しみながらも、淡い恋心に気づいたこと。高校時代、勇気を振り絞って──そして、逃れられない咎を背負ったこと。それら今まであった出来事が刹那にして蘇る。

 ああ、──もう駄目かな……兄さん、姉さん、菫子……ごめん……

 そう思って諦めかけた時だった。健一は海の上に「あるもの」を見つけた。そしてそれと同時に、静の言っていたことを思い出す。

『溺死よ。崖から落ちる場合、岩肌に頭ぶつけて即死の場合もあるけど不幸なことにほとんど怪我なく海に落ちちゃったみたい』

 これなら、運が良ければあるいは──!

 健一は落下しながらも、自身がまだ菫子の腕を掴んでいることを確認した。健一は薄く笑って菫子を引き寄せて、頭を包み込むようにして抱きしめた。

「なっ──!」

 抱き寄せる瞬間。菫子の驚いた表情が、一瞬健一の目に映った。

 そしてその直後、健一は頭に激しい衝撃を感じて、そして深い闇へと沈んでいった──。


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