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プロローグ

 大食いの人がいきなり絶食のダイエットに挑戦するのが難しいように、慣れていない人にとって、貯金というのはなかなか苦しく、難しいものだ。

 ある目的のため、高校二年の夏から貯金することを始めた只見健一ただみけんいちにとっても、それは当然例外ではなかった。高校へ進学してからというもの扱えるお金も大きくなり、さらに中学校時代は禁止されていた帰宅中の買い食いも許された健一にとって、外の世界はあまりに誘惑が多すぎた。

 それでも誘惑との葛藤や、それに屈した後の自己嫌悪に苛まれながらではあるが少しずつコツコツとお金を貯め続け、卒業が一週間後と迫った日にはもう、それなりにまとまった額となっていた。

 健一は前から考えていた台詞を脳内でまたいろいろと反芻させながらそっと教室の戸を開ける。すでに三年生は自由登校となっているが、それでも今日はクラスの三分の二ほどは出席していた。

 この時期といえば主立った国立大学の前期試験は終了したものの、合格者発表はまだ先であり、受験生は一様に安堵と後悔と緊張が入り交じった面持ちである。それでいながら、残り少なくなった高校生活に対して哀愁を漂わせたり最後の思い出と、大学で離れ離れになる予定のカップルが独自の空間を創り出したり──。教室内はこれまでにない、なかなか混沌とした空気となっていた。

 そんな雰囲気のなか、健一は廊下端一番後方の自席に座り、今一度クラス全体を展望する。そしてその焦点をピタリと、一人の女子に留めた。

 その女子は自分と同じく、黒板正面の前から二番目にある自席に座っていた。この角度からではほとんど後ろ姿しか見えないが、それでも一回、大きく胸が高鳴る。艶のある黒髪のショートヘアで、全ての毛が真っ直ぐ同じ方向に向けられ、うなじの辺りでピッシリと切り揃えられている。さらりというよりはしっとりとした印象を持たせるその髪は、紛れもなくクラスメイトの菅原菫子すがわらすみれこのものであった。首を前へと傾け腕を机上に添えているので、勉強か、なにか本でも読んでいるのだろう。おそらく後者だろうなと健一は思った。

 そこには菫子が、読書が好きなこともあったが、健一自身の願望も含まれていた。後期に向けての勉強ならば、同じ受験生として声をかけて邪魔をするのは申し訳ない。もちろん勉強に関する話題等であれば多少気後れせずに切り出せるかもしれないが、健一の持ち込もうとしている話題はむしろそれと対極に位置するものであった。

 おそらく読書であろう。彼女は休み時間などでも勉強をするタイプではない。一瞬もしかしたら違うかもしれないという考えもよぎったが、それを無視してガラリと席を立った。

 しかし立ち上がった瞬間、自分の心臓が大きく高鳴り続けていることにここで初めて気づいた。思わず両腕を机の端について、再度座りかけてしまう。

 今日はもうやめようか。

 そうは思ったが、前回同じようにして中止し、結局家に帰ってから後悔することになったのを思い出した。

 ただでさえ残り少ない高校生活。ここを過ぎればもう機会は金輪際訪れないかもしれない。クラスの雰囲気を自身の勇気に変えるように、健一は高鳴る心臓をよそに一歩一歩菫子のいる席まで歩み寄っていった。


「おはよう、菫子」

 健一が平静を装いながら声をかけると、菫子はふと首だけを斜め上の声のした方へと向けた。

「あ……おはよー……健一」

 菫子は健一の顔を認め、挨拶を返した。くるりとした丸型の小顔で目鼻口が端正に並べられている。目は少しとろんとしたようなたれ目で、菫子のおっとりとした性格とよくマッチしていた。

 ちらりと目線を彼女の机上へと向ける。そこには分厚そうなハードカバーの本が半分ほどのところで菫子の両腕に抱かれるようにして開かれていた。やはり読書であったようだ。健一は心の奥でどこかほっと思ったのを自覚した。

「どうしたの?」

「ああ。えーっと」

 じいっと健一を見つめて尋ねる菫子に、健一は言葉を濁しながら目を泳がせる。周囲をそれとなく見回す。他のクラスメイト達がだれも二人の様子に注目していないことを確かめながら、健一は口を開いた。

「──ええと、菫子は試験、どうだった?」

 もちろん、これが本題ではない。しかし、何事にも前置きというか、挨拶というか、そういうものは必要だろう。スポーツの前には準備体操が大切だし、保護者宛の学校からのプリントも必ず時候の挨拶から始まる。

 菫子はぽんと両手で本を閉じ、「あー」と目線を上に上げつつ答えた。

「多分大丈夫だと──思う。もともとA判定だったから──うん、多分大丈夫」

 彼女の声音は淡々としていた。これは今回に限ったことでなく、普段の日常会話をはじめカラオケで歌を歌っている時さえもどこか事務的な平淡とした口調である。元来表情も乏しいので、そこから感情を掴むことはどれほど付き合いが長くなったとしても至難の業に違いない。

 現に小学校途中からの幼馴染である健一にとっても、これまでの経験からある程度は分かっているつもりだが、それでも時々分からない時もあった。

 まして、初対面の人からしてみれば「何を考えているのか分からなくて怖い」「すべてにおいてつまらなさそう」という第一印象を持つこと請け合いだ。目の前で話しているのに、まるでメールで会話しているようにすら思えてしまうようだ。

「健一は」

「え?」

「だから、健一はどうだったの」

 じいと健一を見上げながら菫子は短く尋ねた。

「ああ。俺もまあ、多分大丈夫かな」

 俺の受験校の判定は菫子のようにA判定とまではいかなかったものの、B判定の上位から中位にかけての所に位置していた。二次試験も大きなポカをやらかしたような感じはせず、むしろ好感触なくらいだ。もちろん不安が全くない、というわけではないがあれで駄目だったのならもうしょうがないとも心のどこかで思ってしまっていた。何事にも縁というものがある。もし落ちたら、その縁がなかっただけの話だ。

 菫子は「そう」とだけ短く言って、健一を見つめる目を少し細める。本を再び開かないということは健一の話がまだ終わりでないことを悟っているのかもしれない。そしてそれは勿論正しかった。

「あー、えっと。それでさ、あの」

 健一はしどろもどろになりつつも、話を切り出す。頭がどんどん真っ白になっていくような感覚に襲われるが、こうなってしまってはもう勢いで乗り切るしかない。

「いや、もちろん。入試結果とか、卒業とか、すべてが終わった後での話なんだけど」

「うん」

 何に対してか、董子が一つ頷く。

「高校最後の思い出に、久しぶりにどこかへ行って遊ばないか?」

 健一と董子は、小中のころはよく一緒に遊んでいたが、中学を最後にそんなことはとんとなくなっていた。

 だから、高校最後の思い出として、董子を旅行に誘おうとしたのだが、前もって考えていた台詞などほとんど役に立たず、頭に思い浮かんだ言葉をそのまま口に出した感じであった。

 愛想笑みを浮かべる健一は、自身の背に冷汗が流れるのを感じた。

 言った瞬間、言わなければよかった、とも思った。ここで断られれば健一の計画は終わりだが、その可能性も十分に感じられた。ああ、なんでもっとうまい感じに言えなかったのか。どうして焦るとこうもテンパってしまうのか。そんな思いが、波のように押し寄せてくる。

「うん」

「え?」

 自己嫌悪に近いものにさいなまれていた健一は董子の短い台詞に思わず目を剥いて聞き返した。

「うん。いいね。行こうよ」

 そう答えた董子は健一の眼には、心なしか、どこか嬉しそうにしているように見えた。


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