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3. 目覚め

 無差別殺傷事件から時が経ち、その記憶が薄れ始めた頃、イズミは義経と三度目の邂逅を果たすこととなる。

 イズミは、叔父の仕事の都合で米国を訪れることが多く、また叔父が丁寧に英語を教えてくれたことから、大学の英文科に労せず入学した。そして、その流れで卒業後には中堅の翻訳事務所に就職した。

 就職したといっても、満員電車に揺られて通勤していたのは最初の一年だけで、仕事に慣れてからは、ほとんどの仕事をリモートワークで行っていた。

 就職を機にマンションで一人暮らしを始めたイズミだったが、それでも週に一度は叔父のもとを訪れ、家族としての時間を過ごした。いくつかの人生の岐路において、イズミが迷わずここまで来られたのは、叔父の助言によるところが大きい。

 そうして24歳になった頃、イズミは義経と再会するのだが、その発端は前夜に起こったある出来事だった。


「そろそろ、ひと休みするか」


 仕事が一段落すると、イズミはマンションの屋上に向かった。

 ここの屋上は、立ち入り禁止になっているわけでもなく、非常階段から登っていけるので、興味本位で一度登ってから、よく行くようになっている。

 特に夜は、そこから東京タワーのライトアップが綺麗に見えるため、それを眺めながら頭を休めるのが、ちょっとした日課となっていた。


(まだ梅雨前だから、夜風が気持ちいいな)


 そんなことを思いながら屋上に着くと、普段誰もいないその場所に、珍しく先客がいた。

 イズミがいつも寄り掛かる、腰丈ほどのアルミフェンスの前に、制服姿の女の子が立っていたのである。髪を後頭部で一つにまとめ、通学バッグを足元に置いていることから、中学生か高校生であろう。

 イズミからは後ろ姿しか見えなかったが、その女の子は、とても夜景を楽しんでいるようには見えなかった。

 夜、マンションの屋上、女の子が一人。常識ある大人であれば、この状況を見たら悪い予感しかしない。案の定、女の子はフェンスに手をかけ、そのままフェンスを越えようとし始めた。


「ちょっ……おい!」


 イズミは走って女の子のもとに駆け寄り、片手で彼女の左腕をつかんだ。

 自分の力と彼女の体重を考えれば、簡単にこちらに引き寄せられると思ったが、思い切り引っ張っても彼女を引き戻せない。

 もう一度引っ張ると、その勢いで手が離れそうになった。そのため、両手で彼女の腕を掴みなおした。


(なんだ、この力は!?)


 彼女が無言のままフェンスに足を掛ける。


「待て! やめろっ」


 イズミに腕を掴まれたまま、彼女はとうとうフェンスを越えてしまい、屋上の縁に立った。

 よもや腕一本だけがフェンスを隔ててイズミ側にあるだけで、彼女が一歩踏み出せば、八階建てのマンションから落下することとなる。


「……くっ」


 イズミは、もはや彼女に声をかけられなくなっていた。声を出すために息を吐いたら、その力が抜けた一瞬で、彼女に手を振りほどかれそうだったからである。

 手に意識を集中しながらも、イズミが彼女の顔に目を向けると、驚くほど表情がない。彼女は全くの無表情であった。


(なんだ!? 何かおかしいっ。この表情でこんなに力を込められるわけがないっ。くっ)


 そこから、引き合う力の均衡がとれているせいで、静かに時が流れる。しかしちょうど二分が過ぎた頃、イズミの腕が(しび)れ始めた。


(……まずいっ。手の力が抜け始めて……)


 イズミの額に汗が(にじ)む。食いしばった歯が、ぎしぎしと軋んだ。


(どうする、どうすればいいっ)


 焦りながらも冷静に考えようとするイズミだったが、冷静になればなるほど、彼女を救う方法がないことが分かってきてしまう。


(……ダメだ、くそ!)


 考えるのをやめ、再度手に力を集中しようとするが、もはや僅かしか力が入らない。


(……誰かいないのかっ。このままだと、この子が死んでしまうっ。誰か来いよ、誰かっ)


 イズミは、ここに何度も足を運んだが、人に会ったことはない。それでも、頭の中でそう叫ばずにいられなかった。


(誰かっ、来てくれっ。誰かっっっっ!!)


 声にならない叫びが、窮地の叫びが、絶頂に達する。

 その時、どこからか聞き覚えのある声が聞こえてきた。


『走れ言霊、光翼繋断』


――フアァァァァンッ――


 その瞬間、彼女の背後に青白く輝く片翼が出現する。イズミからは、彼女の背中に大きな片翼が生えたように見えた。


(なっ、なんだっ?)


 翼はゆっくりと閉じられていき、彼女を優しく包み込む。そして更に輝きを増した。

 青白い光がイズミの目を(くら)ませる。


――シュウゥゥゥゥ、パアァァァァァァァッ!――


 その輝きが最高潮に達した時、光の翼は弾けるように散失した。

 残留する無数の光の粒子が、イズミたちの上に降り注ぐ。


――フオンッ!――


 続けざまに、“彼女から自分に何かが移った感覚”がイズミを襲った。


(こっ、これは!?)


 体に違和感を覚えたイズミだったが、同時に彼女の力が抜け一気に軽くなったため、すぐに彼女に気が向く。


――ガシャン!――


 彼女の力が抜けたせいで、イズミに引っ張られていた彼女は、勢いよくフェンスにぶつかった。

 唖然とするイズミだったが、彼女の手は放していない。

 彼女は意識を失ったのか、フェンスにもたれかかった。


「おいっ、大丈……」


 声をかけようとすると、突然イズミの頭の中に見たことがない光景が広がった。


「……今度は何だっ!?」


 そこには広大な草原が広がり、色とりどりの花々が咲いている。少し先には湖があり、遠くには高い山々がそびえ立っていた。

 頭の中に浮かぶというのとは少し違い、自分がそこにいるような感覚をイズミは得る。夢の中にいる時と近い感覚だが、少し違うのは、自分がゆらゆらと浮遊しているように感じることである。


(……浮いている……いや、飛んでいるのか?)


 この光景は、一瞬とも数秒とも感じられる時間続いてから、いきなり消え去った。


「えっ!?」


 観ていたテレビをいきなり誰かに消されたような驚き。呆気にとられたイズミが、ぱちぱちと二度瞬きをする。


「何だったんだ……」


 疑問に思うイズミだったが、意識が女の子の腕を掴む手に戻ると、今のうちとばかりに彼女をフェンスのこちら側に引き寄せた。

 そのまま彼女を仰向けに寝かせ、(あん)()の一息をつく。


「ふうっ」


 まだ完全に緊張が解けたわけではなかったが、それでも少し落ち着いた。

 額の汗を拭っていると、彼女の意識が戻り始める。


「……うぅん……んん……」


「大丈夫か?」


 イズミが声をかけると、彼女はしっかり目を開き、すぐさま上半身を起こした。


「……あの……私……何を? ここどこ?」


 混乱しているのか、彼女は先ほどのことを全く憶えていない様子である。


「ここは俺の住むマンションの屋上で、君はさっきそこから飛び降りようとしていたんだ。憶えてないかな?」


「えっ、いや、まったく。ごめんなさい。ここに来たことも、飛び降りようとしてたことも、何も憶えてません……。どうして飛び降りようとなんて……っ」


 口に手を当てて狼狽(うろた)えているのは、本当に憶えていない証拠だろう。何が起きたのか訊こうと思っていたイズミだったが、その様子を見て訊くのをやめた。


「そうか。寸前で止められたからよかったけど、もしこれが病気とかのせいなら、また起こることもあると思う。だから親に相談して、必要なら病院に行くといいよ」


「えっ、あっ、はい。ありがとう……ございます。でも、病気なのかな……」


 彼女は、不安と恥ずかしさが入り混じったような表情をしている。

 そこから少しのあいだ二人は無言となったが、このまま待っていても彼女が立ち上がらなそうだったので、イズミは更に一声かけた。


「とにかく夜も遅いし、今日はもう帰りな」


「あっ、そっ、そうですよね。なんか突然で混乱しちゃってますけど、とにかくご迷惑をおかけしたみたいで、申し訳ありませんでしたっ」


 彼女が立ち上がりカバンを持つ。

 最後にイズミは、「気をつけて」とだけ伝えた。


「はっ、はい。本当に、ありがとうございました」


 彼女が一礼し、急ぎ足で階段のほうに向かう。


――タッタッタッタッ……タッ……タ……――


 階段の前まで行くと、彼女はその足を止め、イズミのほうに振り返った。


「……」


 あどけなさが残る瞳で、ぽーっとイズミを見つめる。


「……ん?」


「……あっ……何でもないですっ」


 それだけ言うと、恥ずかしそうに階段を走り降りていった。

 彼女がいなくなった後、イズミは一人残って、先ほどのことを思い出す。


(……さっきのは、いったい何だったんだ)


 理解できないことが多すぎて困惑するイズミを、月光がそっと照らした。


(あの声、あいつの声によく似ていたな……)


 頭の中には、あの狩衣を着た青年の姿が浮かんでいる。


(もう会えないんだろうか……)


 そんなことを思いながら、イズミはただただ東京タワーのライトアップを見つめた。

 夜風も冷たくなり、そろそろ街が眠りに入り始める。


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