第一話
早朝とはいえ、この時期になると北国と呼ばれるこの地方では、外の世界は冷たい風に吹かれ、すっかりと冷え込んでしまっている。遠くに見える山々はいつからか、緑を基調としつつも、すっかりと多様な色を見せていた。
そのような風景を横目に、健一はアパートの自室の戸の前で歩を止めた。
少し前まではバイトの掛け持ちなどを理由に生活サイクルは乱れに乱れていたのだが、ある時自身の「健一」という名に恥じぬようにと生活を改善していくことを心に決めた。
朝のジョギングはその第一歩であった。初めは睡魔との闘いに敗れてしまうやもと思ったが、慣れてしまうとこれがなかなかどうして気持ちのいいものだ。
身体は程よく暖まっていた。早めにシャワーで汗を洗い流そうと思っていると、ふと目の前の郵便受けに葉書が挟まっているのが目に留まった。出かけた時は気づかなかったらしい。
何の気なしに葉書を郵便受けから取り出し、その場で内容を見る。
その内容に、健一はふっと目を細めた。
『小扉北高校同窓会のお知らせ』
そんな見出しに日時や会場場所などと、参加有無の連絡をするように記されてあった。
小扉北高校は健一の母校であり、健一の卒業から既に六年の歳月が流れていた。
六年あれば、運が良ければ夏季オリンピックを二度体験できるし、小生意気な中学一年生も六年経てば、これまた小生意気な大学一年生になっている。浪人生を除けば。
とにかく、そう考えると六年という年月は途方もなく長いものに思われるし、実際そうなのだろう。
しかし、健一にとってこの六年は思い返してみるとあっという間のように感じられた。そう感じてしまうのは健一が歳をとったからだろうか。
「──いや、それでも」
『あの一週間』には遠く及ばない。
健一はそう再思しながら、葉書をポケットに押し込み、そこから代わりにこの家の鍵を取り出した。
鍵穴に差し込み、九十度回転させる。
──かちゃん。
ノブを回して手前の方へと力をかける。
──ガチリ、という音とともに、目の前の戸はその場で固まったかのようにびくりとも動かなかった。どうやら鍵がかかっているらしい。
ということは、さっきは鍵を解いたのではなく、逆にかけてしまったということか。そういえば回す方向が反対だった気もする。
健一は再び鍵穴に鍵を差し込み、そして回そうとしたところでふとその手を止めた。
さっき鍵をかけてしまったということは、それまで開いていた。朝出ていく時、確かにいつものように鍵はしっかりとかけたはずだ。それは間違いない。
と、いうことは──。
頭の中である考えに至り、ふう、と息を一つ吐きながら鍵を回した。
ノブを回し、戸を開けて中を見ると玄関の三和土に頭に浮かんでいた通りの靴が置かれているのが目に入った。
それを見て健一は、心のほんの片隅にあった泥棒という可能性を完全に撤廃し、ふう、と再度息を吐いた。先にあるリビングには人の気配がした。このシューズの持ち主のものであろう。
自身のシューズを脱いで、リビングの扉を開ける。
「董子」
開けてすぐ、合っているか確認もせずに健一はその名を呼んだ。
「あー。おかえり。健一」
果たして、そこにいたのは董子であった。身体の三分の二ほどを炬燵に埋め、寝転んでいた董子は、首だけを健一の方に向け、返事をした。
「炬燵はまだ出してなかったはずなんだけど」
「うん。出してなかったね」
しれっと、いつものように平坦に言う董子を、健一は再度眺めた。髪は艶のある黒髪のショートヘアで根元の方はしっとりとした髪質のせいかぺたりとしているが、毛先は何本もあらぬ方向に向いている。化粧っ気のないその顔の、とろんとした目には隈がはっきりと浮かんでいた。
「今回は何日、徹夜したんだ?」
「うん、と。三日……いや、四日……でも、どの日にも三十分~一時間は寝てると思うから、正確には徹夜といわないかも」
ぼそぼそと、言い訳めいた言葉を聞き流し、健一はジャージの上着を脱いで、リビングと玄関の間の廊下に置いてある洗濯籠へと放り込む。
「はいはい。俺が来るまでも、ここで寝てたんだろ? それじゃあシャワー浴びた後に朝ごはん作るから、それまでまた寝てな」
董子の「んー」という返事を聞きながら、健一は着替えをもって廊下へ行き、リビングの戸を閉めた。バスルームの前で服を脱ぎ、シャワーを浴びる。
三~四日ならまだマシな方かな。流れゆく温水で汗を流しながら、健一は一人そう思った。酷いときには一週間近くぶっ続けで徹夜をしていた時もあった。董子本人曰く、「一時間ほどは寝てるから大丈夫」とのことだが、董子は本来、普段の眠りからして浅い方だ。その仮眠がしっかり仮眠としての役割を果たしているのか疑問であった。
そもそもなぜこんなに徹夜をする必要があるのか。それはひとえに、董子の今現在の職業によるところが大きい。
董子は今、小説家になっていた。
どうやら董子は自身の想いなどは言葉でなく、全て紙の文章でぶつけるタイプであるようだ。元来本が好きでもあったので、董子の才覚は一気に開花していった。主なジャンルは恋愛や青春を題材にしたもので、今の学生ら、若い世代を中心に根強い人気を誇っている。
健一はシャワーを終えると着替えて、食パンを二枚、トースターへと突っ込んだ。その間にフライパンで目玉焼き、ソーセージと焼いて、用意してあった二枚の大皿にそれぞれ乗せていった。目玉焼きは中の黄身が半熟になるよう、余熱も計算して火を止め、ソーセージは軽く炙る感じに焼いて董子の皿の方に乗せていく。いい匂いが辺りを立ち込める。さらに冷蔵庫を開け、作り置きのサラダを乗せる。これで彩りもついた。
その時ちょうどよく、「チン」と音を立てて、少しばかり焦げ目がついた食パン──トーストが飛び出した。健一はそれにイチゴジャムを塗り、それもまた皿の端に置いていく。
一通り出来たその料理を、健一は二つの皿のうちのソーセージのある、董子の方の皿だけを持ってそっとリビングへの戸を開けた。さすがに二つ持ってこの扉を開けることは難しいと感じたからである。
そっとリビングの中を見た時は、董子は目の前のクッションに思いっきり顔を突っ伏して寝ているというか、気絶しているという表現の方が正しい様子であったが、朝食の匂いを嗅ぎつけたのか、リビングに入って皿を炬燵の上に置くと、突然ガバリと半身を起き上がらせた。
「おはよ。大丈夫か?」
健一がそう尋ねると、董子は朝食の皿を見つめながらこくりと一つ頷く。だが、目に浮かぶ隈は相変わらずであった。
寝かせておいた方が良かったか。自分の方の皿と、食器類を持ってきながら健一は何度目だろう、そう思った。董子はこれでも、変に頑固なところがあり、なかなか自分の決めたことを曲げようとしない時がある。
おそらくここで「やっぱりまだ寝てた方がいいよ」と言っても、「大丈夫」と短い返事が返ってくるのが関の山であろう。
董子は既に食事を前に、黙って両の手を合わせて座っていた。
健一は董子の向かいのところに座り、董子に倣って、両手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
そう言って、董子はトーストを手に取り、その端っこを一口、口に咥える。しゃりっと小気味いい音をさせながら次々とトーストを口に運んでいった。
健一も皿に手を付けながら、そんな董子の様子を見つめていた。
「どう?」
「おいしい」
「よかった」
これくらいの調理ならば、誰が作ってもさして変わらないのかもしれないが、それでも嬉しさがこみ上げるのを健一は感じた。これこそがまさに料理の醍醐味なのだろう。
「そういえば、小説の方。今回はどんな感じ?」
「まあまあかな。中盤のつなぎの表現は最後まで悩んだけれど」
「そっか」
董子は締め切りの最後の最後まで、もっといい表現を、もっといい展開をと余念なく考えていく。これが毎度計画的に作業しても最終的に徹夜続きの修羅場になる要因だったりもするのだ。本人曰く、最後の最後で展開を百八十度変えた時もあったそうだ。
「あ。そういえば」
健一はさっきの葉書のことを思い出し、リビングを出て先ほどの同窓会のお知らせを持ってきた。
「これ、高校の同窓会のお知らせなんだけど……董子、見た?」
「ううん」
葉書をじいと見つめた後、董子はかぶりを振った。健一は手に持っていた自分の葉書を董子の方へと差し出す。
「行く?」
健一が尋ねると、董子は差し出された葉書を手に取って裏、表と見回した後、再度静かにかぶりを振った。
「行かない」
それは健一がある程度予想していた返答であった。
「あまり話すことないし」
「向こうはありそうな気もするけどな。まあ、俺も行かないのには賛成かな。小説家、菅原董子のイメージを壊すことになりそうだ」
健一が董子のはねた髪を目にやり、少しおどけて見せるものの、董子は全く意に介さない様子だった。目玉焼きに醤油を垂らしている。
「興味もあまりないし。それに──」
「それに?」
「今、やってみたいことがあるから」
「やってみたいこと?」
普段の董子からは聞きなれない言葉が飛び出た。健一は少し怪訝な目をする。董子は首肯し、「小説」と答えた。
「うーん、董子の場合、それってやってみたいことというよりやりたいこと、もしくはやって然るべきことと言えるんじゃない?」
今の董子の場合、小説を書くことは挑戦というより願望の方が強いように思えた。しかし、董子は目玉焼きの端の白身の部分を一つまみ口に含んでから、ふるふるとかぶりを振った。
「新しいジャンルに挑戦してみたいの」
「へえ」
董子のその言葉を聞いて、健一から納得とともに、驚きの声が上がった。これまで董子が書いてきた小説はそのほとんどが恋愛、青春系だ。確かに、新しいジャンルに足を入れるのは董子にとっても挑戦といえるのかもしれない。
「それで? 何のジャンルを?」
健一は興味本位でそう尋ねる。SFやファンタジーであろうか。そんなことを思い浮かべていると、董子は箸を持ったまま、口を開いた。
「ミステリー」
「え?」
からん、と。想像しなかった言葉に思わず健一は箸を落として絶句した。董子はそんな健一の様子に気づいていないのか、はたまた意に介していないだけなのか、目玉焼きをまた一つまみ口に運んでいた。
「えっと……ミステリーって、あのミステリー……だよね? 事件や謎を解明していく、あの」
自身が今聞いたことを確認するように再度尋ねるが、まだ動揺が収まらないのか、支離滅裂に近い質問となった。しかしそれを聞いて、董子は再び、はっきりと首肯した。
「そう。そのミステリー。前から少し書いてみたいと思ってたの」
「うーん」
健一は落とした箸を拾い、そのまま机の上に置き、腕組をして俯いた。ちらりと目だけ董子の方に向ける。董子は気にせず、トーストにぱくついていた。
健一は少しして、苦笑いを浮かべた顔で、言った。
「止めたほうがいいんじゃない?」
「……どうして」
一拍おいて、董子は平坦な口調でその理由を問う。その後、わずかな静寂が辺りを包んだ。
「あー。いや、だってほら、さ。董子には今までのファンがいるじゃいないか。彼らは董子の『恋愛』小説が読みたいのだと思うのだけど」
その場を繕うように笑いながら健一は言う。
「私は、書きたいものを書いてるだけ。誰かに書かされて書いているわけじゃない」
「いやあ、それにしても、根本的な話だけどさ。──書けるの?」
「それは書いてみないと分からない」
「まあそうだけどさ──」
「とにかく」
董子は手に持つ箸をびしっと健一の方へと向けた。いつものトーンの声であったが、その言はどこか健一の話を遮るのに十分な力を持っており、健一は思わず息をのむ。
「そういうことだから、これからもまた、資料収集。よろしくね」
今更ながらに言うと、現在健一と董子は恋人関係というわけではない。
健一は今現在、董子に小説家のアシスタントとして雇われているのであった。一言にアシスタントといっても、別に健一も一緒に小説を書いているわけではない。主な仕事内容は董子の必要に応じて今のように炊事、洗濯などの家事。董子が忙しい時、気が乗らない時(主に後者の場合が多い)に代わりに担当と打ち合わせ。ファンレターや贈り物の管理。そして董子が必要とする資料を収集することなどであった。
その中で特に大変なのは、資料収集であった。董子はパソコンを初めとする、機械類に弱い。そのため手元に資料がなかったり、調べて欲しいことがあったりしたら健一に頼むのである。ただのインターネットにも落ちているような情報を調べるくらいなら簡単なのだが、しばしば実際に現地へと赴いて写真などに記録したり、またある時には既に絶版となった本を方々(ほうぼう)探しまわったりしたこともあった。
健一は、はあと一回息をつき、頭を掻く。実際、情報収集は確かに大変だが苦痛に思うことなどはなかった。欲を言えば、もう少し給与を上げてほしいとは思っているが別段不満はない。
しかし、ミステリーはマズいと感じた。
そうは思うものの、所詮家政夫兼アシスタントのような健一には、菫子を止める術は到底思いつかなかった。
気づけば、二人の皿はどちらも食事はもうほとんど残されていなかった。健一は頭に浮かんでいる疑惧を振り払うかのように、最後のトーストの欠片を口へと放り込んだ。
*
「──と、いうわけなんですけど」
昼下がり。健一はアパートから少し離れたショッピングモール内に併設されている、ファミリーレストランのボックス席に座っていた。平日のこの時間帯は他の客もまばらで、両隣や後ろのボックス席は空席であった。そこで、渡されたお冷を手に、目の前の席に座っている人物に今朝の経緯を話していたのだった。
健一の目の前の女性。彼女は今現在の菫子の担当編集者であった。
名は岡本緑。「ゆかり」ではなく、「みどり」だ。本人曰く、たまに間違われるがやはりあまりいい気はしないらしい。
歳は健一たちより四つ年上で、髪を背の中ほどまで伸ばしたロングヘアーに普段通りフォーマルなスーツを着込んでいた。健一にとって、前の担当編集者がいつもカジュアルな服装だったので最初はかなり印象的に映ったが今はもう慣れていた。
こうして菫子の担当編集者と顔を向け合っている理由はもちろん、今日が打ち合わせの日であったからである。前の編集者は健一か菫子の部屋にまで訪れていたのだが、縁の場合こうしたファミレスでの打ち合わせが多い。
健一がある時その理由を聞いたところ、「うちの会社、まだ経費で落ちるんですよ」とドリンクを飲みながら、柔らかな笑みで答えた。いいのだろうかとも思ったが、健一もその恩恵にあやかっていたので考えないことにした。ただ、ああ、こうやって汚職は広がっていくんだな、とぽつりと思った。
きりっとした顔立ちに、それに似あったおとなしめの化粧。一見進学校の教師のような、真面目で堅物といった印象を受けるが其の実は掴みどころのない、なかなか食えない性格の人である。それでも健一は彼女のことを信用してはいた。
そんな縁は、苦笑いのような穏やかのような、どっちともつかない微笑みを浮かべながら健一の話を聞いていた。
「なるほど。ですが董子先生もまた突飛ですねえ」
健一は苦笑いを浮かべ、首肯する。ちなみに今董子はこの場にいない。例のごとく気が乗らないのか、はたまた新作にもうとりかかっているのかは健一にもよく分からなかった。
「まあ、私としては問題ないですけどね。恋愛でしょうが、ファンタジーでしょうが、ミステリーでしょうが」
緑は笑みを一層深くして言った。
「面白ければ」
健一にとって、ある程度予想できた回答であったが、思わず顔をこわばらせた。
緑は面白さ絶対主義であり、作家がそれで面白い話を書けるというのならば、なんでもするし、なんでも認めると公言している。だから、健一は彼女のことをある意味信用出来るのであった。
「ですが」
そこまで言って、健一は口を詰まらせた。緑は運んできたコーヒーに少し口をつけ、見透かしたように健一の代わりに後を続けた。
「只見さんは、不安なのですね」
「──はい、そうです。……あの、緑さんは、その、面白いものが書けると思っていますか?」
再び言葉を詰まらせながら尋ねると、緑はくすくすと小さく笑った。
「絶対、とは言えないですが、最高のものが書ける可能性はあると思いますよ」
その言葉に、健一は苦い顔を浮かべる。そんな様子に気にも留めないように、緑は再びコーヒーに口をつける。
「私も、出来る限りのことは致しますよ。作家が面白いものをかけるように全力でサポートするのが、私の仕事ですから」
まあでも、と思い出したように続けて、緑さんは緩やかに口を釣り上げた。
「董子先生には只見さんがいますから、私にできることなど、限られてしまうのでしょうが」
健一が苦い顔を浮かべていると、不意にバイヴ音とともに健一のポケットから振動が全身へと伝わった。バイヴの回数から察するに、メールのようだ。
すいません、と断って、ポケットから二つ折りの携帯電話を取り出す。
メールボックスを開いて健一は少し目を大きく見開く。送信者は董子からであった。普段から、董子は必要最小限の時にしかメールをしない。事務連絡の時でさえも返信が返ってこないこともざらにあった。
「無題」と題名の書かれたそのメールを、ほぼ反射的に開く。
『すぐに来て。』
本文はひどく簡素なものであった。しかしそれでも、健一は珍しいと感じた。
メール同様、彼女のほうから健一を呼び出すことはこれまでほとんどなかったのである。簡素であるがゆえに、その文章はどこか拒否できない強制力のようなものを持っていた。もとより、健一が董子の頼みを聞かぬわけはないのだが。
この文面から見て、董子は健一が今、彼女の代理として打ち合わせをしていることは意に返していないのだろう。しかし、重要な話はもう終わっていた。
健一は『すぐ向かう。』とだけ打ち込んで董子へと返信し、ケータイを閉じた。
「すいません、あの──」
「先生からのお呼び出しですか?」
目を丸くする健一に、「あれ? 違いました?」と緑は恥ずかしそうな戸惑いを浮かべた表情で尋ねる。「ああ、いえ。そのとおりです」と健一は否定する。
しかし、何故分かったのだろう。メールの内容も、誰からのメールかも言ってないというのに。
そんな健一の疑問を察したのか、緑は「ああ」と何かを思い出した様に口を開いた。
「だって。先生からのメールなら呼び出しか何かの依頼かなと思ってそのすぐ後に只見さんが席を立とうとしましたので」
「いや、でも俺。董子からのメールだって言ってないような」
そう言うと、緑はからかうように笑った。
「只見さん、董子さんのことになると顔に出ますから」