78. 鋼の意思
「……こいつ、まだ折れてないのっ?」
揚羽が吃驚と屈辱が入り混じった表情を見せる。
それから、「ちっ」と舌打ちをした後に声を上げた。
「なんて強情な奴っ。でも、ますますお前を謝らせたくなってきたっ」
「……お前には無理だ」
桜の瞳が、屈服しない意思を雄弁に伝える。
「このっ……」
揚羽は、下唇を噛んで桜を睨んだ。今にも地団駄を踏みそうである。
片手をついて跪く桜と、それを見下ろす揚羽とのあいだに、切歯扼腕の時間が流れた。
「……!」
そうしているうちに、一案が揚羽に浮かぶ。
揚羽はニヤリと笑い、きょろきょろと周囲を見回した。
「お前、確かブッサイクな犬を連れてたわよね? ああ、いたいた」
「!!」
揚羽の狙いが分かり、桜が血相を変える。
「あの犬が死にそうになっても、同じことが言えるかしらね?」
「ちょっ、待てっ。パロには手を出すなっ」
「あら、アタシは手を出さないわよ。あなたが、自分であの犬を半殺しにするのよ」
「……な、本気でそんなことを」
桜が言葉に詰まると、揚羽はまた嫌な笑みを見せた。
「喜之助、結界をあの犬が入るぐらいまで広げて」
『ああ、しかし本当に動物にまで手を出すのか? 今こいつの魂帯を切ればいいだけのことだろう』
「いいのよ、こいつが強情なのが悪いんだから。あれだけアタシを馬鹿にしたんだから、もう謝罪なしじゃ許さないっ」
『……しかし』
「いいから、そうしてっ!」
揚羽の強引な指示によって、喜之助が結界を広げる。
「さあ、桜。あそこに行って、あの犬を力いっぱい殴りな」
揚羽が命令を出すと、喜之助はまた指を動かした。
「くっ」
それにより、桜が強制的に立たされ、足を踏み出す。
――……スタッ……スタッ――
一歩、二歩と桜が前に進み始めた。
「ぐっ、やめろ」
桜の意志に反して、体がパロのもとに向かう。
(くそっ、考えろアタシ。このままじゃ、まずい)
桜はパロに向かって歩きながら、頭をフル回転させた。
(まず、この糸をどうにかしないと)
桜の意志が強く抵抗していることで、歩くスピードは遅くなっているが、それでもどんどんパロが近づいてくる。
「ハッ、ハッ」
パロは、結界内に入ったことで桜を知覚できるようになったため、桜を見ながら尻尾を振り始めた。
(パロ……ん? 待てよ、さっきなぜわざわざ結界を広げさせた? なんでパロを結界内に入れる必要があったの?)
桜を知覚できているパロを見て、桜に疑問が湧く。
(……そうか。この糸は結界内でしか効果が生じないんだ。だったら何とか結界から抜け出せれば……)
そこまで考えたところで、桜はパロのもとに辿り着いてしまった。
(くそっ、もうちょっとで解決策が浮かびそうなのにっ……)
「そこで立ち止まって。それから犬を挟んでこちらを向くのよ、桜。そのほうが、悔しそうな顔が見られて楽しいからね」
揚羽が指示すると、桜が指示どおりの行動をするように、喜之助が桜を操る。
(くっ、陰湿女が……)
これにより、桜は揚羽と対面するかたちとなった。ニヤける揚羽を桜が睨みつける。
「あら、怖い怖い。でも、無駄な抵抗よ。じゃあ、まずは犬に向かって思い切り腕を振り上げな、桜」
「くそっ、やめろ!」
桜は、腕にありったけの力を込めて止めようとした。しかし体が言うことを聞かない。抵抗虚しく、拳を握りしめた腕が振り上げられた。
そんな桜の目にパロの姿が映る。
「ハッ、ハッ」
パロは、桜が腕を上げても、殴られるなどとは全く思っていない様子だった。透き通った目で、嬉しそうに桜を見つめている。その瞳から、パロが桜を信じきっているのがよく分かった。
(パロ……)
揚羽は、そんなことはお構いなしに指示を出す。
「とりあえず、その犬を思い切り殴るんだよっ。やれっ」
揚羽の指示により、喜之助は気乗りしないまま指を動かした。
――クイッ――
「ぐうぅぅっ! ああああぁぁぁぁ!!」
桜が歯を食いしばり、腕が振り下ろされないように耐える。
ぎりぎりのところで、桜の拳はパロに向かっていない。
「ん? 喜之助、早くやらせてよ」
『いや、操ったはずなのだが……』
「じゃあ、もう一回やってっ」
桜が動かないことに疑問を抱き、揚羽は更に喜之助に指示を出した。
――クイッ――
喜之助が再度指を動かし、桜を動かそうとする。
「ぐああああっ!!!!」
桜は、声を荒らげながら力を込め、これでも腕を振り下ろさなかった。
『なっ、何だ!? こんなことは初めてだぞっ』
「ちょっと、思い切りやって! 魂力を思い切り込めて、引っ張るのよ!!」
「わっ、分かったっ。むぅぅぅぅ、はあぁぁぁぁっ!!」
揚羽の指示により、喜之助が魂力を限界まで込めて引っ張る。
――ググググッ……――
「くっ!」
これにより、桜の拳が一気に半分まで振り下ろされた。
しかし、ここで桜がまた耐え始める。
「ぐうぅぅぅぅ!!」
止めようとする桜の意志と振り下ろさせようとする喜之助の意志がぶつかり合い、その狭間にある桜の拳が、進行を止めたまま震えだした。
「……何、こいつ。こんなのあり得ない」
初めての経験に、揚羽が動揺する。
「……なめんなよ」
そんな中、桜が重い口調で言葉を発した。
「アタシは!! ヒーローになるんだよ!!」
――ブアァァァァッッッッ!!――
叫ぶと同時に、桜から魂力の光が噴き出す。
「ヒーローは、絶対に弱者には手を上げない!! それだけは絶対にしない!! 死んでもしない!!」
「なっ、なに!?」
「そんなことをするぐらいなら、こうしてやるっ!!!!」
その瞬間、桜は無理やり拳の軌道を変え、パロから自分の腹に拳を向かわせた。
「うおぉぉぉぉっ!!」
――ドゴオォォォォンッッッッ!!――
桜の咆哮とともに、魂力を込めた拳が桜の腹に直撃する。
「がはぁっっっっ!!」
その威力で、桜は白目をむくほどの衝撃を受けた。くの字に曲がった体が、そのまま後方に吹っ飛ぶ。
「なっ!」
揚羽は、その意外な展開に驚きの声を上げた。
――ドサッッッッ!!――
桜が、そのまま砂浜に体を打ちつける。
「……今、何をしたの、こいつ」
揚羽は、倒れている桜を見ながら、状況が呑み込めず呆然とした。
「もしかして……犬が殴れなくて自分を殴ったの!? ははっ、なんて馬鹿な女!! はははははっ!」
状況を理解すると、揚羽が笑いだす。
「たかが犬一匹のために自分を犠牲にするなんて、バッカみたいっ。ははははっ!」
揚羽は両手で腹を抱え、声高々に笑った。
喜之助のほうは笑わずに、複雑そうな表情をしている。
「ほんと笑えるわっ。いい気味、いい気味っ」
そうして、ひとしきり笑うと、揚羽は満足げな表情を見せた。
「あー、おかしかった。もういいわ。これだけ馬鹿なところが見られたら満足よ。喜之助、もう桜の魂帯を切って、終わりにしま……」
「馬鹿で悪かったなっ!」
揚羽が背後の喜之助に話していると、途中で桜の声がする。
「えっ!?」
「おかげで、お前の糸から解放されたわ」
揚羽が振り返って正面を見ると、桜が立ち上がってこちらを睨みつけていた。
「あー、くっそ痛い。さすがアタシのパンチね」
桜は、腹を押さえてキツそうな顔をしているが、その目は死んでいない。
桜の後ろでは、道山が咒文の詠唱を始めていた。
「桜! 守護霊!? 何で守護霊が出てきてるのっ!?」
揚羽が、死人でも見るような顔つきで驚く。
「よく見ろよ、もうアタシはお前の結界の外にいるんだよ」
揚羽の問いかけに、桜は地面を指差し答えた。




