第六話
‐とある瀟洒なレストランにて‐
「今日はありがとうございました。如何でしたか?
──それはよかったです。ありがとうございます。──はい? ああ、そうでしたね。ですがこの話、少々お調べになりましたらもっと詳しくお知りになられるかと──はい、かしこまりました。
とある男が、あるレストランでウミガメのスープを注文しました。
そしてそのウミガメのスープを一口食べて、男はシェフを呼び──え? こちらはお知りになっておられるのですか。この真相のみをお知りになられたいと。しかし珍しいですね。ほとんどの方は、一セットにして知っておられるので……いえ、失礼いたしました。
──いえ、ウミガメのスープには毒などは含まれておりませんよ。今回出させていただきましたものにも、毒などはもちろん入っておりませんよ。
──いえ、彼はそのレストラン以前に、ウミガメのスープを食べたことはございませんでした。ですが、その『味』というのは良い着眼点でございます。
おっと、申し訳ありません。良い予想でしたもので。──ええ、ではお話しさせていただきます。
その男は過去に、乗っていた船が海難事故によって遭難してしまったことがあったのです。その船には、男の他にも乗組員が何人かおりました。
ですが、救助がいつまでも来ない中、僅かな食料はすぐに底を尽き、ついには亡くなる者まで出てしまいました。そこで生きている者は、飢えを凌ぐために、『亡くなった方の肉を食べる』ことにしたのです。
しかし、その男は人の肉は食べたくないという思いから、一人だけ食べることを拒否いたしました。もちろん、男はどんどんと弱っていきます。
それを見かねたとある人が、その肉で作ったスープを手にとり、男に差し出したのです。
『これはウミガメのスープだから』
そう言って。──ああ、ウミガメというものは昔、漁師の間で普通に食べられていた食材だったのです。おそらく、船の近くに偶然居たものを捕まえたとでも言い加えたのでしょう。
そして、男はその言葉を信じてそのスープを飲み干しました。……恐らく、本当においしく感じられたのでしょう。そして男はその後無事救出され、偶然そのレストランへと立ち寄り、メニューにあったウミガメのスープを注文したのです。
差し出された『本物の』ウミガメのスープを一口飲んで、男はすぐに異変に気づきました。そう、あの時のスープと、味が全く違っていたのです。
男は信じられない気持ちでシェフを呼び、こう聞きます。
『これは本当にウミガメのスープですか?』
しかしご存知の通り、当然シェフは答えました。
『はい、それは間違いなく本物のウミガメのスープです』
ここで男はようやく悟ったのです。あの時自分が飲んだスープがウミガメのスープではなかったことに。あのスープが、本当は何のスープであったかということに。
斯くして、男は崖から飛び降り、自ら命を──どういたしましたか? あ、あの、この話は当然フィクションですのでご安心ください!
──はあ、最近この話について聞いてきた方、ですか……?
ええ、おりましたよ。お客様がお座りになっていた一人席の先にある──、そう、あの席に座っていらしたカップルかは存じ上げませんでしたが、一組の男女のお客様が。
あ、あの、大丈夫ですか? 御気分が優れないように見えますが……。申し訳ありません、やはりこんな話はするものではありませんでしたね……。
──いいえ、そうおっしゃってくださりありがとうございます。
──はい、またのお越しをお待ちしております……え? あともう一つ話すことがあるのですか? ──はい、一体何でしょうか……?」
*
「……おはよう」
「おはよ」
朝起きると、今日も既に目の前の炬燵で菫子は暖まっていた。健一は壁にかけられている時計をぼんやりとした目で見つめる。
──朝の五時を、五分程過ぎた時刻であった。
朝の外気は昨日のよりも冷え込んでいた。そういえば昨日の天気予報では今日は寒気の影響で一月中旬並みの寒さになると言っていた。
外は当然、この室内よりも冷え込んでいるはずだ。僅かな間とはいえ、そんな外を通ってまで自分からこの部屋まで来るなんてと、健一は少なからず驚いた。
菫子は炬燵に半身を埋めて湯飲みでお茶を飲んでいた。湯飲みからは白い湯気が立っている。その隣には、健一が買いだめておいたインスタントの茶葉が入ったパックが、封を破られて置かれていた。
「それ、一リットルの冷茶で作る予定だったんだけど」
ゆったりと起き上がりながら効果の見込めない文句を一応言っておく。
「うん」
案の定、菫子からは本当に聞いているのかどうか分からないような、生返事が返して「それより」と続ける。
「少ししたら美守がここに来るはずだから、着替えた方がいいよ」
「はい?」
菫子の言葉の意味が分からず、健一は目を丸くする。そして菫子も不思議そうに首を右にかくんと曲げた。
「そのままの服装でもいいなら、私はそれでもいいけど」
「いや、そういうことじゃねえよ!?」
健一は半ば慌てるように服を脱ごうとした所でふとその手を止めた。
「あのー、出来ればあっち向いてくれれば助かるんだけど……」
「健一の身体には興味ないから安心して」
そういう問題でもないんだけどな……。健一は苦笑しながら、観念してそのまま着替え始めた。その心境は複雑であった。
「それで。少ししたら、って……いつ頃に来るのさ」
そそくさと着替えを終えた健一は菫子と同じように炬燵に入り、時計を見上げて菫子に問うた。時刻はもうすぐ朝の六時。まだまだ十分、早朝と表現できる時間帯だ。
菫子が予定の時刻を告げる。やはりまだまだ時間があった。
「──じゃあ、とりあえず朝食食べる?」
「私、いらない」
炬燵から立ち上がろうとしたところ健一に、菫子はぴしゃりと告げた。思わず健一は「そう……」と一回座り直した。菫子は湯飲みを持って啜るようにして飲んでいる。なんだかんだ言っても、生きていく上で食事は必要だし手間が省けるからか、菫子はこういった提案には常に頷いてきていた。
今までなかった申し出の拒絶に、健一は驚きもあったがそれと同時に胸に一抹ほどの不安が芽生えた。ただしそれは胸をほんの少しかすめる程で、結局は気まぐれな菫子のことだから、と自身で納得してしまった。
──もしこの時、健一がもっと違和感に気づくことが出来ていれば。違った結末になったのだろうか。
一旦は座り直した健一であったが、コーヒーでも飲もうかと再び立ち上がった。朝食を摂ろうかとも考えたが、菫子の前で自分だけ食べるというのはどうにも気が進まなかった。
インスタントのコーヒーを入れて、炬燵の方へと戻る。机の上で一緒に持って来たシュガースティックとミルクを一つずつそのコーヒーへと入れ、カチャカチャと音を立ててかき混ぜた。
ズズ……と健一もコーヒーを啜るように飲んで、刹那の静寂が周囲を包んだ。健一はコーヒーが身体を巡り、頭が覚醒していくのを感じた。
そしてそこで健一はようやく昨日のメールについてのことを思い出した。
「ねえ、菫子」
「なに」
「昨日のメールの……今日、全ての決着をつけるって……」
「うん」
ゴト、と湯飲みを机に置いて、一つ首肯した。そしてとろんとした目をチラリと健一の方へと向けた。ぼうと健一を見つめる。
「な、何……?」
「別に」
菫子はそう言って、のそのそと炬燵から這い上がり、健一のデスクの前の椅子にどすんと腰掛けた。
「それで、本当に真相は分かったのか?」
「さあ」
「え?」
さあ、って……さっきは決着を付けると言っていたではないか。そんな考えが表情に出ていたのか菫子は椅子を一回ぐるりと回した後に、ピタリともとの位置に戻って、背にもたれかかりながら続けた。
「まあ……全ては美守が来てからだね。彼女にも直接聞きたいこともある。私の『物語』が『真相』になるかどうかは、美守次第だと思う」
物語が真相に……?
健一には菫子の意味が分からず、さらに聞いてみたもののそこから先はほとんど無視され、結局美守が訪れるまで教えてもらえることはなかった。
「お邪魔します」
美守が健一の部屋へと訪れたのは、約束の時刻の五分程前のことだった。美守は時折ぎこちない笑みを浮かべるものの、その表情はどこか優れなかった。
健一がリビングへと案内すると、先程まで菫子が座っていた座布団の上にちょこんと正座した。冷蔵庫から作り置きの冷茶をカップに注ぎ、健一は美守の前の炬燵に置く。
美守は軽く会釈したものの、その体の向きは炬燵の方ではなく、椅子に座っている菫子の方へと向いている。
「それで、スミちゃん。話って何……かな?」
「やっと分かったから、美守に聞いてほしいと思って」
「分かったって……し、真相が分かったの!?」
美守がその場から思わず立ち上がらんとする程の勢いで菫子にそう聞き返す。その表情は驚きと、そして希望と不安が綯い交ぜになったような、どこか複雑なものになっている。「何の」真相が分かったのかは聞くまでもないだろう。健一もそう思って表情がこわばる。
菫子はくたりと項垂れるようにゆっくり一回首肯して話を続けた。
「うん。──美守が何を望んでいるのかが、分かったの」
「……え?」
美守の体が、少し身を乗り出した体勢のまま凍り付いたように固まる。そんな様子を菫子は半ば見下ろすような形でじっと美守のことを見つめていた。
「スミちゃん、あの、それは一体どういう──」
「美守の話を聞いたときから、ずっと気になってったの。何で『どうして自殺したのか教えてほしい』って言ったのか」
「だから、それはスミちゃんだけが私が悩んでいることを見抜いて──」
そこで菫子はかぶりを振って、「健一」と呼んで健一の方に体を向けた。
「もし静さんが、ウミガメのスープを飲んで、死ぬ動機もないのに崖から落ちたら、健一は不審に思う?」
「姉さんが? ……まあそりゃあ、不審には思うかも」
「どう不審に思う?」
「どう、って……」
健一は自分が美守の立場になった時のことを想像し、そこで初めて、小さな小さな違和感に気づいた。
「──本当に自殺なのか、って思う」
健一が徐にそう言うと、菫子はまるで正解だと言わんばかりに小さく頷いた。
「そう。不可解な動機で自殺してしまった場合、普通はどうして自殺したか、ではなくまず第一に自殺だということ自体に疑問を持つものだと思う」
菫子は美守に向かってそう告げた。美守はいつの間にか最初のように正座していて、少し俯いていた。その顔色は心なしか、少し青くなっているように健一には見えた。
美守が何かを言う前に、菫子は流れるように続ける。
「しかも今回、自殺の方法は首つりや密室の中で練炭を炊いたとかではなく、海への飛び込み……自殺を否定する余地は一見、いくらでもある死に方。それを美守はなぜ、最初から自殺決めつけていたの?」
「そ、それは、警察が自殺って断定したから──」
「嘘」
やっとのことで、美守が喘ぐように反論を始めたが、菫子はピシャリと遮るように言い放った。美守の方がビクリと、小さく跳ねる。
「知り合いの刑事さんにも今回の件について調べてもらったの。彼女によると、確かに自殺の可能性が高いけどまだ一応、自殺と事故の両面から調べていると言っていた──ね、健一」
菫子が健一に確認をするように言葉を投げかけると、健一はどこか躊躇うように徐に首肯した。美守はそんな健一の方には顔も向けようとはしなかった。
しかしそんなことはおかまいなしと言ったふうに菫子は続ける。
「だから、美守がなぜそんな頼み方をしたのかを考えてみたの。自殺の方が、都合が良かったから? ──だけど事故と違い、自殺だと保険金などの面を考えてもメリットがあるとは思えない。美守が静葉を殺したのだとしたらこの辻褄は合うけれど、そうだとしたら私たちに相談するはずがない。つまり、自殺であることを美守が希望しているとは考えにくい」
菫子はふう、と息を一回つく。健一は、これほどまでに饒舌に喋る菫子を初めて見た。目の前の人物が、本当は菫子ではなく菫子とよく似た別人であるかのような気さえしてきた。
そして、菫子が見つめる先に居る美守は、青い顔で黙っているだけだった。
「では、なぜ美守は静葉が自殺だとは納得していたのか。──美守。君、本当は自殺の動機に心当たりがあるんじゃないの?」
──刹那。美守の肩が大きく跳ねた。
「そしてその動機は、決して世間に公に出来るものではなかった。──でも、もしかしたら自分の考えているこの動機は間違いなのかもしれない。全く違う理由で死んだのかもしれない。そんな想いが胸の中に確かにあった」
菫子はまた一呼吸おいて、そしてはっきりと告げた。
「美守。君が欲しかったのは真実じゃない。──君は、言い訳が欲しかったのよ」
その言葉に、美守は俯きながら、大きく頭を激しく数回左右に振った。健一には、それは菫子の言葉を否定しているのではなく、自身に纏わり付いているなにかを振り払っているかのように見えた。両手は膝元のスカートをギュッと握り、そこにポタ、ポタ……と雫が落ち始めている。
「だけど……その動機って何なんだよ?」
健一がそう尋ねると菫子は薄くまぶたを閉じ、逆に健一に問い返した。
「そして恐らく、美守はもう一つ嘘をついている。静葉が芸能界を引退したきっかけについて、美守は知らないと言っていたけれど。健一。健一が思い出した、静葉が芸能界を辞めた要因としてまことしやかに囁かれていたものは何だった?」
静葉さんが芸能界を引退した時に囁かれていたこと? それって……
その時、健一の背筋にぞくりと悪寒が走った。
「──薬物疑惑」
「違う!!」
健一の無意識に近い呟きに、即座に怒号で否定の声が上がった。思わず健一はその発言者──美守の方を見た。菫子も同じく、少し目を丸くして美守の方を見つめる。
美守は顔を上げ、健一を鋭く睨め付けていた。その目には明らかに敵意や怒気が孕まれていた。だがそれも一瞬で、すぐにはっとした様子を見せると、悔しそうに顔を歪ませて再び少し顔を俯かせる。
「すいません……でも、違う……違うんです。母は、薬物疑惑が上がった時には、本当に薬物には手を出していませんでした」
絞り出すような声で、美守はぽつぽつと話し始めた。その目線は未だ下を向き、どちらにも目は合わせていない。
「でも、引退した後に一回……」
そこで美守は少しの間言葉を詰まらせた。しかしやがて、一つ大きく深呼吸をすると、自嘲気味に薄い笑みを浮かべた。
「昔、母の手記を偶然見ちゃったんです。私はそれまで、あの疑惑は全くの出鱈目だと信じていたから凄い裏切られた気分になって。ああ、そういえば、私がそのことを知ったタイミングも悪かったなあ……なかなか成果が出なくて苦しかった時だったから。その鬱憤も相まって、母に凄い剣幕で延々とかなり酷い言葉を浴びせかけ続けたと思います。『この裏切り者!』って」
どこか吹っ切れたのだろうか。美守は顔を上げて、目尻に浮かんでいる涙の粒を指で拭った。
「そうしたら、あの厳しかった母が、涙を流して土下座し始めたんです。『あらぬ疑いをかけられて、つい一回魔が差してしまった。貴女が産まれてきてきっぱりと辞めたけど、本当に馬鹿なことをしたと思ってる。ごめんなさい』みたいな感じで……そんな様子を見たら、怒る気も失せちゃって……」
でも、やっぱり嘘だったのかな……。
美守の声は次第に消え入るようなか細い声になっていき、最後はなんとか聞き取ることができる程の声量になっていた。
しかし、ようやく健一は今回の菫子の話について合点がいった。
ふらふらと吸い寄せられるように、崖へと落ちていった──。そんなことを話に聞いて、美守はある想像がすぐに頭に浮かんだのだろう。
母は再び薬物を使うようになった、あるいは元から止めていなかったのではないか──と。
そして、その薬によって正気でなかったので、なにがなんだか本人にも分からないままふらふらと崖へと落ちていったのではないか──と。
もしその通りだとしたら、警察や世間等に公にはしたくない。
だけどもし。もしその想像が違っていたとしたら。母は、全く違った動機で死んでしまったとしたら。そんな思いもあって母が死ぬ前に呪いのスープと呼ばれるものまで飲んでいたことを調べたりもしたのだろう。
信じたいけど疑わずにはいられない。そんな板挟みの心境だったのだ。
だから菫子に相談を持ちかけたときは薬物のことなどはおくびにも出さず、違った真実を突き止めてくれることを──いや、もしかしたらそうでなくとも創り出してくれることを願ったのだ。
やがて、美守は徐に頭を深く下げた。
「──スミちゃん、健一さん、本当にごめんなさい。私、やっぱり覚悟を決めて警察にこのことを話す事にします」
「違うよ」
「え?」
菫子のきっぱりとした否定の声に、美守は頭を上げて頓狂な声を出した。
「静葉は違法な薬物は一切使っていない。美守の仮説は間違っている」
菫子はそう言って、デスクの上にあった書類を、炬燵の上にばさりと置いた。それは、静から貰った資料であった。
「こういった分析に関しては、美守が思っている以上に日本の警察は優秀なの。多分美守は調べて発覚してしまった時の事を恐れて聞かなかったのだと思うけど、警察はしっかり血液検査等も行っているのよ。これによると、違法な薬物の反応は出ていない。多少貧血が疑われたらしいけど、それ以外はいたって健康体だったようだよ。ちなみに、例のウミガメのスープも成分を調べて貰ったが特におかしな物は検出されなかったそうだよ」
まあ、あのレストランで何かおかしな物が出てきたら大問題かもしれないけれど、と菫子は続けた。
置かれた書類の一番上には、血液検査の結果など、様々な調査の報告がまとめられている。そういえば姉さんも薬物を使われた形跡はなかったと言っていた気がすると、健一は静との会話を思い出した。
「え……嘘……え?」
美守は最初ぽかんと惚けた様子であったが、その書類に目を落として、やがて塞き止めていたものが決壊するかのように身を丸くして嗚咽を漏らし始めた。
それは安堵から来るものなのか、それとも信じられなかった懺悔からか。健一には知る由もない。
すると菫子は椅子から立ち上がり、そして蹲る美守の元へとすり寄ってまるで赤子をあやすかのように優しく背中をさすった。
「──残念ながら、静葉が死んだという事は曲げようのない事実だ。そして恐らく、自殺だという事も。ただし、これだけは言える。──静葉は、死ぬべきではなかった」
「じゃあ……じゃあ、母は……何故、死んでしまったの……?」
美守は震える声で、縋るようにそんな言葉を漏らした。菫子は小さくかぶりを振る。
「何が本当に正解なのかは、やはり本人にしか分からないかもしれない」
「そうだ、よね……」
「でも、一応の仮説は立てている」
「え!?」
美守は泣き腫らした目のまま、勢いよく顔を上げて近くにいる菫子を見つめた。
「静葉の死について、気になることがいくつかあるのは事実。一つ、自殺にしろ事故にしろ、そもそも何故、静葉はあの場所へ行ったのか。確かに赤砂海岸は自殺の名所とも言われている。だけど他に死ぬ方法はいくらでもあるのに、何故わざわざこの死に方を選んだのか」
少し遠いしね、と董子は続けて指を一本立てる。そしてさらに董子は二本目の指を立て、ピースのようにした手を示した。
「二つ。美守、ウミガメのスープという都市伝説があることを、本当は知っているね?」
美守は徐に首肯した。
死ぬ前に食べていた物を調べたのなら、ウミガメのスープが呪いのスープと呼ばれている理由も容易に突き止められるはずだ。
そのことを隠したのは、調べてもらう時のきっかけとして利用したのだろうと健一は思った。
「だけど静葉は実際にスープを飲んで、本当にウミガメのスープかを聞いている。まるで都市伝説の男の行動を再現するかのように」
そう言って董子は三本目の指を立てた。
「三つ。静葉はそのスープを飲んだ時、誰かと一緒に食事をしていた」
「え?」
健一にとってはもちろん初耳の情報であったが、それはどうやら美守にとってもそうであったらしい。美守は真っ赤な目を丸くして驚きの表情を浮かべていた。
「可能性は十分にあったから電話であの浅田とかいうウエイターに問い詰めてみたの。そうしたら、口を滑らせてくれた」
「いや、董子。なんだってそんな可能性があるだなんて思ったんだよ」
健一がそう聞くと、董子は健一の方へと顔を向けて口を開いた。
「健一は、静葉は私たちと同じ席で食事をしていたと聞いたんだよね」
「うん」
「あの席は、一人で食事をするには広すぎると思う」
「あ……」
そういえば確かに、あの席では二人でも少し広すぎるように感じた。一人だったならばよりそう感じるだろう。実際にあのレストランには一人席などもあった。そう考えると、最低あと一人くらいは居たと考えるほうが自然なのかもしれない。健一はそう思った。
「お母さん、誰と会っていたんだろう……」
美守が考え込むように呟く。董子はゆっくりと美守の傍から離れて、再び椅子に腰を下ろした。
「そもそも美守は、どうやって静葉があのレストランで食事をしていたことを知ったの?」
「あ、実は……母が見つかった後、私のマネージャーが、そういえば母からこんなことを聞いたと思い出したらしくて……私のマネージャー、若い頃は母のマネージャーもしていたそうなの。でも、誰と行くとかは言ってなかったよ。マネージャーが聞いてなかっただけなのかもしれないけど……」
「なるほどね……」
董子はどこか合点がいったように、背もたれに大きく寄りかかって一回頷いた。
「それで、董子。その、仮説っていうのは……?」
健一が尋ねると、董子は少しの間口を噤んだが、とろんとした目で目線を上に向けて何かを思い出すかのように、やがてゆっくりと話し始めた。
「──娘である美守には告げずに食事で誰かと密会。そしてその後の投身自殺。そして、静葉の過去……私はやはり、薬物が絡んでいると思う」
董子が徐にそう言うと、健一は目を丸くし、そして美守は再び顔を青くさせて手のひらを口元へと当てた。
「ちょ、ちょっと。薬物に関しては、さっき董子自身が否定したじゃないか!」
健一がそう反論すると、董子はかくんと首を右に曲げた。
「私が言ったのはあくまで『違法な薬物は服用していない』ということだけ」
「ど、どういうこと?」
まるで意味が分からない、というように美守が困惑気味に尋ねると、董子は美守の方を見つめて言った。
「実はこの場合、本当に薬を使っていたかどうかだけではなくて、静葉が『使ったと思っていたかどうか』というのも重要な要素だと思う」
「それは……?」
どういうこと、と美守が聞こうとする前に、逆に董子が美守へ聞き返した。
「美守。静葉が貧血だったことは知ってた?」
「あ……そういえば、全く知らなかった──母本人も知らなかったかもしれないです」
美守が思い出したように言うと、董子は再びこくりと一つ頷いた。
「静葉は実際には違法な薬物は飲んでいなかった。しかし、静葉自身は薬を飲んでしまったと思い込んでいた──」
「──プラセボ効果……?」
健一は頭に浮かんだ単語を無意識の内に口に出して呟いてしまっていた。その単語に同意するように、菫子は小さく頷く。
プラセボ効果──通称、偽薬効果。その言葉を、健一は兄の学から聞いた事があった。
「実際にはただの水でも、患者が薬だと信じ込んで服用すれば薬効が現れて症状が改善する効果のことだっけ」
人の心理の力とは恐ろしいもので、一見あり得ない現象のように思われるが個人差はあるものの、その効果は広く認められているそうだ。学が言うには昔の新薬の効果を確かめる対照実験では比較対称に人体に影響を与えない物質を使用していたが、しっかりとプラセボ効果も考慮に入れられていたらしい。もっとも、今では倫理的に問題視され、比較対称は新薬に似た効果を示す薬を使用しているそうだが。
「──いや。でも確か、プラセボ効果は医師が処方しないと効果はないと聞いたけど」
「ううん。正確には飲む人が、それは薬だと強く信じられればいいと思う。確かに通常の医薬品は医師が処方しないとまず信用は得られない。──だけど、違法な薬物となれば話は別。その相手が闇に通じる人物である方が、皮肉なことに信頼感は増す」
健一は思わずごくりとつばを飲み込む。気づけば、健一の心臓は少し高鳴っていた。
「静葉はその日、美守には内緒でとある人物と密会していた。静葉の目的は多分……その人物に薬物から足を洗うように、もしくは今後私達に関わらないように告げるつもりだったのかもしれない。そして静葉がスープを飲んで本当にウミガメのスープなのかを聞いていたのは、前に食べた時と味が変わったように思えたから……貧血は、味覚障害を引き起こす事がある。その時は違和感に思っただけだったのかもしれない。しかし、追求から逃れるために相手は静葉に『さっきのスープの味が変だったのは、薬を混ぜたからだ。これでお前も共犯だ』とでも言って、静葉はそれを信じたんだ。そして、死を選んだ」
「そんな……でも、母は何だってそんなことをしようとしたの? 普通に警察に通報しようとしなかったの……?」
「──その人物も、美守にとって身近な人だったとしたら?」
「え──」
美守の表情が固まる。
「例えこちらが何もしていなくとも、理不尽に降りかかる火の粉の恐ろしさを、静葉は身をもって知っていた。これから芸能界で羽ばたこうとする娘に、自身と同じ不幸には見舞われてほしくなかった。だけど、結果的に自分が足を引っ張る形になったと感じて……情けなくて、悔しくて、申し訳なくて──だから、あの死に方を選んだ」
「どういうこと?」
「あの場所は、死体が見つからないことも少なくない──まあ、今回は幸不幸は別にして、発見されたけど」
健一は愕然とした。確かに、あそこに落ちれば死体が上がらないことも珍しくないということは知っていた。自殺した後、遺体を調べられて薬物反応が出てしまうことを恐れた静葉は、遺体が見つからないことを望んで、崖から身を投げたというのだ。
そうなのだとしたら、これ程やるせないことは無い。先程董子自身が言ったように、『静葉は死ぬべきではなかった』のだ。
美守は戸惑いを隠せないといった状態であった。何かを言おうとするものの、何を言えばいいのか思いつかず口だけが小さく開けられていた。
そして董子は息を一つつき、僅かに肩を落とした。
「──さっきも言ったように、正解は静葉にしか分からない。所謂状況証拠しかないし、静葉が本当はどう想って死んでいったのかは推測するしかない」
「……でも俺は、多分静葉さんは最期まで実守ちゃんのことを考えていたんだと思うよ」
董子の言葉に重ねるように、健一は実守にやさしくそう告げた。
「お母さん──」
実守はそう静かに呟いて、先程のように嗚咽を漏らしたりはしなかったが、涙の筋が一本つうと流れた。
「──美守」
董子が呼びかけ、美守は涙を再び拭って董子の方を見た。董子は短く業務連絡をするように告げる。
「美守のマネージャーが怪しい」
「え?」
「そのマネージャーが静葉と食事をしていた相手であった可能性が高い。行方不明が発覚した時でなく、遺体が見つかった時に丁度思い出したというのはどうにも出来過ぎな気がする。その人、その事について口を滑らせたように話さなかった?」
「あ──」
「それに、レストランに行っていたという話はその書類には書かれていない。警察に言っていないというのも少し不自然」
「嘘!? 警察には伝えておいた、って言ってたのに!」
美守は愕然として手元にあった書類を引き寄せてそこに目を移す。ざっと全体に目を通して、顔は再び青ざめていった。どうやら話が違ったようだ。
「まずは警察に美守がしっかりとレストランのことについて話すこと……警察が相手だったらあのウエイターも情報を出し渋らないと思うから……。そしたら、色々とまた確かなことが発覚するかもしれない」
董子がそう言うと、美守は口を引き結んで、力強く頷いた。
美守が退出して、数分が経った。健一は結局手を付けられることはなかったコップを片付けながら時計を見る。
時刻は十二時を回り、丁度お昼を過ぎたくらいであった。
「それにしても、静葉さんは本当に美守ちゃんのことを最期まで想ってたんだな……」
健一がそうひとりごちると、董子は不意に「本当にそうかな」と短く言った。
「どういうこと?」
健一が董子に目を向けると董子は椅子に座ったまま、机の方に体を向けていた。肘をついて頭を支えるようにしているのは見えるが、健一には背を向けているためその表情は見えない。
「もし本当に美守のことを想っていたのだったら、こんな風に心配をかけさせるべきじゃなかった……全てを美守に打ち明けるべきだった。静葉は、美守のことを信用しきれなかったんだ」
「それは……」
「まあ、美守も静葉のことを信用しきれていなかったし、人を真に信用するということは、親子であっても難しいもの……それで──」
董子の声はどんどんと尻すぼみになっていき、最後の方は健一には聞き取ることができなかった。
「董子?」
「──」
「おーい、董子!?」
健一が菫子の元へと近寄って、肩を叩いて呼びかけると菫子はその肩をビクッと跳ね上がらせて勢いよく健一の方へと振り返った。
「どうかした……?」
「……ああ、ごめん。なんでもない。どうしたの」
はっと我に返ったように菫子はそう返事をして聞き返した。
「いや、そろそろお昼過ぎになるし、折角だから何か作ろうかと思って。菫子も何か食べるでしょ? 何か食べたいのある?」
とはいっても、金欠だから簡単なものしか作れないけどな、と少しおどけて健一が続ける。
しかし、菫子は黙って俯いたままで、やがて小さく「うん」と呟いて静かに席から立ち上がった。
「菫子?」
「ちょっと、顔洗ってくる……」
菫子はそう言い残して、とぼとぼと玄関まで向かい、そして外へと出て行った──。