2. 再会
母親が亡くなってから、イズミは児童養護施設に入った。最初は戸惑いもあったが、生まれて初めて親友と呼べる友達もでき、少しずつ元気を取り戻していった。そして二年が過ぎた頃、渡米していた叔父が帰国したのを機に、叔父に引き取られることとなった。
叔父と暮らし始める際、「待たせて悪かったな、イズミ。これからは家族だ」と叔父が言ってくれたことが、イズミは嬉しかった。
叔父は、イズミに対しできる限りのことをしてくれ、そのおかげでイズミは壮健に成長していく。
イズミが義経と再会したのは、こうしてイズミが高校生になった頃だった。
「きゃあぁぁぁぁっ!!」
通学途中のイズミが、新宿駅のホームで電車を待っていると、女性の甲高い悲鳴が突然数メートル先から聞こえてきた。
「逃げろーっ!」
女性の悲鳴とほぼ同時に、誰かが叫ぶ声も聞こえてくる。
イズミは、声がしたホーム中央付近に目をやったが、人混みにより何も見えない。しかし、そちらから血相を変えた人々が走ってくるのを見て、只事でないのは分かった。
この時、イズミもホームの端に向かい走り始めていればよかったのだが、冷静沈着な性格が裏目に出てしまう。
――ダダダダダダッ――
視界を邪魔していた人々が後ろに走り去ると、信じ難い光景がイズミの目に飛び込んできた。そこでは七人の男女が腕や腹から血を流して倒れており、その数歩先には、血だらけの包丁を持って叫んでいる男がいたのである。
「みんな、死ねぇぇぇぇーーーーっ!!」
イズミからはその男の後ろ姿しか見えなかったが、それだけでも男から狂気が滲み出ているのが分かる。
「え……っ」
目の前で起きていたのは、無差別の殺傷事件であった。
この無差別殺傷事件を起こした男であるが、彼は決して精神異常者ではない。また、特に世の中に不満があるわけでもなく、絶望的な人生を送っているわけでもない。人並みな人生を送り、人並みな幸福も得ている。では、なぜそのような男がこの猟奇的な事件を起こしたのか。
イズミは、この男が霊体に憑依された者だったということを、数年あとになって義経から聞いた。
『あれは、この世に恨みを残した霊体が憑依していたんだよ。憑依された人間の意思は全く関係なく、あの霊体が勝手に取り憑いて悪さをしていたというわけさ』
「やはりな。普通じゃないとは感じたが、そういうことだったのか」
『ここ数十年で急速に増えているんだよ。召喚されてもいないのに、何かの拍子にこの世に舞い戻り、人に憑依をしてしまう霊体がね。それが悪い霊体、つまり悪霊であった場合、ああいうことになる』
「……召喚と憑依って違うのか?」
『召喚も憑依も、霊体が人間の中に入るという意味では一緒だよ。ただ、召喚は人間の一方的な意思によって行われ、それゆえ人間の意識だけが残り、霊体は意識を失う。それに対し、憑依は霊体の一方的な意思によって行われ、それゆえ霊体の意識だけが残り、人間は意識を失うんだ』
「……そうなのか。色々あるんだな。いずれにしても、あそこで助けてくれたのはお前だろ?」
『そうだね。言ったじゃないか、君は私が守るって』
「ああ、その言葉は憶えている」
『あれからずっと君を気にかけていたんだよ。君のことはよく見ていた。葬式でわんわん大泣きしていた男の子が、なぜか放っておけなくてね』
「それは感謝するが、わんわんは泣いていなかっただろう」
『あれ、そうだったかい? まぁ、私は時折嘘つきだからね』
義経が笑って締めたこの会話は、イズミがこの殺傷事件で生き残ったからこそできたものであるが、事件の渦中にいるイズミは、数年後にこのような会話が行われるなどとは夢にも思っていない。
目の前で包丁を振り回す男を見て、イズミは振り返って逃げようとした。男がイズミと反対の方向を向いている今は、逃げる絶好の好機だったのだ。
しかし、ここで問題が起きる。イズミが振り返った時に目に入ったのは、イズミの足元で大きな腹を抱えて蹲る女性だった。
「なっ……!?」
その女性が妊婦なのは一目で分かった。逃げる人々の波によって転んでしまったのか、それともこのタイミングで陣痛が始まったのか、いずれにしても身重な体で逃げ遅れている。
「そんな……」
ここで女性を見捨てて逃げれば、イズミは問題なくホームの端まで逃げられるであろう。しかし、イズミにその選択肢はなかった。
イズミは一瞬だけ包丁男のほうに振り返り、まだ男が反対側を向いていることを確認する。それから、この妊婦を担いで逃げられるか考えた。
(……ダメだ。それだとあいつが追いかけてきたら、すぐに追いつかれてどちらかが刺されるっ)
結果、イズミに残された選択肢は一つとなった。
イズミがもう一度男のほうに目を向け、小さな深呼吸をする。
「どなたか知りませんけど、よく聞いてください」
男に警戒しつつ背後の妊婦に話しかけると、彼女は自分のことだと理解したのか、少し顔を上げてイズミを見ようとした。しかし、痛みで顔が上げられない。
「自信はありませんが、俺があの男を止めて、時間稼ぎをしてみます。もし俺があの男を止められたら、這ってでもこの場から逃げてください。いいですか、必ず逃げてくださいっ」
イズミが口調を強めて言うと、返事はできなかったものの、女性は指示を理解した。
「……母親は……死んではダメです。長生きしてください」
その言葉を聞き、女性は何とか顔を上げたが、それでもイズミの背中しか見えなかった。
イズミが伝え終わるのを待っていたかのように、包丁男がイズミに気づく。
「まだ残ってたのかあぁぁっ!!」
男は、逃げようとしないイズミに更に怒りを大きくしたようで、すぐさまイズミに向かってきた。
包丁を避けてから体当たりすれば、と考えていたイズミだが、男が近づくほど、恐怖で体が硬直していくのが分かる。緊張で一気に鼓動が速くなった。
「お前も死ねえぇぇぇーっ」
男が叫んで包丁を振り上げると、包丁に付いていた血が数滴のしぶきとなりイズミの顔に飛んだ。そのうちの一滴がイズミの右目に入る。人は、片目だけに異物が入った場合でも大抵両目を閉じてしまうが、このときのイズミもそうなった。
(まずいっ!)
そう思って目を開けたときには、すでに目の前の男が包丁を振り下ろす動作に入っていた。
心臓が一気に冷たくなるような光景。その光景は一瞬でイズミに絶命をイメージさせ、イズミの目を再度恐怖で閉じさせようとする。ダメだと思いつつも、諦めでイズミの瞳に瞼がかかっていく。
しかし、その時である。目を閉じきる前に声が聞こえた。小さい頃に聞いた、透き通ったような声。
『よく頑張ったね』
その言葉と同時に、イズミは体に何かが入ったのを感じる。
――カンッッ!――
気がつくと、左足で男の包丁を蹴り上げていた。そして、続けざまに右足で包丁男の脇腹に蹴りを叩き込む。
「がはぁっ」
苦痛の声をあげた男が、ゴンッという鈍い音とともにホームの柱に強く叩きつけられた。
――ドゥンッッ!――
男がよろけるのと同時に、イズミの体から男に向かって、青白く光る何者かが飛び出す。イズミの瞳に映る見覚えのある後ろ姿、これこそが先ほどの声の主、義経であった。
――シュバンッッッッ!!――
義経は、飛び出した勢いそのままに鞘から刀を抜き、一閃で包丁男の腹を斬った。
水平に流れる雷光。けたたましい音はないまでも、義経の居合斬りはまさに雷光と表現し得る速さだった。
『次にイズミに手を出したら、今度は消滅させられると思え』
義経が、その冷たい視線を向けることなく、男を威迫する。
イズミは、義経が勢いよく飛び出した反動で足元がふらついたが、片足を引いて体を支えた。
あまりにも一瞬の出来事で、イズミは何が起きたのか分かっていない。しかし、刀を鞘に納める義経の後ろ姿を見て、それが小さい頃に出会った青年であることだけは、すぐに分かった。
「お前は……あの時の……。おいっ、今いったい何が……」
イズミが義経に質問しかけたところで、斬られた腹を押さえ、膝立ちしていた男が悲鳴を上げ始める。
「ぐあぁぁぁーーーっ」
よく見ると、斬られたはずの腹から血は全く出ていない。しかし、男は異様に苦しみ始めていた。
「痛いぃっ、体中が痛いぃっ」
男の悲痛の叫びが、静まったホームに響き渡る。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ」
男は、転げ回りながら何度も「痛い」を繰り返した。
「痛い痛い痛い……痛い……痛い……痛……っ!」
そして、何十回かその言葉を口にした後、意識を失った。
ホームが一気に静まり返る。
イズミ以外の人間から見ると、これが事件の終わりである。しかし、イズミだけはこの続きを見ていた。
――フオォォォン――
倒れた男の背中から、ドス黒い空気を放つ別の男がゆっくり抜け出ていく。そして、完全に男の身体から抜け出ると、そのまま空中に浮かんだ。
スーツ姿のその男は、直立不動のまま、黒縁の眼鏡を通してイズミを睨みつけている。体が半透明であるため、イズミからは向こうの景色が少し見える状態であった。
『なぜ……大英霊が……こんなところに。なぜ……あれほどの存在が……こんな奴を』
男が暗く低い声で何かを話しているが、イズミにはその意味が理解できない。
「……何だ……これは」
男は、イズミがそう言った直後、ゆっくり浮上し始めた。そしてイズミが見つめる中、ホームの電光掲示板を通り過ぎ、屋根に接触すると、黒い霧となって散失した。
ホームでは、駅員の慌ただしい校内放送が流れ始める。
男が消えた後、イズミは少しのあいだホームの屋根を呆然と見ていたが、集まってきた群衆とぶつかり我に返った。そして、思い出したかのように先ほど義経がいた場所に目を向けたが、すでに義経はそこにいなかった。
――フワッ――
その代わりとでもいうように、どこからか桜の花びらが舞ってくる。
イズミが手を出すと、その花びらはイズミの手のひらに落ちた。
「……俺はあいつに……命を……救われたのか?」
騒がしくなったホームで、桜の花びらを見つめながら、イズミは呟いた。




