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第二話

 このレストランは女のお気に入りの店であった。

 小洒落た内装にどこからかゆるく聞こえる、少し幻想的な、それでいて落ち着いた感じのバックグラウンドミュージック。薄く照らされた照明はなぜか不思議と暗いとは感じさせず、二、三世紀前のヨーロッパへと飛ばされたような感覚になる。

 そういえばこのレストランは場所が場所なら星を取得するのではと注目されているらしい。しかし女にとって、そんなことはどうでもよかった。

 星を獲っていようがいまいが、この店は女にとってはまさに「名店」であった。

 そこには、女がもう少し若いころから通っていたという思い入れも手伝ったのであろう。いつかは自分の子供とここで一緒に食事ができればと思っていた。

 しかし、女はフルコースの、オードブルを一口飲んで、徐にウエイターを呼んだ。

 女はこう一つ、尋ねたそうだ。

「これは、本当にウミガメのスープかしら」




 まっすぐとアパートの自室へと向かうと、そこには誰もいなかった。そういえばメールの内容は『すぐに来て。』だけで、どこに来てほしいのかは書いてない。

もしかしたら董子の部屋に来いという意味なのかもしれない。

 瞬時に健一の頭にその考えがよぎったが、よく部屋を見てみるとリビングの照明、さらには炬燵の電気は点けっぱなしで、つい先ほどまではここに人がいたことを物語っている。一時退出しているだけだろうか。

 しかしもちろんずっと前から董子は自室へと戻っていてただ単に電気を切り忘れているのかもしれない。電気代を考えるとけしからん話ではあるが、董子のことを考えると多分にあり得る話である。

 健一がそんなことを一通り考えて向こうへ行こうか逡巡していると不意に外から軽やかなメロディが流れた。

 それはこのアパートに設置されているインターホンから鳴るメロディで、どうも健一の部屋のものであるようだ。

「誰だ……?」

 当然のことながら、合鍵を持っている董子はインターホンなんで鳴らしたことはないし、NHKの集金は経験的に、もう少し後の時期に来るはずだ。

 そんなことをぼんやりと考えながら、覗き穴からのぞくこともなくなんとなしに扉を開けた。

「ああ、ごめんね! スミちゃん。ちょっと遅くなっちゃって! あの──」

 扉を開けた瞬間、目の前の人物はワントーン明るくしたような高く、元気そうな声で頭を下げて謝っている。健一はどちらさま、と言おうとした言葉が咄嗟に飲み込まれた。

 ばっ、と頭を上げた相手も、自分が思っていた人物とは違うことに気付いたためか、瞬時に言葉を詰まらせていた。

 目の前の人物は女性で、黒いコートに少し大きめのパナマ帽をかぶり、丸渕のメガネをかけていた。一見華やかさはなくどちらかというと地味な雰囲気があるが、健一を見つめる、メガネの奥に見える大きめのくりっとした目、薄い桜色の唇にすらっとした小振りの鼻。おそらく隠れてしまっているだけで素顔は相当な美人であろうということと、なにより彼女からわずかに漏れるような独特のオーラを健一は感じ、警戒感を解いてしまっていた。

 目の前の女性は動揺していることが明らかに見て取れた。頬がうっすら紅く染まっている。

「や、やだ。ごめんなさい。あの、多分お部屋間違えちゃって、その──」

「間違えてない」

 両手をあたふたさせて言葉を紡ぐ彼女を遮ったのは健一が聞き慣れた声であった。

 健一と女性がその声のした方を向くとそこには果たして、董子が立っていた。服は朝に見た時と同じものだった。そしてその手には猫の絵がプリントされた手帳を持っていた。これを取りに行っていたのだろうか。

 女性は董子の姿を認めると一転、ぱあっと明るい笑顔になって、小走りで董子のもとへ駆け寄り、抱き着いた。

「スミちゃん~。ごめんね、遅くなって~」

「ううん……私も、忘れ物あったから……」

 女性は160センチ程と平均的な身長に見えるが董子が140センチ程で小柄なため、董子の顔は女性の胸へすっぽりと収まっている。女性はそんな董子の頭を、髪を整えるかのように撫でていた。

「うん……とりあえず、中、入ろ……」

 先ほどからくぐもった董子の声が聞こえる。健一にはそのトーンから、董子がどうもあまり喜んでいないようにも聞こえた。抱擁が嫌なのか、撫でられるのが嫌なのか、両方嫌なのか、健一にはよく分からない。

 女性は「うん、そうだね」と言って董子を解放し、くるりと振り返って、そして再び健一と目が合った。

「あ」

 女性がぴたりと動きを止める。健一もどうすればいいか分からずとりあえず首を小さく傾けて会釈した。メガネの向こうの目は、明らかに怪訝な目をしている。視線が痛い。

 董子はそんな様子を見てようやく察したのか、「あー」と声をあげ、健一を指差して紹介を始めた。

「彼は只見健一。私のアシスタントで──ほら、あの」

 すると女性は何かを思い出したように「ああ、あの!」と声をあげて素早く頭を下げた。

 一体、どの只見健一なのだろう。健一は自分一人しかいないはずなのだが。二人の会話に明らかな違和感を覚えた健一はそんなことをぽつりと思ったが、それを言葉にして発す前に駆け寄ってきた董子に「ほら。早く、入る」腕を引かれて、自らの部屋へと引っ張られていった。


 リビングにある、正方形の形をした炬燵。手前の一辺を除いてそれぞれの辺に一人ずつ腰かけていた。真ん中には急須とみかん。そして各人の前には湯呑が置かれていた。

 ちなみにそれらを用意したのは全て健一であった。冬をフライングしたようなもてなしだが今の家にあるものの中で考え得る、最上級のもてなしであった。

 女性はコートとパナマ帽、そして丸渕のメガネまでも既に取り、炬燵で温まっている。髪は董子と同じ黒髪のショートヘアだが、董子のものとは違ってふわりとした髪質であった。その顔はやはり美人であるが、どちらかというと可愛いという表現の方が似合っている顔立ちである。

 歳は健一たちより五つか六つほど下だろうか。まだ学生のようにも見えた。犯罪にならないだろうなと健一は内心気が気でなかった。董子の知り合いということで問題はないと半ば言い聞かせるように自身を納得させる。

 それにしても、この顔。健一はこの顔をどこかで見たことがあるような気がした。どこでだったかは忘れてしまったが。

 女性は健一の方に顔を向けて、再び頭を下げた。

「挨拶が遅れてごめんなさい。私、スミちゃんの友達の、二ツ岩美守ふたついわみもりと言います。気軽に『みもり』と呼んでください!」

 そう目の前の女性──美守は自己紹介を始めた。「ほら、あの。『ふたついわ』って可愛くないし」と自己紹介を続けているのを尻目に、健一は美守の「菫子の友人である」という紹介に内心驚いていた。

 いつの間にこの出不精な菫子にこんな友人が出来ていたのだろうか。

 ……ん? 「みもり」……? この名前、どこかで──。

 ここでようやく健一は自身の脳内にぼんやりとしか浮かんでいなかった顔が、名前とともに浮かび上がってきた。

「君、もしかしてよくテレビに出ている──」

「ご存知でしたか!?」

 途端にそれまでの自己紹介を打ち切り、美守は目を輝かせて健一の方へと身を乗り出した。

 健一は思わず少し身を引きながら、小さく二回ほど首を縦に振った。

 確か、「みもり」という芸名で少し前からこの地方のテレビにちょくちょく出演している、いわゆるローカルアイドルであったはずだ。母親も元女優で将来有望とされているのだとどこかで聞いたことがあった。

 美守から発せられているこのどこか人を惹きつけるような独特のオーラは、彼女が芸能人たる所以であろうか。

「いやあ、知ってもらえて光栄です!」

 健一はアイドルのことについて詳しいわけではない、むしろあまり知らない方であったのだが、みもりの名前は忘れてはいたが知っていた。つまりそれほど今の世の中、少なくともこの地方では知名度が高いということなのだが、美守は知っていてくれて本当に嬉しい、といった感じで頬をほんのり紅くして喜んでいた。

 これが素なのか計算なのかは分からないが、健一は将来有望という言葉に納得した。前者ならばこれほど可愛くて純真な娘にファンがつかないはずはないだろうし、後者であっても、それはそれで人気を掴むだろう。

 そしてそれと同時に当初の美守の格好にも合点がいった。普段のテレビに出ているままの格好で外に出歩けば瞬く間に注目の的となるだろう。テレビでは確かにあんなまん丸のメガネはつけていなかった。人間、髪と目の雰囲気さえ変えたり隠したりしてしまえば案外判らないものなのかもしれない。

「あの。それで美守さん」

「呼び捨てでいいですよ。それか、ちゃん付けしてくれると嬉しいな」

「えっとじゃあ。……美守ちゃん」

 いきなり呼び捨ても決まりが悪いと思ったが、女性をちゃん付けで呼んだのは小学生以来かもしれない。どことなく小恥ずかしかったが美守は笑顔で「何ですか?」と返してきた。

「董子とはどうやって知り合ったの?」

「ああ。前にスミちゃんの書いた小説が映画化された時、その作品についてインタビューさせてもらいまして、その時に知り合いました」

 そういえば少し前に董子の小説が映画化するにあたって、緑さんの口車に乗せられるような形で董子が何回か雑誌やテレビでその作品についてインタビューされることがあった。

「それから、メールでちょくちょくやり取りしてるんです」

 健一と美守が話している間、いつの間にか董子は机の上のみかんを一つ取ってもぐもぐと食べていた。ごくりと飲み込んでから、董子は小さく首肯する。

「そうそう。健一さんのこともイロイロと聞いてますよ」

 笑顔で言う美守に、健一はどきりと自身の心臓が大きく跳ねたのを感じた。

 さっきも健一に対し、「ああ、あの」とか言っていた。

一体、俺の与り知らないところで自身について、どんな内容を交わしていたのだろう。

 健一はそんなことを考えてちらりと董子を見るが董子は意に介す素振りも見せず目の前のみかんを食べていた。みかんの房の残りはちょうど半分ほどだった。

「い、一体、どんなことを話していたの?」

「えー。イ・ロ・イ・ロ、ですよぅ」

 美守は可愛らしく、それでいてからかうような笑みを浮かべて話をはぐらかす。そのような反応によって健一は余計に気になり、もう一度尋ねたがそれでもやはり美守は笑顔ではぐらかすだけだった。

「ふふっ。健一さんって面白いですね」

「楽しんでくれたようでなにより。そのお礼にちょろっとだけでも概要を教えてくれるとありがたいんだけど」

「えー。そんなに知りたいんですかー?」

「陰口はよくないと思うんだ」

「陰口は諍いの種ですけど、内緒話は乙女の華です」

「なんだい、そりゃ──」

「それで、美守」

 二人の会話を切ったのは、董子だった。董子の前の机上には湯呑とみかんの皮だけがまとめられている。どうやら食べ終わったらしい。

「そろそろ紹介は充分だと思う……それで、あの話をして」

 董子がそう言うと、美守は顔を凍らせて、そしてそのままぐっと俯いてしまった。

「そうだ、ね……うん。ごめんね、スミちゃん。相談に来たのに」

 先ほどより二、三トーンほど低い声で、ぽつりと一人呟くように話す。

 その表情は薄く笑っていたが、先ほどまでの笑顔とは全くの別物で、そこには悲しみと、困惑と、そして苦しみの感情が含まれているような笑顔であった。まるでそれらの感情を誤魔化すために笑うしかない、といったような表情だ。

「……」

 美守はそんな表情のまましばらく押し黙っていたが、やがて「よし!」と声を出して勢いよく顔を上げ、両頬をぺちぺちと叩いた。

「うん! そうそう、董子ちゃんに相談したいことがあったの。メールでも簡単に書いたけど、健一さんもいるし、ちゃんと言葉にして話すね」

 美守は目を少し見開き、きりっとさせた真顔になっていた。どうやらここには董子に何かを相談するために来たようだ。董子が俺を呼んだのもこの為だろうかと健一は思った。

「お願いします」

 美守が切り出す。

「母がウミガメのスープを飲んで自殺しました。その理由を、教えてほしいんです」



「えっと」

 瞬間、健一は美守の言っていることがよく分からなかった。少しして美守の言葉を飲み込んでいくものの、それでもやはり、その予想だにしない内容に、まだ完全に自分の頭が話に追い付いていけてないだろうというのが分かった。

 健一は美守の母が元女優で有名人だとは知っていたが、その彼女が自殺したなんて話は全くの初耳であった。

「どういう──?」

「どういうこと?」と聞くつもりが思わず健一は言葉を詰まらせる。それでも美守は徐に目線を下げて俯き、ぽつりと呟くように口を開いた。

「そうですね……。いきさつから話します」

 そして美守はいきさつを語り始めた。

「始まりは、二週間ほど前でした。母がどこかへ出かけたきり帰って来なくなったんです。これまでにも日をまたいで帰って来ないこともあって、その時は必ず連絡してくれていたんですけど、その日はありませんでした。こちらから連絡しても、返信はなくて」

「警察には?」

 董子がそう聞くと、美守は小さく頷いて「翌日の昼頃に捜索願を出して……」と答え、言葉を切った。

「そのまた翌日でした。警察から連絡が来て、母と思われる人が海に落ちていったのを見た人がいた、と」

 少しの静寂の後、そう静かに、それでいてはっきりと続けた。その言葉に健一と董子は思わず息を呑む。

 この市は海に面しており、自殺者がそこそこ飛び降りると聞く海岸も存在する。

 確かそこの名前は──そう、赤砂せきさ海岸とか言ったはずだ。

 健一がその海岸の名前を挙げて、そこかと尋ねると美守は黙って首肯した。

 健一は、あの赤砂海岸は潮の流れが速く、死体が見つからないことも少なくないとかいう話も聞いたことがあった。

 それならまだ無事だという可能性もある。

「その目撃者の見間違いってことはないのか? 飛び降りたのは美守ちゃんのお母さんに似た、別の人だったとか」

 さすがに飛び降りたという事象を誤認することは考えづらいが、顔の見間違いくらいならあってもおかしくないだろう。現にさっき美守も警察からの連絡の内容で、「母と思われる」人と言っていた。

 しかし美守は苦い顔を浮かべて二回、かぶりを振った。


「私もそう信じていました。──その二日後に、母の水死体が発見されるまでは」


 その言葉に、健一も美守同様苦い顔を浮かべた。董子も一見無表情のように見えるが口元に少し力を込めて、口をぐっと結んでいた。

「でも私、母が自殺するなんて信じられないんです! 母は私に厳しい人でした。でもそれは私のためを思って、わざと心を鬼にしていたんです。だから、私が最近テレビで活躍できるようになってきて、一番喜んでいたのは母でした。とても自殺をする風には……」

 顔を上げ、出だしは力強く美守は切り出したが、次第に声は小さく尻すぼみになっていき、顔が再び徐々に下へと向いていった。

 自殺なんてするはずがない。そう思っていたのだが、そう思っていたからこそ、自殺をしたという事実に打ちのめされているのだろう。健一はそう感じた。

 しかしそれ以前に。健一はいくつか根本的なところで疑問に思うことがあった。しかし、この流れでそれを質問するべきか。

 少し逡巡してから、健一は恐る恐る左手を挙げて質問の意思を示す。

「あの……。二つほど聞いていいかい?」

 途端に美守と董子の視線が健一へと集まる。

「えっと」

 どちらから聞くべきか。

「自殺したのは分かったけど、『ウミガメのスープを飲んで』ってどういう意味?」

「はい。実は、私も最初母が出かけてから、自殺するまでの足取りを調べてみたんです。とは言っても私一人ではいろいろと限界があって、詳しい足取りまでは掴めなかったんですけど、それでも一つ分かったことがあったんです。それが、母が自殺する直前、この町のレストランで『ウミガメのスープ』というスープを飲んでたという話で」

「ウミガメのスープ、か……」

 健一はこれまで飲んだことのあるスープを想起するが、やはり記憶にはない。その名の通り、ウミガメの肉や出汁が入っていたりするのだろうか。

「はい。それで、私は飲んだことがないのですがそのスープにはある噂が囁かれているらしくて」

 美守は困惑の表情を浮かべて、声を潜めて言った。

「なんでも、飲んだら自殺する呪いのスープ、だとか」


「はい?」

 健一は思わず頓狂な声をあげた。途端に美守は「あくまで噂ですよ」と再度強調するものの、その恐れを含めた表情は、その噂を馬鹿馬鹿しいと一笑に付すことが出来ないことを如実に物語っていた。

 そして健一は一番気になっていることを尋ねた。

「それで、本当に根本的なことで申し訳ないんだけど──どうしてこんな相談を俺達に?」

「え?」

「ああ、いやいや違う、違うよ!? 別に迷惑とか俺たちには関係ないしとか、そんなんじゃなくて!」

 不意に見せた美守のきょとんとした顔に、健一は慌ててなんだかよく分からない言い訳を始める。

「ただ、なんで探偵とか警察じゃなくて俺達なのかなー? と」

「ああ、だって」美守は思い出したかのように口を開いた。

「スミちゃんがメールで『私たちが相談に乗る』って。私も最初は他の人に迷惑をかけたくないと思ってスミちゃんとのメールもいつも通りやり取りしていたはずなんですけど、スミちゃんから『何か思い悩んでいることがあるの?』と見破られちゃったんです。他の人は気づかなかったのに、やっぱり小説家は凄いなーと思っちゃって、ついつい打ち明けちゃったんです。それで今日相談してくれることになっていたのですけど」

「知らなかったのですか?」そう、少し困惑したような美守の目は健一に語りかけている気がした。

 健一はちらりと菫子を恨めしげに見つめる。先ほどの美守からの説明で『私たち』が相談に乗るといったメールが来たという発言から鑑みると、元から菫子はこうして健一と一緒に話を聞くつもりだったのだろう。しかしもちろん、健一は事前にそんな話は聞いていない。

 おそらく、今日が相談日であることを忘れていたのだろう。直前になって呼びつけられたということは、「少し遅れる」といった内容のメールを美守から受け取って今日だと思い出し、慌てて俺を読んだ可能性が高い。健一は最初美守が「遅れてごめん」と言っていたことを想起した。

 いや、それよりも。

 いったいどうして菫子は誰かの相談に乗るなんて、このようなことをしようと思ったのだろうか。

 菫子はそんな健一の目線は気にも留めず、いつの間にか二つ目のみかんに手を出しながら、口を開いた。

「美守のお母さんって女優だったっけ」

「あ、うん。お母さんは本名の静かな葉と書いて静葉しずはで、若い頃は芸能界で活躍してたの。私が生まれる数年前に引退しちゃったんだけど」

「ふーん。ちなみに、引退したきっかけはなに」

「それは……私も分からないの。母も詳しく教えてくれなくて」

 そう言って美守は静かにかぶりを振った。そして、その口元には薄い笑みが広がった。

「本当に変な相談内容でごめんなさい。健一さんもこんな話されても困っちゃいますよね。……あの、相談しておいて何なのですが、断ってくださっても一向に構いません。でも、こうやって話を聞いてくれるだけでも凄く嬉しいです。少し気持ちも楽になりました!」

 美守はにこりと笑顔をつくって健一達へ向ける。その時ちょうど、ピロリン、と普段聞き慣れない電子音が鳴り響き、美守が「ああ、ごめんなさい!」慌てた様子で手元にスマートホンを取り出し、耳に当てた。

「もしもし? もう、なんですか……え? 今どこって。友達のスミちゃんの所で……いや、それ。明日ですよね? なっ!? バカって言う方がバカなんで……え?」

 美守の顔が引きつり、徐々にその色がさーっと青ざめていく。

「はい……はい……。あの、今考えたんですけどそれもう今度に延期するということは……ひうっ!! じょ、冗談です! はい、はい、失礼します!」

 美守はそう言うとすぐさまパネルの『通話を切る』を押して「おかしいなー」と呟きながらそのままスマートホンを操作するとともに、懐から手帳も取り出した。

 手帳とスマホをそれぞれ見比べる。やがて一瞬、氷のように固まった後「あうー」とため息とともに項垂れた。

「あの……すいません。なんだか仕事があったみたいなので……」

「ああ、うん。……そうみたいだね」

 美守は本当に申し訳なさそうに健一たちに向かって告げた。なんだかこの娘、さっきから謝ってばかりだ。そんなことを思いながら健一は苦笑した。その間にも美守はこたつから離れて着てきたコートを羽織り、既に出かける準備をしている。

「そういえば健一さんも、スミちゃんと同じガラケーですか?」

「うん、そうだけど」

「そうでしたか。じゃあ、あのこれ。もしよろしかったら……」

 かちゃりとメガネをかけた美守が心なしか小声で、それでいて董子に見えないようにこそりと、見送ろうと隣に立っていた健一に何かを渡す。それは、折りたたまれた一片の紙切れであった。

「これは……?」

 髪を開いてみると、そこには形態の番号とメールアドレスが小さく書かれていた。

「今回のお礼も兼ねて、スミちゃんについて何かあったら相談に乗りますよっ」

 帽子もかぶってすっかりどこにでもいるような地味な女性の雰囲気になった美守はそう言って、一つ、それでいて可愛らしくウインクをした。

「はは……ありがとう」

 健一はそう乾いた笑いをあげて笑みを作った。ちらりと近くにいる董子を覗き見るが、気づいてないのか、気にしてないのかどこかぼーっとしていて、全くの無反応であった。

 美守は「スミちゃん、今日はありがとね」と手を小さく振って、いつの間にか健一の隣にいた董子に挨拶を交わし、急いで仕事場へと向かっていった。



「──董子、ちょっといい?」

 美守を玄関まで見送った後、健一と董子は再び寒い外界から避難するようにそそくさと炬燵に戻って温まっていた。菫子はいくつめか分からないみかんを口にしながら「ふぁに」と小さく答える。

「いったいどうして、いきなりこんなことしようと思ったのさ」

「こんなことって」

「誰かの相談にのるなんてこと、だよ。いったいどうして急に……?」

 健一はそう言うと、董子は目線を上げてじっと健一を見つめた。まるで、「悪い?」と健一を責めたてるかのように感じられた。

「いやっ、ごめん。そんな悪い意味じゃなくて、ただ単に疑問に思っただけだって! 董子にいつの間にやらあんな友達がいたことにも驚きだけどあんな相談を受けていたなんて、今までの董子からは考えられなくて。なんだか相談内容は独特だったけどね。そう、まるで探偵小説の探偵──」

 そこまで言って、健一は自身の言葉に違和感を覚えた。怪訝な顔で自然と視線が虚空のほうへと向く。そういえば董子には事前にメールにて簡単に内容が伝わっていたと聞いた。

 健一の脳裏にある一つの仮説が浮かぶ。

 もしかして──いやいや、まさか。

 そんなことを思いながら健一の視線が改めて董子の方へと向くと、董子はあからさまに、さっと目をそらした。

「あの──董子さん」

 ほとんど表情を崩さず、それでも眼だけは背けている董子に、健一は努めて穏やかに問いかけた。

「もしかしてなんだけどさ……美守ちゃんの相談を受けたのって、友達だからとかじゃなくて、今後の小説──ミステリーのネタになりそうだったから……とか?」

 董子はその問いに無言で目をそらしたまま、それでいてその首の角度を少し下へと傾けた。明らかな肯定だと健一は受け取った。

 健一は思わず苦笑して頭をかいた。何事も始める動機は不純なものだとよく言われるが、これこそがまさしくそうだ。健一はそう思った。

 しかし美守が菫子の友人で、その美守が思いつめているということも紛れもない事実だ。「あんな変な相談なんか断れ」などと一方的にはねつけるようなことを菫子に言う権利は自分にはないと健一は感じた。

 しかしそれと同時に、何か嫌な予感が健一の心底で巣食っていた。

「でもさ──。美守ちゃんのお母さんの自殺の原因なんて、俺たち素人、ましてその人と直にかかわったこともないのに分かるはずがないと思うんだけど」

 健一が静かにそう言うと、董子はようやくその視線を健一の方へと向け、口を開いた。

「でも、不思議に思うでしょ。『呪いのスープ』で人が死んでしまうなんて」

「『呪いのスープ』ね……。確か、ウミガメのスープ、だっけ」

 健一はうーむと唸った。

 確かに、気にならないと言ってしまえば嘘になる。

 飲むと死ぬと言われている呪いのスープ。仮にその呪いのスープの噂がもし本当なら、既にもっと多くの死者が出て大きな騒ぎになっているはずだ。

 しかし健一はこれまでそんな話を聞いたことがない。ということは、やはりその噂は単なる噂でしかないはずだ。

 だが、実際に飲んだ直後に原因不明の自殺をしてしまったという。もちろんその真実がスープと全然関係のないものである可能性も十分に存在し、むしろそちらの方が自然であるが、スープは何も関係ないと、つながりをバッサリと切って考えることは難しいだろう。

 健一は脳裏に、先程の「あくまで噂ですよ」と言っていた美守の様子を思い浮かべた。

 そこで健一は、はと我に返り、かぶりを振った。

 いやいや、何を考えているんだ。こんなこと、俺たちには関係ないじゃないか。なんだか嫌な予感もする。それに、美守ちゃんも断ってくれて構わないと言っていた。

「なあ、董子。やっぱりこんなこと考えるのはよさない?」

「え」

「さっきも言ったけど、俺ら素人じゃ何も出来ないって。情報を集めるのにも限界があるだろうし。それに……ほら、董子が執筆に十分に時間を割くことができなくなるかもしれないしさ。それは嫌だろ? 董子」

「確かに──でも」 

「?」

 董子は珍しく、口角をわずかに上げて言った。

「健一がいれば何とかなる、と思う」

 その言葉に、健一の心臓がどきりと高鳴り、そして頬のあたりに流れる血液が速く、熱くなっていくのが、自分でもわかった。

 ああ、こんなにいきなりは反則すぎる。俺がいれば何とかなるって、こんなに頼られていたのか、俺。もしかしたら普段から、何気に俺のことをずっと頼りに思ってくれていたのだろうか。──ん?

 再び感じる僅かな違和感。そして、健一の脳裏にとある人物が思い浮かんだ瞬間、健一は先程とはうってかわって、さーっと全身の血が一斉に引いていくのが分かった。

 健一は口を開き、おずおずと董子に尋ねる。

「あの──。それって、もしかして」

「健一が居れば、情報は簡単に手に入るでしょ」

 その董子の返答に健一は自分の考えが正しかったことを悟り、「えー」とため息のような声を出して項垂れた。

しずかさんなら。健一が頼めば力を貸してくれる、はず」

 健一の思っていた名前がはっきりと董子の口から出される。

 只見静──。彼女は、現在この県で警察官をしている、健一の姉であった。健一には兄と姉が一人ずつおり、姉は警察官、兄は医師と、さらにどちらも出世街道まっしぐらの自慢の兄と姉であった。そして当然、自慢であると同時にわずかながらコンプレックスなども抱えていたのだった。まあ、姉に関してはもう一つ苦手に思うこともあるのだが。

 苦い顔を浮かべる健一をよそに、董子は続けた。

「執筆の方も問題ない。これも小説のため。面白いものを創り出すには、それ相応の犠牲と覚悟は必要よ」

 なんだその等価交換は、と健一は思ったが、口には出さなかった。

「だから。調べるよ、健一」

 もう一度繰り返すが、健一は全然乗り気ではない。しかし健一は少し苦い顔を残しながらも、やがて小さく首を縦に振った。こうなっては、董子は梃子でも考えを変えないし、なにより董子の言うことに、健一は逆らうことはしないのであった。

「まずは……静さんから、情報提供のお願いをして」

 健一は一つため息をついた後、徐に自身の携帯電話を取り出し、電話帳から自身の姉の項目を選択する。コール音は二回であった。

『もしもし! ケンちゃん! ケンちゃんなの!?』

 コールが切れた途端、はつらつとした声が耳に響いた。そこには驚きの色も混じっているように感じる。

「も、もしもし……あの。元気してた? 姉さん」

 先程の声の様子から、元気であることは察しつつも、時候の挨拶のごとくそう尋ねるが、すぐに返事が返ってくることはなかった。不審に思って耳を澄ませると、しゃっくりのような音が小さく聞こえる。少しして健一はそれが嗚咽であることに気が付いた。

「えっ……!? 姉さん? ど、どうしたの……なんかあった?」

『ううん……ひっ……だっ、だって、ケンぢゃんが……ぐすっ、で、電話くれたから……』

 そういえば、電話をするのも久しぶりだ。静から健一にかけるのは、ずっと前に健一が、「本当に非常時」の場合を除いて、禁止している。

『私……嫌われちゃったのかなって……思って……えぐっ……ケンちゃんの家にも……行きたがっだけど……えぐっ、これ以上、嫌われるのは……いっ、嫌だなって……』

 嗚咽混じりの静の声が電話口から聞こえてくる。

 静は、言うならば極度のブラコンであった。いや、正確には兄に対しては普通の反応であるから極度の「弟好き」なのであった。これが健一が静を少し苦手としているもう一つの理由である。

 健一は姉のことは嫌いではない。むしろ尊敬しているし、好きではあるが、それはあくまで「姉として」好きなだけである。静のほうも自身では「弟として」好きなだけであると思っており、現に菫子とも仲良くやっている。密かにうしの刻参りで呪っている、なんてことは、断じてない。

 それでもやはり極端に過保護なところがあり、健一はそれに小恥ずかしく感じるものの、善意でやっている静に、なかなか強く言うこともできず──少し、苦手としている節があるのだ。

 健一は静が落ち着くまで、電話越しでこれまで連絡をしなかったことを謝り、そして慰め続けた。


「──取り乱しちゃってごめんね、ケンちゃん」

 少しすると、静の口調は普段通りの少しはきはきとしたものに戻っていた。静、という名前とは裏腹に、学生時代から男勝りなところがあったのだが、警察署内でも刑事として、その性格をいかんなく発揮していた。

健一は直接見たことはないが、少し前に知り合った静の部下曰く、「男よりも男らしくて、署内では『静さんを決して怒らせてはいけない』って暗黙の了解まであるんすよ」とのことだ。その後、その部下は健一の前で「初めは美人の先輩でラッキーって思ってたんすけど、蓋を開けると殴るわ蹴るわ……」と、静の愚痴を延々と零していたのだが、いつの間にか背後に氷のような笑みを浮かべた静が立っており、そのまま部下は頭を鷲掴みにされ、どこかへと引きずられていった。ちなみに健一はそれ以来彼の姿を見ていない。

 現在、静は署内の誰もいない資料室で電話をとっていた。着信の表示を見て思わずここへ駆け込んだのだが、それは正解だったのかもしれない。他の同僚がいる前であのような涙を見せてしまえば大変なことになっていただろう。色々な意味で。

「姉さん、最近赤砂海岸で死体が見つかったりした?」

赤砂せきさ海岸? ──ああ、そういえば確かに、また最近あの海岸の近くで水死体が上がったって話を聞いたわ。私の担当じゃなかったけど、確か自殺だろうって聞いたよ。それがどうしたの?』

「ちょっと詳しく調べてくれることって出来る?」

 健一がそう言うと静はどこか苦しそうなうめき声を漏らした。

『うー……。ごめん、ケンちゃん。捜査内容を教えるのはさすがに難しいかな……』

 少し低い声で申し訳なさそうに静はそう返した。確かに、よく考えれば近しい身内とはいえ捜査情報を教えるというのは言語道断な行為であるはずだ。

 健一は納得し、むしろ、自分よりしっかりと仕事をとったことに、警察官としての姉を弟として誇らしく思った。

 そのまま健一は「そうだよね。ありがとう」と返事をしようとしたところ、董子にちょんちょん、と何か細長いもので突っつかれた。反射的に董子のほうを向くと、董子はいつの間に取り出したのか、スケッチブックを立て掛け、そこに書かれてある言葉をペンでトントンと指し示している。

 これを言え、という口も開いていないはずの董子の命令が、なぜか健一の頭の中で響いた。

「……あの、お姉ちゃん」

『……え!? お姉ちゃん!?』

「今度久しぶりに、一緒にご飯食べよ?」

『……』

 健一がカンペに書かれていた通りの言葉を読み上げるとわずかな間、電話口からは沈黙が続いた。

 いや、いくら姉だからって、こんなもので惑わされるわけが──。

『ケンちゃん』

「姉さん?」

『その人のこと、調べ終わったらまた連絡するから!』

「姉さん!?」

 健一が何かを言う前に、電話は静の方から切られてしまっていた。急いで調べに行ったのかもしれない。表示される通話時間を眺めながら、健一はしばし呆然としていた。


「姉さん、調べ上げたらまた連絡するって……」

 何とも言えない気持ちのまま健一がぽつりと董子にそう言うが、董子はまるで初めからこうなることは分かっていたとでも言うかのようにスケッチブックを机の上に放り投げ、くぁ、と小さく一つあくびした。

「──でも、静さんって前はもう少し落ち着いてた、気がするけど」

「うん……まあ」

 董子の独り言ともとれる呟きに、携帯をぱたりと閉じた健一は苦笑してあいまいに返した。

 まあ、これで時間がたてば美守の母、静葉についての情報はある程度手に入るだろう。

「さてさて、董子先生? この後はどうするんで?」

 健一は机上に肘をつき、董子に少しおどけつつ尋ねる。実際、静からの情報からは得られるものが少ないのではないかと健一は思っていた。「自殺だろうと聞いた」と、さっき健一は静から電話口で聞いていた。曲がりなりにも天下の警察が、自殺と目星をつけているのだ。まさかどこかのミステリー小説でもあるまいし、その情報から健一たちが「実は自殺に見せかけた他殺でしたー」と驚愕の新事実を見つけられるはずもないだろう。

 董子は、今度は自身の携帯を取り出し、それを操作しながら口を開いた。

「それじゃあ、実際に、その問題のレストランに行こう」

 健一が時計を見ると、時刻はちょうど五時を回り、先ほどまで明るかった外の景色もこの時期になると一気に暗くなっていった。

「ついでだから、そこで食事も済ませようか」

 董子はわずかな時間虚空を見つめた後、「健一が奢ってくれるなら」と答え、健一は勢いよく首を縦に振った。

 普段を考えると夕飯にはちょっと早い気もするが、しかしそこまでおかしい時間帯というわけでもあるまい。

 健一はそう思って内心少しうきうきしていた。何を隠そう、二人きりの外食なんて、これまでしたことがなかったのである。もちろん呪いのスープを飲みたいわけではないが、少しでも楽しい食事になればと思ったところでふと根本的な疑問に気付いた。

「そういえば、董子。どのレストラン化は聞いてなかったけど、事前に聞いてたの?」

 むくりと立ち上がった董子はその問いにかぶりを振った。

「美守が言っていたことが本当なら、予想はついてる」

「え?」

 健一が目を白黒させていると、董子は再び口を開いた。

「健一は、どうしてそのスープが、ウミガメのスープなんて呼ばれていると思う」

 相変わらずの平坦な口調に、健一は一瞬聞き返されたことに気付かなかった。普段からのことで慣れっこではあったが。

「どうしてってそりゃあ……ウミガメの出汁なり肉なりが、スープに使われているんじゃないのか?」

 健一がそう、至極当然のことを言うと、董子も静かにうなずいた。

「でも、ウミガメは絶滅危惧種で、ワシントン条約で国際間の取引も全面的に禁じられているの。そして日本では、小笠原諸島おがさわらしょとうで制限付きの漁しか許されてされていない」

 菫子はほんのわずかに口角をあげたように見えたが、それとは対照的に健一の顔色は少しずつ青くなっていった。

「そんな希少食材を遠くからわざわざ仕入れて取り扱うことが出来るレストランなんて、この付近で知る限りには一つしかない」

「そこってもしかして……」

 菫子は再び、小さく頷いた。

「アシピウス」

 アシピウス。市街地からは少し外れた場所に位置するものの、この市でおそらく一番の高級レストランとして、その名は知られていた。健一が前に何かで読んだガイドブックには、シェフは単身、本場の欧州に修行の旅へ出向き、激しい競争の中で十数年生き延びながらその技を磨いてきたなどということが書かれていた。

 健一はなるほど、あそこなら確かに希少な食材をごく普通に取り扱っていてもおかしくないと納得すると同時に「健一が奢ってくれるなら」という菫子の条件に身を震わせた。

 初めての菫子と二人きりでの外食。なるほど、確かにその場所がアシピウスであればそれはそれは特別な思い出になるであろう。もしそこで他の何もかもを忘れて、一時の幻想的な、魅力と優雅に満ち溢れた時間を楽しむことが出来ればどんなに素晴らしいことか。しかし、そんな願望は否が応でも付き纏う救いがたい現実に打ち崩されてしまうのであるだろうことも、健一は今、自身の財布が危機的状況に追い込まれているということも、よく解っていた。

「でも、実際に他の店が魚の切り身かなにかで代用して、『ウミガメのスープ』として提供している可能性もないか? 料理名は料理人が自由につけていいだろうし」

 健一が別の可能性を探り。そう尋ねると、菫子はかぶりを振った。

「実際に使用していない原材料を料理名に入れることは、景品表示法けいひんひょうじほうで規制されてる」

 健一は言葉を詰まらせたが、またすぐにあることを思い出した。

「そ、そういえば、アシピウスは完全予約制で、予約はいつも埋まっているって聞いたことがあるけど」

 たしか、このレストラン目当てで他県から来る人も少なくなかったはずだ。今から予約しても食べられるのはずっと先のことではないだろうか。ああ、これで財布は守られた。

 菫子が頷き、一瞬安堵したとき、菫子の手に持っていた携帯電話がバイヴ音を数回上げてメールの受信を伝えた。

「だから」

 菫子はメールを一目確認した後に、その画面を健一の方へと差し出した。

「頼んだの」

 メールのタイトルは『了解です。』

 差出人は編集の緑で、本文にはこう綴られていた。

『こんにちは。いつもお世話になっております。

かえで出版編集部の岡本緑です。平素は私たちの業務にご理解いただき、誠にありがとうございます。

 さて、早速本題ですが、ご依頼されましたアシピウスへの予約の件、なんとかなりましたのでご報告いたします。都合のため、私は随行できませんが、レストランカウンターにてスタッフに私の名前をおっしゃっていただければそのままご案内されるかと思います。

 取り急ぎ連絡まで。


p.s.そこまで厳しくはありませんが、一応ドレスコードがありますので、特に先生はお気をつけて。

 楓出版社第一編集部 岡本緑』


 健一は自身の財布の中身は消えゆく定めにあることを悟った。


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