第四話
「せまい──」
車に乗り込むとき、ぽつりと董子がそう呟いたのを、健一の耳は聞き逃さなかった。
その軽自動車は一応が四人乗りに設計されているものの、確かにその一つ一つのスペースはお世辞にも余裕のある広さではない。それでも健一にとっては免許を取って、中古車で初めて買って以来の愛車であった。
董子が助手席に乗るのを見た後に、健一は向かいの運転席へ座った。ちなみに、董子は運転免許を持っていないので当然車も持っていない。なので、この車が唯一自由に移動できる足ともいえる。
健一はエンジンを入れ、車を発進させた。今時カーナビもついていないくらいの古い車なので、助手席の菫子に周辺地図を持たせ、ナビゲートを任せる。
クリーム色のコートを脱いだ菫子の服装は、青の下地に白の上着を着込み、貴婦人や淑女といった格好とは呼べるものではなかったがそれなりに映える、外向きの服装をしていた。一応緑の忠告に彼女なりに従ったのだなと健一は少しほっとする。
ドレスコードは緩いと書かれていたが、実際どの程度かは分からなかったので健一もなるべく「らしい」恰好で行こうと、久しぶりに白のシャツに黒のスーツを着込んだ。
それよりもむしろ、車のほうが心配である。こんな安物の自家用車で向ってもいいのだろうか。
車に関して、もとよりお酒は飲むつもりはなかったが、それだけには一抹の不安を感じていた。
そしてなによりも、所持金である。一応あるだけ持ってきたので、足りないということはないだろうがこれより先の生活を考えると、不安に思わずにはいられなかった。
「あの、董子。ちなみに聞くけど、今の董子の所持金は──」
「そこ、右」
「あ、はい」
さりげなく董子の所持金を聞き、その次第によって彼女にも払ってもらおうかとも考えていたがあっさりとスルーされる。
健一はハンドルを傾け、車の進行方向を右へと向けた。国道へとつながり、道幅は広くなる。健一は、昔に比べ最近はなかなか車を運転する機会というものがなかったのでいつも以上に周囲に関して気を配るよう心掛けた。
いくつか道を曲がった後、道なりに進んでいく。この交通量であれば、三十分かかるかどうかで着くであろう。
気づけば、董子は助手席で地図を抱きしめるようにして眠っていた。耳をすませば、穏やかな寝息が聞こえてくる。どうやらまだ寝不足が解消しきれていなかったようだ。
ナビゲーターが寝てしまったが、ここまで来れば何とかなるだろうと健一は思った。
周囲に気を遣う途中に、ちらりと眠りに落ちている董子を一瞥する。
一体どうして菫子は、ウミガメの希少性や景品表示法などを知っていたのだろうか。
健一は、先ほどの菫事のやり取りを想起させた。一般常識だと言われればそうなのかもしれない。健一が無知なだけだと言われればそれも合っているだろう。
しかし、健一はあの時、今まで知らなかった新しい菅原菫子の一面を見た気がした。そしてそれは同時に、健一に軽いショックを与えていた。
健一はいつしか、自身が董子のすべてを知っているような気がしていた。そんな自身の浅ましい全能感と歪な独占欲に、改めて気づいたのであった。
目の前の信号が赤に変わり、停止線の前で車を止める。気づけば周囲には車は一台も走ったり、止まったりしていなかった。陽は既に落ち、ぼんやりとした街灯が道を照らし出す。
健一は思わず、深く息を吐いた。たまに健一は、こんな風に世界には、自身一人しか存在していないのではないかと感じることがある。なにもない、暗闇のなかで一人──。
耳を澄ます。董子の穏やかな寝息はまだ聞こえていた。
自分は間違っているのだろうか。
そんなことを不意に思い、健一は苦笑を浮かべる。
間違っているかどうかは、重要ではない。世の中は間違いだけで回らないように、正しさだけでも回らないのだ。
その時、目の前の信号機が青になったので、健一は再度アクセルを踏み込んだ。車はゆっくりと前へと走り出す。
健一は再び、ちらりと菫子の方に目を向けた。
その寝顔は、可愛らしく、そして微笑ましく、心が洗われるような感じがした。
*
寒い。そう思っていた。しかしそれとは裏腹に息は切れ、体中に汗をかいていた。頬を伝う汗が煩わしく、無意識に左手で頬を撫でるように汗を拭おうとする。
ぴちゃり。
少し冷えた、それでもそれは先ほどまでは確かに熱を持っていたのだろうと予測できる温度の液体が、逆に頬に塗りたくられる。
その手のひらを見ると、赤。一面真っ赤に染まっていた。
先程から香る、鉄の錆びたような匂いは、この赤い液体から発せられているようだ。
ふと、もう片方の手を見ると、そこには小さな鉄の鋏が握られていた。それからも、また鉄の匂いがした。
しかし、もっと強烈な匂いを発しているものが、目の前にあった。
踞るようにして倒れている老婆は、確かにもう亡くなっていた。目は閉じられ、薄く開けられた口から覗く闇はどこまでも続いているようだ。
そこまで見て、ようやくはっと我に返る。どうやら少しぼうとしてしまったようだ。
へえ、もう凍ってしまっていると思ったのに、この焚火の影響かなと、再度赤く染まった手を眺めて思った。
「ねえ……何して……」
声が聞こえる。位置はそれほど遠くないはずなのに、なぜだかフィルターがかかっているかのようによく聞こえない。聞き取れない。ああ、お腹空いた。
健一は目の前にある、血の滴る鋏をただ見つめる。その鋏がゆっくりと、切っ先の向こうの遺骸へと向かっていった──。
*
「ほら、董子。起きて」
暗闇にまどろんでいた董子に、不意に健一の声がどこからか聞こえてきた。目を開けるとすでに車はエンジンが切られているためかシンとしていた。
董子の隣では健一が「起きたか」と息をつき、シートベルトをはずしていた。
「着いたよ、ここで間違いない」
健一が前を向いて、目の前にたたずむ建物を見つめる。中世の欧州を意識したような外観で、派手なものでは一切ない、むしろ一見、人目を忍ぶようにひっそりと建っているように見えるがなぜだろうか、その建物は大きな存在感を放っていた。装飾の一つ一つは決して自己主張しない。それでいて全体でどことなく独特な華やかさを見せている。こういった建物こそ、「粋な」や「小洒落た」といった表現で呼ばれるべきなのかもしれない。
健一は幾度かここを通り過ぎた時に「ここがあの有名なレストランか」と思っていたものだが、まさか実際に来ることになるとは思っていなかった。
地元の人がその土地の観光地にむしろ疎いように、縁遠いものとしか思っていなかったのである。
車から外へ出ると冷たい外気が体を突き抜け、覚悟はしていたものの、健一は反射的に身を縮こまらせた。向かいを見ると、ちょうど董子も外へと出たところだった。董子は「ひゃう」と小さく声を出し、同じく首を竦めて身を縮こまらせる。目は相変わらずの寝ぼけまなこのような感じであるが、ぼんやりとした頭はすっかりと覚醒したようであった。
目当てのレストランを前に、健一は少し緊張していた。
実際にそうなのかもしれないが、入店した途端に店から場違いのような空気を出されたらどうしようか。そんなことを逡巡している健一をよそに、董子はさっさと前へと歩を進めた。
「健一、おいてくよ」
「ま、待ってって!」
健一が董子の後を追うように駆け出し、二人はほぼ同時に店内へと入った。
「いらっしゃいませ」
低く、ゆったりとしたトーンでそう健一たちを出迎えたのは、一人のウエイターだった。年齢は40代半ばほどであろうか。長身、黒髪のオールバックで少し渋めの雰囲気を醸し出しながらも、柔和なまなざしで微笑んでおり、まさしく紳士といった風合いだ。
その胸には銀に輝くネームプレートが付けられており、そこには浅田という姓が刻まれていた。
「ご予約のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「あ、はい。えっと、岡本緑の名前で予約させていただいていると思うのですけど」
ウエイターの浅田は微笑んだまま、浅く頭を下げた。
「二名様のご予約で、只見健一様と菅原董子様ですね。お席へご案内いたします」
彼に先導されて、二人は店の奥へと入っていく。健一は無意識か、きょろきょろともの珍しそうにあたりを見回しながら進んでいた。
小洒落た内装にどこからかゆるく聞こえる、少し幻想的な、それでいて落ち着いた感じのバックグラウンドミュージック。薄く照らされた照明はなぜか不思議と暗いとは感じさせず、二、三世紀前のヨーロッパへと飛ばされたような感覚になる。
指し示されたテーブルへ着席し、メニューが開かれる。健一と董子は互いに向かい合う形で座っていた。健一は隣の空いている席の上に貴重品の入った手提げを置く。すると浅田は即座に荷物を入れる籠を持ってきた。
「ねえ、一つ、聞きたいのだけれど……」
董子がメニューに一瞥してから、テーブルにグラスを置いている浅田の方へと向かって言った。
「はい、何でございましょうか」
「この店に、『ウミガメのスープ』ってあるの」
「──はい、ございますよ。食用として用いられますアオウミガメは現在、小笠原でしか獲れないのでありますが、その小笠原より厳選のものを仕入れて、提供させていただいております。こちらのコースに──」
「──そのスープが、呪われている、って聞いたのだけれど」
「ちょっ、董子!?」
慌てて健一が声を上げる。いくらなんでもストレートすぎるだろうと思うが、口に出した言葉は、もう戻すことが出来ない。浅田は少し怪訝な顔を浮かべた。
「呪われている、ですか……?」
「ああ、いや、すいません。彼女がええと、知り合いからそのような話を聞いたそうで。あの、あまり気にしないでください」
健一が愛想笑いを浮かべながらしどろもどろに取り繕う。ここで無礼だと追い出されてしまったら空腹の中、とぼとぼと岐路につかなければならないし、なにより緑さんの顔にも泥を塗ってしまう。まあ、財布は助かるかもしれないが。
健一はとにかく、あんなことは今は忘れて、食事を楽しみたかったのである。
しかし特に浅田は気を悪くした様子はなく、しばらく何かを考えるような仕草をした後、「ああ」と声を上げた。
「なるほど」
「心当たり、あるの」
「え、あるんですか?」
「──ないことはございませんが」
浅田は苦笑のような複雑な笑みを浮かべて続けた。
「そんな大したお話ではございませんよ」
確かに呪いなんて馬鹿げた話かもしれないが、提供している商品にそのような噂がついて、果たして「大したことのない」話で済まされるのだろうか。健一は浅田のその言葉を少し、そう不審に思った。
「どんな話なの」
「それは今お話しさせていただくのは止した方がよろしいかと」
浅田の言葉に、変にもったいぶられた感じがしてむしろ知りたくなってしまったが、董子は意にも介さずに「そう」と言って続けた。
「じゃあ」
董子はトントン、とメニューの指でたたく。その先には「アオウミガメのスープ」と記載されていた。
「実際にこれを飲んでみたら、私も死んでしまうのかしら」
「董子!?」
そんな健一の声に対しては目もくれず、董子はじいっと浅田を見つめる。持ち前のおっとりとした目つきのためか睨み付けるような感じではないが、浅田は困ったように再度苦笑した。
「ふふっ……いえ──ご安心ください。そんなことはないと、私が保証させていただきますよ」
「そう」
董子は一つ息をついて席にもたれかかりながらも、背筋を後ろにぐっと伸ばした。
「じゃあ、このコースを二人分、お願いします」
そう言って菫子が指差したのは、もちろんスープ料理がウミガメのスープとなっているコースであった。加えて、何も言っていないのに、なぜか当たり前のことのように健一も同じものを食べることになっている。その後、続けていくつかワインを注文した後、「以上で」と打ち切った。
「かしこまりました」
健一が口を挟むタイミングをつかむ前に、浅田は軽く頭を下げながら落ち着いたトーンで承ってしまう。
健一は少し複雑な表情を菫子に向けるが、菫子はまたしても気づいていないのか、ぼーっと、下のメニューを眺めていた。せめて形式的にでもメニューを見ていろいろと考えたかったが、健一ももとより菫子が選んだものを頼もうと思っていたし、そもそもどれかを選べるほど、料理名に関して知識があるという訳でもなかった。そんな心境のまま、ちらりとメニューに目を落としたが、やはり想像がつかない料理名がチラホラ見受けられる。「グラス・ヴァニーユ」ってなんだろう。
そんなことを思っていると、ふとその場を去ろうと数歩離れていた浅田がピタリとその足を止めた。
「──お客様、遭難された経験はございますでしょうか?」
「え?」
「いえ、失礼いたしました」
浅田は一つお辞儀をして、今度こそ健一たちの前から姿を消す。返事をする猶予もなく、一方的に投げつけられたような突飛な質問に健一と、そして董子でさえも小首をかしげた。
一体、どういう意味だろうか……?
健一は無意識に自身の体を見回す。高貴な紳士には見えないかもしれないが、もちろん、かと言って遭難帰りにも見えないだろう。
でももしかしたら健一が思っていないだけで、どこかおかしい格好をしているのかもしれない。
気づけば健一の心臓は大きく高鳴っており、頬には熱いものを感じた。
浅田が出ていき、後には落ち着いた曲調の、どこかで聞いたようなクラシックのみが辺りを包む。ワインは即座に運ばれ、菫子のグラスへと次がれた。
健一は徐に目の前の水の入ったグラスに手を付ける。普通ならワインで一緒に乾杯、とでもなるのだろうが、健一はアルコールを飲むのは控えておいた。飲めないというほどではないが、決して強くはない。それに、帰りの運転もある。代行を頼むのも手だが、正直少しでもお金を浮かしておきたかった。
それより、菫子もそこまでお酒が強いわけではないのに、大丈夫だろうか──。そんな一抹の不安を覚えたが、考えても詮無いことだと思い直した。
とりあえず、今は──。
「董子」
健一は董子がグラスを手に取ったタイミングでそう呼びかけ、手に持ったグラスをそっと董子の方へお傾ける。
グラスの手を止めた董子は、すぐに健一の意図に気づき、自身もそのグラスを健一の方へと寄せた。──その顔にはふわりとした、穏やかな笑みが浮かんでいた。
その表情に健一は思わず息を呑んだが、すぐさま彼も再度笑みを浮かべて自分のグラスを董子のグラスへとぶつけさせた。
カチン、と軽快で澄み渡った音が響いた。
少しして、コース料理のオードブル──つまり、前菜が健一達のもとに運ばれてきた。給仕は浅田ではなく、ショートボブの女性であった。あの渋い顔立ちのせいかもしれないが、健一は目の前の女性は浅田よりも一回りは若いように見えた。胸にあるネームプレートには飯田と書かれてある。
目の前のオードブルは美味しそうという以上に美しいという印象を強く持たせる一品であった。
透明なガラスの皿にマグロ、サーモン、オリーブ、ミニトマトなどが色鮮やかに散りばめられている。まるでこれ一つで一つの美術品、いや、一つの世界が込められているようであった。
健一は慣れないながらも出来るだけ上品に見えるように心がけて、それでもやはり食べづらそうに口に運んでいた。董子はどういうわけかスムーズに食を進めている。
相変わらず董子は無駄に器用なところがあるな。健一はそう思った。
フルコースの大まかな流れはオードブル、スープ、魚料理、肉料理、サラダ、スープ、デザートとなっている。つまり、次が早くも健一達にとってはある意味メインといってもいい、スープ料理であった。
ようやく食べ終わって、健一は記憶を頼りに、使ったナイフとフォークを正しい位置に置くと、間もなくして先ほどの飯田というウエイターがやってきた。
す、と音をほとんどたてずに健一達の食器を片付けていく。
「お待たせいたしました」
そう渋い声を従えて、浅田が静かな足取りで健一達の席へと歩み寄った。その両腕には、二枚の皿を添えていた。
「こちらが、──小笠原産、アオウミガメのスープとなります」
片付けられたオードブルと入れ替わるように次のスープ料理──ウミガメのスープが、健一たちの前へと差し出された。
仄かに湯気がたつそのスープは鮮やかな琥珀色で、コンソメの良い香りが辺りを包み込む。
風味など、実際においしそうではあるのだが、あのような噂を聞いたせいか、見た目はどこか不気味なように健一には感じられた。
綺麗な琥珀色だ。しかしぼーっとその色に見惚れて眺めてしまうと、いつしかスープに吸い込まれてしまうのではないか。健一はそんな気さえした。
ごくりと喉を鳴らしながら健一が逡巡しているのとは裏腹に、董子は全く気にする様子はなくスプーンで皿の奥から手前にかけてスープを掬い、つ、と音を立てずに口へと差し入れた。
そして──。
「ふぅ」
董子は、小さく息をついた。
それが悲しさや失望から来たものではないことは健一にもすぐに分かった。
「美味しい?」
「──おいしいよ」
ぽつりと、董子は呟くように答える。それでも、董子がこういう風に何かを評価することは滅多にないことであるので、よほど美味しいということだ。その様子を見て、健一も意を決したように徐にスープスプーンを手に持ち、スープを一匙掬った。
スプーンの中で、僅かに琥珀色の液体が波紋を広げている。
その様子を一瞥した後、健一は静かにそのスプーンを自らの口へと入れた。
「おいしい……」
零れ出るように、健一は思わずそう呟いた。口に入れた瞬間、芳醇な香りが鼻を突き抜ける。芳醇、とは多くは酒を指して言うが、これはまさしくヴィンテージのワインのように長い年月をかけて寝かせ、熟成させたような、深い時の重なりが出しているような、そんな風味豊かな香りであった。そしてほどよい塩味とコンソメの味が口いっぱいに広がって、飲み込むとそのうま味は体全体に浸透していくようであった。
健一は無意識的に腕が動き、もう一匙飲み込む。事前にあのような呪いなんてことを聞いていなければ、ただ何も考えず今日のこの味を脳と心に焼き付けていただろう。
スープを飲みながら健一は自らの身体の変調を顧みるも、特に変わったところは感じられない。董子も特に変わりないように見える。
やっぱり、呪いなんてものは単なるガセ──いや、もしくはどこかの店がこのレストランを貶めるために流したデマかもしれない。そうだ。静葉さんが死んでしまったのは単なる偶然に違いない。普通に考えて、何かを食べて自殺するなんて考えられないではないか。
健一は一人でそう納得してそのままスープを飲み続けた。そしてその時、向かいの董子は人差し指を唇に添えて、じっと視線をスープの液面の方へと向けていた。その液面には琥珀色に染まった世界が映っている。そこから、じいとどこか無機的な瞳をしている董子が、董子を見つめていた。
うん。美味しい、普通のスープね。身体も心も、どこにも変化は感じられないし、まして死にたいなどという気持ちもこれっぽっちも生まれていない。見たところ、健一にも何の変化もないようだし……うん。このスープを飲んだことと、自殺はやはり全く関係がない? 呪いは単なるガセ、もしくはどこかの店がこのレストランを貶めるために流したデマ──いや、デマは考えにくいかも。発覚すれば、下手したら威力業務妨害にもつながるはず。この周辺に、そんなリスクを冒してまで『このレストランと対抗しよう』と考えるほどの大きなレストランはないだろう。
それに、このウミガメのスープは『コース料理』だ。このコース全体が呪われている、というのならまだ解るけど、呪われているのはスープだけ……スープだけにデマを集中させる合理的説明が思いつかない。まだまだ、何かを決めつけるには情報が足りないかもね。
でも──私なら、どう「書く」……?
スープの味を体にしみこませながら、董子はぼうと考えを巡らす。
すると、いつしか健一も董子も、すっかりスープを平らげてしまっていた。正確には底にはまだ幾ばくか残っているが、マナーではカチャカチャと音を立てるのは厳禁で、皿を持って直接飲むのなんて以ての外だ。スープはその状態で完食とみなされる。
健一は名残惜しく思いながら、スープスプーンを置き、頃合いを見てやって来た浅田達にそのまま運ばれていった。
その後のメニューも、どれも絶品であった。問題であったスープ料理が過ぎると、健一もどこか緊張の糸が解け、気持ちが少し軽くなったと同時に、様々なことが思い出したかのように脳裏に浮かびあがる。
「──ねえ、董子」
「なに」
「割り勘とまでは言わないから、せめて三:一にしない?」
笑顔を作りながら、出来るだけ甘い声で健一は提案したが、それがむしろ逆効果だったのか、董子はいつもの真顔──いや、心なしかどこか冷たい目をしながら「ふーん」と続けた。
「健一って、自分の言ったことを曲げちゃう人だったんだ……」
「すいません。全額お支払させていただきます」
即答だった。
なんとも情けないかもしれないが、曲がりなりにも好きな人から、あのセリフをしかも抑揚のない平坦な口調で言われたら誰でも即提案を撤回せざるをえないだろう。
冗談での発言だったかもしれないが、どうしても失望や絶望しているようにしか聞こえないのである。
コースはもう、最後のデザートまできていた。配膳されたのはバニラアイスに赤いストロベリーソースが少しかけられ、脇にパウダーが塗された小さなチョコケーキが添えられている。どうやら先ほどの「グラス・ヴァニーユ」とは、バニラアイスのことらしい。
健一はデザートに舌鼓を打ちながら、懐に入っている財布の中身を想起して、これから先の「素晴らしい」ものになるだろう食生活に思いをはせた。
「ねえ、健一」
今度は、董子の方から口を開いた
「ん? なに?」
「二ツ岩静葉について、なにか知ってることがあったら教えて」
「あー……知ってること、かあ……」
そう言って、健一はうーんと唸った。健一は芸能界に詳しくはないので静葉のことも名前をどこかで聞いたことがあるくらいであった。
ただまあ確かに、普段からテレビも見ない董子は自分より知っていることは少ないだろう。それに美守ちゃんに聞かないで俺に聞いてくるということは、美守ちゃんでは聞きづらいこと──ゴシップ関連についてを主に知りたいのかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと健一の記憶の海から、先程までは思い出せなかった、ある事件の断片的な記憶が救い出された。
「そういえば……確か静葉さんが引退した時、一騒動あった気がする」
「どんな騒動か教えて」
「ええと、確か……そう。あの時芸能界の薬物汚染だか何だかが騒がれていて、静葉さんにもその疑惑が浮上していたような気がする……うん。本当かどうかは知らないけど」
口に出すと、先ほどよりも記憶が明確になっていった。確かに、そんな騒動があったはずだ。細かい顛末は知らないが、一時期結構騒がれていたことだけは思い出した。
「もしかして、静葉が引退した理由って……」
「どうだろう。なんか信憑性のないデマも広がってたし、何が本当だか……」
「薬物……」
董子がポツリと呟く。そして目の前のデザートに視線を向けて、小さい声で続けた。
「料理に薬物が含まれていたとしたら……」
「ちょっ、董子!?」
健一は思わず少し咽せかけながら、キョロキョロと慌てて周囲を見回す。幸いなことに、誰も菫子の言葉を聞いていないようであった。ほっと一つ、ため息をつく、
「何言ってるのさ! そんなことある訳ないじゃん」
「どうしてそんなことが言い切れるの。私は可能性を言ったまでよ」
そう言って、菫子は懐から何かを取り出し、それを健一に見せるようにテーブルに上にコトンと置いた。
それは本当に小さな小瓶で、健一はどこかの土産物屋でこんな容器に星の砂が詰められて四百円ほどで売られていたのを見たことがあった。
しかし、今この小瓶に詰められているのは砂や石でなく、何かの液体であった。
「? ……なにこれ」
「さっきのウミガメのスープ」
「ちょっ!?」
今度は本格的に咽せてしまい、健一はごほごほと咳き込んだ。その時、ウエイターが心配そうにちらりと覗いたが、菫子はその瓶をさっと隠していた。
「馬鹿、何やってんのさ……!」
健一は声を潜めながらも困惑と驚愕とわずかながらの怒気を込めるように力強く諫める。
「念のために、少しだけ採ってたの。これを調べればはっきりする」
「いつ採ってたんだよ、そんなもん」
「健一が美味しそうに食べてるとき」
健一が思わず一つ、大きくため息をつく。
「マナー違反、ってレベルじゃないな……」
「健一、マナーとは見られるためにあるの。つまり、見られてなければ問題ない」
「いや、ありまくりだろ」
そして健一は今よりもっと声を潜めて続けた。
「それに、あのスープに変なものが混じっていたとしたら、それを俺らもそれを飲んだということじゃないか」
「うん」
「だけど、変な味なんてしなかったし、まして俺にも菫子にも、どこにも異変は起きていないだろ?」
「うん」
「じゃあやっぱり、スープと自殺は全く関係のないことだと捉えた方が自然じゃないか。なんでそんな──」
「……健一」
健一の言葉を、董子が遮る。珍しく、どこか力の込もったような声のように健一は感じた。
「真実で事実を作るんじゃなくて、事実で真実を作らないと、いつか大きな間違いをするよ」
「どういうことさ」
健一が聞くと、董子は背もたれに身体を預け、目を瞑って俯きながらポツリポツリと言った。
「んー……小説書いていて、いつも……思うこと。……まあ、それが一番可能性が高いのは、そうなんだけど……」
健一はそんな董子の発言を聞きながら、紅茶を啜り、デザートの甘さを中和させていた。最初は少し熱すぎたが、今はちょうどよい温度だ。
「事実で真実を、か……」
健一はそう、董子の言葉を反芻する。ふと液面を見ると、紅い世界で健一が苦笑を浮かべていた。そしてそのままその紅茶を飲みほした。
「なあ、──董子?」
声をかけて、そこで初めて健一は董子の異変に気付いた。董子は先ほどの背にもたれた姿勢で俯いたまま、じっと微動だにしていなかった。いや、よく見るとお腹のところが小さく動いている。
「おーい、董子さーん?」
少し身を乗り出して、顔を董子の方に近づけながら手をヒラヒラさせるものの、やはり董子は何の反応も示さなかった。その代わり、小さく「すー、すー」と寝息が聞こえてきた。
董子は椅子にもたれながら、気持ちよさそうに眠っていた。気づけば、顔もほんのりと紅くなっている。
健一は失笑し、元通り、椅子に座った。
徹夜明けで、そこまで強くないのにワインを飲みすぎるから……。
健一はそんなことを思いながら董子の傍らにあるワイングラスを見ると、ワインは空になっていた。そういえば、計何杯飲んでいただろうか。
そういえば、先ほどから普段より会話が積極的だった気がする。少し支離滅裂だった気もするが。あれは酔っていたからか、それとも──。
「それは、困るかなあ」
健一は苦笑を浮かべたまま、そう呟いた。
僅かに残っていたデザートを完食させ、健一は水で口を直した。どうせ起きないだろうと思い、董子の物もまだ少し残っていたので少しだけつまんだ。マナー的によろしくない気もするが、董子のスープのことを考えると、まだましだと少し気が楽になり、また、やはりもったいないという日本人の精神も後押ししたのだ。
「ご馳走様でした」
そういえば洋食の食後の挨拶はよくわからなかったが、健一はとりあえず
そう言って、手を合わせた。「いただきます」は食材への感謝、「ご馳走様」は食材を準備してくれた人たちへの感謝を主に表す言葉だ。
健一はこの二つの言葉が好きであった。
健一はしっかりと浅田さん含め、他のウエイター、シェフ、への感謝をその挨拶に込めていた。
「さて……」
董子はやはり、起きることなく気持ちよさそうに眠っている。
「おーい、董子―。董子さーん。起きろー」
おそらく無駄だろうなと健一は思いながらも、董子のもとへと寄ってそう呼びかけながら、ふにふにと指で柔らかい頬を突っついた。指先に頬の温かさが伝わる。
健一は思わず「おお……!」と感嘆したが、すぐに自身を戒めて、やがて本当に頭を悩ませた。
居酒屋でもあるまいし、ここでずっと寝させるわけにもいかない。ましてこんなレストランだ。なるべく店に迷惑をかけるわけにはいかないと思った。
しかし、一人で車まで運べるだろうか……?
酔っ払いを介抱したことがある人などは分かると思うが、脱力した人間というのは実際男女問わずかなり重い。しかも、酔っ払いの場合突如としておかしな方向へと移動することもある。あれは無意識的な行動なのだろうか。
いや、それよりも一番避けてほしいこと。それは嘔吐してしまうことだ。せっかく食べた高級料理が全て泡沫と化すのもやるせないが、何よりも、レストランをそんなもので汚してしまっては、一生出入り禁止になってしまうかもしれない。緑さんにもやはり迷惑も掛かるだろうし……。
健一がそう逡巡していると、背後から「只見様」と声をかけてくる者があった。この低い声──健一が振り返ると、果たしてそこには浅田が立っていた。
「お手伝いいたしましょうか?」
「い、いえ! そんな……」
遠慮しようと思ったものの、実際浅田が手伝ってくれたらかなり助かるだろう。そう思いなおして健一が言い淀んでいると、浅田は失笑し、素早い足取りで反対側へと向かった。
結局二人で運ぶことになり、両脇を支えながら、半ば引きずるように運んでいく。董子は「んー」と時折少し唸り声をあげていた。
「そういえば……ウミガメのスープはいかがでしたか?」
董子を運びながら、右脇の方を支えていた浅田が健一に尋ねた。支えるために力を使っているため、自然とその口調は普段のものより力強くなっていた。
「あ、はい……本当に、凄くおいしかった、ですっ……!」
左脇の方を支える健一も、少し語気を乱しながらもそう答えた。冬に差し掛かるというのに、レストランの暖房もあって健一は額にじんわりと汗をかいていた。
「それは、良かったです……お楽しみいただけたようで、安心いたしました……」
「そういえば、その……ウミガメのスープの……呪い、ですか? あれって結局どういうことなんですか?」
先程董子がそう聞いた時、浅田は特に気を悪くした様子はなかったので、健一も思い切って聞いてみた。董子が起きていたら、きっと董子もまた尋ねていただろう。
浅田は「あはは」と軽く笑い、
「本当に、大したお話ではございませんよ」
そう前置きした。
健一は比較的自由に動かせる右腕で額の汗をぬぐって、徐に頷いた。
「恐らく、只見様がおっしゃっているウミガメのスープのお話は、ずっと前から一部で囁かれております、ある怪談話から来ているのだと思われます」
「怪談、ですか」
外はやはり風が冷たかった。
ようやく健一の停めていた車までたどり着き、とりあえず一時的に後部座席へと菫子を押し込んだ。二人とも「ふう」と息をつき、健一が浅田に礼を言うと、浅田は「いえいえ」と言って続けた。
「そうですね、都市伝説のようなものとでも言いましょうか。ご存知かもしれませんが、ウミガメをスープにした料理は、今は他所では先ずお目にされないでしょう。それで、そのお話を知っていらして、一回食べてみたいという理由で来店されるお客様もたまにいらっしゃいます。そこからそういった噂が広まったのかと」
「なるほど」
つまり、このレストランから噂が生まれたのではなく、もともとあった怪談がこのレストランと結びついてしまったということか。
一旦、会計のために健一と浅田はレストランの方へと戻る。汗は二人とも、冷たい外気によってすっかり乾き、冷えてしまった。
「それで、元はどんな話なんですか?」
会計での金額に心の中で目を白黒させながら、健一はそう尋ねた。
「そうですね。私も詳しくは覚えていないのですが──
とある男が、あるレストランでウミガメのスープを注文しました。
そしてそのウミガメのスープを一口食べて、男はシェフを呼びました。
『これは本当にウミガメのスープですか?』
シェフは答えます。
『はい、それは間違いなく本物のウミガメのスープです』
その後、男は会計を済ませるとそのまま店を出て、崖に飛び降りて自殺してしまいました。
一体、どうしてでしょうか。
──と、確か、このようなお話だったと思います。」
「え? なんというか……なぞなぞ、みたいなものなんですか?」
健一はオカルトなどにはあまり詳しくなかったが、てっきりお化けや妖怪などの非現実的なものが出てくるのかと思っていた。しかし何にせよ、噂の出自がこのレストランからですらなかったということだ。やはり、静葉の自殺とスープは関係がないに違いない。そう思って健一は一つ息をつく。
「どうやら、本来はそのようなものだそうです。真相を暴く、推理ゲームとでも言いましょうか。ちなみに確か、真相は──」
浅田はおぼろげな記憶を手繰るように、その真相を語っていく。そして語った後に、また思い出したかのように付け加えた。
「ああ、そういえば。たまにこのお話を真似されて、私どもに『これは本当にウミガメのスープですか?』と聞いてくるお客様もいらっしゃいますね。つい最近も、しばしばご来店されていました『美しいご婦人』がお聞きになっていました。そういえば、丁度お客様方がお座りになられていた席でしたね」
そんな浅田の言葉を聞いて、健一は全身の血が凍っていくような錯覚を覚えた。
支払いを済ませ、健一は再び車へと早足で戻っていた。まだ凍死するような気温ではないだろうが、寒いには違いない。しかし健一が運転席から中に入ると、菫子はまだ後部座席で寝息を立てていた。アルコールで身体が暖まっているのかもしれない。
健一はとりあえず安心したように息をつき、そのままエンジンを入れた。途端に暖かい空気が、車から勢い良く吐き出される。
後部座席でも、もうシートベルトの着用は義務化されていたはずだ。健一は菫子が目を覚まさないように、出来るだけ優しく上体を起こして、シートベルトを締めた。
菫子は背もたれに寄りかかりながらも首だけ左にクテン、と折り曲げた姿勢で安定している。
その様子に健一は自然と顔が綻びて、そのまま自身にもシートベルトをつけて車を発進させた。
行きは少し菫子のナビゲートを必要としたが、帰りは来た道を戻るだけなので大きく迷うことはないだろう。来た時と同様に、周囲に健一達の他に走っている車は見当たらなかった。
嫌な予感とは当たるものだ。健一は車を走らせながらそう思った。
あの後、健一は浅田の言っていた婦人が静葉のことなのか聞いてみたが、「これ以上はプライベートに関わりますので……」と断られてしまった。しかし、あの時の浅田の反応を見る限り恐らく静葉であっているのだろうと思った。
静葉は自殺する直前、浅田にこれが本当にウミガメのスープかどうか尋ねていたのだ。まるで浅田から聞いた、都市伝説の話を再現するかのように。
よく刑事ドラマでは、これからわざわざ自殺する人物が品物を注文していたり、クリーニングに出していたりするのはおかしい、などを理由に自殺を否定し、殺人事件を疑う主人公が登場するが、健一はこれに懐疑的であった。
だってそうではないか。自殺する前に出していた注文やクリーニングをうっかり忘れていたと考える方が、ワイヤーやら氷やらを使って自殺に見せかけて殺したと考えるより余程自然ではないだろうか。
そう思っていた健一であったが、さすがに今回の静葉の行動には裏があると感じずにはいられなかった。
そして浅田が語った、ウミガメのスープの『真相』──。
あれが本当なら、もしかしたら静葉さんは──。
「……いやいや」
頭に浮かんだ考えを、健一はすぐさま笑って打ち消した。しかしその笑みは乾いた笑いであった。
先ほど携帯を見ると不在着信と新着メールが一通来ていた。相手はどちらも静からであった。
『例の件、知り合いのつてで調べられる分は調べたよ。それでメールや電話だとほら、情報漏洩の危険があるじゃない? だから直接伝えたいんだけど、ダメ? ちなみに、明日私久々の非番だから、出来れば明日会いたいな〜。あ、でももちろんケンちゃん達が忙しかったら別の日でもいいよ? 突然のことだもんね。もちろん私も言ってくれればいつでも休みを──』
そこから先は、流し読みで済ませてしまった。どうせ大したことは書いてないだろう。着信がメールより前に来ていたということは、最初は伝えようとしたけれど出なかったので、仕方がないからメールで伝えたというところか。
明日というのは確かに急だが、特にこれといって用事があるというわけでもない。むしろ健一としては、明日というのは大歓迎であった。こんなこと、一刻も早く終わらせたかったのだ。
本当のところは今すぐ止めたかったが、やはり董子は納得はしないだろう。
そうなのだ。董子が納得しなければ意味がないのだ。
「──おっと!」
ぼうっと考えすぎてしまったか。目の前の赤信号に気づくのが遅れ、少し急ブレーキ気味に車を止めた。車は停止線を少し超えていた。見るからに横断者はいないが、法に触れることはやはりしたくない。
自分たちを守ってくれるのも、また法なのだから。
急ブレーキの振動が伝わったのか、董子は「んー」と少し苦しそうに呻き声をあげたが、起きることはなかった。
健一はほっと息をつき、青になった横断歩道を横切った。
今度は先ほどよりも道路状況に気を配りながら、それでも健一は頭の片隅の一部でさっきまでの思考を続けた。
そもそも、なぜ董子はミステリーのジャンルに取り組もうと思ったのか。おそらく本人に聞いても「やりたかったから」としか返ってこないだろうが──。
それは、本当に董子本人の意思からなのだろうか。それとも……。
言葉にできない漠然とした不安が、健一をこれまで以上に強く蝕むようであった。ハンドルを握り直そうとして、そこで初めて健一は掌にじんわりと汗が滲んでいることに気が付いた。
どうも、暖房が効き過ぎているようであった──。