4. 恩人
女の子を助けた日の深夜、正確には次の日の午前二時、イズミが長らく待ち望んでいた存在がやってくる。
『……イズミ』
イズミがベッドで寝ていると、どこかから語りかけてくる声が聞こえた。それは、実際に誰かが声をかけているというより、頭の中に直接声が響いてくるような感覚であった。
『イズミ、起きてくれ』
同じ声がもう一度聞こえたが、イズミには、まだこれが現実なのか夢の中なのか区別がついていない。
『相変わらず寝坊助だな、君は。そういうところ、子供の頃と変わらないね』
ここでやっと、現実に誰かが語りかけていると理解し始めた。
(んん……誰だ……。優しい……声だな……)
まだ目を開けていなかったが、段々とイズミの思考が回り始める。目を閉じたまま、声の主に聞き耳を立て始めた。
『まだ寝かせておいてあげたいが、すぐに君の力が必要なんだ。だから、起きてくれないか?』
(この声……聞き覚えがある……ぞ)
『さあ起きてくれ、イズミっ』
――パチッ……――
声の主の何度目かの呼びかけで、イズミはやっと目を開けた。天井を少し眺めた後、バッと上半身を起こし、足元のほうに目を向ける。すると、ベッドのすぐ近くに声の主が立っていた。
暗い部屋の中だったが、彼の体から微量に発せられる青白い光と、窓から入ってくる街の光とで、その姿形が何となく分かる。
ここでイズミの中に、その存在が“自分がずっと会いたいと思っていた者なのではないか”という予感が走った。
――カチャッ――
イズミが急いでベッドサイドライトをつけると、その姿が更にはっきり映し出される。
「お……お前は……やっぱりっ」
それは、イズミの予感どおり、あの白い狩衣の青年だった。その青年が、初めて会った時と全く変わらぬ姿でイズミを見つめている。
イズミが年齢を重ねたせいか、傍から両者を見ると、今ではイズミのほうが年上に見えるだろう。
『はじめまして、イズミ』
青年は屈託のない笑顔でイズミに挨拶をした。
『私の名は義経。霊体という存在であり、この世界で言うところの“あの世”から来ている』
ずっと存在が謎だった青年が、初めて身分を明かす。
イズミは、取り乱すような素振りは見せなかったが、驚きは隠せなかった。
呆然とするイズミに対し、義経と名乗る霊体が、少しだけ早口になって言葉を続ける。
『突然で驚いているだろうね。ゆっくり説明したいところだが、それは後にさせてくれ。今日は君と話だけをするつもりだったんだが、事情が変わった』
「……えっ」
『少しのあいだでいいから、今すぐ君の体を貸してほしい』
「体って……何を言っ……」
『大丈夫だ。憑依しても君の割合を九割は残す』
そう言うと、イズミの返事を待たずに、義経はイズミの体に飛び込んだ。
――フオンッ――
その瞬間、イズミの中に義経が消えていく。
「な……何だ!?」
『よしっ。この状態だと私の力はあまり出せないが、問題ないだろう』
イズミが驚いていると、姿は見えないが、耳元に義経の声が響いてきた。
『行くぞ、イズミっ』
義経が声をかけると、イズミの体が勝手に動きだす。
――ガラッ――
そのままイズミは、窓際に立って窓を開けた。
「こ、これ、お前がやっているのかっ?」
『ああ、君の体を操らせてもらっているんだ。このまま、この世に迷い出てしまった霊体を除霊しに行く』
「除霊って……何のことだよっ?」
『迷い出た霊体が、単独だと思っていたら、まだ二体残っていたんだ。彼らが人間に憑依してしまったので除霊するんだよ。時間がないから、ここから跳ぶぞっ』
――ダッ!――
義経の掛け声で、イズミの体が窓から外に向けて跳躍する。
「ちょっと待てっ、ここは七階……」
――ビュウゥゥゥゥーッ――
イズミの言葉も聞かずに、義経はイズミを窓から飛び降りさせてしまった。
「くっ」
顔に当たる風が強すぎて、イズミが目を細める。
――ダンッッ!!――
イズミは、勢いよく地面に着地した。
『あっちだっ!』
義経の言葉とともに、すぐにイズミの足が疾走を始める。
「なっ、なぜ俺は怪我一つしてないんだっ? それにっ、何だこの速さはっ!?」
それは、イズミが今までに経験したことのないランニング速度だった。
深夜に輝く街頭が、次々と通り過ぎていく。
風に当たり、イズミは段々と冷静さを取り戻していった。
「くっ、突然だったが話が呑み込めてきたぞっ。自分の状況が分かってきたっ」
街中を走りながら、イズミが徐々に状況を把握していく。
『そうか、それはよかったっ。ある程度は落ち着いてきたかい?』
「ああ、だいぶな。まだ心臓はバクバクしてるがっ」
『それは助かる。普通なら怖くて震え上がるだろうに』
そこから二人は、走り続けながらも、少し落ち着いて話し始めた。
「震え上がるか……普通ならそうなるだろうな。だが、なぜか全く怖くないんだ。何でだろうな。昔からお前を知ってる気がするからかもしれない」
『昔から?』
「ああ。まず、俺たちは“はじめまして”じゃないよな? 母の葬式で一度、そして俺が高校生の時に一度会ってないか?」
『えっ!? 憶えていてくれたのかい? それなら話が早い。君の言うとおり、私たちはもう何度か会っている。“はじめまして”と言ったのは、君が憶えてないだろうと思っていたからさ』
義経の驚きと喜びの感情が、イズミに伝わってくる。
「やっぱりな」
『……そうか、憶えてくれていたんだな。それは助かる。突然で、大声出されたり、殴りかかられたりしたら、どうしようかと思っていたからね』
「ふっ、まさか」
通常であれば、人間であっても、慣れていない者同士が打ち解けるには時間がかかる。しかし、なぜかこの二人は、あまりその時間を必要としなかった。
「それで、まず、お前……義経は人間じゃないんだよな? さっき霊体だと言っていたが、つまりは幽霊みたいなものだと思っていいのか?」
『うーん、少し違うな。霊体は、しっかり成仏して、霊界の住人になった者のことさ。幽霊は、正式には幽体と呼ばれていて、成仏できずにこの世を彷徨っている者のことだ』
「……そうか。似ているようで違うんだな。で、その霊体が、なぜ俺の体に憑依しているんだ? その迷い出た霊体を除霊したいのなら、そのまま自分ですればいいだろう?」
『言っただろう。私は君と話をしに来たって。そのために顕現を維持する力を残しておきたいのさ』
イズミが「力を残す?」と首を傾げる。
『この世で顕現を続けるには、ある程度の力が必要なんだ。肉体のない私にはかなり負荷がかかるからね。除霊で力を使ってしまっては、君と話す力がなくなってしまうだろ?』
「俺の体に入っていれば、力を消耗しなくて済むってことか?」
『そういうことだ』
「なるほどな。だが、これは俺にとって好都合だ。お前には訊きたいことがたくさんあったから」
『そういうのは、後でゆっくり話そうと思っていたが、いいだろう。迷いがある状態で標的と戦うのは良くないからね。奴らに追いつくまでに、話せることは話そうじゃないか』
「それは有り難い。まず……」
この後、義経がイズミの母親の葬式にいた理由、無差別殺傷事件の犯人の正体、そして召喚と憑依の違いなどについて、義経が答えるかたちで会話が進んだ。義経は、冗談を時折挟みながらも、真摯に答え、イズミはそれを丁寧に聞いた。
義経は、葬式にいた理由については少し言葉を濁しているようだったが、葬式での義経の表情を見ているイズミは、そこについてはあまり突っ込んで訊くことはしなかった。詳細な答えでなくとも、長年の疑問に答えが返ってくるだけで、イズミは満足だった。
そうやって話をしているうちに、標的の男たちの背中が見えてくる。
『いたぞっ、あの二人だ』
二人はまだ20代前半の青年で、人影が全くない街路を歩いていた。
一人は帽子をかぶったスケーターファッションの男で、もう一人は革ジャンを来たバンドマン風の男である。
『ここからは全て私に任せてくれっ。冷静でいてくれれば、すぐに片付けるっ』
その言葉を弾みにして、義経に操られるイズミが、帽子の男に向かって跳んだ。
「んっ、何だ!?」
――ドオォォンッ!――
振り向いた男の顔に、イズミの空中回し蹴りが炸裂する。
「んがっ!」
帽子の男は、吹っ飛んで近くの電柱に体を打ちつけられた。
「なっ、何だよこいつ!」
すぐに革ジャンの男がイズミに殴りかかってくる。
――バッ、バッ、バッ――
イズミは、バク転を何度か繰り返し、向かってくる男から距離を取った。
――ダッ!――
最後のバク転が終わるのと同時に、前方に跳躍し、再度革ジャンの男に向かう。
――ガガガガガガッ、ゴンッ!!――
男の体に素早く拳の連打を与えると、最後に顔面に強烈な一撃を与えた。
「ぐふっ」
革ジャンの男も、帽子の男と同じ電柱に向けて吹っ飛ぶ。
これにより、二人とも電柱のすぐ下に倒れ込むこととなった。
――フオォォォォンッ……――
すぐに二人の男の背中から、憑依していた霊体がそれぞれ現れる。
二体とも旧日本軍の軍服を着ていることから、兵隊であった者たちの霊体だということが、すぐに認識できた。
『なぜだ……。せっかく現世に来られたのに……。少しぐらい今の日本を見せてくれてもいいじゃないか……』
『そうだ……。私たちがこの平和な時代を作り上げたんだ……。私たちのおかげなんだぞ……』
兵隊たちが恨めしそうに話しかけてくる。
『気持ちは分かるが、そういうわけにはいかないんだ』
――シュンッ!――
兵隊たちに答えると、義経はイズミの体から兵隊たちに向かって跳び出した。
そのまま刀を抜いて、兵隊たちの目の前で舞うように一回転する。
――シュバッ! シュバッ!――
円を描くように振られた刀は、兵隊たちと憑依されていた男たちとを繋ぐ光の線を、一瞬で断ち切った。
『ぐあぁぁぁぁっ!』
叫び声とともに、兵隊たちが無数の光の粒子となって散失していく。
『すまないな。霊界に戻って、次は平和な世に生まれ変わるといい』
光の粒子がゆっくり飛び交う中で、義経はぽつりと呟いた。
「……義経」
その後ろ姿を、イズミが遠くから見つめる。
――チャキッ――
光の粒子が完全に消え去ると、義経は刀を鞘に収めた。そのまま、ゆっくりイズミのもとに戻ってくる。
『ふうっ、悪霊じゃなくてよかったな。これで、ゆっくり話ができる』
イズミの前に立つと、義経は微笑んだ。
しかし、イズミは義経を見つめたまま何も言わない。
『ん? どうしたんだい?』
義経が、不思議そうに訊いた。
「……あっ、いや。何だか……今起きたことが信じられないし、何よりお前がこうして目の前にいることが不思議で」
イズミが我に帰ったように答える。
『ああ、そういうことか。本来なら、もっとゆっくり教えてあげるべきことばかりだからね。戸惑うのも無理はない』
「さっきは夢中だったから意識がいかなかったけど、冷静になると色々考えてしまうよ。そもそも、今日俺と話そうと思ったのは、なぜなんだ?」
『……そうか。まずは、そこから始めなければいけなかったな』
義経は、自分の無思慮な行動に軽く笑い、すぐに言葉を続けた。
『私が今日来たのは、イズミにお願いがあったからだ』
「お願い?」
『ああ。とても……大きな大きなお願いだ』
悠揚迫らぬ言葉とともに、義経の澄んだ瞳がイズミを見つめる。
義経は「イズミ」と語りかけた後、ゆっくりと、そして真摯に願いを告げた
『どうか私を君の守護霊にしてくれ』




