漏れ出す悪夢
御流 夢男 みるゆめお
は大人になっても毎日夢を見る。最近眠りが浅い、悪夢だからだ。そんな中ある朝違和感を感じた...
※ホラーテイストです。残酷表現はありませんが、苦手な方はご注意下さい。
御流は23歳、社会人3年目。営業成績は平均的で、上司に怒鳴られることも減ってきた。毎朝6時半に起き、アパートの玄関で靴を揃え、駅まで15分歩く。日本のマナーを守るのは当たり前だと思っている。電車ではスマホをいじらず、吊り革を握って揺られる。最近、眠れない。いや、眠りはするのだが、すぐに悪夢で目が覚める。浅い眠りだ。朝になると体が重く、頭の奥に鈍い不安が残る。
今朝もそうだった。夢の中で見たのは、父の顔がついた巨大なイモムシ。父はもう5年前に亡くなっている。顔だけがイモムシの頭部に貼りつき、目が合った瞬間、ぬるぬると体をくねらせて迫ってきた。御流はベッドから起き上がり、顔を洗った。鏡の中の自分はいつも通り、中肉中背の平凡な顔。悪夢の記憶を振り払うように、深呼吸して出勤準備を済ませた。外は曇り空。いつもの通勤路を歩き始めて5分ほど経ったとき、違和感に気づいた。路地の奥から、何かが動いている。最初は錯覚かと思った。だが、次の瞬間、路地を塞ぐように巨大な影が横切った。
人間の4倍はあるイモムシ。体は茶色くぬめぬめ光り、頭部に父の顔が埋め込まれている。父の目は虚ろで、口元だけが微かに動いていた。
御流の足が止まった。イモムシは止まらない。ゆっくり、だが確実に前進する。道幅の7割を埋め、残りの隙間を這うように進む。スピードは人間の早歩きより少し遅い。
御流は後ずさりした。心臓が早鐘のように鳴る。
――逃げろ。路地を抜け、本通りへ。振り返ると、イモムシはまだ路地を這い続けている。父の顔がこちらを向いた気がした。御流は走った。駅まで全力で。息が切れ、汗が額を伝う。電車に飛び乗り、座席に崩れ落ちた。会社に着いても、頭から離れない。
昼休み、トイレで顔を洗いながら思う。
あれは夢の続きだ。現実じゃない。疲れているだけだ。だが、夕方帰宅途中のコンビニ前で、再び見た。
今度は違う。視界の右下、常にそこにある。
野良犬の糞のような、黒く乾いた塊。
御流が目を凝らすと、それは確かに糞だった。だが、動かない。いや、動かないのではなく、御流の視野に対して固定されている。頭を振っても、目を動かしても、常に同じ位置。右下、画面の端っこに張り付いたように。試しに目を閉じた。
消えた。目を開けると、またそこにあった。御流は息を詰めた。
――触れない。干渉しない。ただ、見える。その日、一日中、視界の隅に糞がいた。
会議中も、資料をめくる手元にも、電車の中にも。
夜、アパートに戻って電気を消しても、暗闇の中でかすかに輪郭が見えた。目を閉じれば消えるが、開ければ戻る。翌朝、また夢を見た。今度は違う悪夢。だが、御流はもう覚えていない。目が覚めた瞬間、記憶が霧のように薄れる。ただ、胸のざわつきだけが残る。出勤途中、視界の隅に新しいものが現れた。
今度はある朝、御流は鏡を見た。
顔色が悪い。目の下にクマ。
今日の悪夢は、まだ具現化していない。
だが、いつ来るか分からない。通勤路を歩きながら、御流は思う。
これは病気か。
それとも、本当に夢が現実を侵食しているのか。路地の角を曲がった瞬間、
また、何かが動いた。巨大なイモムシが、再び父の顔を乗せて這ってくる。
昨日と同じ。いや、昨日より少し速い気がする。
体がぬめぬめと光り、父の口が微かに開閉している。言葉を発しているわけではない。ただ、息づかいのような音がする。御流は即座に踵を返した。
走る。全力で。
後ろから、ずるずると這う音が追ってくる。
道幅を埋める巨体が、ゆっくりだが確実に距離を詰めてくる。
角を曲がり、人通りの多い大通りに飛び出す。
イモムシはそこで止まったわけではない。
ただ、人の波に紛れて見えにくくなっただけだ。
御流は振り返らず、駅の階段を駆け上がった。電車に乗り込み、座席に座る。
息が荒い。汗が止まらない。
視界の右下には、まだあの糞がいる。
一日中、離れない。会社に着き、デスクに座った。
午前中のミーティングをぼんやりと聞き流す。
同僚の声が遠い。
――これが続くのか。昼休み、屋上で一人弁当を食べる。
空を見上げると、雲の形が一瞬、昨夜の夢の残像のように歪んだ気がした。
いや、気のせいだ。夕方、退社して帰路につく。
いつものコンビニの前を通り過ぎようとした瞬間、
視界の中央に、何かが浮かんだ。最初はゴミかと思った。
だが、違う。自分の靴の先、地面に落ちているはずの影が、
御流の足から独立して、ゆっくりと立ち上がっていた。影は人間の形をしていた。
御流と同じ背丈、同じ中肉中背のシルエット。
だが、顔がない。頭部はただの黒い塊。
そして、それが御流に向かって、ゆっくり歩き始めた。御流は後ずさった。
影は止まらない。
足音はない。ただ、地面を滑るように近づく。
周囲の人は誰も気づかない。
御流だけが、それを見ている。――触れたら、どうなる。考える間もなく、御流は走った。
アパートまで全力疾走。
鍵を開け、部屋に飛び込み、ドアを閉めて鍵をかける。
息を切らし、壁に背を預ける。影は、外にいた。
窓の外、ガラス越しに、立っている。
顔のない黒い輪郭が、じっとこちらを見ている。御流はカーテンを閉めた。
暗闇の中で、息を殺す。
心臓の音だけが響く。数分後、恐る恐るカーテンを開けると、
影は消えていた。代わりに、視界の隅に、あの糞がいる。
そして、どこかで、イモムシの這う音が遠く聞こえた気がした。御流はベッドに崩れ落ちた。
今日も、なんとか逃げ切った。だが、明日また新しい夢を見るだろう。
そして、それがまた、現実に漏れ出す。解決など、ない。
ただ、毎朝起き、毎晩眠る。
その合間に、少しずつ、現実が歪んでいく。御流は天井を見つめたまま、呟いた。――いつまで、続くんだろう。
好評でしたら続けます




