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第五話

 嗚呼ああ、全てを正直に告白いたします。

 この告白は、誰にも邪魔をさせません。

 私は許されぬ罪を犯しています。

 私は間違いが許せません。理不尽なことが許せません。

 しかし、私の内側は、どうしてこんなにも醜く、腐り果てているのでしょう。

 嗚呼、なんと愚かなのでしょう。

 いくら薄ら汚い桃色の肉で隠そうとも、このとがが消えることはありません。むしろその内は、より腐り、変質していくことでしょう。

 私は理不尽なことが許せません。

 だから、私は私が許せません。誰も私を許せません。

 嗚呼、告白いたしましょう、告白いたしましょう。

 私は知っている。本当は知っているのです。

 嗚呼、だから、私は──


「──っ!」

 深夜、静寂が支配する空間で、それを破ったのは董子であった。がばりと跳ね起き、室内の冷気が容赦なく布団の中へと侵入してくる。

「?……!?──!?……?、!?」

 この日、深夜の気温は氷点下となっていた。どんどんと布団の中の熱が逃げていくが、菫子は気にする様子は見せなかった。

 ただ、分からない。

 掌を見る。気づけば、両の手は汗が滲み、震えていた。いや、汗が滲み、震えていたのは掌だけではなかった。全身が震え、発汗していた。

 しかし、分からない。菫子は分からない。今、自身を浸食しているこの感情が。

「はっ、はっ、はっ──はーっ、はーっ……はーっ……」

 ほぼ無意識に、ぎゅっと胸の辺りを握り締めて息を整えようとする。次第に思考が鮮明となっていき、自分は今まで眠っていたのだと今更ながらに分かった。

 ええと、確か私は──そう、健一。健一と例のレストランに行って、そして──私、眠っちゃったんだっけ……?

 それで、夢を見て……夢? 一体何の……。

「はあっ……!」

 いつの間にか、両の足は屈曲し、膝がもがくように顔の方へとすり寄ってきていた。

 董子はその両膝を抱きかかえるようにして蹲る。気づけば、頬は涙で濡れていた。董子はその頬を手の甲で拭いながらこの涙の原因を考えた。しかし、やはり何も思いつかない。

 その時にふと、先ほど食べたウミガメのスープのことを思い出した。

 ウミガメのスープ。

 食べたら死ぬ、呪いのスープ──。

「ふふふ」

 頭に浮かんだその考えを、自嘲気味に笑って董子は打ち消した。

 そうだ。ウミガメのスープが関係あるはずがない。だって、こんなこと、『今に始まったことではないのだもの。』

 窓から差し込む月明かりが、暗い室内を僅かに照らし出す。本やら書類やら服やらが、所狭しと散乱している、いつもの董子の部屋だ。しかしよく見ると、所々散らばっていたはずの本が重ねられて、足の踏み場もなかった床に一筋の道ができていた。

 恐らく董子を運び入れるにあたって、健一がほんの少しだけ片づけたのだろう。その光景を見て、董子は少しむっとした。

 ああ、いつも勝手にものを移動させないでと言っているのに。

 普通の人にとって、片づけられない人の部屋はどこに何があるか分からない、乱雑な部屋だとしか思わないだろう。しかし、当人達からしてみれば、それは大きな間違いなのである。実際にはその物々の絶妙な配置によって、本人だけはどこに何があるのかが大体わかるようになっているのだ。それを他人が知らぬ間に片づけるから、どこに何があるか分からなくなるのだ。

 そんなことを思っていると、菫子の心は幾分かは落ち着いてきた。震えも発汗も既に止まり、急速に汗が冷えていく。膝を抱えたまま菫子は、ずるずると布団を胸の方まで引き寄せた。ほうと息をついた菫子の呼吸はすっかり整っていた。

 そうだ、こんなことは今に始まった事ではない。

 毎日ではない。毎日ではないが、たまにこんなことがあるのだ。

 恐らく悪夢だったのだろうが、夢の内容はいつも思い出せない。ただ突如として、未だ菫子が言葉で表現できない感情と、そして不安に襲われるのだ。それらは菫子の喉を締め付け、脳を這い回り、感覚を支配していく。

 程なくして菫子はベッドから立ち上がり、紙や服を踏みながら椅子の方までたどり着く。机の上は他に比べると比較的整頓されており、その端にある書類の束から白紙の原稿用紙を引っ張りだした。

「頭痛い……」

 ペンを片手に、菫子はそうひとりごちた。

 もうほとんど平生に戻っていたが、その代わりといった感じでずきずきと頭が痛みだす。原稿用紙に向かうはずの手は、無意識に頭の方へと移動していた。

 少し飲み過ぎてしまったのかも。

 菫子はそう思った。普段全くお酒を飲む機会がなかったので加減を間違えてしまったのだろうか。

 思えば今回の、あの発作のような悪夢がいつもよりも酷く感じたのはそのせいかもしれない。

 もしかしたら眠った方が良いのかもしれない。今はそれほど急いでいる原稿はない。

 それでもああいった後には、やはりいつもにまして眠る気にはなれなかった。

 コン、とペンの先を原稿用紙に押し付けながら、菫子は今回の一連の事件について考えを巡らせていた。

 不謹慎かもしれないが普通に考えれば、どこにでもあるそれこそ新聞も賑わさないような自殺かもしれない。しかし菫子には一つ、違和感に思うことがあった。

 ──ともかくこれより先を考えるのは朝になって、健一と話してからだな。

 思考を一回りさせた後にそう結論づけた菫子だったが、その時ふと思った。

 ──健一。

 健一はなぜ、ここまで私に尽くしてくれるのか?

 確かに、アシスタントとして雇っているけれど──そもそも、なぜ、私のアシスタントをしようと思ったのだろうか?

 そうして気づくと、原稿用紙のペンに押さえつけられている部分はインクが滲み、黒い染みとなっていた。それをぼうっと見て菫子は徐に何かを書き始めたものの、その筆は一時停止を繰り返し、酔っぱらいのようにふらふらと用紙の上を当てもなくさまよった後、ついにはクシャクシャと丸め、部屋の隅へと投げ捨ててしまった。



 例日より冷え込んだ朝となったこの日。健一はいつものように早朝に起きたが、日課のジョギングに行くことはなかった。

 それは今日が一段と寒い日だからという理由ではなく、健一がむくりと起き上がると、既に菫子が部屋の炬燵で暖まっていたからであった。

「……おはよう、菫子」

「……おはよ」

 健一は即座に昨日の出来事を脳内でフラッシュバックさせる。

 ええと、昨日は確かあれから──そう、確かに菫子はしっかりと菫子の部屋に運び込んで寝かせたはずだ。その際に少し片付けもしたから、この記憶は間違っていないはず。決して、酔った菫子をお持ち帰りなど卑劣なことはしていない! いや、確かにアパートまでは持ち帰ったけどそれは菫子も同じアパートだから仕方のないこと。

 そうだ。確かに昨日は理性が勝利したはずだ! 賢者万歳!

「どうしたんだ菫子。今日は随分早いじゃないか」

 そこまで確認した後で、健一は努めて平生な様子で菫子にそう尋ねた。

「うん……あの、健一」

「な、なに?」

「昨日の、私が寝ちゃった後のこと、教えて」

 そこで健一の心臓がどきりと大きく高鳴った。

「な、なにを──昨日は確かに菫子の家に届けたよ!? そもそも俺は昨日お酒は飲んでないから意識もはっきりしてたし。それともまさか、無意識が!? 俺の内に密かに眠っていた無意識が知らぬうちに──」

「何言ってるの、健一」

 慌てる健一を、菫子は眉を少し寄せて怪訝そうに見つめる。よかった、違うのかと安心しながら、こんな感じに表情を変えるなんて珍しいと健一は心の端で思った。

「私が寝ちゃってから、あのウエイターに何も聞かなかったの」

「ああ、そのことか……いや、うん、聞いたよ」

 菫子が話した内容を教えるようにせかすと、健一は再び昨日のことを想起させながらゆっくりと話し始めた。

「どうも、元からウミガメのスープを題材にした都市伝説があって、あのレストランの本物のウミガメのスープと誰かが結びつけちゃったらしいよ」

「その都市伝説って、どんな話なの」

「ええと、確か──」

 健一は昨日浅田から聞いたことを思い出す。

「とある男が、あるレストランでウミガメのスープを注文しました。

 そしてそのウミガメのスープを一口食べて、男はシェフを呼びました。

『これは本当にウミガメのスープですか?』

 シェフは答えます。

『はい、それは間違いなく本物のウミガメのスープです』

 その後、男は会計を済ませるとそのまま店を出て、崖に飛び降りて自殺してしまいました。

 一体、どうしてでしょうか」

「……なに、それ」

 菫子はかくんと小首を横に傾けた。

「あー、元々は推理ゲームの一つだったらしいよ」

「それで、答えはなんなの」

 健一は息を一つ吐いて続ける。

「それが、分からないらしい」

「え」

 菫子が声を上げ、それに対して健一はかぶりを振って答えた。

「なんでも、具体的な真相が伝わってないんだって。それで、その『スープを飲んだら男が狂ったように自殺した』っていう話だけが一人歩きして今の都市伝説として伝わっているらしいね。──ああ、そうそうそれで、最近俺たちと同じ席で食事をしていた婦人も、スープを食べたらこれは本当にウミガメのスープか聞いてきたらしいよ」

「それ、静葉さんだったのかは聞いたの」

 菫子がそう尋ねると健一は頷いたが、それと同時に「でも──」と付け加えた。

「これ以上はプライバシーということで、教えてくれなかった。でも、あの反応を見る限り、まず間違いないとは思う」

「ふーん、そう……」

 董子は右手で口元を包み隠して、何かを考え込むように少し俯く。健一はもう一つ伝えることがあったことも思い出し「ああ、そうそう」と流れるように続けた。

「そういえばあの後、姉さんから連絡が来ていたことに気付いたんだけど。今日、直接調べたことを伝えたいらしい。これから昼に待ち合わせなんだけど、董子はどうする?」

「静さんか」

 董子は思考を中断させたのか、ぱっと顔を上げた。

「随分急だね。忙しいのか、早く健一に会いたいのか……」

「あー……本当に忙しいんだと思うぞ」

 健一は苦笑して、古新聞の束から一部、新聞紙を取り出して董子に見せた。それは、三週間程前の日付のものだった。

「もしかしたら、これがまだ尾を引いているのかも」

 その日の新聞の一面はある大きな事件について大々的に取り上げられていた。

『巨大犯罪組織、一斉検挙か』



「いやホントそうなのよー!」

 昼、待ち合わせの時間。健一の姉、只見静はそう機嫌がよさそうにあははと笑いながら言った。

 その発端は三週間前のこと。ここら周辺の地域に突如として激震が走った。なんとこの地域内で大掛かりな犯罪組織が潜伏しており、それが一斉検挙されたというのだ。都会ならともかくこんな場所でそんな映画みたいなこと、と当初健一は思ったがよくよく考えてみれば海に面した県であって、もともと平和な町であったから潜伏や海外との秘密裏の取引にはもってこいだったのかもしれない。

 健一はそっと静を再度見つめる。黒髪のポニーテールで顔立ちは美人と言えるのかどうかは身内である健一にはよく分からないが、そこそこ整っている方ではあるとは思う。いつもの通りはきはきとした勝気な物言いで、とりあえず元気なようで健一は少し安心した。

「もちろん主導は情報を掴んだ警視庁や警察庁のお偉い様方だったよ。情けないことにうちらは地元なのにそんなこと全然掴めてなくてねー。随分嫌味いやみを言われながら雑用したわ」

 静はそう言いながら飲んでいたコーヒーをぐいっと一気に飲み干す。どうやら少なからずそのことに対して悔しく思っているようだった。

待ち合わせの場所はとある小さな喫茶店であった。健一は初めて来るところだ。そのテーブル席に静、健一、そして董子が座っていた。珍しく董子も行くと言って付いてきたのだ。

 それにしても、こんな場所でそんな話をしていいのだろうかと健一は心配になり、苦笑しながら周囲を伺った。幸い今、ほかに客はいない。ただし、この店のマスターがカウンターで新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。

「ああ、大丈夫よ、ケンちゃん。ここのマスターは元警察官で口も堅いから。ああ見えて考えも柔軟だし。ね、マスター!」

 健一の意図に気付いた静がマスターにそう声をかけるとマスターは新聞紙に目を向けたまま黙ってぴんと親指を立てた。

 恐らく五十代か、六十代ほどであろうか。短く刈り上げられた白髪に深い皺を刻ませたその顔は一見頑固者に見えるけれど、案外粋いきな人なのかもしれない。

「うふふ、心配してくれてありがと」

 静が微笑みながら身を乗り出して健一の頭をわちゃわちゃと撫でた。健一は小恥ずかしそうに首を竦めてそれを止めさせる。董子は我関せずといった感じで頼んだ紅茶をふーふー、と冷ましながら飲んでいた。

「まあ、それでね。銃やら薬やら偽ブランド物やらが出るわ出るわ。本当に上手く隠してやがって。あー、もう。本当に腹立つー! マスター、おかわり!」

 静がまるでビールを頼むかのようにそう告げると、マスターは徐に立ち上がって空となったカップにコーヒーを注いだ。

 それを静はブラックのまま口を付ける。

「それにそのお偉い様方も主要な人物をとっ捕まえて護送したら、後始末は全部こっちに押し付けて帰っちゃってさー。犯罪組織に限ったことじゃないけど、大きな組織が崩れたらしばらくその周辺は荒れるんだよね。それで今も色々と忙しいのよ……」

 ふう、と小さく息を漏らして静はカチャリと小さく音を鳴らしながらコーヒーカップをソーサーの上に置いた。

「な、なんだか思っていたより大変な状況みたいだな……。ほんとそんな時に変なこと頼んじゃってごめん」

 健一は静に電話をした時は、静がそこまで大変な状況になっていることなんて想像できなかった。健一は素直に申し訳ない気持ちで一杯になっていると静は慌てて顔を上げた。

「いやいや、むしろ助かったよ!? だって久しぶりにケンちゃんから連絡してくれて、疲れが吹き飛んだんだもん! 今日はケンちゃんとスーちゃんの元気な姿を見られて本当に満足だよ」

 静は再びあははと笑って言った。突然自分に振られたことに驚いたようで、菫子はびくっと目線をカップから静へと移したが、その時には既に静の手は菫子の頭まで来ており、そのまま菫子の頭を優しく撫でた。

 所々にある、菫子のぴんと跳ねた髪が静の手によって寝かせられ、綺麗に毛先を揃えられていった。董子は静には昔からあまり大きく出ることは出来なかった。それは静のこの性格故であろうか。それともただ単に相性が悪いのだろうか。董子がなれない敬語を使う、数少ない人物のうちの一人だった。

「し、静さん……そろそろ……」

 健一と同じように首を竦めながら、菫子が静にそう告げると静も「ああ、ごめんね」と言って菫子を解放した。

「そうだったそうだった……でも、こんなもの知ってどうするの?」

 静が思い出したように自身の鞄を弄りながら尋ねる。

 正直に話していいものか。健一が逡巡していると代わりに菫子が口を開いた。

「学術研究です」

 いやいやそれは無理があるだろう。そう思って健一は苦笑いを浮かべながら静を見ると当然静は怪訝な顔を浮かべていたが、やがて手に取った書類を机の上に置いた。

「──まあ、悪用はしちゃ駄目よ。おおやけになったら私の首が飛んじゃうんだから」

 少しおどけるように静は首に手を当て、切るような仕草を見せた。しかしその後、一転して真面目な表情になり、言葉を続けた。

「それと、危ないこともしないでね。何かあったら、ちゃんと私に言って」

 有無を言わせぬ力強い物言い。しかしそこにはしっかりと静の思いやりと優しさが滲み出ている。健一は改めて自身の姉を頼もしく感じた。

 董子に代わるように健一が一つ頷くと、静は再び顔をほころばせた。

「まあ、でも。危ないことにはならないか。殺人事件ならともかく、自殺だしねえ」

 董子が机の上に置かれた書類をそっと手に取って言う。

「本当に……自殺だったん、ですか」

「まず間違いないと思うよ。そこにも書いてあるけど、一人でふらふらと崖に吸い寄せられるようにして落ちた姿を、釣りに向かってた男二人が目撃してたの」

 一応まだ、自殺と事故の両面から見ているらしいけど、と静は苦笑しながら続けた。事故とは思っていないようだ。確かに、事故だったとしたらふらふらと吸い寄せられるように落ちていくようには見えないだろう。

「目撃者、か……」

 健一はそういえば美守もそのようなことを言っていたのを思い出す。

「最初はその目撃情報だけだったから、誰が落ちたのかすら分からなかったみたい。あそこ、なかなか仏さんは上がってこないらしいしねー。でも、丁度その頃にその人の捜索願が出されたから調べてみたら、ビンゴだったらしいわ。それから運よく仏さんも見つかって、最終的に確認がとられたらしい」

「その……死因? は、どうだったの?」

「溺死よ。崖から落ちる場合、岩肌に頭ぶつけて即死の場合もあるけど不幸なことにほとんど怪我なく海に落ちちゃったみたい」

 せめて、意識がなくなってたらいいんだけど……と、静は神妙な面持ちになった。健一も小さい頃、プールで溺れかけたことはある。そこから溺れ死ぬ時の苦しみを想像して、いたたまれない気持ちになった。

「その……水の成分はどうでしたか」

 董子が相も変わらず平坦な声で、それでも一応敬語をつけてそう聞くと、静は目を丸くした後、「へー」と感嘆の声を漏らした。

「ど、どういうこと?」

 健一はその言葉の意味が分からず、董子に向かって訪ねたが、董子に代わって答えたのは静であった。

「ケンちゃん、溺れる際、少なからず水を飲んじゃうのは分かるでしょう?」

「うん」

 健一はプールで溺れた際にプールの水を思い切り飲み込んでしまったのを思い出した。

「溺死までいくと、肺なんかも全部そこの水で浸かっちゃうんだけど、その水の成分を調べることでどこの水で死んだか予想がつけられるの」

「水の成分?」

「そう、その水に溶けている物質だったり、一緒に飲み込んじゃったプランクトンなんかでね」

「へー。なるほど……」

 つまり、他で──例えば風呂水などで予め溺死させてから海に放り投げたところで、警察にはすべて筒抜けということなのか。そして董子はどうやらその可能性を探ったようだった。

 健一がそう感心すると、静もどこか誇らしげな顔を浮かべた。その隅で、董子はぼーっとやり取りを待つように紅茶を飲んでいた。

「そうそう、それで、成分ね」

 静が話題を戻した。

「もちろん崖下の海と同じものだったよ。あそこの水で死んだのはまず間違いないって」

「じゃあ、その目撃者の男達が突き落としたっていうのは?」

 健一もなんだかありそうな可能性を聞いてみたが、静はゆっくりとかぶりを振った。

「目撃者の男性とその自殺した静葉さんって人とは面識は全くなかったわ。それに、静葉さんには縛られた跡も、抵抗したような跡も、薬物が使われた跡もなかった。つまり、少なくとも静葉さんは自らの意志であの崖に行ったということよ。……と、いうより」

 そこで、静は再び怪訝な目を健一たちに向けた。

「君達。本当に、何をしようとしているの?」

「いや、その……ははは」

 健一が愛想笑いを浮かべてはぐらかそうとしている横で董子はすでにそんな言葉は届いていないかのように、ただ黙って書類に目を通していた。

 そんな董子の様子を見てか、怪訝な目を向けていた静は、ふーっと息を吐いてそのまま二杯目のコーヒーを飲みほした。

「まあいいわ……。私、信じてるし」

 一般の人にかけられる、一番強力な枷は忠告でも規制でもなく、信頼だということを静はよく分かっていた。現に健一と菫子はそれに精一杯応えるかのように、強く頷いた。

「うん、でもそうだね。今回の報酬と言ってはなんだけど──」

 途端、何かを思いついたかのように静はにっと笑って書類を眺めている董子に向かって言った。

「ケンちゃんを少し借りてくね、スーちゃん」

「へ?」

 突然のことで健一は静が一瞬何を言っているのか分からなかった。しかし、董子は即座に対応する。

「じゃあ、こっちも代わりに──」

 そう言って董子は懐から小瓶を取り出した。あの、スープが入っている瓶だ。

「これの成分も調べてほしいの」

「えー。というか元々その情報に対する報酬で、ケンちゃんと二人でご飯食べられる権利、という契約だったじゃないのー」

 そんな契約健一は知らない。

「契約不履行だー!」

 そう言って変に拗ねる静に、董子は少し考えてから答えた。

「じゃあ、ご飯じゃなくて好きにしていいから」

「乗った!」

「董子!?」

 突然のことで健一は反論の言葉も出なかったが、そもそも出たところで健一に拒否権などあるはずもなかった……。




 董子を家まで届けた後、健一と静は近くにある、わらしべ公園という名の公園まで来ていた。

 この公園は比較的大きな公園で、小さい子でも遊べる砂場や滑り台があるスペースに、御年配の方々が時々ゲートボールを楽しんでいる芝生、向こうにあるグラウンドでは少年野球チームが声を張り上げて練習をしていた。

 そんな公園の端にあるベンチに、健一と静は腰かけた。

「……」

「……」

「──本当に、元気そうでよかった……」

 僅かな静寂の後、先に口を開いたのは静であった。

「……うん」

 健一は呟くように返事した。遠くの木々から風がそよぐ音が聞こえる。

「アニキも、心配してたよ?」

まなぶ兄さんが?」

 静は何も言わずに首肯する。

只見学。健一たちの一番上の長男である。よく健「一」という名前から、自分が長男だと誤解されるが実は一番末っ子だ。

 健一が生まれる時、生まれつき体の弱かった学は生きるか死ぬかの状態であったと健一は聞いたことがある。それで父親が「健康が一番。お前にはとにかく元気に育ってほしい」という願いを込めて健一という名前にしたそうだ。

 その後、学は順調に回復し、その時の経験もあってか今では医者になっている。

 確かに、姉も兄もどちらも優秀でそれなりにコンプレックスを抱いてもいるが、健一は、自分はとにかく健康に生きているから父さんの願いは果たしているはず、と常に自身に言い聞かせていた。

「たまには顔見せろってさ」

「うん……分かった」

 それは一体、どっちの意味だろうか。

 そんなことを健一が思っていると、「それはそうと」と、静がずいと顔を健一の方へ押し出した。ただえさえ近かった顔の距離が、鼻と鼻がくっつく程にまで近寄せられる。

「そろそろ、君達が何をしようとしているのか教えてほしいんだけど」

「信じてるんじゃなかったの?」

 健一がそう聞くと、静は顔を戻して「もちろん信じてるわよ」と唇を尖らせた。

「だからこれは、単なる好奇心」

 そんなことを言うが、本心ではやはり少し心配なのだろう。

 喫茶店では正直に話すかどうか迷った健一だったが、菫子もいない手前か先程より打ち明けることに対しての抵抗感は感じられない。というより、むしろ静にも知ってもらった方が良いのではないかという気さえしてきた。

 これは全て静の計算通りなのだろうか。本当にそうなのかどうかは分からないが、健一は静から刑事としての技術のようなものを垣間見た気がした。

「──そんな、大した話ではないんだけど」

 そう前置きして、ついに健一はぽつりぽつりとこれまでの出来事を静に話し始めた。「なるほどなるほど」と絶妙なタイミングで相槌を打つ静は本当に聞き上手であった。

 聞き上手な人と話すと、話し手にとっては気持ちよく話すことが出来る。そして気持ちよく話すと、ついつい言う予定のなかったことまで口走ってしまうものだ。健一は最初はある程度大雑把に話すつもりが、いつの間にか事細かに話してしまっていた。

 これもやはり、刑事としての技術なのだろうか。健一はそんな自身の姉を刑事として頼りに思うと同時に、どこか恐ろしくも感じた。

「なるほどなるほど。いやまさか、あのスーちゃんが探偵の真似事をねえ……」

 健一が話し終えると静はいつの間にやら腕を組んで、深々と二回程頷いていた。

「でもまあ確かに、昔から妙なところに鋭かった気はするけど……」

「そうか?」

 静のその言葉に健一は首を傾げたが、静はそんなことは聞いていないというように「そんなことより!」と言って健一を睨みつけた。

「な、なんだよ……?」

 普段あまり見ない剣幕に、健一は思わずたじろぐ。

「お姉ちゃん、今の話で一つ納得いかないことがあるのっ!」

「え?」

 何か法に触れるようなことでもしてしまっただろうか。そんな不安が健一の胸を渦巻いたが、それは全くの杞憂であった。

「どうして襲わなかったの!?」

「……は?」

「は? じゃないわよ。酔って寝ちゃったスーちゃんを運んだんでしょう? なのに手を出さなかったってどういうことよ! ケンちゃん、それでも男!?」

「姉さんこそ、それでも刑事かよ!?」

 健一は思わず少し大きな声で反論した。先程まで健一の胸にあった、姉の警官としての頼もしさが一気に瓦解していく。それと同時に、顔が熱せられているかのようにどんどんと熱くなっていった。

「いやそりゃあ、強姦は犯罪よ? ヤった奴はタマ潰されても文句は言えないね。でも君達はそれもう合意の上でしょ!? きっとスーちゃん、酔って寝た振りして待ってたのよ。お姉ちゃん、ケンちゃんをそんな女の子に恥をかかせるような子に育てた覚えはなかったのに……」

「いや、アレは確実に寝てたぞ……」

 よよよ、と明らかな嘘泣きを見せる静に健一は突っ込む気も失せて、一つ大きな息を吐いた。全く、姉さんは昔から何一つ変わらないな……。

「……ホント、君達には、幸せになってほしいの……」

 静は不意にそう、ポツリと告げた。健一が思わず隣に顔を向け直すと静は嘘泣きをしていた体勢からいつの間にかじっと俯いていた。

「……何言ってんのさ」

 もう一つ、しかし今度は先程よりも浅く息をついた健一はそう言ってふと立ち上がろうとすると、その裾をぎゅっと掴まれた。

 ──ああ、本当に姉さんは何も変わってないんだな。

 健一はそう感じて、そのまま黙ってそのベンチに座り直した。

「あの……」

「……何?」

 健一は素知らぬ顔で前を向き、詰まってしまった静の次の言葉を待つ。遠くのグラウンドで野球少年達が一生懸命白球を追いかけている様子をぼーっと見つめていた。

「私のせいで……本当に、ごめんなさい……私が、あの時もっと早く──」

「姉さんって、本当に引きずるタイプだよね」

 ある程度予想できていた、静の謝罪の言葉に健一はそう漏らした。

「そんなんだから、彼氏出来ないんだよ」

「ケンちゃんには言われたくない」

 健一の憎まれ口に、静もまた口を尖らせて返す。しかしそのトーンが先程よりも少し下がっていたことには、健一は気づかなかったことにした。

「何度も言うように、姉さんもあの時大変で、でもその中で精一杯やってたんだろ? そんなの、俺にも菫子にも姉さんを責める権利なんてないよ」

「スーちゃん。そういえば、本当に元気そうでよかった……」

「まあ、相変わらずなんだけどな」

 健一が苦笑すると、静はゆっくりとかぶりを振って微笑んだ。

「でもそれが、一番幸せなことなんだと思う。アニキがなんと言おうと、私はケンちゃんの選択を尊重する。さっきも言ったけれど、君達の幸せが、私の幸せになるの。だから──」

 静が両手で健一の頬を優しく包み込むように挟んで、今度は健一の顔をこちらに引き寄せた。健一の目の前に映る静の表情は、真剣でいてどこか切ない感じにも見える。

「何度も言うけど、何かあったらちゃんと私に言って。一人で抱え込んだりは絶対にしないで。……もっと、私を、頼って」

 静の掌はひんやりと冷たい。健一は自分の手を静の左手首に乗せ、そっとその左腕を下ろさせる。すると同時に、静は自身で右手も下ろし、健一を解放した。

「ね? 分かった?」

 今更ながら少し恥ずかしそうな素振りを見せる静に健一は失笑し、そのままの勢いで一つ頷いた。

「うん。もちろん、分かってるって……ありがとう」

「そ」

 静はそう短く返事をして、大きく息を吸い込むようにベンチから立ち上がり、伸びをした。もしかしたら、想像以上に恥ずかしかったのかもしれない。健一からわずかに見える静の頬は、紅く染まっているように見えた。そんな様子に、健一は思わず再度吹き出してしまう。

「もう、なによう」

 静は一瞬不服そうに唇を尖らせたものの、やがて彼女も吹き出し、笑顔となった。




 公園で静と別れ、健一はそのままアパートの自室へと戻ってきていた。

 玄関からリビングへと向かい、薄暗いため電気をつける。そういえばここ二日間は家帰ったり、朝起きたりすると菫子が勝手に炬燵で暖まっていたが今回は来ていなかった。

 まだ自室に居るのだろうかと思い、そっと菫子の部屋がある方の、白い壁に目を向ける。不意に、どこか胸の奥にもやもやとした嫌な予感を感じた。最近はほとんど忘れてるときもあった予感だ。

 全く、菫子が変なことを始めるから……。

 そう健一は心の中で思って自重気味に苦笑した。

 もう今日は少し早いが軽くご飯を食べて寝てしまおうかとも思ったが、そういえば静からの言づてがあったことを思い出す。

「あの情報、要らなくなったら私に返すかシュレッダーかけちゃってね」

 あの菫子のことだ。要らなくなったらそのまま、あの紙で出来た腐海の一部となるに違いない。

 昨日今日で要らなくなるとは思えないが、一応念には念を入れて早めに携帯のメールでそのことを伝えることにした。

 メールを送信して、さて今日は何を食べようかと考えようとしたとき、そういえば我が家の経済状況は危機的であったことも思い出した。買いだめをする習慣はないので冷蔵庫の残りも大したものはない。

 少し考えて、今日はお茶漬けだけで済ませようと溜め息まじりにそう結論づけた時、健一の携帯がバイブ音とともに新着メールを告げた。

 差出人は菫子。先程の返信メールであった。

 菫子が返信を、しかもこんな早くしてくるなんて珍しい。健一はメールを開き、その内容を読み上げた。

『明日、全ての決着をつけます。』


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