63. 療治
「親に殴られると、体も心も痛いんだよね。それが続くと心が壊れそうになるんだよね。分かるよ。私もそうだったから」
冬彦を抱きしめる蛍の脳裏に、幼き日の記憶が蘇る。
「ごめんなさいっ。ごめんなさいっ。お父さんっ、お母さんっ、もう幽霊が見えるなんて言わないから許してっ。普通の子になるからっ。お願いっ。痛いよっ。痛いよっ」
記憶の中の蛍は、暴力を振るう両親に対し、アザだらけの体で謝っていた。
「……蛍さん」
冬彦は、抱きしめられながら、今日憶えたばかりの蛍の名を呟いた。
(……蛍ちゃん)
背中を向けていた凛も、振り向いて蛍を見つめる。
「でも、もう安心して。秋広くんに君と同じ思いはさせないから。凛ちゃんも私も、君や秋広くんみたいな人たちを守るためにいるんだから」
そう言うと蛍は、「吟子さんお願い」と自身の守護霊を呼んだ。
吟子は、現れるとすぐに冬彦の背後に回り込み、両手を冬彦の背中に当てる。そして、療治の咒文を発した。
『走れ言霊、魂力増溢』
――ファァァァーーーーーーン――
その瞬間、冬彦の腕や首元にある青アザが消えていく。
全身から痛みが取れたことで、腕などの見えている部分だけでなく、体中のアザが消えたのだと冬彦には分かった。
「……こっ、これは」
冬彦が驚いていると、蛍は冬彦から離れ、彼の頭を撫でた。
「驚いた? これで信じてもらえるかな? 私たちのことも、私の言ったことも」
優しく微笑む蛍を、冬彦が見上げる。
冬彦には、この時の蛍が、なぜだかとても輝いて見えた。
「あ……でも……」
言葉に詰まりながら、つい目を逸らしてしまう。
そんな冬彦の顔を、蛍は覗き込んだ。
冬彦が視線を戻すと、蛍の傍らに戻った吟子が目に入る。
吟子も、蛍と同じように優しい表情を冬彦に向けていた。
――ニコッ、フォォォォンッ……――
冬彦と目が合うと、微笑んでそっと消えていく。
「あっ……」
「ん? どうしたの?」
蛍が呆然とする冬彦に声をかけると、冬彦は「いっ、いえ」と顔を下げた。
それから冬彦はしばらく黙っていたが、意を決したようにゆっくり顔を上げる。
その時の冬彦の表情は、先ほどまでとは違っていた。どこか清々しささえ感じさせる。
「あの、ありがとうございました」
感謝の言葉を述べると、冬彦は精悍に話し始めた。
「……なぜだか分かりませんが、体だけでなく、心からも痛みが取れた気がしました。弟のことはまだまだ心配ですが、あなたたちのことは信じたいと思います」
それを聞いた蛍と凛が、目を合わせて微笑む。
「これから、弟のことを宜しくお願いします」
そう言うと、冬彦は深々と頭を下げた。
「大丈夫だよ。だから安心してね」
「はいっ。どうかお願いします。どうかどうかお願いします。」
蛍たちに頼みながら、冬彦の目から涙がこぼれ落ちる。これが悲しみの涙でなく、安心の涙だということは、蛍も凛も分かっていた。
「じゃあ、これから君を霊界に送るけど、いいかな?」
冬彦の涙が乾いた頃、蛍が冬彦に優しく訊く。
すると、冬彦は「はい」と言って微笑んだ。
――フォォォォンッ――
秋広の体から冬彦の幽体が出てくる。
「この神社みたいにね、神様が祀られてるっていわれてるような場所では、超自然の恩恵が受けやすいの。だから君と秋広くんを切り離しても、ひどい痛みは感じないはずだよ。この凛ちゃんにも、できるだけ痛みを緩和してもらうしね」
蛍が話すと、冬彦は「大丈夫、怖くありません」と答えた。
「……蛍ちゃん、あなたそこまで考えていたの?」
話を聞いていた凛が、驚いた様子で蛍に訊く。
蛍は、その質問に答えることなく、ただ微笑んで「凛ちゃん、痛みの緩和、お願いね」と言った。
準備をする蛍たちには、神社の大木から木漏れ日が降り注いでいる。
――シュパンッ……――
それから吟子が再度現れ、手に持った青白く輝くメスで、冬彦と秋広のあいだにある魂帯を丁寧に切った。
凛が、左手で秋広の体を支えながら、右手で冬彦と秋広の二人に自分の魂力を流し込む。
その結果、大きな苦痛なく、冬彦と秋広は切り離された。
『弟が目を覚ましたら、僕の分まで幸せに生きてくれって伝えてください』
最後に冬彦が、秋広への伝言を蛍に頼む。
「うん、絶対に伝える」
蛍が笑顔で答えると、冬彦も笑みを見せた。
冬彦は、そのまま手を振りながら、ゆっくりと浮遊していく。
『本当に……ありがとう』
そう言うと、やがて無数の光の粒子となり、上空に消え去った。
――キラキラキラキラッ……――
消えていく光の名残を、蛍が見つめる。
凛も秋広を抱き抱えながら、同じように空を見つめた。
「終わったね」
上空を見上げたまま、凛が微笑んで蛍に声をかける。
「う……ううん~」
ちょうどその時、秋広が眠りから覚めたように目を開けた。
「あれ、お姉ちゃんたち、誰? ここどこ?」
蛍が、戸惑う秋広のところに歩み寄る。
「はじめまして、秋広くん」
そう言うと、秋広を見つめて微笑んだ。
その後、二人は秋広を家に連れて帰り、母親に事情を説明する。
母親は、最初は秋広が元に戻ったことを喜んだが、冬彦のことを聞くと、泣き崩れた。
「これからあなたは、警察や児童相談所の人間と会って、本当のことを全て話すことになります。もしそこで嘘を言ったら、本当のことを知っている私たちが介入し、あなたに更に重い罰を与えることになるので、覚悟しておいてください。私たちは、あなたが心の底から変わることを強く願っています」
凛が、泣いている母親に対し、同情のかけらも見せずに話す。
母親は、「ごめんなさい」と謝りながら何度も頷いた。
「竹井さんが息子さんたちを愛しているのは分かっています。でもね、怒りに身を任せて手を上げてしまったら、それはもう愛じゃなく、ただの暴力になってしまうんですよ。暴力はね、人の体だけでなく心も殺しちゃうんです」
蛍の言葉を聞いて、はっとした母親が、蹲ったまま蛍を見上げる。
「教育だと思って叱りたくなる気持ちも分かるけど、子供が他の子よりできなくても、ちょっと違ってても、いいじゃないですか。大事なのは、生きていることなんだから」
蛍の想いのこもった言葉に、母親の目からまた涙が溢れ出した。
泣き続ける母親に、秋広はそっと寄り添っている。
「頑張って、お兄ちゃんの分まで幸せに生きてね」
それだけ伝えると、蛍は秋広の頭を撫で、凛と共に帰路についた。
後ろ髪を引かれる思いはあったが、帝霧館までの長い道のりを戻り始める。ここからは、母親の愛情というものを信じるしかなかった。
「あーあ、帰りも車がでないのねえ。ケチだなあ、MIST」
「まぁまぁ。人手が足りないので、帰りも鉄道の旅を楽しみましょう。綺麗な風景じゃないですか」
帰りのワンマン列車の中で、ぶつぶつ文句を言う凛を蛍が宥める。
窓を開けているせいで、蛍も凛も髪が風に乗って流れていた。
「……蛍ちゃん、なんか、ありがとね」
景色を気持ちよさそうに眺めている蛍を見て、凛がふと話しだす。
「ん? なんのこと?」
「アタシはさ、ずっと、人間だけ守ればいいって思ってたのよね。でも、今日のことで、アタシたちって人も霊も守るためにいるんだなーって思えて。そう思わせてくれた蛍ちゃんに感謝をね……」
凛は、あまり感謝することに慣れていないのか、少し顔を赤くしている。
蛍は優しく微笑むと、窓の外に視線を向けて答えた。
「結局ね、人にも霊にも気持ちっていうのがあるんだよね。私はね、人とか霊とか関係なく、その気持ちっていうのをMISTで守っていきたいんだー」
今日の一件で、蛍の過去に少しだけ触れた凛は、この言葉にふと重みを感じる。言葉に詰まっていると、蛍のほうから「ねえ、凛ちゃん」と話しかけてきた。
「ん? 何?」
「私、なんか甘いものが食べたいな」
蛍はそう言うと、とてもいい笑顔を見せた。
「えっ、ああ、いいね。じゃあ、どこか美味しいお店に寄ってこうか? アタシ、関東のほうのお店って全然知らないから、いいお店があったら教えてよ」
「うんっ。じゃあねえ……」
田園風景の中、二人を乗せたワンマン列車が、ガタゴトガタゴト走っていく。




